“経営の神様”松下幸之助の違う側面「血族の王」

松下幸之助と言えば伝説の経営者であり「経営の神様」というすごいイメージしかなかったですが、本作を読むと、若い時は数々の過ちを犯し、後半はデジタルへの対応ミスや一族支配への執着など人間らしい部分も多くあり、非常に興味深かったです。

最晩年の幸之助は、孫の正幸を社長にするという悲願に悩みながら、一方で、長く付きまとっていた汚名を返上し、〝経営の神様〟としての面目を保っている。

とはいえ事実として、素晴らしい着眼点と実行力を持ち、ゼロから世界的な企業を育てあげた稀有な経営者であるわけで、結局のところは経営者は結果がすべてだと改めて思いました。

<抜粋>
・滑稽ともいえるその生産方式は、あっという間に月産二千個から五千個まで製造個数をのばし、関西だけでなく東京市場をも席巻した。だがしばらくして、〈東京方面のメーカーが思い切った値下げを発表して対抗策をとったために、売り上げに反動をきたした〉。
・創業から数えて二十年足らずの間に幸之助は、のちに〝神話〟とよばれる成功譚を生み出していた。夫人のむめのと義弟の井植歳男の三人で、わずか四畳半と二畳の借家からはじめた事業は、この時までに工場数十四、営業所数十九、従業員数三千五百四十五名を数える一大企業に発展していたのである。
・先行メーカーの多くは、性能がいまひとつで故障の多い製品であっても、それらを売り抜けることで利益を稼ごうと汲々としていた時代のことだ。消費者にしても、満足のいく品がなかったため手に入りやすいものを我慢して購入していたというのが実情だった。その満たされない欲求を、幸之助は理屈や理論からではなく、大衆の気持ちをシンプルに見詰めることでつかんだ。
この間にも、地方問屋からの苦情は強まるばかりで、ついに全国販売権を山本に譲り渡さなければならない状況に追い込まれてしまった。大正十四年五月、忍びがたい思いで幸之助は有効期限三年の総代理店契約を山本との間で結んだ。  これによって幸之助は事実上、山本の軍門に下り、契約期間中は単に注文を受けて自転車ランプを製造するだけの〝下請企業〟になり下がった。なぜ、こんな屈辱的な契約に応じたのかは、幸之助の精神世界を知るうえで興味深い問題だ。
・無線通信がもの珍しかった時代、デパートの屋上に設置された通信ブースで立ち働く通信士は、買物客の興味を引くかっこうの広告塔であった。だが、タイタニック号の事故を境に状況は一変し、無線は社会にとって必要不可欠なものと考えられるようになっていった。米国政府は事故後すぐに「無線法」を制定し、乗組員五十人以上の船舶には無線通信機の設置を義務づけるようになっている。もっと多くの船舶に無線機が備えられていれば、タイタニック号の乗客がさらに数百人は救助されていたはずとして――。
・『独占への審判―アメリカ・ヨーロッパ・日本の大企業と独禁法―』の著者で、元京都大学法学部長の道田信一郎の調査研究によれば、そもそも〈RCAの設立は、ふつうの株式会社の設立とは違っていた〉という。〈それは、単に資本を拠出し、新しい事業のために一つのユニットをつくっただけではない。GEやラジオ通信の分野で既にすぐれた特許技術をもっている他の大企業が設立に参加し、特許の管理をRCAに集中しようとした〉ものだった。
・何かを自分に言い聞かせるかのように、「金、金、金……」と書きつけた心境について、幸之助は語ったことはない。国家の要請によって、無理な事業展開を余儀なくされるいっぽう、巨額の資金調達にも苦しめられなければならなかった時期である。幸之助とすれば、その苦しい胸の内を「金」という文字に託し、書きつけずにはいられなかったのだろう。
・〈いまだったら、本当にもう、ただちに会社潰れるような、そういう大借金しとって、しかも親父は、父は個人保証しとったですからね。ですからこれは何回か、私にも言いましたけども、個人保証してるからな、これ返せんかったら一家離散や、と言ってましたよ〉
・縄張の拡大を常に歓迎したホイットニーはすぐに同意し、その日の夜、マッカーサーに面会を求めると、いとも簡単に所管換えをおこなってしまった。ホイットニーは、マッカーサーの個人弁護士を務めたことがあり、日常的にも家族ぐるみのつきあいにあった。この特別な関係と、マッカーサーの性格と野心が、経済科学局から民政局への所管換えをおこなわせたのである。
・〈自分は変わることなく平和産業中心主義を主張し、そのように行動しつづけてきた。それを、おまえがネジ曲げて軍需会社の経営へ向けてしまい、その結果、自分を公職追放、戦犯の容疑まで受けかねない窮地に追いこんでしまった。自分には一切、そんな責任はない。もし責任をとるならば、おまえではないか〉
