「スティーブ・ジョブズ」「イーロン・マスク」を書いたウォルター・アイザックソン氏が「レオナルド・ダ・ヴィンチ」を描いた作品。言わずもがな「モナリザ」「最後の晩餐」の作者であり、とてつもなく幅広い分野について業績がある人類史上最高の天才のひとり、というイメージでしたが、まさにその通りでありながらも、人間くさい部分も多分にあり、ルネッサンスという時代背景も大変興味深く、非常におもしろかったです。
著者がレオナルドの自筆ノート7,200枚を丹念に読み解き、様々な作品や謎についても解説しています。こんな大作が2019年に出ていたことになぜか気づいておらず、夢中になって読み進めました。
とにかく好奇心の鬼といった感じで、例えば馬の彫刻をつくる際は
レオナルドらしいと言えばそのとおりだが、馬の彫刻をつくるにはまず解剖しなければという発想には、やはり驚かされる。このときも芸術のための手段として始まった解剖は、やがて科学的探究としてそれ自体が目的化した。
馬の研究をしているあいだに、厩舎を清潔に保つ方法を考えはじめたのだ。それから何年にもわたり、屋根裏からパイプを下ろして餌を補充したり、床を傾斜させて馬糞が排水溝に流れ込むようにするといった、いくつもの厩舎システムを考案している。
こんな形になります。当然絵画を描くためには、人体の解剖をし、筋肉や骨格がどのようになっているかを知ることから始めるのですが、それが高じて人体の仕組みの研究のようになっていき、30体以上は解剖し、歯や心臓の仕組みの発見をしたり、『ウィトルウィウス的人体図』のようなものに発展していったりします。
レオナルドの絵の背景に書き込まれている花や岩などの自然物は極力そこにあるべきもので構成されていたり、意味が込められていたりします。人の眼がどのように物体を捉えているかということから、光と工学、遠近法の研究や、眼そのものの解剖や研究もしています。
また、こういった研究に脱線したり、その完璧主義から、ほとんど作品を完成できておらず、依頼主とは大抵揉めており、途中で破棄されたり、「モナリザ」のように死ぬまで手元に置きアップデートし続けていた作品も存在します。
言うまでもないが、レオナルドが約束を果たすことはなかった。もっと野心的な絵画の制作のほか、解剖学、工学、数学、科学の探究に忙しかったのだ。押しの強いパトロンの求めに応じて、型にはまった肖像画を描くことなどに興味はなかった。カネで動くこともなかった。肖像画を描くのは『音楽家の肖像』のようにモデルに想像力を刺激されたとき、あるいはルドヴィーコの愛妾を描いたように強力な支配者に命じられたときだけで、単に金を出すという相手の言うなりにはならなかった。
正式に依頼を受けると、いつもどおり作業をぐずぐずと先延ばしした。ヴァザーリはこう書いている。「レオナルドはまったく制作に取りかからず、依頼主を延々と待たせた。そうしてようやく、聖母子と聖アンナを題材とする下絵が完成した」。下絵は大評判となった。これはレオナルドがすでに故郷で相当な有名人となっており、芸術家が無名の職人ではなく一個人として名の通ったスターになるというトレンドの先頭を行く存在であった証と言える。
芸術家がセレブリティのようになったルネッサンス時代の雰囲気や、レオナルド自体が、フィレンツェやミラノ、パリを転々としながら、当時の支配者(目まぐるしく変わっている)やメディチ家などの商人などのパトロンや、身近なひとたち(工房など)、ミケランジェロやボッティチェリなどの他の芸術家との関係性や交流なども大変興味深かったです。
一方、著者は安易に天才と決めつけるべきではないとします。
レオナルドの非凡な才能は神からの贈り物ではない。彼自身の意思と野心の産物だ。ニュートンやアインシュタインのように、ふつうの人間には想像もできないような頭脳を持って生まれたわけではない。レオナルドは学校教育をほとんど受けておらず、ラテン語や複雑な計算はできなかった。
彼の才能は常人にも理解し、学びうるものだ。たとえば好奇心や徹底的な観察力は、われわれも努力すれば伸ばせる。またレオナルドはちょっとしたことに感動し、想像の翼を広げた。意識的にそうしようとすること、そして子供のそういう部分を伸ばしてやることは誰にでもできる。
レオナルドが天才となった理由、すばらしく優秀という だけの人々との違いは、その創造力だ。それは想像力を知性に応用する能力である。創造的天才の常として、レオナルドには観察と空想を難なく結びつける能力があり、それが「見えているもの」と「見えていないもの」とを結びつける、思いがけない発想の飛躍につながった。
しかしレオナルドの才能は多数の分野にまたがっており、それが自然界に存在するさまざまなパターンや相反する力を見抜く能力につながった。好奇心に突き動かされ、この世界の知りうることすべてを知り尽くそうとした人物は、人類史上数えるほどしかいない。
ただこういった記述からも、やはり異常な好奇心からの行動力と創造力には、天才性を感じざるを得ませんでした。
ただ、確かにひとつひとつの側面は誰にでもある部分もあるし、大発見だけが人類を進化させていたわけではありません。極端を知ることで、ここまでのジャンプはできなくても、日々なにか少しでもよくできないかと考え、行動し続けることこそが、人間なんだろうなと思いました。