「当事者」の時代/佐々木俊尚

佐々木俊尚氏が日本の言論社会の構造に鋭い論考で切り込んでいます。新書で文章も平易なのですが、かなり骨太でいろいろと考えさせられます。

普通の人が知らないマスメディアと政府や警察、市民団体などの構図の裏側や、それがなぜそうなっているのかが非常に明快に描かれています。そして最後に、高度経済成長の終焉やインターネットの登場により、今後どのように言論空間が形成されていくのか考察されています。

明確な結論はないのですが、確かに、すべてのひとが「当事者」になる世の中で、どのように「当事者」として生きるかはすごく難しい問題です。結局のところ自分が「当事者」としてできることをやっていくしかない、ということなのですが、そこにはやはり自分がこうあるべきという哲学や世界観を込めていくことが重要なのかなと思います。

それにはいろいろな反発もあるでしょうけれども、よいものは徐々に受け入れられていくはずですし、そうやって選択されたもので形成される世の中が未来のよりよい世界になるということだと思っています。

<抜粋>
・「公」である<記者会見共同体>では、警察と記者の関係は対立構造にあることになっている。なぜなら新聞社やテレビ局は、警察当局という権力をチェックする機関であるというのが、建前であり、そこにはズブズブのなれ合いなどいっさい存在せず、つねに緊張関係にあるというのが公的な建前になっているからである。だから記者会見では、建前に沿ったかたちで警察は追求され、厳しい質問も多く飛ぶ。
・警察や検察、政府、自治体などの「当局」に確認を取っていない記事は、そうたやすくは新聞には掲載できない。なぜなら「誤報だ」「捏造だ」「取材がひどい」といったクレームが当事者から飛んできたときに、新聞社だけで全責任を負わなければならないからだ。
・これは実に便利なレトリックである。(中略)実際に大衆がどう考え、どう投票行動しているのかというリアルとはまったく無縁に、自分たちの好む「大衆」を主張してしまえるからだ。「大衆はそんな風に思っていないのでは?」と反論されたら、こう答えればいい。 「彼らはまだ覚醒していないんだ!」 無敵である。
・知識人は知識をつけて知的レベルを上げていけばいくほどに、もといた大衆社会とのつながりをなくしてしまい、自分の拠って立つ基盤を失ってしまうということなのだ。かといって大衆と同じレベルにそのまま居つづければ、革命を起こしていくような知性を持つことができない。これは宿命的な矛盾だ、と吉本(注:隆明)は指摘したのだった。
・ただ「路面電車の廃止が決まる」というだけの記事ではあまりにも素っ気ないし、鉄道会社の言い分をそのまま報じているようにしか思われない。新聞社としてはそこでバランスを取るべく、しかもそれを手っ取り早い方法で行うために、「市民から異論の声が」と運動体の抗議活動を取り上げて、とりあえず紙面的には一件落着とさせるのである。
・新聞記者が市民運動を嫌うのは、先ほども書いたように、マイノリティでしかない市民運動をまるでマジョリティであるかのように描き、単純構図に記事を押し込めてしまっているというジレンマがあるからだ。そしてこのジレンマに内心辟易しているところに、市民運動家が対等な目線で、時には上から目線で記者を見下ろしてくる。 これは記者にとっては、不快以外の何ものでもない。
・「この戦争は、イスラム教徒にとっての聖戦です。アメリカの支配に負けるわけにはいきません」 私はこのコメントをそのまま原稿に起こして、デスクに渡した。デスクは原稿を読んで「うー」とひとことうなり、そうしてこう言ったのだった。 「こういうのじゃなくてさあ、バグダッドの子どもが可哀想だとかそういうイラク人の声はないの?」
・神社のような永続的な建物はもともと日本の神道には存在せず、まつりのたびに人々はその場に神に降りてきてもらい、そこでさまざまな儀式を行なっていたのだ。今のような立派な神社の建物は、後世のものだ。仏教を納める巨大な寺院を建立するようになったことが神道に影響を与え、立派な社を生み出す結果になったのではないかとも言われている。
・幻想としての弱者の視点に立ち、「今の政治はダメだ」「自民党の一党独裁を打破すべし」と総中流社会のアウトサイドから、自民党や官僚という権力のインナーサークルを撃つ。その<マイノリティ憑依>ジャーナリズムはアウトサイドの視点を持っているがゆえに、総中流社会の内側にいる読者にとっては格好のエンターテインメントになる。 しかしウラの実態では、マスメディアはフィード型の隠れた関係性によって、自民党や官僚や警察当局と濃密な共同体を構築している。
・このような二重構造。そしてこの砂上の楼閣のような二重構造は、高度経済成長という右肩上がりに伸びていく社会で富がふんだんに増えつづけていたからこそ、持続を許されていた。
・マルクス主義に取って代わるような「皆が幸せになれるかもしれない」という幻想を支える政治思想など、もはや存在しない。いま語られているさまざまな政治思想ーーリバタリアニズムやコミュニタリアニズム、リベラリズムなどーーはずっとリアルで身も蓋もなく、すべての人が幸せになれるというような幻想は提供していないのだ。
・私があなたに「当事者であれ」と求めることはできない。なぜならそれは傍観者としての要求であるからだ。 だから私にできることは、私自身が本書で論考してきたことを実践し、私自身が当事者であることを求めていくということしかない。
・これは堂々めぐりのパラドックスにも聞こえる。しかしこの壁を乗り越えていかない限り、その先の道は用意されない。しかしその壁を乗り越える人は限られているし、乗り越えない人や乗り越えられない人に対して、誰も手を差し伸べることはできない。 なぜなら、誰にも他者に対して道筋を用意することはできないからだ。自分自身で当事者としての道を切り開けるものにのみ、道は拓かれる。
・だから私が今ここで言えるのは、ごくシンプルなことだけである。 ーーそれでも闘いつづけるしかない。そこに当事者としての立ち位置を取り戻した者がきっと、つぎの時代をつくるのだ。これは負け戦必至だが、負け戦であっても闘うことにのみ意味がある。 これは誰にも勧めない。しかし、私はそう信じているし、そう信じるしかないと考えている。
・その年の春に東日本大震災が起き、問題意識は「なぜマスメディア言論が時代に追いつけないのか」ということから大きくシフトし、「なぜ日本人社会の言論がこのような状況になってしまっているのか」という方向へと展開した。だから本書で描かれていることはマスメディア論ではなく、マスメディアもネットメディアも、さらには共同体における世話話メディアなども含めて日本人全体がつくり出しているメディア空間についての論考である。

