政治と経済の関係に新しい視点を持ち込む「国家はなぜ衰退するのか(下)」

上巻から続きます

本書の収奪的・包括的という定義が曖昧なのは確かだと思います。江戸時代は収奪的政治制度ではあったが、後の維新を起こす程度には経済的繁栄をしていたのも確かであるし、二元論的な部分は否めないと思います。

この種の悪循環の論理は、あとから考えるとわかりやすい。収奪的な政治制度のもとでは権力の行使に対する抑制がほとんどないため、前の独裁者を打倒し、国家の統治を引き継いだ人々による権力の行使と乱用を抑える制度は事実上皆無だ。また収奪的な経済制度のもとでは、権力を掌握し、他人の資産を搾取し、独占事業を設立するだけで、莫大な利益と富が得られることになる。

とはいえ、全体として収奪的政治制度の腐敗がエスカレートしやすいというのも事実だし、包括的政治制度がさまざまなステークスホルダーがいることで、一方的な収奪的経済制度になりにくいのは確かで、政治と経済の関係に新しい視点を持ち込んだという点で非常に意義深い著作だと思います。

僕は長年リバタリアンなのですが、本書を読むと、政治制度が経済的繁栄に非常に大きな影響力を持っていることがよく分かって、少し考えなければならないなと思いました。

日本は現在、包括的な政治制度を持ち、それにより包括的な経済制度を持っているため、あまり政治の重要性について考えてきませんでした。世の中では財産権や下手すると法の下の平等すら持っていない国もたくさん存在します。そしてそれが決定的に経済的繁栄を阻んでいるということがよく分かりました。

1990年代を通じて、外国からの投資が中国に流れ込み、国営企業の拡大が促進されてもなお、民間企業は疑いの目で見られ、多数の起業家が資産を没収され、投獄さえされた。

では日本はどうでしょうか。民主主義では多くのことが決められなくなっているし、国家が機能しなくなっているのは先進国全般でよく言われています。しかし、この収奪的政治制度と包括的政治制度という関係性で言えば、確かに日本では高齢層が若年層を収奪したり、特定の利益団体が収奪している部分は多少あるにせよ、どこかが権力を掌握し一方的に収奪しているわけではなく、また今後もそうなる可能性は低そうです。

現代において国家が衰退するのは、国民が貯蓄、投資、革新をするのに必要なインセンティヴが収奪的経済制度のせいで生み出されないからだ。収奪的な政治制度が、搾取の恩恵を受けるものの力を強固にすることで、そうした経済制度を支える。

しかし成長戦略を描くという意味で言うと、様々な利益団体のロビイングから来る足の引っ張り合いからなかなか方向性を保ちづらい。一方で、この状態は戦前の日本やナチス時代のドイツを考えると、揺り戻しがあって特定グループが収奪的制度を打ち立てるよりはましと考えることができそうです。

大評議会は政治の閉鎖を実行すると、続いて経済の閉鎖に取りかかった。収奪的な政治制度への転換に続き、今度は収奪的な経済制度への移行が始まろうとしていた。最も重要なのは、ヴェネツィアを裕福にした偉大な制度的イノヴェーションの一つ、コメンダ契約が利用を禁じられたことだ。それは意外なことではない。コメンダは新興商人に有利に働いたが、いまや既存のエリートが彼らを締め出そうとしていたのだ。

よって、個人的には依然としてリバタリアンで構わないが、政治の決定的な岐路に立たされた場合は政治に関与すること、もしくは国外に出ることを検討する必要がありそうです。

