小説 盛田昭夫学校(下)/江波戸哲夫

上巻からの続き

76年 4686億円(14%増)
77年 5128億円(9%増)
78年 5423億円(6%増)
絶対額こそ77年には442億円、78年には295億円と着実にふえていたが、伸び率は68年にトリニトロンが登場してからの数年間の30%〜50%を大きく割り込んでいた。(中略)そこで盛田はいくつもの大きな戦争を戦いながら、たえず目を光らせて次のヒット商品を探していた。(中略)浅井は改良型プレスマンを盛田に渡した。 「どれどれ」盛田はデスクの前のソファーに座り、大きなヘッドフォンを、輝く銀髪の頭に被った。すぐに目をつぶり音楽に聞き入った。浅井の視線の先でテープの交響曲に合わせるように盛田の上半身がかすかに揺れた。やがて目を開け、ヘッドフォンを外して盛田が勢いよくいった。 「これは、いいね」 浅井の心臓がぴくんと跳ねた。 「250万台はいけるぞ」

ソニーは常にヒット商品を狙い続けていました。

「初回の3万台はもし売れなかったら、私が責任をとって会長を辞めます。君らは成果のことは何も心配しないで、思い切り売ることにだけ精力を傾けてください」 出席者は一瞬どよめき唖然とした顔で盛田を見た。その視線を盛田は穏やかに受け止めていた。

ウォークマン発売前は「誰かがイヤフォンをつけていると、耳が遠いのだろうと思われかねない時代」で、販売会社のソニー商事含め懐疑論が非常に多く盛田氏はこう言って反対を押し切きりました。

(USにおけるユニバーサルからのベータマックス訴訟で)いくつかの公開討論会には、盛田もパネラーとして出席した。 盛田はアメリカの市民にも高い人気があり、彼がパネラーとなった会場は、いつも溢れんばかりの人が集まった。盛田は決して流暢とはいえない、しかし誰にもはっきりと聞き取れ、説得力のある英語をしゃべった。 「USAは自由の国です。USAはイノベーションを先端で引っ張ってきた国です。それは世界中の国がよく知っています。そのUSAが、自由も技術革新も否定しては、USAではなくなってしまう」

盛田氏は英語が堪能ではなかったが、中身のあるスピーチでアメリカ人を魅了していました。

(ヨーロッパのソニー従業員の懇親会にて)「私がいまどういう気持ちでソニーという会社のことを考えているか、皆さんにお話しておきましょう」 前例のないことである。会場がいっぺんに静まり返った。 「まず、どんなことであれ、ソニーと関係を持ったすべての人が、そのことによってそれまで以上に幸福になって、ソニー商品を買った人はそのことで生活が豊かになって幸福になり、ソニー商品を売る人は利益を得ることで幸せになる。といったように、ソニーとなんらかの関係を持った人はすべていままで以上に幸せになる。これが私の願いであります」

盛田氏の企業観が分かるスピーチです。

ソニーではすでに64年に国内売上高を海外売上高が上回り、その後も着実にその差は開き、岩城が帰国した76年には国内売上げ1911億円に対して海外売上げが2725億円と1.43倍にもなっていた。

設立から18年で海外売上高が国内を逆転しています。

日本はバブル経済の真っ最中で、どこにもここにも金がうなっていた。ソニーも例外ではなかった。この時期、連結の売上げは左記のようにわずか2年で1兆3500億円も伸ばしてほぼ倍増した。
87年 1兆5948億2600万円
88年 2兆2036億100万円(38%増)
89年 2兆9475億9700万円(34%増)

凄まじい伸び。そして、ソニーはコロンビア買収に乗り出します。

日本語のスピーチを行なうときの盛田は、構成とその論点だけを確認すれば、原稿を作ることなどめったになかった。しかし英語の講演の場合は盛田はいつも丁寧に原稿を準備し、実際に声に出して練習もした。あんなに軽やかで絶妙な盛田のスピーチも、大きなエネルギーと緊張感に支えられていた。まれに盛田は緊張のあまり重要な講演を引き受けたことを後悔し、身近なものに愚痴ることさえあった。「なんだってこんな講演を引き受けてしまったのだ」

スピーチが得意だったが、その裏には必死の努力があったという。

<まとめ>
ソニーも昔はいちベンチャーとして始まり、数々のヒット商品を出し、そのたびに猛烈に業容を拡大していきました。特に戦後10年、設立9年で上場、上場後4年間で売上を10倍にしているのは本当に素晴らしいです。一方で、その裏には数々の苦闘があったんだなというのがよく分かって、すごく共感できます。全般ものすごくおもしろいので、特にベンチャーに関わる人にはオススメです。

