小説 盛田昭夫学校(上)/江波戸哲夫

一応、小説とあるのですが、ソニーの歴史には忠実に、様々な主人公の視点で生き生きと描かれています。経営という視点で見ると、他社をベンチマークするだけではなく、過去の偉大なベンチャーから学ぶことも重要なのではないかと思います。個人的に非常に勉強になることばかりだったので、抜粋コメント方式で行きたいと思います。

東京通信工業の前身「東京通信研究所」は、45年10月1日、終戦からわずか2ヶ月後に、井深大を中心とした数人の仲間によって設立された。最初の拠点は日本橋の百貨店「白木屋」の三階。井深の知人が使わなくなった配電室を貸してくれたのだ。 当初、彼らは会社の存続のために、電気炊飯器の製造やラジオの修理・改造などを行なっていた。ラジオの修理・改造は戦争中、短波放送を聴くことのできないラジオを強要された多くの人に喜ばれた。

終戦からわずか2ヶ月後に開始。この会社の記事を見て、23歳の盛田は、36歳の井深に手紙を書いて、翌年、東京通信工業が設立されました。

発足したばっかりの東通工は、NHKとは第一スタジオの調整卓などいくつもの取引があった。その関係で井深も盛田もしばしばNHKに出入りしていた。(中略)ある日、井深はCIEの職員からテープレコーダーを見せられ、音を聞かされた。 井深はたちまちその音質のよさに魅了させられ、会社に戻るやいなや盛田にいった。  「テープレコーダーだよ、われわれのやるべきものは。ワイヤーではなく、テープで行こう」

テープレコーダーを発売する前はそこまで傑出していたわけではなかったようで、いろいろな仕事をしていました。

テープレコーダーは東通工の規模を急速に大きくした。 G型の試作機が開発された49年には従業員数87名、売上高3200万だったものが、G型が発売された50年には従業員115人、売上高9700万円、H型が発売された51年には従業員159人、売上高1億5500万円、H型よりさらに小型のP型(ポータブル用)が発売された52年には従業員214人、売上高3億4300万円となった。 つまり従業員は2.5倍、売上高は10倍となった。数字の表面だけをたどればかなり順調に見えるが、製品の開発・製造・改良のために雇った従業員はそれが終われば当面の仕事はなくなるし、開発・改良費を惜しみなく使ったので、東通工の財政にはいつも厳しいものがあった。

最初のブレイクスルーはテープレコーダー。

46年に二十数人で始めた東通工は、わずか六年間で300人近い従業員をかかえるようになっていた。テープレコーダーの開発のために多くの専門家も雇い入れている。その開発が一段落しかけているいま、彼らをどうやって食わせていったらいいのだろう? それができなければ彼らを首にしなければならない。しかし一生懸命に口説いて入社させた者ばかりだ、そんなひどいことはできない。 そう思いつめていたところへトランジスタの話が舞い込んだのだ。25000ドル(注:トランジスタ特許の使用料)という金額は当時の為替レートで900万円になる。サラリーマンの平均月給が1万円台の半ばだから、物価がおよそ20倍になっていると考えれば、現在の二億円に近い金額になる。

6年間で300人近い従業員、そして社運を賭けたこの特許の取得後、トランジスタラジオの開発には3年もかかっています。

この(注:トランジスタラジオTR-55)発売と軌を一にして東通工株の店頭公開が実現することとなり、それらを新聞記者など関係者に発表する一連の日程が決められた。55年7月下旬の暑い盛りだった。

なんと設立わずか9年で上場。トランジスタラジオの発売と同時。つまりほとんどテープレコーダーだけで上場。また上場時の従業員は400人程度。

TR-63(注:小型トランジスタラジオ)は東通工の売上げに大いに貢献した。輸出額の推移はこうである。
 55年 954万円
 56年 6408万円
 57年 3億2876年

海外売上も順調に拡大

トランジスタラジオの大成功に伴い東通工は凄まじい勢いで業容を拡大した。
 55年3月期には、
 売上高、3億5100万円
 利益、4700万円
 従業員、384名だったものが、
 4年後の59年3月期には、
 売上高、33億5000万円
 利益、3億9000万円
 従業員、2124名
 となっている。この4年間で売上高は10倍、利益は8倍、従業員数は5.5倍に急膨張した。

上場後の4年間で、売上10倍、利益8倍、従業員数5.5倍まで急拡大。

「海外要員を求む=SONY」59年秋、新聞にこんなキャッチフレーズの全面広告が掲載された。後世に語り継がれるのは「英語でタンカの切れる日本人を求む」というキャッチフレーズだが、それは翌年の求人広告だった。戦争で疲弊した日本経済は、50年から53年にかけての朝鮮戦争のお陰で急速に息を吹き返し、56年の『経済白書』は「もはや戦後ではない」と高らかに宣言し、間もなく高度成長期に足を踏み入れようとしていた。 海外で活躍できる。それは日本中の志ある若者の気持ちを捉えた。そうした若者が一人また一人と品川御殿山のソニー本社を目指した。

こういう雰囲気の中での海外進出。

「ゴミレターを整理してくれっていわれたんだが、ゴミレターって何ですかね?」 大河内が笑みを浮かべた。 「ご承知の通り、トランジスタラジオが飛ぶように売れていましてね。いま世界中の代理店希望者からインクワイアリー「照会状)が着ているんです。欧米関係のものは次々とはけるんだけど、中近東、アフリカなんてところの分は後回しになってどんんどん溜まっている。それをみんなゴミレターと呼んでいるんだ」

トランジスタラジオはその性能から世界中(アフリカ、中近東含む)から注文が殺到していました。

下巻に続きます

2 thoughts on “小説 盛田昭夫学校(上)/江波戸哲夫

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  2. […] 5位 小説 盛田昭夫学校 ソニーというベンチャーがどのように発展してきたかが非常にいきいきと描かれています。ソニーがどのように世界ブランドになっていったかは、現在どのように […]

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