世界中で衰退する権力を描く「権力の終焉」

近年、国家、企業、宗教団体などの権力が弱まっている様子とその原因を描いています。非常に幅広い事例に言及されており、非常に勉強になりました。

特に政治においては、各国で権力側が非常に弱まっておりその理由をNGOと対比する形で

NGOは偏執的な熱意でひとつの問題だけを追求するが、政党は多数の矛盾さえする目標を追いかけ、選挙献金の追求においてのみ偏執的であるようだ。

政党はその構造と方法をよりつながり合った世界に積極的に適応させなければならない。NGOが、比較的平坦でそれほど階層的でない構造によってさらに機敏で柔軟になり、メンバーたちの需要と期待により調和できたように、政党も同じような構造によって新しい党員を勧誘し、より敏捷になり、自分たちの課題を前進させ、うまくいけば、党の内外で力を手に入れようと狙っている危険な扇動者たちともっとうまく戦えるようになるかもしれない。

と書いています。しかし、実際のところどうすればよいかというとほとんど解決方法を提示できていません。

確かに、権力が弱まることにより、例えば、温暖化阻止等で国家間で合意できなかったり、テロ組織が力を持つなどの問題が起こりつつあるのは確かです。しかし、著者が

ここで言いたいのは、権力が過度に希釈され、指導者的プレーヤーが指導することができないという状況は、少数の手に権力が過度に集中することと同じくらい危険だということだ。

と言うほど、ものすごい支障があるかというと正直分からない部分もあります。例えば、日本でもねじれ国会や保守回帰などで政治的解決に進まなくなったりしているが、それは国民が望んだことではないかという疑問もある。つまり、極論「政治は何もやらないでくれ」というメッセージである可能性があります。

万が一、どうしようもない状況になったら、一致団結して合意するのではないかという希望もなくはないかなと。

また、本書は本当に事例が豊富なんですが、宗教においてもペンテコステ派と福音派というゲリラ型の組織が拡大しているのを読んで、スーパーAPCやロス・セタスもそうですが、もはや権力の衰退は避けられないのではないかという思いを強くしました。

ペンテコステ派と福音派の強みの本質は、既存のヒエラルキーを気にせずに教会を設立できることだ。教えを受けたり、指示を待ったり、バチカンやカンタベリー大主教やその他の中央指導部の叙階式 (聖職位の授与式) の許可を得たりする必要はない。標準的なケースでは、既存の福音派教会から独立する場合でない限り、ただ牧師を自称し(カトリック信仰では依然として女性が神父になることができないが、カリスマ派には女性の使徒、主教、予言者はいくらでもいる)、小さな看板を掲げればよい。この点において、教会は中枢から資金提供を受けることなく競争市場に参入した小さな会社と変わりない。会員たちと彼らに提供するサービス、十分の一税や献金の収入を基盤として成功しなければならない ( 14)。