<抜粋>
・こうした奴隷貿易が行われていたため、あらゆる刑罰が奴隷にされることに変わっている。こうした断罪には利点があった。犯罪者を売って利益を手にしようと、人々が鵜の目鷹の目で犯罪を見つけようとするからだ。
アフリカが産業革命の入り口にいないことは確かだったが、真の変化は進行していた。土地の私的所有によって部族長の力は弱まり、新しい人々が土地を買って富を築けるようになった。ほんの数十年前には考えられなかったことだ。このことからわかるのは、収奪的制度と絶対主義的な支配体制が弱体化すれば、あっというまに新たな経済的活力が湧いてくるということだ。
フランス革命の指導者とその後に続いたナポレオンは、こうした地域に革命を輸出することによって、絶対主義を破壊し、封建的な土地関係を終わらせ、ギルドを廃止し、法の下の平等を強いた。(中略)フランス革命はこうして、フランスだけでなくヨーロッパのほかの地域に、包括的制度とそれが促進する経済成長に向けて準備をさせたのだ。
・当初に何度か敗北を喫したあとで、新フランス共和国軍は初期の防衛戦で勝利を収めた。軍の組織について克服しなければならない深刻な問題はあったものの、フランスはある重要なイノヴェーションで他国に先んじていた。すなわち、徴兵制である。1793年8月に導入されたこの制度のおかげで、フランスは大規模な軍隊を編成できたし、ナポレオンの名高い軍術が登場する前においてさえ、最強と言ってもよいような軍事的優位性を確立できたのだ。
・19世紀半ばには、フランスの支配下にあったほぼあらゆる地域で工業化が急速に進展したのに対し、フランスに征服されなかったオーストリア・ハンガリー帝国やロシア、フランスの支配が一時的で限定的だったポーランドやスペインなどでは、概して停滞したのである。
・歴史的視点から考えてみると、法の支配はかなり奇妙な概念である。法がすべての人に等しく適用されねばならないのは、なぜだろうか? 王や貴族が政治権力を持ち、それ以外の人が持たないのであれば、何であれ王や貴族にとって許されることが、それ以外の人には禁止され処罰の対象となるのは至極当然だ。実際、絶対主義的な政治制度のもとでは法の支配など考えられない。それは、多元的な政治制度とそうした多元性を支える広範な連合から生み出されるものなのだ。
包括的な政治制度のおかげで自由なメディアが栄えると、今度は自由なメディアのおかげで包括的な経済制度や政治制度に対する脅威が広く知らしめられ、阻止されるケースが多くなる。
・国際社会は、植民地独立後のアフリカが、国家計画の推進と民間セクターの開拓によって経済成長を実現するものと思っていた。しかしそこには民間セクターなどなかったーー農村地域を除いては。農村地域は新しい政府に代表を派遣できなかったため、真っ先に餌食となったのだ。いちばん大事なことは、こうした例の大半で、権力にしがみついていれば莫大な利益が得られたということだろう。
・この種の悪循環の論理は、あとから考えるとわかりやすい。収奪的な政治制度のもとでは権力の行使に対する抑制がほとんどないため、前の独裁者を打倒し、国家の統治を引き継いだ人々による権力の行使と乱用を抑える制度は事実上皆無だ。また収奪的な経済制度のもとでは、権力を掌握し、他人の資産を搾取し、独占事業を設立するだけで、莫大な利益と富が得られることになる。
・現代において国家が衰退するのは、国民が貯蓄、投資、革新をするのに必要なインセンティヴが収奪的経済制度のせいで生み出されないからだ。収奪的な政治制度が、搾取の恩恵を受けるものの力を強固にすることで、そうした経済制度を支える。
・2001年12月1日、政府はあらゆる銀行預金口座をまずは90日間、凍結した。週単位で少額の現金の引き出しが許されただけだった。引出限度額は当初、まだ250ドルに相当した250ペソで、後に300ペソになった。だが、引き出しが許されたのはペソ預金だけだった。ドル預金口座からの引き出しは、ドルのペソへの交換に同意しない限り誰にも許されなかった。
・翌年1月、ついに切り下げが実施され、もはや1ペソは1ドルではなく、まもなく4ペソが1ドルとなった。ドルで預金するべきだと考えた人の正しさが、これで証明されるはずだった。ところが、そうはならなかった。政府が銀行のドル預金をすべて強制的にペソに換えたものの、交換レートを旧来の一対一としたからだ。(中略)政府が国民の預金の4分の3を取り上げたのだ。
2009年11月、北朝鮮政府は経済学者が言うところの通貨改革を実施した。何人も10万ウォンを超える金額の交換はできないと、政府が発表した。ただし、上限額はその後、50万ウォンに緩和された。10万ウォンは闇市場の為替レートではおよそ40ドルだった。北朝鮮政府は国民の私有資産のかなりの部分を一気に消し去った。
・肝心なのは収奪的制度下の成長が持続しないことで、それには主な理由が二つある。一つ目は、持続的経済成長にはイノヴェーションが必要で、イノヴェーションは創造的破壊と切り離せないことだ。創造的破壊は経済界に新旧交代を引き起こすとともに、正解の確立された力関係を不安定にする。収奪的制度を支配するエリートたちは創造的破壊を恐れて抵抗するため、収奪的制度化で芽生えるどんな成長も、結局は短命におわる。二つ目の理由は、収奪的制度を支配する層が社会の大部分を犠牲にして莫大な利益を得ることが可能であれば、収奪的制度化の政治権力は垂涎の的となり、それを手に入れようとして多くの集団や個人が闘うことだ。その結果、強い力が働いて、収奪的制度下の社会は政治的に不安定になっていく。
いくつかの歴史的転換点がなければ、西欧諸国がいち早く台頭して世界を征服することはありえなかった。こうした転換点となったのは以下のような要因だった。封建制度が独自の道筋をたどって奴隷制度に取って代わり、やがて君主の権力を弱めるに至ったこと、西暦1000年代に入ってから数世紀間に、ヨーロッパで商業上の自治を保つ独立した都市が発展したこと。明朝の中国皇帝とは異なり、ヨーロッパの君主が海外貿易を脅威と受け取らず、その結果、妨げようとしなかったこと、封建秩序の基礎を揺るがしたペストの到来。そうした出来事が違う展開をしていれば、私達がこんにち住むのは現在の世界とはかけ離れた世界、ペルーが西欧や合衆国より豊かな世界だったかもしれない。
・1990年代を通じて、外国からの投資が中国に流れ込み、国営企業の拡大が促進されてもなお、民間企業は疑いの目で見られ、多数の起業家が資産を没収され、投獄さえされた。
・ドイツも日本も、20世紀前半には世界でも指折りの豊かな工業国であり、国民の教育水準は比較的高かった。それでも、国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)の台頭や、日本の軍国主義体制が戦争を通じたろう度拡大に熱中するのを妨げず、政治面でも経済面でも、収奪的制度に急転回することになった。
市場の失敗を減らし経済成長を促す政策を採択するうえでの最大の障害は政治家の無知ではなく、その社会の政治・経済制度から生じるインセンティヴと規制だという事実だ。それにもかかわらず、無知説は欧米の政策立案者のあいだで幅を利かせ、彼らはほかの方法はそっちのけで繁栄をいかに設計するかにもっぱら関心を寄せている。

