失敗続きのヤフーの歴史「FAILING FAST」

表紙からしてマリッサ・メイヤー後のヤフーの話かと思いきや、ヤフー全体の歴史を丁寧に描いてありかなり骨太な一冊です。
※ヤフージャパンではなく米Yahoo! Incの話

初期は成功の歴史なのですが、直近10年位はまさに迷走。イーベイ、グーグル、フェイスブックを買収しそこね。CEO含め幹部選定にミスを続け、出資したアリババ株の値上がりになんとか助けられながら生きながらえている様が描かれています。

マリッサ・メイヤーも最初は周囲の期待感が溢れていた模様も描かれていますが、その後はコテンパンにされています。

ヤフーにとって、彼らは期待に値する人物だった。しかし、全員が敗北した。  メイヤーも同じ運命をたどるのかもしれない。  結局のところ、ヤフーが成功できたのは、世界に一瞬しか存在しない問題を解決したからだ。初期のインターネットは使うのが難しかった。ヤフーがインターネットを簡単にした。ヤフーがインターネットだった。しかし、インターネットが普及し、大きな資金が集まるようになり、問題の解決法も増えるにしたがい、ヤフーの必要性が消えていった。「ほかの誰かができないことをする」という存在意義がなくなり、新しい目的が見つからなかった。

もちろん一方的な見方だと思いつつ読みましたが、結局のところ結果が出てないわけなので、このように書かれてもしょうがない。ジョブズやイーロン・マスクが、本書でマリッサが持っているような特徴を持っているように見えていても、描かれ方はまったく違います。

他のこういったベンチャーを追いかけたドキュメンタリーは基本的に肯定的に描かれており、成功物語ですが、本書はまさに失敗談の連続。悪戦苦闘の歴史であり、シリコンバレーのトップ経営者や取締役、投資家も時には盛大に間違えているのだなと思いました。

