中央銀行は本当に必要なのかを考える「ロン・ポールの連邦準備銀行を廃止せよ」

前にご紹介したアメリカの下院議員であり、生粋のリバタリアンのロン・ポール「他人のカネで生きているアメリカ人に告ぐ」の連邦準備銀行の廃止に絞っている著作。

著者が言うように、確かに中央銀行が金利を操作して景気をコントロールするその根拠は非常に脆弱です。社会主義の経済コントロールがうまくいかないのと同様に、中央銀行が自由市場をコントロールするため、金利をうまく操作できるわけがないというのはすごく的を得ています。

また、その施策が自由市場に間違ったシグナルを与えて、逆に景気の波を大きくしているというのもすごく納得感があります。

おもしろかったのは、

本当は、ゴールドマン・サックスやAIGが破綻したところで、一般国民にはたいして悪影響は及ばないのである。リーマン・ブラザーズが破綻処理されたのと同じにすべきだった。もちろん痛みは伴う。だがそれは短期的な痛みだ。

と言っているところ。実際リーマン・ブラザーズが破綻してもほとんど個人レベルでは差を感じなかったように、金融機関が破綻しても実はほとんどのひとはあまり困らないのだと思います。

逆に政府が救済することで、本書にあるような「リスクをとれるだけ取って、儲けているうちはお金をポケットに入れ、失敗したら救済してもらう」という戦略が金融機関にとって有効になってしまいます。

金融は社会にとってすごく重要な機能だと僕も理解してますが、だからといって幹部が何十億も報酬をもらい、普通の社員であっても何千万ももらっているというのは生み出している社会価値からして妥当なのでしょうか。この戦略が有効だからこそ可能になっているのでしょう。

だから、破綻するなら破綻させた方がいいと思います。

もちろん決済銀行が潰れたらお金を預けていたひとは困るでしょうけども、もしそういうことがあればより堅実な銀行を選ぶことになるだろうし、そうであれば銀行はより堅実になろうとします。

これを人為的に自由市場を操作して回避することで、金融機関のモラルハザードも起きるし、それによって不景気の底も深くなる。まさに悪循環になっています。

一方で、著者の言う中央銀行の廃止が本当に可能なのかはよく分かりませんでした。確かに、各国の中央銀行が権力を持ち過ぎているのは確かだと思うのですが、それに代わるものが金本位制だと言い切るにはもう少し何かが必要だと思いました。