政治と経済の関係に新しい視点を持ち込む「国家はなぜ衰退するのか(上)」

今まで数々の人々が何が国家の繁栄と没落を決めるのかという説を唱えてきています。

暑い国は本質的に貧しいのだという理論は、シンガポール、マレーシア、ボツアナといった国々の最近の急速な経済発展と矛盾するものにもかかわらず、依然として一部の人々によって強く提唱されている。経済学者のジェフリー・サックスもその一人だ。

(ジャレド・)ダイアモンドの見解に従うと、インカ人があらゆる動植物種と、結果として生じる自力では発展させられなかったテクノロジーにいったん触れたあとは、あっというまにスペイン人に並ぶ生活水準を獲得しなければおかしい。

マックス・ウェーバーのプロテスタントの論理はどうだろうか。オランダやイングランドのようにプロテスタントを主とする国家が、近代において最初の経済的成功を収めたことは事実かもしれない。(中略)東に目を向ければ、東アジアで経済的成功を収めた国々は、どんなキリスト教とも無関係だとわかるだろう。

本書は、ジェフリー・サックスやジャレド・ダイアモンド、マックス・ウェーバーなどの説を真っ向から否定し、収奪的社会と包括的社会という観点から、すべてを捉え直す意欲作です。

大半の経済学者や政策立案者は「正しく行う」ことに焦点を合わせてきたが、本当に必要なのは貧しい国が「間違いを犯す」理由を説明することである。間違いを犯すことは、無知や文化とはほとんど関係がない。のちほど述べるように、貧しい国が貧しいのは、権力を握っている人々が貧困を生み出す選択をするからなのだ。彼らが間違いを犯すのは、誤解や無知のせいではなく、故意なのである。これを理解するには、経済学や、最善策に関する専門家の助言を乗り越え、代わりに、現実に決定がいかにされるのか、決定に携わるのは誰か、その人たちがそうすると決めるのはなぜかを研究しなければならない。これは、政治と政治的プロセスの研究である。伝統的に、経済学は政治を無視してきたが、政治を理解することは、世界の不平等を説明するのにきわめて重要である

要するに、「ある国が貧しいか裕福かを決めるのに重要な役割を果たすのは経済制度だが、国がどんな経済制度を持つかを決めるのは政治と政治制度」ということになり、またその収奪的制度と包括的制度、それぞれの強いフィードバック効果から双方への移行が非常に難しいとしています。