今も間違え続けているかは今後のヤフーの業績によります。今後を見守りたいと思います。

<抜粋>
・一九九八年時点で、ベンチャー投資家によるスタートアップへの出資額は合計二二七億ドル、その大半がドットコム企業に投資された。一九九九年にはその数は倍を超え、五六九億ドルだったと言われている。その多くのケースで、投資家からスタートアップに流れた資金は、そのままヤフーかヤフーのライバル企業の懐に入った。
・二〇〇〇年の一〇月、マレットも状況を把握した。彼のマシン──四〇〇のポッドと一〇〇を超えるバーチャル・セブンからなる巨大なシステム──は危機にさらされている。ヨセミテ国立公園内の別荘で、マレットは経営陣に話した。ヤフーはビジネスの方法を変える必要がある。スタートアップから搾取するよりも持続可能なビジネスを見つけなければならない。広告主の扱いも改善する必要がある、と。  彼の言うことは正しかった。しかし、気づくのが遅すぎた。
・マレットが選ばれなかったのには、三つの理由があった。マレット本人にはどうしようもないものばかりだ。  第一に、彼の年齢。モリッツとヤンはより年配のCEOを求めていた。大企業の経営経験をもち、ウォール街に信頼される誰かを。二〇〇一年の二月時点で、マレットはまだ三六歳だった。四〇歳にも満たないCEOがヤフーを救えるとは思えない。 二つ目の理由は彼の野心、彼の権力欲だ。一九九九年、ヤフーはインターネットオークションで名を馳せたスタートアップ、イーベイを買収する寸前にあった。イーベイとヤフーの取締役会は合併で合意していたにもかかわらず、この話はご破算となった。マレットがイーベイのCEOメグ・ホイットマンに、クーグルではなく、自分の直属の部下になるよう要求したからだ。また、ヤンとクーグルに対し自分以上の影響力をもちそうな幹部に敵対心を燃やし、彼らが社を去るまで執拗に攻撃を加えるといったうわさもあった。彼に二〇代半ばにして巨額の富をもたらし、一二八〇億ドル企業のナンバー2の座に押し上げる原動力となった競争心が、彼の悲劇の原因となったのである。 そして、マレットがCEOになれなかった三つ目の──悲しい──理由は、彼の身長にあった。マレットは背が低い。ヤフー本社を訪れる他社の上級幹部が会議室で待つ彼を見ても、コーヒーでもいれにきた研修生か何かだと勘違いするのだ。マレット自身、彼らがそう考えていることに気づいていた。声に出して言うことはないが、ヤフーの役員たちは「もっと立派な体格の人物が必要だ」と考えていたのは明らかだ。だから、スパーキーをCEOにするわけにはいかない。
・セメルとの出会いは、ヤフーにとって一種のカルチャーショックだった。クーグルと違い、セメルのキュービクルに気楽に入る気にはなれない。セメルは社内を歩き回ることもしない。会議室を自分のオフィスにしてしまった。メールを書いたことも、ヤフーを利用したこともないといううわさだ。クーグルがヤフー本社近くの部屋一つしかないアパートに住み続けたのと違い、セメルはロサンゼルスの高級マンションに住んでいる。毎週のように、ビジネスジェット「ガルフストリーム」に乗って仕事をしている。街ではサンフランシスコのフォーシーズンズホテルで食事をして、毎日レンジローバーの後部座席に座ってオフィスにやってくる。
・ただし、セメルがヤフーから高給を得ていたわけではない。クーグルと同じで、年俸三一万ドルだった。しかし、ストックオプション(自社株購入権)はよこせと要求した。権利を得た彼は、一〇〇〇万株(同社の二パーセント)を一七・六二ドルから七五ドルのあいだで購入した。それだけではない。セメルは自腹を切って一般の市場でもヤフー株式一〇〇万株を一七〇〇万ドルで購入した。彼にとっては安い買い物だった。なにしろ、ヤフーの時価総額は一年間で九〇パーセント──一二八〇億ドルから一二六億に──価値を落としたばかりだ。  彼の考えはこうだった。もしヤフーの縮小を止め、再び堅実なペースで成長させることに成功すれば、彼はのちに想像もできないほどの額の資産を手に入れるだろう。  言い換えると、もしセメルがヤフーの再生に失敗すれば、彼は財産を失うだけでなく、ハリウッドとヤフーの重鎮に、自分はやはり年老いたレトロ人間であったことを証明してしまう。映画業界を離れるべきではなかったと、誰もが言うことになるだろう。
・二〇〇〇年一〇月、増え続けるトラフィックを広告収入に変える方法をグーグルは見つけた。アドワーズ(AdWords)と呼ばれる仕組みだ。
一〇億ドルなら妥当などころか安価な買い物だ、と彼らはセメルに説明した。セメルは納得し、早速グーグルに向かった。しかし、グーグルのラリー・ペイジが首を横にふる。そして、値段は三〇億ドルに上がったと告げた。  セメルはもう一度財務部と会合を開いた。そして、再び買収を決断し、グーグルに赴く。  今度は数字が六〇億に跳ね上がっていた。
なぜ、ヤフーはグーグルに勝てなかったのか。その理由は山ほど考えられるが、根本の問題はただ一つだ。検索結果のページに表示される広告の並び順だ。グーグルは正しい順序で表示したが、ヤフーは間違っていた。