現在世界で起こっていることを俯瞰するには非常に有益な良書です。

<抜粋>
・実際のところ、権力は金のようなものだと考えている人は多い。持っていればいるほど、もっと持つ機会が増える、というわけだ。この観点から見ると、権力と富の集中という際限なく継続できるサイクルは、人類の歴史を前進させていく中心的な推進力だと考えることができる。確かに世界は、絶大な権力を持ち、それを失うつもりなど毛頭ない人間と団体で満ちている。しかし、以下の章を読めば、このようなプリズムを通して世界を見ると、物事の変化のきわめて重要な要素が見えなくなってしまうことがわかるだろう。
・同じくアラブの春におけるツイッターの使用パターンを調べた米平和研究所の調査は、この新しいメディアは、「国内の集団行動においても、地域内の他国への蜂起の拡散においても、重要な役割は果たしていなかったようだ」と結論づけている。
権力とは、ほかの集団や個人の現在または将来の行動を命令したり、阻んだりする能力である。
・一八六四年生まれのウェーバーが成人に達したとき、ドイツはプロイセン王国のオットー・フォン・ビスマルク首相の舵取りのもと、諸邦国が統一されて近代工業先進国へと生まれ変わろうとしていた。ウェーバーは、知識人でありながら、さまざまな役割でこの近代化に参加した。研究者としてだけではなく、ベルリン証券取引所の顧問、政治改革グループのコンサルタント、皇帝の軍の予備役将校として──。
・コースの「取引コスト」が組織の大きさや性質をも決定するという考え方は、産業を超えたほかの多くの分野にも適用できる。それによって、なぜ現代企業だけでなく、政府機関、軍隊、教会まで規模が大きくなり集権化されたのか、という疑問も説明できる。これらの組織はすべて、そうすることが合理的であり効率的でもあったからである。取引コストが高いと、ほかの組織が管理する重要な活動を組織内に持ってきて、それによって組織を成長させたい、という強力な動機が生まれる。
・つまり、「権力と富は集中しがちである。富める者はますます富み、貧しき者は貧しくなる一方だ」。この考えの解釈は多少戯画化されているものの、当然とされている大前提であり、ありとあらゆる場所で交わされる会話の基盤となっている。たとえば、議会で、数えきれないほどたくさんの家庭の夕食の席で、大学のホールで、あるいは仕事を終えた後の友人たちとの集まりや、学術書のページであったり、テレビの人気連続番組で。自由市場に心酔する者たちの間でさえ、権力と富は集中しがちだというマルクス主義者の考えに同調する声はよく聞かれる。
・その理由は何だろうか? それは、貧困国の経済が、金融危機が起きても拡大を続け、雇用を創出していたからである。このトレンドは三〇年前にはじまった。たとえば中国では、一九八一年以降、六億六〇〇〇万人が貧困から抜け出している。アジアでは、極度の貧困の中で暮らす人々の割合は一九八〇年に人口の七七パーセントを占めていたが、一九九八年には一四パーセントまで激減した。
・重要なのは、こういうことだ。人口が増えて、その生活がより満たされると、彼らを厳しく統制し管理することが困難になる。
昨今の送金額は、世界の対外援助の合計額の五倍以上にのぼり、貧困諸国への外国投資の年間流出量を上回る。
・わずか半世紀と少しのうちに主権国家の数が四倍に急増したことにより、大きな権力に近づくことを妨げる障壁の多くはそれほど威圧的なものではなくなった。
・独裁的支配の絶頂期であった一九七七年、世界には九〇の独裁国家が存在していた。アメリカの研究グループ、ポリティ・プロジェクトによれば、二〇〇八年の世界には九五の民主国家が存在し、独裁国家はわずか二三カ国、そしてその中間のどこかに属する国家が四五あったという。
二〇一一年二月には、とうとうカンボジアを抜いて無政府期間の世界最長記録を打ち立てた。そして同年一二月六日、実に五四一日間に及ぶ膠着状態ののち、ようやく新しい首相を宣誓就任させたのである。政府にひどい打撃を与えることが推測されるこの不条理な危機にもかかわらず、この期間、ベルギーの経済と社会は順調に営まれ、ほかの近隣ヨーロッパ諸国と同じようにうまく機能していた。この事実は、政治家たちの権力が弱まっていることをなによりも雄弁に物語っている。それどころか、対立する諸政党に解決策を打ち出すよう圧力をかけるきっかけとなったのは、S&P(スタンダード・アンド・プアーズ)のベルギーの信用格付けが下がったという事実のみであった。
・ティーパーティーは、二〇〇九年に出現してからほんの数カ月で、共和党政治そのものを作り直し、それによってアメリカ全体の政治を再形成した。この運動は、まったくの門外漢たちと、党上層部が推薦しえないその他の候補者たちを予備選挙で勝利に導いたのである。