幸之助にすれば、下請だからこそ、この安さでの譲渡ということになるのだろうが、退社にあたって退職金さえろくに支給されなかった井植にすれば、あくまで正当な対価を払っての取得となる。この認識のずれが、一時期、幸之助と井植の間で繰りひろげられた激しい対立の遠因となっていった。
・三洋電機の思いもよらぬ追い上げと成功に対する幸之助の危機意識は、そっくりそのまま激しい叱責となって部下にぶつけられることになる。
・一方で会社存亡の危機に直面し、もう一方で生活費に事欠きながら、二つの家庭を養っていかねばならなかったのが、この時期の幸之助であった。
・〈当時、わしは工場長やってましてね。請負い単価を変更した。われわれの工場のなかで相談しまして、割合が少ないから、ちょっと値上げしようやと。それはよかったんや、値上げをしたことは。報告しなかったことが悪かった。それが二、三カ月でばれましてね。で、首謀者は誰やと、後藤やないかと。それがばれたんが、晩の遅うなってからですね、九時か十時頃やった。電話があって、すぐ来い、と。お前の値上げしたことは、すべてに関係することや。それをなぜ、わしに事前に報告せんのか。お前さん、偉ろうなったんか。お前、大将か。ちがうやろ。大将、俺や。俺になぜ、報告せんのか〉
全神経を傾注し、工場の隅々にまで目を光らせ、細心の注意を払って経営を行っていた幸之助にとって、部下が経営判断の領域に踏み込むことは、理屈ではなく感情が許さなかったものと想像される。
世田谷夫人との間に、幸之助は四人の子供をもうけ、認知も済ませていたが、そのことによって、死後、子供たちの実名が大阪・門真税務署によって明かされることになった。当時の税法は、課税遺産総額が五億円を超える相続人は実名を公表することになっていたからだ。幸之助の娘婿であり、松下電器会長だった松下正治は、記者会見でこの公示に対し「プライバシーの侵害」と声高に不快感を示し、「週刊新潮」の記者から世田谷夫人について質問されると、吐き捨てるようにひとこと「知らん」と答えた。
・ところが松下は、農家はテレビを買えないほど自分たちが貧しいとは思っていないという事実を受け入れた。農家は、テレビが外の世界と接触させてくれることを知った。たしかに、経済的には大変だった。しかし彼らはテレビを買おうとし、事実、買った。当時、松下よりも優れたテレビを開発していた東芝や日立は、東京の銀座や大都市の百貨店で売っていた。地方の農民にとってはお呼びでないところだった。これに対し松下は、農家を一軒一軒訪ねてテレビを売った。農家に対し、木綿の作業ズボンやエプロンよりも高いものを、そのように売ろうとしたのは松下がはじめてだった
・一連の報告を受けるや、幸之助は言葉を失い、ショックを隠しきれなかったという。この窮状から脱し、再び〝販売の松下〟を再生するには、現在の販売網に大ナタを振るい、再構築する以外にない。それには、まず、溜まりに溜まった不平と不満をガス抜きし、一気呵成に販売改革へのコンセンサスを作りあげることだった。幸之助は、そのためのシナリオを練り上げ、周到な準備を整えたのち、熱海会談に臨むことにしたのである。
・〈きょう、久しぶりに皆さんにご出張いただきまして、ほんとうに皆さんの窮状と申しますか、皆さんのおかれている立場がよくわかりました。業界が荒れに荒れていることもわかりましたから、今日まで蓄えました松下電器の力をば、ほんとうに適切に行使しまして、やれるだけやってみたいと思います。そのやってみたいといいますことは、販売の面にも、業界に対する面にも、社員を訓育する面にも、いろいろあらわれてくると思います。こなければ申しわけないと思います。誓ってやってみることを申し上げまして、きょうお集まりいただいたことに対する心からなるお礼を申し上げる次第でございます。どうもありがとうございました〉
「お前たちは、売れた売れた言うけれど、そもそも一店舗のナショナルショップが十個買うてくれたら、全国で五十万個売れる仕掛けを作ってあるのや。その製品が、小売店の倉庫に止まっているのか、お客さんの手元にまで届けられているのか。要は、わしの作った仕組みがちゃんと機能してるかどうかを見るのが、お前たちの仕事や」
・実際、砲弾型自転車ランプが松下電器の基礎を築きあげ、熱海会談が開かれた昭和三十九(一九六四)年の時点で、松下電器は資本金三百三十七億五千万円、従業員数三万九千五百人、売上高二千二百四億円を誇る大企業にまで成長することができたのである。