起業GAME/ジェフリー・バスギャング

起業家としての成功経験もあり、その後ベンチャー・キャピタリストに転身したジェフリー・バスギャングが、起業家と投資家について豊富な経験から、実話を中心に重要ポイントについて語られています。両方の経験のある方は少ないので非常に貴重です。

僕自身、起業家としてすごく身に包まされるものもあったし、いま趣味でやっているエンジェル投資についてもすごく参考になる部分もあり、さらにVCとの関係においては、自分が恵まれていたがゆえに知らずにいた行動原理がすごく勉強になりました。

本書はタイトルがいまいちなためか、(アマゾンにレビューもなく)あまり知られていないようですが、本当にもったいないです。スタートアップの起業家はもちろん、投資家や関係者すべてにオススメです。

以下は印象に残ったパートを抜粋コメントにて。

CEOは、取締役会とかわした約束を守らず、大金を失い、納期の遅れを公表し、優秀な人材も容易に採用できない。あれこれと主張するも、結局はどれも現実に即していない。布石を打ってもピントがずれている。予算超過。取締役会なり金曜の午後に送るメールなりで、厄介な思いつきを提案する(にしても、なぜCEOが悪いニュースを伝えるのは決まって金曜の午後なのだろう?)。取締役の面々は少しずつ、不信感を募らせ、CEOへの信頼を失っていく。CEOが提供する情報はどれも、本当に正確なのかと疑いはじめる。 (中略)同時にCEOは、どんどん自分に非難が集中してくるように感じる。蜜月期間のときには、明確なビジョンをもった素晴らしい人物とほめたたえてくれていた取締役たちが、どうして四六時中自分を非難し続けるようになったのか、彼にはまるで理解できない。