スーパーPACとは、二〇一〇年に最高裁判所が下したシチズンズ・ユナイテッド判決 (右翼団体シチズン・ユナイテッドと連邦選挙委員会の裁判の結果、企業による政党や政治家の選挙キャンペーンへの資金援助を禁止する連邦法を違法とした判決) によって新たに作られた機関であり、選挙献金の制限を撤廃し、民間企業に政治主体としての力を与えるものである。これらの特別政治活動委員会は、自分たちが支持する候補者と連携することを禁じられている。が、二〇一二年の選挙運動では各大統領候補(共和党の各指名候補者でさえ)がひとつまたは複数のスーパーPACを有し、自らの宣伝や対立候補へのネガティブ・キャンペーンに巨額の資金を投入していることが明らかになった。
・多くの都市や地域が、中央政府からきわめて成功裏に解放されている──この状況を、都市国家という中世の秩序の現代版が生まれつつある、と主張する学者もいる
・ポールソンもアサンジも、政府の権力を制限することによって国政を変える新種のプレーヤーとして象徴的な存在なのである。
大きな安定した政党は、これからも民主主義において政府の主導権を握る中心的な媒体であり続けるだろう。しかし、新しい形態の政治組織や政治参加によって、大政党は弱体化が進み、迂回されることが増えているのだ。
全体として、NGOは社会のためになるが、その視野の狭さと、関係者と資金提供者に結果を示さなければならないというプレッシャーから非常に融通が利かないこともあるのだ
・権力は移行しているだけではない。衰退しており、場合によっては蒸発さえしてしまっているのだ。
・一八〇〇年から一八四九年の間に弱い主体が勝利を収めた割合はたった一一・八パーセントだった。それに対し、一九五〇年から一九九八年には実に五五パーセントを占めている。これは、戦争の中核的な公理が逆になったことを意味している。つまり、昔は火力が勝っている方が最終的に勝利した。しかし、今はもうそれが正しいとは言えなくなっているということだ。
・マックス・ウェーバーはこう書いている。「国家とは、正当な物理的暴力行使の独占を要求する共同体である」
・年間一〇〇〇億ドルと推定される今日の民間軍事サービス市場は、一世代前はほとんど存在していなかった。
二〇一一年には少なくとも四三〇人のアメリカの民間軍事会社の従業員がアフガニスタンで殺害されている。これは軍の犠牲者を上回る数字である。このような軍事会社のひとつであるL‐3コミュニケーションズが国家だったなら、イラクとアフガニスタンでアメリカとイギリスに次いで三番目に死亡者が多い
・アメリカとほかの国々は今もそれなりの量の「金メッキ」の近代兵器を保有しているものの、今日の戦争にもっとも適した軍用機は戦闘機ではない。戦闘機よりはるかに安く、はるかに柔軟性のあるもの──無人機(ドローン)である。
・たとえば二〇一一年に除去または爆発させたIEDの数は、アフガニスタンだけで一万五二二五個から一万六五五四個へと九パーセント増えている。IEDによって死亡または負傷したアフガニスタン人の数も、二〇一一年は前年比一〇パーセントも急増した。この兵器だけで、民間人犠牲者総数の死因の実に六〇パーセントを占めている ( 33)。
・ペンタゴンのような大きな組織が、紛争解決に必要な手段や資源を独占していた時代は終わった。紛争に有用なスキルは、今や軍隊内の基礎訓練、士官学校や国防大学だけでなく、パキスタン北西の反政府キャンプ、イギリスのレスターにあるイスラム神学校、中国広州のコンピューター学校などでも習得することができるのだから。
・ロス・セタスとは、実際には何者なのだろう? あるレベルで見れば、メキシコで長年続いている麻薬戦争に関連する多くの準軍事的組織のひとつにすぎない。〝戦争〟は、比喩などではない。二〇〇六年一二月から二〇一二年初めにかけて、メキシコでは麻薬がらみの暴力で実に約五万人が死んでいる ( 47)。麻薬戦争は、メキシコ政府から物理的な領土と経済活動のかなりの部分の権限を奪ってきた。この構図において、ロス・セタスはとりわけ強大な力を誇っている。彼らはメキシコ北東の重要な地域を支配し、混雑するラレド街道経由でアメリカへ流れるドラッグの積荷のほとんどを見張っている。四〇〇〇人と推定される私兵たちは、縄張りの地域に恐怖支配を敷いていることと、その力がメキシコ国内だけでなく、国境を越えてアメリカまで及ぶことで悪名高い。ロス・セタスは、メキシコ政府が立ち向かっている多くの敵たちの中で、もっとも手ごわい相手と言えるかもしれない。
・言い換えれば、今日の紛争では、〝命令〟は〝物質的な誘因〟に劣るということだ。従来の軍隊では、給与レベルは二次的なものである。入隊する第一の動機は、忠誠心、市民としての身分、使命感や戦争目的であり、この事実は同時多発テロ以後のアメリカで入隊が著しく流行ったことでも明らかだ。そのような使命感が、占領勢力から祖国を守ることや異教徒から信仰を守ることを訴えて新兵を引きつける一部の反乱軍にまで──そしてもちろん、暴力的な組織にも──拡大している。
理論上は強い影響下にある国でさえ、ほとんどアメリカに従っていない。
二〇〇九年一二月にコペンハーゲンで開催された国連気候変動枠組条約締結会議(コペンハーゲン合意)の失敗には、多くの要因──アメリカと中国が取引に乗り気ではなかったこと、工業大国や発展途上国の非協力的な態度──があげられているが、不十分な協定すら採用されなかった最終的な原因は、以前は想像もつかなかったある連合──ベネズエラ、ボリビア、スーダン、太平洋の小さな島国ツバル──が異議を唱えたことにあった。