上巻はこちら

小説 盛田昭夫学校(上)/江波戸哲夫

一応、小説とあるのですが、ソニーの歴史には忠実に、様々な主人公の視点で生き生きと描かれています。経営という視点で見ると、他社をベンチマークするだけではなく、過去の偉大なベンチャーから学ぶことも重要なのではないかと思います。個人的に非常に勉強になることばかりだったので、抜粋コメント方式で行きたいと思います。

東京通信工業の前身「東京通信研究所」は、45年10月1日、終戦からわずか2ヶ月後に、井深大を中心とした数人の仲間によって設立された。最初の拠点は日本橋の百貨店「白木屋」の三階。井深の知人が使わなくなった配電室を貸してくれたのだ。 当初、彼らは会社の存続のために、電気炊飯器の製造やラジオの修理・改造などを行なっていた。ラジオの修理・改造は戦争中、短波放送を聴くことのできないラジオを強要された多くの人に喜ばれた。

終戦からわずか2ヶ月後に開始。この会社の記事を見て、23歳の盛田は、36歳の井深に手紙を書いて、翌年、東京通信工業が設立されました。

発足したばっかりの東通工は、NHKとは第一スタジオの調整卓などいくつもの取引があった。その関係で井深も盛田もしばしばNHKに出入りしていた。(中略)ある日、井深はCIEの職員からテープレコーダーを見せられ、音を聞かされた。 井深はたちまちその音質のよさに魅了させられ、会社に戻るやいなや盛田にいった。  「テープレコーダーだよ、われわれのやるべきものは。ワイヤーではなく、テープで行こう」

テープレコーダーを発売する前はそこまで傑出していたわけではなかったようで、いろいろな仕事をしていました。

テープレコーダーは東通工の規模を急速に大きくした。 G型の試作機が開発された49年には従業員数87名、売上高3200万だったものが、G型が発売された50年には従業員115人、売上高9700万円、H型が発売された51年には従業員159人、売上高1億5500万円、H型よりさらに小型のP型(ポータブル用)が発売された52年には従業員214人、売上高3億4300万円となった。 つまり従業員は2.5倍、売上高は10倍となった。数字の表面だけをたどればかなり順調に見えるが、製品の開発・製造・改良のために雇った従業員はそれが終われば当面の仕事はなくなるし、開発・改良費を惜しみなく使ったので、東通工の財政にはいつも厳しいものがあった。

最初のブレイクスルーはテープレコーダー。

46年に二十数人で始めた東通工は、わずか六年間で300人近い従業員をかかえるようになっていた。テープレコーダーの開発のために多くの専門家も雇い入れている。その開発が一段落しかけているいま、彼らをどうやって食わせていったらいいのだろう? それができなければ彼らを首にしなければならない。しかし一生懸命に口説いて入社させた者ばかりだ、そんなひどいことはできない。 そう思いつめていたところへトランジスタの話が舞い込んだのだ。25000ドル(注:トランジスタ特許の使用料)という金額は当時の為替レートで900万円になる。サラリーマンの平均月給が1万円台の半ばだから、物価がおよそ20倍になっていると考えれば、現在の二億円に近い金額になる。

6年間で300人近い従業員、そして社運を賭けたこの特許の取得後、トランジスタラジオの開発には3年もかかっています。

この(注:トランジスタラジオTR-55)発売と軌を一にして東通工株の店頭公開が実現することとなり、それらを新聞記者など関係者に発表する一連の日程が決められた。55年7月下旬の暑い盛りだった。

なんと設立わずか9年で上場。トランジスタラジオの発売と同時。つまりほとんどテープレコーダーだけで上場。また上場時の従業員は400人程度。

TR-63(注:小型トランジスタラジオ)は東通工の売上げに大いに貢献した。輸出額の推移はこうである。
 55年 954万円
 56年 6408万円
 57年 3億2876年

海外売上も順調に拡大

トランジスタラジオの大成功に伴い東通工は凄まじい勢いで業容を拡大した。
 55年3月期には、
 売上高、3億5100万円
 利益、4700万円
 従業員、384名だったものが、
 4年後の59年3月期には、
 売上高、33億5000万円
 利益、3億9000万円
 従業員、2124名
 となっている。この4年間で売上高は10倍、利益は8倍、従業員数は5.5倍に急膨張した。