これは本当にありがちで、起業家が思っている以上に投資家は約束に対しては敏感です。投資家は起業家が言ったことを覚えていて、もし約束通りに達成できなかったり、報告がなかったりすると、信頼感を失っていきます。お互いが不信感を持ってしまっては終わりです。しかし、実際のところほとんどの場合、約束を守れない起業家が悪いのであって、何かを変えなければいけないのは確かです。

多くの起業家は、助けを求めることを恐れ、実際に助けを求めているにもかかわらず、それを認めることをよしとしない。結局のところそういった面々が起業家になったのは、自分で自分のボスになるのが楽しいからであり、熱意はあるものの、自分たちのビジョン追求に固執しすぎるきらいがある。そんな彼らにとって、自分たちが助けを必要としている、そしてときには、たとえどんな状況であれ、自分たちが陥っているところから救い出してもらうために救命用具まで必要としている、ということを認めるのは容易ではない。

しかし、それは誇り高き多くの起業家にとっては非常に困難なことです。そのプライドこそが、成功のさまたげになってしまうことが多い気がします。しかし、プライドは絶対に必要です。プライドが高くなければ折れてしまうこともあり、このバランスがいいのが成功する起業家の条件になります。

(注:デイヴ)わたしが学ばなければならなかったのは、そういったことに対処するための、今までとは違うやり方でした。幸いわたしは、スポンジさながらなんでもどん欲に吸収していきましたから、最も聡明な人を引っ張ってきては、もろもろのやり方を教えてもらい、それを片っ端から実践していったのです。そうしているうちに、なにもかも自分ひとりで答えを出さなければいけないという思い込みを捨てられました。悟ったのです。自分が最も聡明な人間になる必要などない、と。

ここで成功する起業家は助けを求め、自らを変革する方向に動きます。これができるかが僕は最も重要なキーだと思っています。結局、会社というのはCEOの器の大きさまでしか大きくなりません。だから常にきついストレッチをしていく必要があります(それが自らの望む方向性と違う場合、CEOを連れてくるのが最良の道かもしれません)。

しかし、それでもスタートアップというのが世の中に変革をもたらすためにある以上、また、会社というのは、起業家だけのものではなく、投資家や従業員、そして顧客という関係者がいる以上、よりよいサービスを提供できる器にしていくことが求められています。