このころには、グーグルは自分たちのやっていることは〝収穫逓増ビジネス〟だと、理解するようになっていた。出資をすればするほど、利益も大きくなる。  なぜそうなるのか? グーグルの場合、市場シェアが増すにつれ、企業が広告費をヤフーとグーグルに振り分けるのをやめ、グーグルだけに一本化するようになった。その結果、グーグルの収入も上昇し、シェアをさらに増やすことができる。シェアが増えれば、グーグルだけに全広告費をつぎ込む企業の数もまた増える。
フェイスブック本社に戻ったザッカーバーグは、彼の共同創業者でありハーバード大学時代からの仲間でもあるダスティン・モスコービッツのもとに向かい、顔を合わせるやいなやガッツポーズをして喜んだ。一〇億ドルが提示された場合、必ず売却に同意すると、ザッカーバーグは取締役会に約束していた。しかし、提示額が一〇億を下回った。フェイスブックを手放す必要はない。  次の日、ザッカーバーグはヤフーに連絡をとり、交渉を続ける気がないことを伝えた。
・マイクロソフトにヤフーを買収する意志があることを、バルマーはヤンに告げた。  バルマーの声は穏やかだったが、使う言葉は厳しいものだった。ひとことで言うと「敵対的」。  バルマーが言うには、マイクロソフトはこれまで数年にわたって、ヤフーと友好的な交渉を続けてきたが、何の成果も生み出さなかった。今回はそうはいかない。オファーを今、ファクスで送った。  つづけて、バルマーはヤンに言った。もしヤンとロイ・ボストックにヤフーを売却する意志があり、価格を提示するのなら、このオファーを公表するつもりはないし、詳細は後日時間をかけて話し合おう。しかし、ヤフーを売る気がないのなら、我々はこの話を公表する。その場合、投資家たちがどう動くか、楽しみだ。
・ヤンはヤフーが独立していることに誇りを感じていた。より客観的にものごとを考えられるCEOなら、空港会議室でバルマーと対面したときに、一株三七ドルの申し出を受け入れるなら、買収に応じると言っただろう。ヤンにはそれができなかった。
・ウェブ調査会社コンピートによると、アメリカにおけるウェブメールサービスへのアクセスは二〇〇九年の一億四〇〇〇万人強(ユニークビジター数=重複を除いた正味の人数)がピークで、その後は急速に減少している。二〇一〇年の九月は、一億二五〇〇万人だった。利用者数の低下は、ヤフーにとっても大きな痛手となった。二〇一一年から二〇一二年にかけて、ヤフー・メールの使用回数は二五パーセント減った一方で、iOSのメールは七四パーセント、アンドロイドのメールは九〇パーセントの増加を記録した。
・二〇〇九年に結んだマイクロソフトとの契約でも、バーツは先見の明のなさをさらけ出した。提携することを決定した背景には、マイクロソフトの市場シェアとヤフーの市場シェアを組み合わせることで、グーグルに一方的に集中していた広告主の関心を、ヤフー&マイクロソフト陣営に呼び戻し、検索広告収入を増加させるという考えがあった。しかし、そうはならなかった。理由の一つは、マイクロソフトの検索エンジンが非ラテン語系の文字セットと相性が悪かったことだ。日本語や中国語では使い物にならなかった。つまり、グローバルな検索テクノロジーではなかった。かつてはヤフーが大きなシェアを占めていたアジア諸国で、利用者の数が減っていった。
・ヤフーのトップに君臨する前、テリー・セメルはメディア業界で広く称賛されていた。サン・マイクロシステムズとオートデスクにおけるキャロル・バーツの実績は、目を見張るものがあった。CEOになるまで、ジェリー・ヤンは誰からも愛される創業者だった。社長になる前のスー・デッカーは、ウォール街での大胆さや取締役会議での賢明さから、スーパーヒーローと見なされていた。  しかし、ヤフーの再建に失敗してからは、彼らは不幸にもあざけりの対象となり、業界からのけ者扱いされるようになった。  自分ならうまくやれる、という人物はこの世に存在するのだろうか?
・最高の人々に囲まれ、彼らにもまれているうちに、自分も成長できる。それがメイヤーの信条だ。  優秀な人々に囲まれて生きるための場所を探しているうちに、グーグルに出会った。それが彼女の答えだ。  だから、メイヤーはグーグルに入社した。
・まず、アリババから現金が手に入った。タオバオへの出資額は八〇〇〇万ドル。それが二年で四倍になって返ってきた。おいしい話だ。つぎに、この取引によりアリババは強い会社になった。タオバオを完全に所有することになったからだ。これもマサを喜ばせた。ソフトバンクはいまだにアリババの株式を三分の一保有している。また、アリババが強くなればヤフーも恩恵を受ける。ソフトバンクはヤフーにも出資している。孫正義にとっては三重の喜び、ウィン・ウィン・ウィンだ。
