経営者は成果がすべて「ドキュメント パナソニック人事抗争史」

パナソニックの歴代社長の人事を綿密な取材から追っています。もちろんこういったものは話すひとは何かしらポジショントークな部分があると思うし、一概にこの社長はいい、悪いとは言えないとは思うのですが、それでもかなり混乱した状態が続き権力争いが続いたのは間違い無さそうです。

とはいえしかし、結局のところ業績があがっていないからこそ歴代社長は糾弾されているわけです。もし何かしら素晴らしい業績があれば偉大な中興の祖として祭り上げられたのは間違いない。

結局、経営者は成果がすべて。

当たり前のことを粛々とやるのは当然で、さらに一段ギアチェンジするような業績をあげ続けないと評価されず、いつの間にか忘れられてしまう。自分も圧倒的な成果を出さなければならないし、そのための組織を作っていく(権限移譲していく)必要があると改めて感じました。

<抜粋>
・やがて山下のあとを継いで谷井昭雄が4代目社長に就任し、その大役を果たそうとした時、業家の反発や正治の執拗な反撃などが相まって、逆に谷井が、社長の座を追われることとなった。
・むめのにしてみれば、正治はひとり娘幸子の夫であり、かわいい孫の正幸の父親である。将来、孫の正幸に社長を継がせるためにも、正治が社長の座に居続けることを強く望んだ。
・山下には、柔軟な思考力、冷静な判断力のほか、叩き上げの人間に共通のシンの強さが備わっていた。しかしなぜか、「正治を引退させろ」との幸之助の命に関しては、優柔不断だった。
・要するに、山下の進めた「近代化」によって、正治に苦言を呈してきた幸之助の番頭たちが会社を去り、ようやく手足を思いっきり伸ばせるようになったということである。
・山下は、常務会を開くにあたって、会長である正治への出席要請はしなかった。意思決定のスピードを落とさないため、常務会は、社長、副社長、専務、常務のみの出席としたのである。重要事項を協議する常務会の様子が皆目わからないことに、正治は苛立ちを隠さなかったという。 「客員会」の重鎮のひとりによれば、「正治さんは、ひょっとして自分は無視されているのではないかと心配になりだした。それで、自分も常務会に出席したいと言うんですが、山下さんは、いや会長は出ていただかなくても大丈夫ですと断っている。すると今度は、当時の人事担当副社長だった安川洋さんに、自分の出席を認めるよう山下に言ってくれと頼んでるんですね」。
・松下家に近かった元幹部社員によれば、「正治さんは、そのうち人事案だけでなく、事業買収などにもズケズケものを言いだした。反対したくてもできない案件だと、『決裁願』の書類に逆さまにハンコを押していた。それがまた、アッという間に、会社中に知れわたるわけや。あの案件、会長は不同意やと──。だから、そういう事態にならないよう、治めて、治めて、やっていこうとするようになった
・しかし森下は、社長に就任するや、恩義を感じるべき谷井に背を向けた。社長を退き、相談役となってからの谷井の口癖のひとつは、森下への不満であった。親しい役員に、よくこう零していた。森下は、何にも相談に来んもんなあ──。
・会長として、業家の代表として、松下電器を預かる立場の正治にとってみれば、いわば蚊帳の外に置かれたも同然の形で進行したMCAの買収は、谷井の身勝手な行動であり、出過ぎた経営と映るようになる。そんな感情的シコリもあって、正治は、MCAの買収に途中から反対の意向を示しはじめた。
・ワッサーマンと森下との違いは、浮き沈みの激しいハリウッドで、生き馬の目を抜くような仕事をこなしてきた海千山千の経営者と、ドメスティックな世界で営業畑しか歩いてこなかったサラリーマン社長との、主体性と自信とチャレンジ精神の違いによるものだった。
・映画作品への造詣が深かった斎藤は、MCAの保有する映像ライブラリーに関する克明な資料を作成し、特命チームの判断を助けた。そしてMCAの買収契約が成立したのち、平田からワッサーマンに送る手紙の作成を依頼されると、その最後を「お楽しみはこれからだ」という台詞で締めくくった。  昭和2(1927)年に公開された映画『ジャズ・シンガー』で、主人公が語ったこの台詞は、無声映画からトーキー映画に切り替わった最初のスクリーンで観客に向けて発せられたものである。映画史上に残る記念碑的な台詞を盛り込んだ手紙に、ワッサーマンはいたく感動し、「松下には、本当に映画の心がわかる人がいる」と語ったほどだった。