それらを理解した上で、それぞれの立場でスタートアップに関わっていく必要があるのです。

<抜粋>
・起業家は自信に満ちていなければならない。それは当然だが、当人だけが自信に満ちていても駄目なのである。起業家たるもの、他者にも自信を抱かせなければならず、それはまったく別種の挑戦なのだ。
・(注:リード・ホフマン)「ペイパルのおかげで、この先の人生をつつがなく暮らせるんです。子育てをはじめ、なにも心配はありません。つまりわたしは、“この先なにを悩むことがあるんだろう”といった状態だったのです。まあ、そんなことを言って結局は、いかにして世の中を大きく動かせるような影響力をもつかと頭を悩ませているだけですが。それと、思いたったんです。“いいか、おれには新たに巨大非営利団体をつくりあげられるほどの大金はない。あくまでも自分には充分な額を持っているだけだ。だったら、営利を追求しつつ、本当に世のため人のためになることをしたらだどうだ”ってね」
・リードは決して、儲けたかったわけでも目立ちたかったわけでもない。2008年の夏まで、彼が妻と住んでいたのは、寝室がふたつの小さなマンションだった。そしてリードは、洋服よりも書物を好む人物だ。「お金は大事ですよ、でしょう?」と彼も認めている。「お金があればいいものが手に入るし、他のことだって好きにできるんですから。でも、お金そのものが人生の意義じゃないんです。お金は確かに“きっかけ”ですが、わたしは別に、お金がほしいと思って朝起きるわけでもないし、お金がほしいから家に帰るわけでもありません。それは、もっと他のいろいろなことをさせてくれるものなのです。リンクトインそのものは、とてつもなく大きな影響をおよぼせますし、わたしに大金をもたらしてもくれるでしょう、なにか他のことに使えるお金を。そのなにかこそ、『自分がここにいるから、世の中はもっとよくなる』と胸を張って言えるものなのです」
・わたしは悟ったのだが、VCになるのと起業家精神を抱くのとでは、まったく異なる魅力があった。VCになれば、思いもかけなかった知的な経験をしたり、優れた新しいアイデアをもった素晴らしい人々を広く世に知らしめ、世界中にプラスの影響をおよぼす機会も得られる。また起業家に比べ、VCの方がはるかに浮き沈みもない。起業家だと、感情の起伏もジェットコースター並に激しく、ハイなときはとてつもなくハイだが(『天下をとるぞ!』)、落ち込むとどん底までいってしまう(『給料も払えず、倒産するぞ!』)。ところがVCは、とにかく仕事に感情をもち込まないーーわたしも、それに慣れるまでにはかなり時間を要した。
・「わたしが本当の意味でのベンチャー・ビジネス(注:投資側として)をはじめるまでには、少し時間がかかりました。最初の10年間は、自分のしていることがわかっていなかったような気がします」(中略)リード投資家として、ジャック・ドーシーのツイッターに最大の投資をおこなったのも彼だ。フレッドほど頭脳明晰にして有能な人物が、ものになるまでに10年を要したというのだから、凡人はどれくらいの時間がかかることか。
・わたしとしては、起業家にぜひおすすめしたいのだが、話し合いの席についてくれたVCには、パートナー間でのキャリーの配分がどうなっているのかをきいてみるといい。妥当な質問であり、パートナーシップのあり方や、だれがどの程度政策決定権を有しているのか、といったことに対するそのVCの本音が浮き彫りになってくるだろう。VCとていつも起業家に、創立チームの価値とプライオリティを理解する手段として、創立資産の分割法についてきいてくるではないか。つまりはお互いさま、というわけだ。
・VCへの売り込みの過程は、デートの約束をとりつけることに似ている。そんな意見を耳にしたことがあるが、わたしに言わせれば、むしろ自動車購入に近いと思う。たいていの人が、ひとりの相手と何度もデートを重ねてから、結婚にいたるだろう(少なくとも昔はそうだったし、わたしもそうだった)。しかし、車を購入する場合は同時進行だーー複数のディーラーと複数のブランドをチェックしてのち、購入にいたる。
・スタートアップ企業の取締役会には、公式および非公式の義務がある。取締役会の主要任務は、株主のためにエクイティ(株式)の価値をあげることであるのは明らかだ。要するに取締役会は、株主のエージェントだ。この役割において、かられが果たすべき重要な要因はふたつ。(情報に基づき、熱心かつ良識的におこなう)注意義務と(企業およびその株主の利益に貢献する)忠実義務だ。取締役会は、企業を経営するわけではない。経営するのはCEOだ。そして最上の起業家は、取締役会の面々が演じる、重要にして価値ある役割を認識したうえで、彼らが効率的に仕事をしていくうえで欠かせない透明性を提供する。