肝心なのは収奪的制度下の成長が持続しないことで、それには主な理由が二つある。一つ目は、持続的経済成長にはイノヴェーションが必要で、イノヴェーションは創造的破壊と切り離せないことだ。創造的破壊は経済界に新旧交代を引き起こすとともに、正解の確立された力関係を不安定にする。収奪的制度を支配するエリートたちは創造的破壊を恐れて抵抗するため、収奪的制度化で芽生えるどんな成長も、結局は短命におわる。二つ目の理由は、収奪的制度を支配する層が社会の大部分を犠牲にして莫大な利益を得ることが可能であれば、収奪的制度化の政治権力は垂涎の的となり、それを手に入れようとして多くの集団や個人が闘うことだ。その結果、強い力が働いて、収奪的制度下の社会は政治的に不安定になっていく。

一方で、第二次世界大戦後のソ連など一時的に急速な経済的成長をしたとしても収奪的制度下では持続的成長ができないとし、例えば現在の中国がまさにそれに当たるとして、包括的政治制度に移行しなければ成長は持続できないと主張しています。

紹介だけで長くなってしまったので、下巻の方でこれらについて考えてみたいと思います。

<抜粋>
・カルロス・スリムを現在の姿にした経済制度は、合衆国のそれとは大きく異なっている。あなたがメキシコの起業家だとすれば、キャリアのあらゆるステージで参入障壁がきわめて重要な役割を演じるはずだ。
・スリムがメキシコ経済において財を築いたのは、もっぱら政治的なコネのおかげだった。彼が合衆国に進出して成功したことはないのだ。1999年、スリム参加のグルポ・コルソはコンピューター小売企業のコンプUSAを買収した。(中略)「この評決のメッセージは、このグローバル経済において、企業が合衆国に来たければ合衆国のルールを尊重しなければならないということです」
こうした起業家は最初から、自分たちの夢のプロジェクトが実行可能であることを確信していた。制度とそれが生み出す法の支配を信頼していたし、財産権の安全を心配していなかった。最後に、政治制度によって安定性と継続性が保証されていた。
・本書が示すのは、ある国が貧しいか裕福かを決めるのに重要な役割を果たすのは経済制度だが、国がどんな経済制度を持つかを決めるのは政治と政治制度だということだ。
・暑い国は本質的に貧しいのだという理論は、シンガポール、マレーシア、ボツアナといった国々の最近の急速な経済発展と矛盾するものにもかかわらず、依然として一部の人々によって強く提唱されている。経済学者のジェフリー・サックスもその一人だ。
・気候や病気、あるいはなんらかの地理説によって、世界の不平等を説明することはできない。ノガレスを考えてみるといい。二つのノガレスを分かつのは、気候、地理、病気などにかかわる環境ではない。そうではなく、合衆国とメキシコの国境なのだ。
・(ジャレド・)ダイアモンドの見解に従うと、インカ人があらゆる動植物種と、結果として生じる自力では発展させられなかったテクノロジーにいったん触れたあとは、あっというまにスペイン人に並ぶ生活水準を獲得しなければおかしい。
・ダイヤモンド自身も指摘するように、中国とインドはきわめて豊富な動植物群に恵まれていたし、ユーラシア大陸の指向性も大いなる味方だった。ところがこんにち、世界の貧しい人々の大半がこの二つの国で暮らしているのである。
・二つのノガレスを、あるいは北朝鮮と韓国を分断する文化的相違は、反映の違いの原因ではなく、むしろ帰結なのである。
・マックス・ウェーバーのプロテスタントの論理はどうだろうか。オランダやイングランドのようにプロテスタントを主とする国家が、近代において最初の経済的成功を収めたことは事実かもしれない。(中略)東に目を向ければ、東アジアで経済的成功を収めた国々は、どんなキリスト教とも無関係だとわかるだろう。
われわれはこう主張する。世界の不平等を理解するには、一部の社会がきわめて非効率かつ望ましくない仕方で構築されるのはなぜかを理解しなければならない、と。
・大半の経済学者や政策立案者は「正しく行う」ことに焦点を合わせてきたが、本当に必要なのは貧しい国が「間違いを犯す」理由を説明することである。間違いを犯すことは、無知や文化とはほとんど関係がない。のちほど述べるように、貧しい国が貧しいのは、権力を握っている人々が貧困を生み出す選択をするからなのだ。彼らが間違いを犯すのは、誤解や無知のせいではなく、故意なのである。これを理解するには、経済学や、最善策に関する専門家の助言を乗り越え、代わりに、現実に決定がいかにされるのか、決定に携わるのは誰か、その人たちがそうすると決めるのはなぜかを研究しなければならない。これは、政治と政治的プロセスの研究である。伝統的に、経済学は政治を無視してきたが、政治を理解することは、世界の不平等を説明するのにきわめて重要である。