・将来の超大国は、過去の超大国のように見えたり、ふるまったりはしないだろう。将来の超大国が物事を巧みに操る余地は狭まり、彼らを妨害したり、方向を転換させたり、単純に無視したりする小国の力が増大し続けることになる。
・経営コンサルタントのジョン・チャレンジャーによれば、平均的なCEOの在職期間は、約一〇年だった一九九〇年に比べると、近年は五・五年に半減しているという。
・二〇〇九年に実施した別の調査からは、毎年アメリカのCEOの一五パーセントが辞職していることが明らかになった ( 9 )。
・業界のトップ5企業が、五年後にその層から脱落するリスクは、一九八〇年はわずか一〇パーセントであったのに対し、一九九八年には二五パーセントまで上昇した ( 11)。
・実のところ、ミズーリ州カンザスシティに拠点を置く新興取引所のBATSは、NYSEとNASDAQにはまだ追いつかないが、ほかのどの証券取引所よりも取引量が多く、東京、ロンドン、上海、パリ、その他を上回っているのである。
カトリック教徒を自認するラテンアメリカ人の割合は、一九九五年から二〇〇五年の一〇年間で八〇パーセントから七一パーセントに落ちている。カトリック教会にとってなお悪いことに、実際に信仰の教えに従っているという信徒は四〇パーセントしかおらず、同教会が何世紀もこの大陸を支配してきたことを考えると、これは衝撃的な数字と言ってよい。
・カトリックの不振の原因は何だろうか? ひとつには、厳粛で反復的なカトリックの儀式とは対照的に、新しい福音派が富に根ざした華やかな礼拝をおこない、信仰療法と救済に基づいたメッセージを伝えていることが関係している。しかし、これらの新興宗教勢力の核心は組織の在り方そのものにあり、それがすべてのことに強みを与えている。
・ペンテコステ派と福音派の強みの本質は、既存のヒエラルキーを気にせずに教会を設立できることだ。教えを受けたり、指示を待ったり、バチカンやカンタベリー大主教やその他の中央指導部の叙階式 (聖職位の授与式) の許可を得たりする必要はない。標準的なケースでは、既存の福音派教会から独立する場合でない限り、ただ牧師を自称し(カトリック信仰では依然として女性が神父になることができないが、カリスマ派には女性の使徒、主教、予言者はいくらでもいる)、小さな看板を掲げればよい。この点において、教会は中枢から資金提供を受けることなく競争市場に参入した小さな会社と変わりない。会員たちと彼らに提供するサービス、十分の一税や献金の収入を基盤として成功しなければならない ( 14)。
・第五章で述べたように、二〇一二年の時点で、世界の富裕国の上位三四カ国のうち、大統領か首相が率いる党が議会の過半数を握っている国がたった四カ国しかない、という事実を思い出してほしい。
・ここで言いたいのは、権力が過度に希釈され、指導者的プレーヤーが指導することができないという状況は、少数の手に権力が過度に集中することと同じくらい危険だということだ。
・NGOは偏執的な熱意でひとつの問題だけを追求するが、政党は多数の矛盾さえする目標を追いかけ、選挙献金の追求においてのみ偏執的であるようだ。
・政党はその構造と方法をよりつながり合った世界に積極的に適応させなければならない。NGOが、比較的平坦でそれほど階層的でない構造によってさらに機敏で柔軟になり、メンバーたちの需要と期待により調和できたように、政党も同じような構造によって新しい党員を勧誘し、より敏捷になり、自分たちの課題を前進させ、うまくいけば、党の内外で力を手に入れようと狙っている危険な扇動者たちともっとうまく戦えるようになるかもしれない。
・NGOが支持者の信頼を獲得できたのは、自分たちが直接的な影響を与えられること、その努力がなくてはならないものであること、リーダーが責任感と透明性をそなえていて、邪悪なまたは未知の利益を受け取っていないことを、メンバーたちに実感させたからにほかならない。
・私たちが国内で政治システムをもう一度信頼すること、そして、それによって指導者たちに権力の衰退を抑制する能力を与え、困難な決定を下し膠着状態を避けることができるようにすること。それができて初めて、もっとも差し迫った地球規模の難題に取り組めるようになるだろう。そのためには、人々の参加意識を高める、より強力で、より近代的で、より民主的な政党が必要なのである。
・アメリカの歴史家ヘンリー・スティール・コマガーも一八世紀にこう述べている。  私たちは、今ある主な政治制度のほぼすべてを発明し、それ以来、何も発明していない。政党も、民主主義も、そして代議政治も発明した。歴史上初の独立した司法制度を発明した……司法審査を発明したのも私たちだ。軍事力に対する民間の優位も発明した。宗教の自由も、言論の自由も、権利章典も──まだまだ枚挙にいとまがない……どれも実にすばらしい遺産である。しかしそれ以降、これらに匹敵する重要なものを発明しただろうか