・「この電池は、一社で普及させることはできへん。市場を広げていくには、松下にやってもらわなかったら絶対にあかんのや」  企業秘密を明かしたところで、そんなに簡単には追いつけない。かりに追いつかれても、負けることはないという自信があってのことだろう。だが、敏にとって意外だったのは、父が嬉々として幸之助の接待の準備をはじめたことだった。
・その直後に出された公正取引委員会の排除命令は、彼女たちの目に、松下電器は消費者を搾取する強欲な企業と映ったようだ。すかさず松下電器の全製品の不買運動を決めている。これは、幸之助を打ちのめした。
「いや、もう、わしね、悔しうて三日ほど眠れてないんや。あの不買運動や。わしが考えて考え抜いた商売のやり方がけしからんいうて、しかも松下電器と取り引きもない縁もゆかりもないおばさんたちが、土足で会社に上がり込んで、わしが営々と築いてきた商売のやり方を変えろと言うんだ。法治国家でそんなこと許されてええのかと思ったら、悔しくて眠れんのや」
「委員長、君は、従業員の代表やから給料増やせとか休みを増やせとか要求すべきで、それに対してわしは答える。経営のことは、会社にまかしてくれんと、やりにくくてしょうがない。わしは経営の神様や。だから、経営のことであれこれ言うてくれるな」
昭和三十六年に幸之助が会長に退いたあと、社長の座は女婿の正治に譲られた。しかし幸之助は、常に正治の首根っこを押さえ、経営判断の自由を与えなかったばかりか、趣味のゴルフさえ自由にさせなかった。
・幸之助がVHS方式に軍配を上げた理由は、録画時間の長さだった。ベータ方式の一時間に対し、VHS方式は二時間が基本規格であり、しかも四時間録画に向けて、すでに開発がはじめられていた。実現すれば、商品としての魅力に決定的な差がつくのは明らかであった。
・幸之助は、松下伝統の基本精神と、日本の伝統を重ね合わせながら、経営方針が「旧式」だとか「遅れている」と考えるのは間違っていると、真っ向から否定するとともに、伝統と経験がいかに大切かを力説したのである。映像に残された、この幸之助の演説が終わるまで、ゆうに一時間四十五分がかかっていた。
〝経営の神様〟の晩年は、幾ばくかのさみしさと憂いに包まれていた。デジタル技術が台頭するなか、もはや自分の出る幕はないと自覚しながらも、経営への未練が絶ちがたく、しかもかつてのように思い通りにならない組織を前に、歯がゆさを抱え過ごさなければならなかったからだった。まして後継問題に思いを馳せた時、憂いは増すばかりであった。
・幸之助の言葉通り四十歳で取締役、四十四歳で常務へと引き上げられている。さらに四十六歳で専務、五十歳で副社長に昇進したが、シナリオ通りことが進んだのはここまでだった。五十四歳の時に財界活動担当の副会長に棚上げされたのち、現在に至るまで社長に就いていない。
・今にして思えば、『秘密な事情』は、松下家と松下電器の間に一線を引かせる役割を担っていたことに気づく。幸之助のプライバシーを暴いただけでなく、小説で描かれたオーナー家の身勝手ぶりと、現実に起こった不祥事とをオーバーラップしてイメージさせる効果があったからだ。
・最晩年の幸之助は、孫の正幸を社長にするという悲願に悩みながら、一方で、長く付きまとっていた汚名を返上し、〝経営の神様〟としての面目を保っている。
・無一文から身を興し、これほどまでの成功を手に入れた幸之助が、富がもたらす余裕のもと第二夫人を囲うのは、ある意味、自然の流れであったろう。そしてむめのへの気兼ねはあったとしても、世田谷夫人との実生活が生み出すさまざまな心配事に心を砕くことになる。家族に終の棲家を世話したのも、そのひとつだった。
・「私、株をやるものですから、取り引きしていた証券会社に、どっか京都でお売りになる家ありませんかと聞いたら、こういう物件がありますというので見に行ったのがこの家。それで、あの人に欲しい家があるにはあるんだけど、大きくてねという話をしたわけ。私、お目玉が来ると思ってビクビクしてたら、よし、そいじゃ、買うてあげましょうといって買うてもろうたんがこの家です。君にやるんじゃない、子供にやるんだからと。娘のおとうさんは、そりゃあ、立派な人でした」
この二人の明暗を分けたのは、経営権を一族が支配したかどうかの違いであったかのように思われる。一族が支配し続けようとしたことで三洋電機は消えることになり、一族の支配を求めながらも、その禅譲を果たしえなかった幸之助の事業は永続することになった。