英雄中の英雄カエサルの偉業を知る「ローマ人の物語」

※イタリア旅行のために再読。ユリウス・カエサルの章前後を読み返しました。

ユリウス・カエサルは、常に少数ながらヨーロッパ中東各地で勝利を収め続けた軍事の天才というだけではなく、ローマ帝国を元老院中心の共和制から帝政への移行を図った稀有な政治家でもあり(暗殺されたが、後継者指名したアウグストゥスが初代皇帝となる)、さらに「ガリア戦記」他の作者でもあり一言で軍隊や民衆を掌握する文才もありました。

しかし、そのカエサルも40歳過ぎるまでは、ポンペイウス他の影に隠れた普通の元老議員でした。その頃から始まった三頭政治、ガリア戦争、そしてローマ内戦でルビコン川を渡るわけですが、この辺りの確信めいた足取りは本当に神がかっているとしか言い様がありません。

とはいえ、若かりし頃の思えば大胆な言動や、数々の致命的ではない失敗からその基礎が築かれたのも間違いありません。と考えれば、自分自身もまだまだこれからなのではと思えば非常に勇気が湧いてくるし、まさにこれからどう行動していくかがすごく重要と考えれば身も引き締まります。

<ローマ人の物語 (4) ユリウス・カエサル-ルビコン以前 抜粋>
生涯を通じて彼を特徴づけたことの一つは、絶望的な状態になっても機嫌の良さを失わなかった点であった。楽天的でいられたのも、ゆるぎない自信があったからだ。
・人は、仕事ができるだけでは、できる、と認めはしても、心酔まではしない。言動が常に明快であるところが、信頼心をよび起こすのである。そして、スッラの強みには、悪評に強いことも加わる。つまり、世間の評判を気にしない男であったのだ。
・スッラの「処罰者名簿」には、八十人近くの元老院議員、一千六百人の「騎士」(経済人)もふくめて、四千七百人が名を連ねていたという。これらの人々には、裁判もなく殺された末財産も没収されるか、殺されなくても財産を没収されるかの道しか残されていなかった。そして、その全員が子孫にいたるまで、ローマの公職からの追放に処されたのである。没収された資産は、競売に付された。まったくのたたき売りに乗じて大儲けしたのは、スッラ派に連なる人々である。その中には、スッラ家の解放奴隷までいた。
・十九歳の若者は、小アジア西岸一帯の属州総督だったミヌチウスの陣営に行き、軍団入りを志願した。ミヌチウスは、オリエント遠征当時のスッラの部下だった男だから、スッラ派に属す。だが、官僚タイプではなく、親分肌の男でもあったのだろう。最高権力者の逆鱗にふれて逃げていながら堂々と本名を名乗ってあらわれた若者を、元老院議員を務めた人の子息には開かれている、即時の参謀本部入りをもって迎え入れたのである。若きカエサルは、幕僚の末席に連なることになった。
・カエサルが国外脱出をしなければならなくなったと同じ頃、わずかに六歳しか年上でないポンペイウスのほうは、ローマ正規軍四万を率いる総司令官に任命され、スペインに向けて堂々たる出陣を果していたのである。
・彼は、部下を選ぶリーダーではなかった。部下を使いこなす、リーダーであった。使いこなすには、部下の必要としているものは適時に与えねばならなかった。
・三十六万八千人で移動をはじめた人々のうち、もとの土地にもどったのは十一万人だった。とはいえ、これでスイス人も、スイスに住みつづけることになったのである。でなければ、フランスのどこかを、スイスと呼ぶことになっていたかもしれない。あるいは、スイス人は消え失せてしまっていたかもしれない。
・カエサル軍の総計は、八個軍団四万八千に外国傭兵の五千、それにガリア現地兵である騎兵四千で、総計五万七千。一方、ベルギー人の戦闘要員の総数は、四十万に迫る大戦力であった。
・男たちは、十人か十二人の妻を共有する。兄弟間や親子同士で妻を共有するのが、通常の形である。子供の親が誰かという問題だが、女が処女ではじめて交わした男を、子の親とするようである
・総司令官に求められるのは、戦略的思考だけではない。待つのは死であるかもしれない戦場に、兵士たちを従えて行くことのできる人間的魅力であり人望である。
・「お前たちが、やる気充分でいるのはわかっている。わたしに栄光をもたらすためには、どんな犠牲も甘受する気でいるのもわかっている。だが、わたしが、お前たちの命よりも自分の栄光を重く見たとしたら、指揮官としては失格なのだ
・後年カエサルは、退役する旧部下たちを、現役当時の軍団のままで植民させるやり方をとる。これならば、技術力に加え、共同体内部での指揮系統まで整った形で、新都市建設をはじめることになる。彼らの建てた町が、二千年後でも現存するのは、彼らが軍役中に会得した、工学部的知識と建設会社的実地訓練によったのではないだろうか。
・この日に決定した非常事態宣言は、カエサルと、「元老院派」にかつがれたポンペイウスの間に闘われる抗争に際し、後者が前者に突きつけた武器であったのだから。
・少年の住むスブッラからフォロ・ロマーノまでの距離は、五分となかったのだ。
しかし、カエサルは生涯、自分の考えに忠実に生きることを自らに課した男でもある。それは、ローマの国体の改造であり、ローマ世界の新秩序の樹立であった。ルビコンを越えなければ、「元老院最終勧告」に屈して軍団を手離せば、内戦は回避されるだろうが新秩序の樹立は夢に終わる。それでは、これまでの五十年を生きてきた甲斐がない。甲斐のない人生を生きたと認めさせられるのでは、彼の誇りが許さなかった。しかも、名誉はすでに汚されていた。まるでガリア戦役などなかったとでもいうふうに、「元老院最終勧告」に服さなければ共同体の敵、国家の敵、国賊と見なすと宣告されたことで、すでに充分に汚されていたのである。