上場後の4年間で、売上10倍、利益8倍、従業員数5.5倍まで急拡大。

「海外要員を求む=SONY」59年秋、新聞にこんなキャッチフレーズの全面広告が掲載された。後世に語り継がれるのは「英語でタンカの切れる日本人を求む」というキャッチフレーズだが、それは翌年の求人広告だった。戦争で疲弊した日本経済は、50年から53年にかけての朝鮮戦争のお陰で急速に息を吹き返し、56年の『経済白書』は「もはや戦後ではない」と高らかに宣言し、間もなく高度成長期に足を踏み入れようとしていた。 海外で活躍できる。それは日本中の志ある若者の気持ちを捉えた。そうした若者が一人また一人と品川御殿山のソニー本社を目指した。

こういう雰囲気の中での海外進出。

「ゴミレターを整理してくれっていわれたんだが、ゴミレターって何ですかね?」 大河内が笑みを浮かべた。 「ご承知の通り、トランジスタラジオが飛ぶように売れていましてね。いま世界中の代理店希望者からインクワイアリー「照会状)が着ているんです。欧米関係のものは次々とはけるんだけど、中近東、アフリカなんてところの分は後回しになってどんんどん溜まっている。それをみんなゴミレターと呼んでいるんだ」

トランジスタラジオはその性能から世界中(アフリカ、中近東含む)から注文が殺到していました。

下巻に続きます

人間における勝負の研究―さわやかに勝ちたい人へ/米長邦雄

将棋棋士の米長邦雄氏による「勝負の研究」。すでに引退済みで、もう70近いはずなのですが、Twitterが話題になったりもしてますね。

ビジネスでは直接ライバルと対峙するということはあまりないわけですが、将棋では一対一の勝負しかありません。そういった中で長年、戦ってきた米長氏の勝負感が垣間見れて、非常に勉強になりました。

特にカンが、その人すべてを「しぼったエキス」であるという考え方や、勝負で勝つためには最善手のみを選択するのではなくて、相手にとって難しい手を打って泥沼に引きずり込む、というのはなるほどなぁと思いました。

30年くらい前の著作なんですが、まったく色褪せていなくて、おもしろかったです。

<抜粋>
・カンというのは自分が好きで必死で取り組んでいないと、働かないものです。嫌いな分野とか、やりたくないなと思っている仕事で、鋭いカンが働いたという話は聞いたことがありません。
・人間にとって大切なものは、努力とか根性とか教養とか、いろいろあります。しかし、一番大切なものはカンだ、と私は思っています。カンというのは、努力、知識、体験といった貴重なもののエキスだからです。その人の持っているすべてをしぼったエキスです。
・遊びが勝負のマイナスになるとは、私は信じません。ひと通りの遊びをしましたが、私の将棋にマイナスになったものはない。一歩ゆずって、最低の感想としても、自分が、それを罪悪感のようなものを抱きながらやった場合はマイナスになるかもしれないが、いわれのない罪悪感など持たなければ、マイナスになるはずがない、とだけは言えます。遊びこそ人生修行の課程の一つなのです。
・私は、難局になると、相手の側に立って考え、一番むずかしい手、一番結論の出しにくい手を指して、相手に手を渡すようにしています。手が広くて、わからなくなるような局面に導いていきます。いわば泥沼に引きずり込むわけです。 相手は困る。私だってわからない。そうすると、弱いほうは余計にわからないので、間違いやすくなる。そして、いっぺんに形勢を損なうのです。
・実戦では、必ずしも最善手ばかりを指せなくてもかまわないのだ、という「雑の精神」を言い換えますと、戦いというのは、相手にどこまでなら点数を与えても許されるのか、つまり許容範囲で捉えていく、という発想です。 要するに、決定的に負けになるとすればどこなのか、そういう感覚で、常に対局に臨めば、勝負はなんとかなる、という勝負感なのです。
・世の中に真実が一つしかない、人間のあるべき姿は一つしかないと考えるのはおかしい。将棋では「こう指しても一局」とよく言います。最善手は常に一手だけで、必ずそれを指すべきだと考えれば、誰も将棋は指せなくなる。世の中のことも、きっと同じでしょう。バランスが片一方に偏りすぎていると見た場合に、私は、少々極端に見えることを言うことがあるのは、何事にもバランスと許容範囲というものを大切にしたいからです。

P.S.昨夜、ZyngaはNasdaqに上場しました。私に関わりのあるすべての皆様に感謝いたします。