・「テレビは、何と言っても家電の中心であり、利益を出していたブラウン管に特化するのが業績向上の近道と考えたんでしょう。当時、全世界で使われていたテレビは約10億台で、そのほとんどがブラウン管でした。これほどの市場規模を持つブラウン管が急になくなることはない。まだまだ需要はある。ブラウン管は〝金のなる木〟と周りから吹き込まれ、森下さんはすっかりその気になってしまった。もともと森下さんは、〝マルドメ〟というあだ名を持つぐらい、まるでドメスティックな人だけに、将来のメシの種に投資することより、ブラウン管で日銭を稼ぐことに関心が向かった」
・80年代の松下電器の業績は、本業での儲けを示す営業利益率で平均9%を稼ぎだしていた。それが、森下が社長に就任した平成5(1993)年には2・6%へとガクンと落ち、その在任期間中の7年間の平均も3・4%という結果に甘んじていた。この業績を早期に回復することが、与えられた使命と森下は考えたのである。それはまた、谷井路線の全否定にも繫がり、いわば一石二鳥であった。
・「『何が正しいか』ではなく『誰が正しいか』を重視する」風潮が蔓延し、「人事も『秀でた仕事をする可能性』ではなく、『好きな人間は誰か』『好ましいか』によって決定する」ようになっていたからだ。
・「全社方針会議」は、むしろ村瀬の欠席をこれ幸いとばかりに、東芝方式の採用を決めていた。もし村瀬が出席していれば、それまでの協議経過や、信義問題などが持ち出され、議論は白熱し、容易に結論は得られなかったはずである。
・それまで沈黙を守っていた山下が、この時、突如として世襲批判を展開したのは、このままでは、正幸の社長就任が実現してしまうと危機感を覚えたからだった。たとえ正治との関係が壊れたとしても、幸之助の〝遺言〟を実現するには、この機会しかないと考えてのことだ。谷井に託したものの果たせないでいた、業家と経営との間に一線を引くことで、経営を安定させよという〝遺言〟である。
・佐久間が失脚したあととはいえ、アメリカ勤務時代にさして世話にもなっていない森下を持ち上げようと、先のエピソードを仕立てあげていたとすれば、いささか品位に欠ける。 「客員会」の重鎮のひとりは、「そういう点が、いかにも中村君らしい」と断ったうえで、こう続けた。 「要するに、佐久間さんが失脚した途端、森下君に乗り換えたいうことですわ。彼は、常に上しか見てこなかったし、取り立ててくれる上司には徹底的に媚を売り、逆らわずに仕えてきた。まさに、組織の中で生き延びる術を心得た〝プロのサラリーマン〟ですよ。これは、森下と共通するところですが、裏を返せば、このような芸当ができたからこそ、彼らはトップの座を手にできたということでしょう」
・当時、取締役米州本部長だった岩谷英昭は、プラズマに固執する中村に対し、公然と異を唱えた。その時の緊迫した様子は、「客員会」の一部で、伝説となって語り継がれているほどだ。
・しかしその後も中村は、活を入れつづけた。 「PDP(プラズマ・ディスプレイ)は絶対に引くことのできない事業です。技術力はもちろん、コスト力でも圧倒的に勝ち続けるべく、全社の最重点事業として総力を挙げた取り組みをお願いいたします」(『PaNa』2006年1&2月号)
・「V字で男をあげて以降の中村というのは、人が変わってしまったわね。異常なほど部下を選り好みして、自分の好きなタイプしか選ばないというところへいっちゃった。しかも嫌いとなると、人格を全否定する。それだけに、骨のある奴から抜けていきましたなあ」(中村の元同僚)
・中村は、50歳代前半で人事の苛酷さを、骨身に沁みる思いで嚙みしめていた。社長までの道のりは決して平坦ではなく、一度は左遷によって将来が閉ざされる危機を味わっている。その時、手を差し伸べてくれた森下には、まさに〝絶対不可侵〟の態度を貫いていたのである。
・中村が社長時代の元部下もこう語っている。 「中村さんが社長になってから、品質会議というのをはじめたのですが、ここでは毎回のように事業部長や工場長が吊し上げられていた。説明が悪いと、極端な話、次ぎの会議にはいない。どこかに飛ばされちゃってるんだから。だからみんな、自分の身を守るため、自分の責任のとれること以外何もしなくなる。身を縮こませ、足元ばかり見て仕事をするようになっちゃったわけですよ」