<ローマ人の物語 (5) ユリウス・カエサル-ルビコン以後 抜粋>
・人は、全幅の信頼を寄せてではないにしろ、他人にまかせなければならないときがある。そのような場合の心がまえは、まずはやらせてみる、しかない。
・これで、七個軍団もあったスペインでのポンペイウス軍は、全軍が解体したのである。このことは、西と南と東の三方からカエサルを包囲するという、ポンペイウスの立てた壮大な戦略が、早くも西方で破綻したことを意味していた。
・ポンペイウスとの抗争では、公正はわたしのほうにあると確信している。だからこそ諸君も、このわたしに従いてきてくれた。だが、立場は公正でも、それを実施していく段階で公正を忘れたらどうなるのか。ポンペイウス側の不正を、非難する資格も失うではないか。
・「とはいえ、今日の不運の責任は、他のあらゆることに帰すことはできても、わたしに帰すことだけはできない。わたしは、戦闘のための有利な地勢を諸君に与え、敵側の多くの砦まで陥とし、これまでの戦闘でも勝って、戦役が有利に展開するよう配慮を怠らなかった。このように眼前に迫っていた勝利を逃した要因は、諸君の混乱、誤認、偶発事への対処の誤りにある。だが、もしも全員が全力をつくすならば、この現状を逆転させることは充分に可能だ。そして、もしもこのような気持で一致するならば、ジェルゴヴィア撤退時と同じに、敗北は勝利に転ずるだろう。それには、恐怖に駆られて闘わなかった者たちも、自ら進んで前線に立つ気概を取りもどさねばならない」
映画あたりだと、会戦とは両軍が接近するやただちに戦端が切られるように見えるが、あれは上映時間の関係で時間の短縮を余儀なくされているからである。現実の会戦は、こうは簡単にはじまらない。布陣を終えるだけに、二、三時間かかるのが普通だ。また、何日もの間、布陣したままでにらみ合うのも始終だった。
えてして新参者のほうが熱心な体制維持派にまわる例が少なくないが、それはおそらく、自分のように縁故のない者にまで出世の機会を与えてくれた現体制への、愛着を捨てきれないからであろう。
・「市民諸君、諸君の給料もその他の報酬も、すべては約束どおり支払う。ただしそれは、わたしが、わたしに従いてきてくれる他の兵士たちとともに戦闘を終え、凱旋式までともに祝い終わった後で果す。諸君はその間、どことなりと安全な場所で待っていればよい」  カエサルの子飼い中の子飼いと自負していた第十軍団の兵士たちにとっては、カエサルが自分たちに、市民諸君、と呼びかけたことがすでにショックだった。それまでのカエサルは、「戦友諸君」と呼びかけるのが常であったのだ。それが今、もはや退役してカエサルとの縁も切れた普通の市民並みの存在になったかのように、「市民諸君」である。カエサルは自分たちを他人あつかいしたと感じた彼らは、従軍拒否もなければ報酬の値上げもない気持になっていた。泣き出した兵士たちは、口々に叫んだ。 「兵士にもどしてくれ」 「カエサルの許で闘わせてくれ」  それらに対してカエサルは、答えもしなかった。
・キケロは、地方出身の成功者である。人間世界ではしばしば、部外者であった者のほうが、自分を受け容れてくれた現体制維持に熱心になるものである。
・しかし、孤独は、創造を業とする者には、神が創造の才能を与えた代償とでも考えたのかと思うほどに、一生ついてまわる宿命である。それを嘆いていたのでは、創造という作業は遂行できない。ほんとうを言うと、嘆いてなどいる時間的精神的余裕もないのである。
・失業とは、その人から生活の手段を奪うに留まらず、自尊心を保持する手段までも奪うことである。普通の人間は、何であれ働くことによって、自らの存在理由を感得していく。それゆえに、失業問題は福祉では解決できず、職を与えることのみが解決の道になる。
・こうして、ヴェネツィア広場からコロッセオにいたる、現に見る広い道路が通ることになってしまった。最高権力者でも知性に欠けると、このようなことをして恥じないという実例である。
