ケータイ小説的。----"再ヤンキー化"時代の少女たち
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「自分探しが止まらない」の著者が、ケータイ小説はなぜこんなにも売れるのか、内容に地名が出てこなかったり、出てくる車は国産車ばかりなのか、サラリーマンがほとんどいないのはなぜか、のは社会学的に分析している評論。ヤンキー文化や浜崎あゆみ、DVやアダルトチルドレン、地元重視の志向性などから、なぜ今の若い人(主に中高生)にとって、ケータイ小説を「リアル」に感じるのかを論じていて、非常におもしろいです。
<抜粋>
・ケータイ小説に「東京が出てこない」と言い切った意味の中には、物理的に東京の描写が出てこないだけに留まらず、あこがれの場所としての東京、つまり進学や就職先としての東京も描かれないということも含まれている。(中略)まるで上京という概念自体がこの世に存在していないかのように思われるほどだ。
・ローカルな走り屋的な価値観によって渋いと定められた旧車を中心とした国産車しか登場しないこの作品(注:『頭文字D』)において、茂木なつきの援交相手が乗っているクルマはメルセデス・ベンツなのだ。これは『頭文字D』という作品内において、唯一登場した外国車である。
・つまり、携帯電話の腐朽が、郊外化という現代の兆候に変化を与えているのだ。大きな流れで言えば、宮台が指摘するように「大きな物語」が消滅し、共同体は解体され、郊外は流動化するという流れは否定できないものであるだろう。しかし、一方で新しい「地元つながり」が維持され、再生産されるベクトルも生まれているのだ。
・ネット文化圏はヤンキーに関しては頭から否定する向きが強いが、彼らを「DQN」即ち「頭の悪そうな暴力的な感じの人」と悪意を込めて呼ぶのは、必ずしもかつてDQNにいじめられたというルサンチマンから来ているというわけでもないのだろう。ネット文化圏で声が大きく主張が通りやすいのは、アニメやゲームといった元々「子ども文化」であるものを大人になっても消費し続けることにアイデンティティを見出すオタク層である。彼らは、「早く成熟したい」とは逆に、「いつまでも子どものままでいたい」というメンタリティと親和性が高く、当然立場としてはヤンキーと相反する存在なのだ。
・尾崎の1980年代には反抗すべき敵として、権威や大人の社会が存在したのだが、浜崎の1990年代においては、敵は社会ではなく自分の内面であるという具合に変化したのである。現代のヤンキーとは社会に反抗する存在ではないのだ。これはケータイ小説が、学校を舞台としながらも、一切それが反抗の対象として描かれていないことともつながっているのではないだろうか。
・携帯メール、束縛、暴力、セックス、またメール・・・・。ケータイ小説の登場人物たちは、常に携帯メール依存的な「つながること」へのアディクションと、濃密なコミュニケーションからの逃避としてのセックスを繰り返す日常を過ごしているように見える。その間をつなぐ、感情の交換や価値観のせめぎ合いのようなものは、基本的に欠如しているのだ。「つながること」だけに重きを置く恋愛像とは、ケータイ小説における恋愛像そのものなのだ。