・CEOは、取締役会とかわした約束を守らず、大金を失い、納期の遅れを公表し、優秀な人材も容易に採用できない。あれこれと主張するも、結局はどれも現実に即していない。布石を打ってもピントがずれている。予算超過。取締役会なり金曜の午後に送るメールなりで、厄介な思いつきを提案する(にしても、なぜCEOが悪いニュースを伝えるのは決まって金曜の午後なのだろう?)。取締役の面々は少しずつ、不信感を募らせ、CEOへの信頼を失っていく。CEOが提供する情報はどれも、本当に正確なのかと疑いはじめる。 (中略)同時にCEOは、どんどん自分に非難が集中してくるように感じる。蜜月期間のときには、明確なビジョンをもった素晴らしい人物とほめたたえてくれていた取締役たちが、どうして四六時中自分を非難し続けるようになったのか、彼にはまるで理解できない。
・起業家がこうしたメロドラマを避ける最上の方法は、VCに素直かつ正直に向き合うことだ。同様にVCは、起業家の信頼を勝ち得ること。そうすればだれもが、この胸襟を開いた会話から同様に利益を得られるのだ。
・デイヴは、取締役会によってCEOを解任されるのではないかとの不安に苛まれだす。「『なにか問題が発生して、きっと仕事がうまくいかなくなるんだ。四半期の業績もよくないだろう。これをミスったら、あれがうまくできなかったら、ぼくはきっとお払い箱だ』朝から晩までそんなことばかり考えていたら、落ち込むのは容易ですから」デイヴの言葉は続く。「成功するには、そうした不安をとり除かなければなりません。『どうやったらこの仕事はうまくいくだろう?』その一点にのみ、考えを集中させなければならないのです」
・(注:デイヴ)わたしが学ばなければならなかったのは、そういったことに対処するための、今までとは違うやり方でした。幸いわたしは、スポンジさながらなんでもどん欲に吸収していきましたから、最も聡明な人を引っ張ってきては、もろもろのやり方を教えてもらい、それを片っ端から実践していったのです。そうしているうちに、なにもかも自分ひとりで答えを出さなければいけないという思い込みを捨てられました。悟ったのです。自分が最も聡明な人間になる必要などない、と。
・それが如実にわかるのは、起業家が、“自分こそ最も聡明だ”と証明すべくひとりで空回りしているときだ。起業家のそんな態度を目の当たりにしたVCや他の経営メンバーたちは、起業家が自分たちの率直なフィードバックに素直に耳を傾けようとしているとは決して思わない。むしろ、自分たちの頼りなさを必至に隠そうとしていると考えるだろう。
・多くの起業家は、助けを求めることを恐れ、実際に助けを求めているにもかかわらず、それを認めることをよしとしない。結局のところそういった面々が起業家になったのは、自分で自分のボスになるのが楽しいからであり、熱意はあるものの、自分たちのビジョン追求に固執しすぎるきらいがある。そんな彼らにとって、自分たちが助けを必要としている、そしてときには、たとえどんな状況であれ、自分たちが陥っているところから救い出してもらうために救命用具まで必要としている、ということを認めるのは用意ではない。
・(注:デイヴ)取締役会で突然新たな問題が浮上するというのはよくないことなので、あらかじめ取締役メンバーに連絡をして、正直に言うことが大切です。『こういう問題が発生しています。理由はこうです。お知恵を拝借したいのです。助けてください』と。そうすれば、取締役会の席上で『いったいなんの話をしているんだね?』などと言われることもないでしょう。
・時間というものに対する考え方が、VCと起業家では大きく異なるのだ。VCにとって、時間は友だちである。断をくださなければならないとき、時間をかければかけるほど、たくさんの情報も得られ、より質の高い判断ができると考えている。かたや起業家にとっては、時間は敵だ。起業家は、とてつもない切迫感を抱いているーーライバルに先んじなければ、一刻も早く顧客との約束を果たさなければ、資金が底をつくなか、なんとしても給料を工面しなければ、というわけだ。一方、投資先起業がどんな困った状況に陥ろうと、VCは、次の月曜には自分たちの快適なオフィスに戻って、マネジメント・フィーを徴収するのが常だ。たとえそれが企業活動を停止させたあとでも。
・ベンチャーの支援を受けたスタートアップ企業には、なにかしら魔法のようなものがある。外部の投資家が課してくる規律ゆえなのか、VCが取締役会にもたらす価値や経験のせいなのか、とにかくベンチャーの支援を受けたスタートアップ企業は、支援を受けていないベンチャーに比して、あらゆる点で勝っているのだ。「ベンチャー・キャピタルが投資をおこなって40〜50年になりますが、支援を受けている企業は依然として、民間セクターのほかの企業に比べ、2倍の事業成長率を示しています。これはどうしてなのでしょうか?」

