「当事者」の時代/佐々木俊尚

佐々木俊尚氏が日本の言論社会の構造に鋭い論考で切り込んでいます。新書で文章も平易なのですが、かなり骨太でいろいろと考えさせられます。

普通の人が知らないマスメディアと政府や警察、市民団体などの構図の裏側や、それがなぜそうなっているのかが非常に明快に描かれています。そして最後に、高度経済成長の終焉やインターネットの登場により、今後どのように言論空間が形成されていくのか考察されています。

明確な結論はないのですが、確かに、すべてのひとが「当事者」になる世の中で、どのように「当事者」として生きるかはすごく難しい問題です。結局のところ自分が「当事者」としてできることをやっていくしかない、ということなのですが、そこにはやはり自分がこうあるべきという哲学や世界観を込めていくことが重要なのかなと思います。

それにはいろいろな反発もあるでしょうけれども、よいものは徐々に受け入れられていくはずですし、そうやって選択されたもので形成される世の中が未来のよりよい世界になるということだと思っています。

<抜粋>
・「公」である<記者会見共同体>では、警察と記者の関係は対立構造にあることになっている。なぜなら新聞社やテレビ局は、警察当局という権力をチェックする機関であるというのが、建前であり、そこにはズブズブのなれ合いなどいっさい存在せず、つねに緊張関係にあるというのが公的な建前になっているからである。だから記者会見では、建前に沿ったかたちで警察は追求され、厳しい質問も多く飛ぶ。
・警察や検察、政府、自治体などの「当局」に確認を取っていない記事は、そうたやすくは新聞には掲載できない。なぜなら「誤報だ」「捏造だ」「取材がひどい」といったクレームが当事者から飛んできたときに、新聞社だけで全責任を負わなければならないからだ。
・これは実に便利なレトリックである。(中略)実際に大衆がどう考え、どう投票行動しているのかというリアルとはまったく無縁に、自分たちの好む「大衆」を主張してしまえるからだ。「大衆はそんな風に思っていないのでは?」と反論されたら、こう答えればいい。 「彼らはまだ覚醒していないんだ!」 無敵である。
・知識人は知識をつけて知的レベルを上げていけばいくほどに、もといた大衆社会とのつながりをなくしてしまい、自分の拠って立つ基盤を失ってしまうということなのだ。かといって大衆と同じレベルにそのまま居つづければ、革命を起こしていくような知性を持つことができない。これは宿命的な矛盾だ、と吉本(注:隆明)は指摘したのだった。
・ただ「路面電車の廃止が決まる」というだけの記事ではあまりにも素っ気ないし、鉄道会社の言い分をそのまま報じているようにしか思われない。新聞社としてはそこでバランスを取るべく、しかもそれを手っ取り早い方法で行うために、「市民から異論の声が」と運動体の抗議活動を取り上げて、とりあえず紙面的には一件落着とさせるのである。
・新聞記者が市民運動を嫌うのは、先ほども書いたように、マイノリティでしかない市民運動をまるでマジョリティであるかのように描き、単純構図に記事を押し込めてしまっているというジレンマがあるからだ。そしてこのジレンマに内心辟易しているところに、市民運動家が対等な目線で、時には上から目線で記者を見下ろしてくる。 これは記者にとっては、不快以外の何ものでもない。
・「この戦争は、イスラム教徒にとっての聖戦です。アメリカの支配に負けるわけにはいきません」 私はこのコメントをそのまま原稿に起こして、デスクに渡した。デスクは原稿を読んで「うー」とひとことうなり、そうしてこう言ったのだった。 「こういうのじゃなくてさあ、バグダッドの子どもが可哀想だとかそういうイラク人の声はないの?」
・神社のような永続的な建物はもともと日本の神道には存在せず、まつりのたびに人々はその場に神に降りてきてもらい、そこでさまざまな儀式を行なっていたのだ。今のような立派な神社の建物は、後世のものだ。仏教を納める巨大な寺院を建立するようになったことが神道に影響を与え、立派な社を生み出す結果になったのではないかとも言われている。
・幻想としての弱者の視点に立ち、「今の政治はダメだ」「自民党の一党独裁を打破すべし」と総中流社会のアウトサイドから、自民党や官僚という権力のインナーサークルを撃つ。その<マイノリティ憑依>ジャーナリズムはアウトサイドの視点を持っているがゆえに、総中流社会の内側にいる読者にとっては格好のエンターテインメントになる。 しかしウラの実態では、マスメディアはフィード型の隠れた関係性によって、自民党や官僚や警察当局と濃密な共同体を構築している。
・このような二重構造。そしてこの砂上の楼閣のような二重構造は、高度経済成長という右肩上がりに伸びていく社会で富がふんだんに増えつづけていたからこそ、持続を許されていた。
・マルクス主義に取って代わるような「皆が幸せになれるかもしれない」という幻想を支える政治思想など、もはや存在しない。いま語られているさまざまな政治思想ーーリバタリアニズムやコミュニタリアニズム、リベラリズムなどーーはずっとリアルで身も蓋もなく、すべての人が幸せになれるというような幻想は提供していないのだ。
・私があなたに「当事者であれ」と求めることはできない。なぜならそれは傍観者としての要求であるからだ。 だから私にできることは、私自身が本書で論考してきたことを実践し、私自身が当事者であることを求めていくということしかない。
・これは堂々めぐりのパラドックスにも聞こえる。しかしこの壁を乗り越えていかない限り、その先の道は用意されない。しかしその壁を乗り越える人は限られているし、乗り越えない人や乗り越えられない人に対して、誰も手を差し伸べることはできない。 なぜなら、誰にも他者に対して道筋を用意することはできないからだ。自分自身で当事者としての道を切り開けるものにのみ、道は拓かれる。
・だから私が今ここで言えるのは、ごくシンプルなことだけである。 ーーそれでも闘いつづけるしかない。そこに当事者としての立ち位置を取り戻した者がきっと、つぎの時代をつくるのだ。これは負け戦必至だが、負け戦であっても闘うことにのみ意味がある。 これは誰にも勧めない。しかし、私はそう信じているし、そう信じるしかないと考えている。
・その年の春に東日本大震災が起き、問題意識は「なぜマスメディア言論が時代に追いつけないのか」ということから大きくシフトし、「なぜ日本人社会の言論がこのような状況になってしまっているのか」という方向へと展開した。だから本書で描かれていることはマスメディア論ではなく、マスメディアもネットメディアも、さらには共同体における世話話メディアなども含めて日本人全体がつくり出しているメディア空間についての論考である。