人間における勝負の研究―さわやかに勝ちたい人へ/米長邦雄

将棋棋士の米長邦雄氏による「勝負の研究」。すでに引退済みで、もう70近いはずなのですが、Twitterが話題になったりもしてますね。

ビジネスでは直接ライバルと対峙するということはあまりないわけですが、将棋では一対一の勝負しかありません。そういった中で長年、戦ってきた米長氏の勝負感が垣間見れて、非常に勉強になりました。

特にカンが、その人すべてを「しぼったエキス」であるという考え方や、勝負で勝つためには最善手のみを選択するのではなくて、相手にとって難しい手を打って泥沼に引きずり込む、というのはなるほどなぁと思いました。

30年くらい前の著作なんですが、まったく色褪せていなくて、おもしろかったです。

<抜粋>
・カンというのは自分が好きで必死で取り組んでいないと、働かないものです。嫌いな分野とか、やりたくないなと思っている仕事で、鋭いカンが働いたという話は聞いたことがありません。
・人間にとって大切なものは、努力とか根性とか教養とか、いろいろあります。しかし、一番大切なものはカンだ、と私は思っています。カンというのは、努力、知識、体験といった貴重なもののエキスだからです。その人の持っているすべてをしぼったエキスです。
・遊びが勝負のマイナスになるとは、私は信じません。ひと通りの遊びをしましたが、私の将棋にマイナスになったものはない。一歩ゆずって、最低の感想としても、自分が、それを罪悪感のようなものを抱きながらやった場合はマイナスになるかもしれないが、いわれのない罪悪感など持たなければ、マイナスになるはずがない、とだけは言えます。遊びこそ人生修行の課程の一つなのです。
・私は、難局になると、相手の側に立って考え、一番むずかしい手、一番結論の出しにくい手を指して、相手に手を渡すようにしています。手が広くて、わからなくなるような局面に導いていきます。いわば泥沼に引きずり込むわけです。 相手は困る。私だってわからない。そうすると、弱いほうは余計にわからないので、間違いやすくなる。そして、いっぺんに形勢を損なうのです。
・実戦では、必ずしも最善手ばかりを指せなくてもかまわないのだ、という「雑の精神」を言い換えますと、戦いというのは、相手にどこまでなら点数を与えても許されるのか、つまり許容範囲で捉えていく、という発想です。 要するに、決定的に負けになるとすればどこなのか、そういう感覚で、常に対局に臨めば、勝負はなんとかなる、という勝負感なのです。
・世の中に真実が一つしかない、人間のあるべき姿は一つしかないと考えるのはおかしい。将棋では「こう指しても一局」とよく言います。最善手は常に一手だけで、必ずそれを指すべきだと考えれば、誰も将棋は指せなくなる。世の中のことも、きっと同じでしょう。バランスが片一方に偏りすぎていると見た場合に、私は、少々極端に見えることを言うことがあるのは、何事にもバランスと許容範囲というものを大切にしたいからです。

P.S.昨夜、ZyngaはNasdaqに上場しました。私に関わりのあるすべての皆様に感謝いたします。