ウィルゲート 逆境から生まれたチーム/小島 梨揮

ウィルゲートというインターネット系の会社を社長の小島氏が振り返った内容。起業から最悪の状況に陥って、劇的に回復するまでが描かれています。

僕の場合は金銭的にはここまできつくなかったのですが、危機においてどのようなミスや間違いを犯し、そしてどうやってそれに対応していったかという部分は非常に身につまされる部分があって、とても共感できました。

まさに僕も陥った罠が描かれていたので、そのいくつかを、抜粋コメント形式でご紹介します。

「うちの経営層は人の使い方も物事の伝え方も下手です。今回の制作部解散も伝え方が悪すぎるので、かなり社内に波紋を呼んでいます。はっきりいってマネジメントとしてはマイナス100点ですね。たぶん、今多くの社員間での社長・経営陣の人望は0点だと思います。」 <0点……ですか?>  日々会社のために忙しく動き回っている役員陣。 半日ゴルフに熱中したり、飲み歩いている経営者が世の中にいるなかで、愚直にそして必死にやっていた自分達の想いは、少なからずメンバーのみんなに伝わっているはずだと安直に思っていた私は、その言葉に思わず動揺を隠し切れませんでした。

がんばっていれば後ろ姿を見てくれるだろうという罠
もちろん見てくれているひともいるものですが、会社の雰囲気やモチベーションを形成するには自分が思っている以上に、真摯かつ丁寧に伝えていく必要があります。はっきりいって、どれだけの時間、自分や経営陣が仕事しているとか、周りの社長がどれだけ遊んでるか、はまったく関係ありません。起業は、がんばるだけでなんとかなるほど甘くないのです。

「だから言っただろ、合併とか資本政策とかテクニカルなこと、身の丈に合わないことをやるなって。経営はそんなに甘くないんだよ」 株主の方が聞いた噂のなかには、Aが流したと思われる事実無根のものもありました。しかし、それすらも自らの未熟さが招いた結果だとすれば、私は頭を下げることしか出来ませんでした。

自分で腹に落ちていないことをやる罠
会社というのは自分がよく分かってないのにうまく行くことはありえないです(ごく短期的にはありえます)。だから、尊敬するひとの素晴らしいアイデアによるアドバイスだとしても、そのひとなら経験豊富なためできても、自分には経験や能力不足でできない可能性もあります。僕もいろいろな方のアドバイスを取り入れたりしましたが、「そういうものかな」と思いながらやったことはすべて失敗しています。自分として完全に腹に落ちていない限りはやらない、というのが鉄則です。
※ただし、スタートアップの時期を過ぎてリソースも増えてきたら別かもしれません

<私は悪くない>と自分自身を守ってきた結果、私を救ってくれた2人や私や会社を本気で支えてくれた人達、強いてはお客様に多大な迷惑をかけてしまいました。 自分をかばうことに必死で、背負っている責任の重さに気付けなかったのです。 自分を守ることや自分の不幸に何の価値もなく、自分を守る暇があるのなら一刻も早く支えてくれた人達に恩を返さないといけない。危機的状況を脱して責任に応えないといけなかったのです。

自分は悪くないと思う罠
経営者というのは往々にして自分に自信があるから起業という成功率の低いことをやるわけですが、だからなかなか自分が悪かったことを認められません。しかし、会社がうまく行っていないならそれは100%社長が全部悪いです。この事実に真摯に向き合い、自分のダメな部分を徹底的に自己反省し、言動を変えていくこと。これができる社長だけが成功し、支えてくれた関係者の方に恩返しすることができます。

まとめると
・がんばっていれば後ろ姿を見てくれるだろうという罠
・自分で腹に落ちていないことをやる罠
・自分は悪くないと思う罠
これらは本当によく陥りやすいので、次に起業するときも気をつけようと思います。

それをお金で買いますか――市場主義の限界/マイケル・サンデル

「ハーバード白熱教室」などで有名なマイケル・サンデル氏の新作。実は、サンデルの書籍ははじめて読んだのですが、コミュニタリアンの思想がよく分かってすごく勉強になりました(ちなみに本人は否定しているらしいですが)。

確かに、サンデルのいうように過去30年間の行き過ぎた市場主義を何とかするために、市場主義ではなんともならない「善」や「腐敗」について徹底的に議論しなければならないというのは一理あると思います。

一方で、コミュニタリズムな解決が唯一の道なのか、という疑念は残ります。「善」というものは、時代によっても、場所によっても変わるものなわけで、その線引きに結局のところどのくらい妥当性があるのか、どうやっても正解に辿りつけないのではないか、という気もします。

例えば、学校がお金を得るために企業スポンサーの広告で溢れかえっているという話。広告がなく、よい教育を施す学校があれば、そちらを選びたいのが親だと思います。だから、日本でもアメリカでもいい学校のある学区に引っ越すというのが頻繁に起きてます。そういった地域は土地の値段もあがるし、所得が高いひとが移り住むのでますます教育へ回せる税金も増えます。