・この他にもカエサルは、テヴェレ河近くに半円の石造劇場を建設することも計画していた。これもまた、完成は後継者アウグストゥスを待つしかなかったものの一つだが、計画を引き継いで完成させた初代皇帝アウグストゥスは、早死した甥をしのんで、「マルケルス劇場」と名づけることになる。これは現代でも、中身は集合住宅と変わっても建っている。
・「どれほど悪い結果に終わったことでも、それがはじめられたそもそもの動機は善意によるものであった」
・カエサルは、愛人であることを隠しもしなかったクレオパトラのローマ滞在中の宿泊先として、テヴェレ河の西岸につくらせた庭園内のヴィラを提供している。彼自身は、公邸での妻との日々はつづけながらではあったが。
・ファルサルス戦以後の一年余りの間のアントニウスの失政は、カエサルに、一時の不快感を与えただけではすまなかった。カエサルは、アントニウスの平時での統治能力を見限ったのである。軍事面でのアントニウスは、軍団長クラスでも最上位にあり、右翼、中央、左翼と布陣するのが常のローマ軍では、右翼か左翼のいずれでもまかせられる能力の持主であることは、カエサルも認めていた。だが、戦時ではない平時の統治能力は認めなかったのである。パルティア遠征中の本国統治も、アントニウスにまかせつづけてはいない。
ローマの一般市民の間でも、オクタヴィアヌスは無名だった。それで、資産の相続だけでなく自らの家名まで与えるとしたカエサルの遺言状が公開されたとき、市民たちのいだいた想いは、「オクタヴィアヌス、WHO?」であり、元老院階級に属する人の間ですら、「オクタヴィアヌス、WHY?」であったのだ。
・ところが、オクタヴィアヌスの求めも聴かずに着服しつづけていたカエサルの遺金を大盤振舞いしたにかかわらず、軍勢のほぼ半ばの兵士たちが、アントニウスの指揮下に入ることを拒否したのである。カエサルが後継者に指名した人の指揮下に入る、が理由だった。これは、アントニウスにとっては、キケロの弾劾演説よりも打撃だった。あわてたアントニウスは、北伊属州総督のデキムス・ブルータスにあてて、その地位を明けわたすように求めた執政官通達を送る。北伊属州にいる軍勢を自下に組み入れることが、オクタヴィアヌスへの対抗上急務と考えたからだった。
・ユリウス・カエサルの名を継ぐことは、一億セステルティウスの金の遺贈よりも効力があったのだ。それをわかって遺したカエサルも見事だが、十八歳でしかなかったのにカエサルの真意を理解したオクタヴィアヌスも見事である。世界史上屈指の、後継者人事の傑作とさえ思う。
・ナポリ湾の西の端に位置するミセーノ岬に、ポンペイウスの次男セクストゥスを招いて成立したのが、史上「ミセーノ協定」と呼ばれる三者協約である。このたびの出席者は、アントニウスとオクタヴィアヌスにセクストゥス・ポンペイウスの三人。会談の場所にミセーノ岬が選ばれたのは、船で来るセクストゥスの便を考えてであった。
・これを知ったローマ人は、唖然とした。二重結婚は、ローマ法では許されていない。また、ローマの覇権下にある多くの地方を、ローマの同盟国でしかないエジプトに与えてしまったのだ。怒りよりも、あきれかえって一言もないというのが実状だった。だが、アントニウスのほうは、パルティア遠征に成功すれば、ローマ人も追認するしかなくなると思っていたのである。
・所詮アントニウスは、軍団長クラスの人材であったのだろう。軍団長は、最高司令官の考える戦略戦術の遂行者にすぎない。パルティア遠征は彼が最高司令官を務める最初の機会だったが、経験の有無は弁解にならない。資質であり器量が問われることだからである。だが、この人物に、あなたが釣るのは魚ではなく、王国であり大陸であると煽ったクレオパトラは、世上言われる人なみはずれて優れた女であったのか。クレオパトラは、ギリシア語・ラテン語はもちろんのことエジプトの民衆の言葉まで解したという。しかし、多くの言語を巧みに操る技能と知性は、必ずしもイコールではないのである。