もちろん中央銀行は権力を持ち過ぎであると思いますが、であればそれをうまいこと規制する方法もある気がします。では何なのだというとすぐに出てこないですが。

とはいえ、こういったドラスティックな意見はすごくおもしろいし、「お金とは何なのか」「経済とは何なのか」ということについても深く考えさせられました。

オススメです。

<抜粋>
なぜ中央銀行は存在しているのか? その答えは連銀に関する経済書には載っていない。大学の抗議を聴いても、連銀のウェブサイトや連銀が発行する冊子を読んでも同じことである。
・連銀は「何も無いところからお金を生み出す」特異な権力を持っているのである。連銀は、一度に膨大なお金を生み出すこともできるし、通貨量を絞り新しいお金を作らないようにすることもできる。生み出されたお金はさまざまな形態でさまざまなルートを通り、金融システムに流されるのである。例えば公開市場操作、銀行の預金準備率の変更、金利の操作を通じて、連銀は「お金を創造」している。
金本位制の下では、銀行は一般の企業と同じように自らのリスクを背負って商売をしなくてはならない。銀行はある程度まで自分の信用を拡大して、リスクの高い融資案件に貸出をすることはできた。だが、その投資先の経営破綻の際に、その損失を社会全体に押しつけることはできなかった。銀行は金融なるものの重圧に従って、貸出や契約を行わなければならなかった。 自らリスクを引き受けなければならないのであれば、意思決定はどうしても慎重になる。それが貸出に節度を与え、堅実なビジネス文化を生むのである。
・「利益は自分たちの懐に入れ、損失は社会(世の中)に押しつける」。これこそが大手銀行の望んでいることだ。銀行は好景気のときにはローンを山ほど貸し付けて利益を出す。だが景気が冷え込むと、銀行は自分が抱えてしまう損失を第三者に押しつける。銀行が臨むように通貨量を膨張させておいて、生まれた損失を補填してもらうのである。こんなことが許されるのは銀行業界だけである。こんな都合のいい商売ができるならだれでもやりたいと思うだろう。普通の企業は自由市場でビジネスをしており、自由市場ではそのような狡猾な行為はとうてい許されない。
・現在の連銀議長バーナンキだけに言えることではないが、今までさんざん連銀はその権力を乱用してきたのだ。議会は今もほとんど理解していないが、現在の連銀は驚くべき権力を有している。だれにも監督、監査、統制されていないのである。その上、連銀は連邦準備法によってしっかりと保護されている。そのために連銀議長は、連邦公開市場委員会や海外の中央銀行との協定についての議会での質問に回答する義務がない。連銀が何兆ドルというお金を金融市場に注入しても、そこでどこのだれが利益を上げたのかを連銀は報告する義務がないのである。
・ワシントンの政財界の連中が読むべき本をひとつだけ挙げるとすれば、それはロスバードの『アメリカの大恐慌』である。ロスバードはこの本で、1920年代後半のバブルが連銀によって作られ、バブル崩壊後にフーバーが経済介入したため大恐慌を長引かせたと論証した。
中央銀行ができたために総力戦が戦われるようになったのは偶然の一致ではない。お金を刷りたいだけ刷れる印刷機を持たないで戦争をすると、政府は自国の限られた税収の範囲内で戦争をしなければならない。そのため戦争を起こさないよう、外交的な努力をしなければならなくなる。戦争が始まってしまっても、できるだけ早く収拾させようという誘因となる。 19世紀の終わりのヨーロッパ諸国では戦費の財政的な歯止めがなくなった。それは各国に中央銀行が設立され、政府は必要なだけお金を刷れるようになったからだ。
お金の製造機が政治家にいつでも資金を用意してくれるから、政府は危機に対して場当たり的な対応しかしなくなったのだ。このような散財を続けるとアメリカ人はもっと高額の税金を納めなくてはならないはずだ。だがアメリカ人は高い税金を許さない。増税を偽るために政府は通貨を膨張させるのだ。そして政府の支出を世の中全体に払わせているのである。
・連銀こそが大恐慌の原因であったという意見に、すべてのオーストリア学派の経済学者は賛同している。
・市場が決めた金利よりも連銀が金利をさらに低く引き下げた場合、何が起きるだろうか。人為的な低金利は、投資を持続可能なペースを超えて拡大させる。低金利というのは本来、消費者が充分な貯蓄をしているという合図なのである。だから低金利になれば、それを当てにして事業への投資が始まる。しかし連銀が人為的に金利を引き下げた場合、そこに充分な富はない。だから新しい事業を成功させ投資を回収するに見合う分の、新しい富は最初から無いのである。連銀が金利を引き下げたからといって、新たな資本は生まれないのである。単に借り手がリスクを判断する市場の合図を歪めているだけなのだ。
市場が決める金利こそは、経済が円滑に回るために必要不可欠な情報なのである。中央銀行が決めた金利は統制そのものであり、中央計画経済の一形態である。中央銀行、政治家、官僚たちに、どれくらいが適切な金利であるのかなど分かりようがない。そのことを無視して、自分たちの権益拡大のために人々を惑わしているだけだ。
・本当は、ゴールドマン・サックスやAIGが破綻したところで、一般国民にはたいして悪影響は及ばないのである。リーマン・ブラザーズが破綻処理されたのと同じにすべきだった。もちろん痛みは伴う。だがそれは短期的な痛みだ。
・憲法は明確に政府による紙幣の発行を禁止している。「金と銀だけが法定通貨である」としている。(中略)憲法第一条十節は「どの州も金や銀以外での国債の支払いを認めてはいけない」、このように単純明快だ。政府紙幣は憲法違反なのである。
・憲法は中央銀行については言及していない。では、この問題をどのように考えたらいいのだろうか。それは憲法修正十条をみれば答えは明らかだ。「憲法で連邦政府に与えられていない権力」を、連邦政府はもたない。
・自分の頭で考えてみてほしい。お金の価値をめいっぱい高く見積もる(弾力的に運用する)という発想は、お金が必要ならもう少し印刷すればいいと言っているのと同じである。
19世紀のアメリカの銀行業が酷かったという言い伝えは大半が作り話である。何世紀にもわたる銀行の問題はむしろ政府によって作られたものだ。繰り返し起きた政府の支払い停止、戦争によるインフレ、金と銀の交換比率を政府が固定した複本位制、国債の大量発行などである。これらは政府の問題であって、自由市場の問題ではない。むしろ自由市場での銀行業はうまく機能していたのである。ミネアポリス連銀から発表された研究がこのことを証明している。
・実に興味深いことだが、連銀を廃止しても、私たちが現在知っている金融制度が終わるわけではない。
・一般の家庭と同じで、経済的に困難なときは何でもすべて好きなことをやるわけにはいかないと、議員は気づくことになる。議会は選択を迫られる。歳入が充分でなければ、予算を削減しなくてはならなくなる。現実社会と同じように、この家計の法則が議会の野心を制御するようになる。