それでは貧しい人の子どもはいつまでたっても広告まみれの学校で学ばなければならないのか、それは「道徳的によくない」ので、禁止すべき、というのがサンデルの主張です。しかし、僕としては、確かに「道徳的によくない」かもしれないが、それでもそのお金でその他の部分の教育予算が増えるのであれば、うまく活用して、次の世代をより富ませられればいいのではないか、と思うのです。もし「道徳的によくない」からといって禁止してしまったら、教育にお金をかけられないことで、貧しい人の子どもも貧しいままになってしまいます。

そうすれば、全体として豊かになっていき、次の世代では企業スポンサーをつけなくてもよくなるかもしれません。

これは一例ですが、本書に出ている議論を呼ぶ事例も、本当にそうなんだろうか、と思うことがたびたびありました。僕は本質的にはリバタリアンで、将来に対して楽観的な方なので、そう感じるのかもしれませんが、もし間違っていたのならやめればいいと思うし、サンデルのいうような「後戻り不可能な」ケースというのは意外に少ないのではないかと思っています。また、本書には取り上げられない当時の道徳に照らしあわせて実験的な試みで、やってみたらすごくうまく行ったこともあるはずです。

人の道徳感というのはものすごく変わるので(例えば、「風と共に去りぬ」を読むと奴隷が当時どれだけ当たり前だったか分かります)、その時々の選択はコミュニティで徹底的に議論して決める、というのはすごくいいと思います。またその際に、市場的側面だけではなくて、「善」など市場に現れない側面を重視するのも、そのコミュニティが大切にするもので、合意が取れるならいいのではないでしょうか(しかし、個人的には「善」は最終的には市場的価値もあげると考えますが)。

しかし、本書で取り上げられているような新しい議論を呼ぶような実験的事例については、受けいられる可能性もあるだけに、自身の道徳観念で否定すべきではないのではないでしょうか。そういった中で失敗するものも多いと思いますが、であれば市場原理から退場させられるわけで、それで決定的に何かが失われるということはほとんどないのではないでしょうか(短期的に困ったことになるというのはありそうですが)。

もちろんやる時にも徹底的に考える前提ですが、後で徹底的に検証して、やめるならやめるし、間違ったところは正して行く。そしてそれを全世界各地でやっていく。それができるならば、よりよい世の中になっていくと思うのです。

正直言って、サンデルの思想には疑問も感じますが、多様な問題提起はすごく刺激になりましたし、問題の切り分けについては、思考整理法としてすごく勉強になりました。他の著作も読んでみようと思います。