・IPG幹部の一人、クエンティン・ジョージが「ヤフーの今後における広告代理店の役割をどう思うか」と尋ねた。  代理店はヤフーのパートナーであり、協力者だ。これがトンプソンが口にすべき正しい答えだった。どのブランドがどこに広告費を落とすかを左右するのは、結局のところ代理店の顧客ではなく、代理店自身なのだ。  しかし、トンプソンは正しい回答を知らなかった。  かわりに「ペイパルでは、我々は一般的に仲介業を取引から排除することに努めた」と答えた。  レヴィンゾーンは椅子から滑り落ちそうになった。おい、冗談もほどほどにしろよ。こいつ、どうやってこの仕事を手に入れたんだ?
・会談が終わるたびに、ヘックマンとレヴィンゾーンの二人は、アローラがデ・カストロに対しひどく横暴な態度をとることをネタに、笑い合ったものだった。デ・カストロの考えをアローラは厳しく批判し、彼をバカ呼ばわりすることもあった。
・メイヤーはデ・カストロの雇用を強く主張した。実現しなければ、ヤフーの収益は減りつづけ、彼に支払う報酬よりも数倍大きな資産を失うことになるだろう。彼がCOOになれば、彼に支払った報酬の何倍もの額の増益が期待できる。結果として安上がりだ。
マリッサ・メイヤーとヤフー取締役会はエンリケ・デ・カストロの評判を確かめるべきだった。  少し調べるだけでも、グーグルの広告関係者における彼の評判はすこぶる悪いことがわかっただろう。  グーグルの上級幹部のなかで彼の評価が最も低かったことは、同社の広告部門のマネジャーを務めたことのある人物なら誰もが認めるところだ。
・メイヤーが考える〝シンプルでわかりやすい改善〟とは、グーグルのユニバーサル検索のようなマルチメディア検索の統合、グーグルのインスタント検索のような入力途中の結果表示、そしてグーグルのナレッジグラフのような検索結果リンク以外の情報の提供のことだ。  二〇一三年、ヤフーはこれらの変更のほぼすべてを実装した。  それでもヤフーの検索シェアは回復しなかった。二〇一三年の夏──アリババの空の傘がなくなるまであと一年──シェアは一二パーセント以下にまで縮小していた。
・これが人々の怒りに火をつけた。  アリババの空の傘がなくなる二〇一四年秋までに、メイヤーはユーザーに愛されるモバイルアプリをつくらなければならない。必然的に、モバイル部門を束ねるカーハンが最重要人物の一人となる。しかし現実には、有能な人材たちの多くがカーハンを嫌っていた。彼らのなかには、二〇一三年の夏までに退社していった者もいる。
メイヤーが積極的で、共感のできる上司なら、それでもよかったのかもしれない。  しかし、彼女はそうではなかった。大勢の聴衆の前に立てば情熱的になれる一方で、小さなグループに対してはいまだに内気なままだ。閉鎖的で、冷たく、無感情。そう見えた。  たいていの上司は、気に入らないアイデアやプロダクトを目にしたとき、「もう一度、考えを練り直そう」などと言うだろう。  メイヤーはそれすらしなかった。かわりに、彼女は相手に最後まで話を続けさせる。不機嫌そうな表情を浮かべながら。そして最後の最後に突き放すような口調でこう言うのだ。「あなたは間違ってると思うわ。的外れよ」  なぜメイヤーはそう振る舞うのか、人々は理解しようと努めた。
・メイヤーとミーティングをするのなら、何時に始まるか考えるな。開始時間はどうせ変わるのだから。これがヤフーの一般常識となった。サニーベールで働く従業員にとっては、〝迷惑な話〟ですんだ。しかし、インドやヨーロッパなどの遠隔地で働く人々にとっては迷惑どころの話ではない。
・彼女のルーズさが、ときには人々を激怒させることもあった。  二〇一二年の秋、メイヤーはリリース直前にまでこぎつけたヤフー・メールのチームにカラーを変えろと指示を与え、チームを率いるヴィヴェク・シャーマに明朝までにモックアップをつくり、見せにくるよう伝えた。シャーマのチームは夜を徹して働いた。ところが、メイヤーのほうが明朝のミーティングに姿を見せなかった。  冷たさと遅刻。この組み合わせは強烈な破壊力をもつ。部下たちは自分がないがしろにされているように感じた。
・しかし、ヤフーにとって本当に厄介な問題は、マリッサ・メイヤーの経営スタイルが外部に漏れることで、才能ある人物を雇用するのが難しくなることだった。経営再建中の企業に就職するのはただでさえリスクが高いのに、CEOの振る舞いに難があるとわかれば、誰も寄りつかなくなってしまう。
・ヤフーにとって、彼らは期待に値する人物だった。しかし、全員が敗北した。  メイヤーも同じ運命をたどるのかもしれない。  結局のところ、ヤフーが成功できたのは、世界に一瞬しか存在しない問題を解決したからだ。初期のインターネットは使うのが難しかった。ヤフーがインターネットを簡単にした。ヤフーがインターネットだった。しかし、インターネットが普及し、大きな資金が集まるようになり、問題の解決法も増えるにしたがい、ヤフーの必要性が消えていった。「ほかの誰かができないことをする」という存在意義がなくなり、新しい目的が見つからなかった。
ネットの世界では、「経路」の基盤(プラットフォーム)を奪取しなければ勝ち組にはなれないのだ。そしてヤフーがSNSや、あるいはその先にある未知の「経路」を奪えるという可能性は、今のところまだ見えていない。