政治とは、社会がみずからを統治するルールを運ぶプロセスである。
・絶頂期のソ連のように、中国は急成長を遂げているが、依然として収奪的な制度、国家の支配のもとでの成長であり、包括的な政治制度への移行の兆しはほとんど見られない。
・収奪的な制度がなんらかの成長を生み出せるとしても、持続的な経済成長を生み出すことは通常ないし、創造的破壊を伴うような成長を生み出すことは決してない。
産業革命が名誉革命の数十年後にイングランドで始まったのは偶然ではない。(中略)偉大な発明家は、自分のアイデアから生じた経済的機会をとらえることができたし、自分の財産権が守られることを確信していた。また、自分のイノヴェーションの成果を売ったり使わせたりすることで利益をあげられる市場を利用できた。
こうした決定的な岐路が重要なのは、収奪的な政治制度と経済制度が協働し、相互に支え合う結果、着実な改革を強く阻害するからだ。このフィードバック・ループのしつこさが悪循環を引き起こす。
・(ソ連において)1928年から1960年にかけて、国民所得は年に6パーセント成長した。これは、それまでの歴史においておそらく最もめざましい経済成長だったはずだ。この急速な経済成長を実現したのは、技術的変化ではなかった。そうではなく、労働力の再配分および、新しい工作機械や工場の親切による資本蓄積だったのだ。
成長はきわめて早かったため、リンカーン・ステフェンズのみならず、数世代にわたる欧米人がだまされた。合衆国のCIAもだまされた。ソ連自身の指導者すらだまされた。
・1940年代までに、ソ連の指導者たちはこれらの無意味なインセンティヴをはっきりと認識していたーー彼らはを賛美する西側の人々は別として、ソ連の指導者たちは、そうしたインセンティヴが生じる原因は技術的問題であり、解決可能であるかのように行動した。
・成長は政府の指揮によるものであり、おかげで一部の基本的な経済問題は解決された。しかし、持続的な経済成長を促すには、個々人が才能やアイデアを活用する必要があったのに、ソ連式の経済制度を捨てなければならなかったはずだが、そんなことをすれば自分たちの政治権力を危険にさらすことになっただろう。実際、1987年以降にミハイル・ゴルバチョフが収奪的な経済制度からの脱却をはじめると、共産党は力を失い、それと同時にソ連は崩壊したのである。
・大評議会は政治の閉鎖を実行すると、続いて経済の閉鎖に取りかかった。収奪的な政治制度への転換に続き、今度は収奪的な経済制度への移行が始まろうとしていた。最も重要なのは、ヴェネツィアを裕福にした偉大な制度的イノヴェーションの一つ、コメンダ契約が利用を禁じられたことだ。それは意外なことではない。コメンダは新興商人に有利に働いたが、いまや既存のエリートが彼らを締め出そうとしていたのだ。
・ローマは共和国期に堂々たる帝国を築き上げ、遠距離の貿易や輸送を盛んに行なったにもかかわらず、ローマ経済の大半は収奪を基盤としていた。共和国から帝国への移行は収奪の比重を増し、最終的には、マヤ族の都市国家に見られたような内紛、政情不安、崩壊を招いたのである。
ローマの成長が持続する可能性はなかった。包括的な面と収奪的な面を併せもつ制度のもとで起こったからだ。ローマ市民は政治的・経済的権利を手にしていたが、奴隷制は広く普及し、きわめて収奪的だった。そして、元老院議員階級のエリートが政治と経済を牛耳っていた。
・きわめて絶対主義的なオスマン帝国の制度を考えれば、スルタンが印刷機に敵意を抱いていたのも理解できる。書物を通じてさまざまな考え方が広まれば、民衆を支配するのがずっと難しくなる。
・第二に、(オーストラリア・ハンガリー帝国の)フランツは鉄道の敷設に反対した。鉄道は産業革命とともに出現した重要な新技術の一つだった。北部鉄道の建設計画を提示されたとき、彼はこう言った。「いかん、いかん、鉄道などごめんだ。革命がこの国に入り込んでくるかもしれないではないか」
・(中国では)この禁止令は18世紀になっても定期的に出され、海外交易の芽を効果的に摘み取った。なかには交易を発展させた者もいた。だが、皇帝の気がいつなんどき変わって交易を禁じられるかわからず、船、設備、交易関係に投資したところで無駄どころかもっとひどいことになるかもしれないというのに、わざわざ投資しようという者はほとんどいなかった。