<抜粋>
・すべてが売り物となる社会に向かっていることを心配するのはなぜだろうか。 理由は二つある。一つは不平等にかかわるもの、もう一つは腐敗にかかわるものだ。
・経済学者はよく、史上は自力では動けないし、取引の対象に影響を与えることもないと決めつける。だが、それは間違いだ。市場はその足跡を残す。ときとして、大切にすべき非市場的価値が、市場価値に押しのけられてしまうこともあるのだ。
・もちろん、大切にすべき価値とは何か、またそれはなぜかという点について、人々の意見は分かれる。したがって、お金で買うことが許されるものと許されないものを決めるには、社会・市民生活のさまざまな領域を律すべき価値は何かを決めなければならない。この問題をいかに考え抜くかが、本書のテーマである。
・経済学者にとって、財やサービスを手に入れるために長い行列をつくるのは無駄にして非効率であり、価格システムが需要と供給を調整しそこなった証拠である。空港、遊園地、高速道路で、お金を払ってよりはやいサービスを受けられるようにすれば、人々は自分の時間に値をつけられるので、経済効率が向上するのだ。
・HIVに感染している女性に40ドルを支払い、一種の長期避妊となる子宮内器具を装着してもらっているのだ。ケニヤと、次に進出予定の南アフリカでは、保護当局者と人権擁護者から怒りと反対の声があがっている。 市場の論理の観点からは、このプログラムが怒りを買う理由ははっきりしない。
・199年代、イヌイットの指導者たちは、カナダ政府にある提案を持ちかけた。イヌイットに割り当てられたセイウチを殺す権利の一部を、大物ハンターに売らせて欲しいというのだ。殺されるセイウチの数は変わらない。イヌイットはハンティング料を取り、トロフィーハンターのガイドを務め、獲物をしとめるのを監督し、従来どおり肉と皮を保存する。このシステムを使えば、現在の割当頭数はそのままで、貧しいコミュニティーの経済的福祉が改善されるはずだ。カナダ政府はそれを了承した。
・こうした経済学者的美観は、市場信仰をあおり、本来ふさわしくない場所にまで市場を広げてしまう。しかし、その比喩は誤解を招くおそれがある。利他心、寛容、連帯、市場精神は、使うと減るようなものではない。鍛えることによって発達し、強靭になる筋肉のようなものなのだ。市場主導の社会の欠点の一つは、こうした美徳を衰弱させてしまうことだ。公共生活を再建するために、われわれはもっと精力的に美徳を鍛える必要がある。
・「金融市場は信じがたいほど強力な情報収集装置であり、従来の手法よりもすぐれた予測をすることが多い」。彼らはアイオワ電子市場を例に挙げた。これはオンラインの先物市場で、数度の大統領選挙の結果を世論調査よりも正確に予測したのだ。別の例としてはオレンジジュースの先物市場があった。「濃縮オレンジジュースの先物市場は、気象局よりも正確にフロリダの天気を予測する」
・テロの先物市場が道徳的に複雑なものとなるのは、デスプールとは違い、それが善をなすとされているからだ。この先物市場がうまく機能するなら、そこから貴重な情報がもたらされる。
・(マネーボールについて)アスレチックスがプレーオフに進出したのは2006年が最後で、それ以降は一シーズンも優勝していない。公平を期すために言うと、これはマネーボールの失敗ではなく拡大のせいだ。
・さまざまな財や活動に関して、私が本書で一貫して言おうとしてきたポイントが、ここに表れている。つまり、市場の効率性を増すこと自体は美徳ではないということだ。真の問題は、あれやこれやの市場メカニズムを導入することによって、野球の善が増すのか減じるのかにある。これは野球だけでなく、われわれが生きる社会についても問うに値する問題なのだ。
・広告にふさわしい場所とふさわしくない場所を決めるのは、一方で所有権について、他方で公正さについて論じるだけでは不十分なのだ。われわれはまた、社会的慣行の意味と、それらが体現する善について論じなければならない。そして、その慣行が商業化によって堕落するかどうかを、それぞれのケースごとに問わなければならない。
・学校にはびこる商業化は、二つの面で腐敗を招く。第一に、企業が提供する教材の大半は偏見と歪曲だらけで、内容が浅薄だ。消費者同盟の調査によれば、驚くまでもないが、スポンサー提供の教材の80パーセント近くが、スポンサーの製品や観点に好意的だ。しかし、たとえ企業スポンサーが客観的で非の打ちどころのない品質の教育ツールを提供したとしても、教室の商業広告は有害な存在だ。なぜなら、学校の目的と相容れないからである。広告は、物をほしがり、欲望を満たすよう人を促す。教育は、欲望について批判的に考えたうえで、それを抑えたり強めたりするよう促す。広告の目的が消費者を惹きつけることであるのに対し、公立学校の目的は市民を育成することだ。
・市場や商業は触れた善の性質を変えてしまうことをひとたび理解すれば、われわれは、市場がふさわしい場所はどこで、ふさわしくない場所はどこかを問わざるをえない。そして、この問いに答えるには、善の意味と目的について、それらを支配すべき価値観についての熟議が欠かせない。
・そのような熟議は、良き生をめぐって対立する考え方に触れざるをえない。それは、われわれがときに踏み込むのを恐れる領域だ。われわれは不一致を恐れるあまり、みずからの道徳的・精神的信念を公の場に持ち出すのをためらう。だが、こうした問いに尻込みしたからといって、答えが出ないまま問いが放置されるわけではない。市場がわれわれの代わりに答えを出すだけだ。それが、過去30年の教訓である。