ギネスビールからビールの歴史を紐解く「ギネスの哲学」

ギネスビールがどのように発祥し、代々発展してきたかを中心にビール全体の歴史を紐解いた非常に奥深い作品です。

ギネス社は、おどろくべきことに1900年代初めから現在のGoogleなんかよりも手厚い福利厚生を提供しており、また公共に対しての責任を果たしてきました。

1920年台のギネスの従業員が保証されていたもの。歯科を含む医療サービス、マッサージ、読書室、一部会社負担の食事、全額会社負担の年金、葬儀費用の補助、教育補助、スポーツ施設、無料のコンサート・講演・娯楽、それに1日2パイントまでの無料のギネス

そして、代々に渡って有能な経営者を輩出することで、数々の革新を起こし、世界最大のビール会社にのしあがっていきます。成功物語として非常におもしろいです。

一方で、古代においてはビールは水よりも安全なことから宗教とも密接に関わりあいがあり生活に密着しており、エジプトのファラオの墓には必ずビール桶がおかれ、ピルグリム・ファーザーズがアメリカに上陸した際にはほとんど裸のインディアンが「ビールは無いか?」と英語で訊ねられた、というようなエピソードも描かれています。

本当に知らなかったことばかりで、非常におもしろかったです。おすすめ。

<抜粋>
・世界中で毎日消費されるギネスは1000万杯以上。年間約20億パイント
・1920年台のギネスの従業員が保証されていたもの。歯科を含む医療サービス、マッサージ、読書室、一部会社負担の食事、全額会社負担の年金、葬儀費用の補助、教育補助、スポーツ施設、無料のコンサート・講演・娯楽、それに1日2パイントまでの無料のギネス
・(ほとんど裸のインディアンがピルグリム・ファーザーズがアメリカに上陸した際に)「ようこそ!」 きれいで、完璧な英語だった。さらに驚くべきことに、男は、またまたピルグリム・ファーザーズたち自身の言葉で流暢に訊ねた。 「ビールは無いか?」 そう、ビールである。 これは事実である。
・ピルグリム・ファーザーズが最初に建設した恒久的な建物が醸造所だったことは、その物語におけるビールの重要性を証明している。
・エジプト人から見れば健康と福祉にとってビールは不可欠であったから、紀元前3000年にはすでに『死者の書』の中で、死後の世界への旅の必需品としてビールがあげられている。エジプトのファラオの墓に必ずビールの桶を考古学者たちが発見するのは、このためだ。
・(注:ルター)「私は木曜日に結婚することになった。……カタリナと私は貴殿にトルガウ産最高のビールを一樽送ってくれるよう、お願いする。贈られたビールが旨くない場合には、貴殿に全部飲んでいただくことになろう」
・(注:建築家レンの墓の銘板)「これを読む人よ、かれの記念碑を求めるならば、周囲を見回されよ」
・ダブリンに進出した時、アーサーは34歳である。ドクター・プライスの秘書兼助手として八年間働いていた。継母の旅籠で三年間ビールを造っていた。さらにリーシュリップの自分の醸造所を五年近く経営している。
・しかしながら、前任者が夢にも思わなかった規模にまで会社を拡大するのに、エドワード・セシルがいかにその天才を発揮したとしても、こんにちまでその名が残っているのは、それが理由ではない。そうではなく、偉大な企業家のご多分に漏れず、エドワード・セシルが後世に残す遺産となったのは富を生みだしたことではなく、生みだした富による慈善事業なのだ。
・かの言いふるされたことが真実ならば、企業というものはそれが生み出す文化によって評価されなければならない。そう、文化だ。文化とは「成長を促進するもの」であり、「そこから触発されるふるまいと考え方」を意味する。
・19世紀の後期、ダブリンは不浄の街だった。病と悪徳にまみれた不潔な沼だった。ダブリンの伝染病の罹患率はヨーロッパ諸都市の中で最悪だっただけでなく、死亡率もまた最高だった。
・世界最大のチョコレート会社の創設者ジョン・カドベイリィは1801年イングランドのバーミンガムに生まれた。(中略)カドベイリィはアルコールこそが自分たちの世代にとって神の苔であると信じた。クェーカーであるカドベリィはアルコールの摂取は道徳に反すると主張していたが、泥酔が時代の疫病神であり、後には貧困と悪徳しか残さないことを見て、ますますこのことを確信した。(中略)ジンやウィスキーを飲むことであれほどたくさんの人間の一生がめちゃめちゃになっているのだから、「チョコレートを飲む」ことは代わりになるはずだとカドベリィは信じたのだ。
・禁酒法は後世、アメリカの歴史史上最も愚かしい製作の一つであり、これに続く何世代にもわたって道徳と法律をめぐる議論の的とされることになる。世間での支持も小さかった。1926年に行われたある投票ではアメリカ人のうち禁酒政策とその法的根拠となった憲法修正18条を支持する者はわずか19パーセントにすぎないことが明らかとなった。
・最初のきっかけは1951年、アイルランドのウェクスフォド州に狩猟に出かけた時だった。サー・ヒューはイングランドの猟鳥で一番速く飛ぶ鳥は何かをめぐって友人の一人と議論になった。胸黒か、はたまた雷鳥だろうか。ところがこの問題の答えを教えてくれる本はどこにも無かった。
・ビーヴァーははじめ、この本をアイルランドと連合王国のパブ向けのプロモーションに使うつもりだった。経費はビールの売上でまかなえるだろうから、タダで配る計画だったのだ。 本は『ギネス・ブック・オブ・レコード』と名付けられた。1954年に単なる宣材として発行されたこの本は、翌年、英国のベストセラーのトップに踊りでた。(中略)より重要なことは、この本によってギネスの名前が、その伝説的なビールの評判だけでは浸透しなかった国々や世代にまで知られるようになったことだろう。
・1986年、まだ50歳にもなっていなかったベンジャミンは会長職を辞し、社長のタイトルを受けることにした。かくてギネス社の歴史上初めて、会長職が一族以外の人間に任されることになった。(中略)1983年、ギネスの純資産は2億5000万ポンドだった。わずか四年後、この数字は四倍の10億ポンドを超えていた。ギネス社は世界最大の企業の一つとなり、会長職の責任の大きさは、それを天職と心得たわけではなく、単に家業として受け継いだだけの人間には重すぎるものになっていた。