才能vs努力に真正面から取り組む「非才!」

傑出した成功はどこからくるのか、に取り組んだ力作。取り組んだというより才能を否定し、成功するには、正しい気構えで目的性を持って対象に辛抱強く取り組むこと「のみ」が必要である、と豊富な事例をもとに繰り返し主張しています。

著者自身が卓球の元イギリスチャンピョンであり、その体験から環境や優れたコーチがすべてであり、才能は関係なかったと言います。また、子ども3人をすべて世界チャンピョンに育てた事例なども紹介され、確かに才能よりも努力の方が重要であるというのは確からしさを持っていると思いました。

本書には様々な事例がでてきますが、しかしそれで才能がまったく関係ないのかと言われると、そこまでの説得材料はないというのが本書の感想です。

さらに言えば、ダンカン・ワッツは「偶然の科学」で、成功の予測不可能性の実証を示しており、これによれば、傑出したものが成功するのではなく、成功したからこそより傑出していると世界から捉えられます。努力で成功確率をあげることはできるが、成功するかどうかは時の運に相当部分が左右されます。

と考えていくと、努力のみが成功の必要十分条件だという著者の主張はかなり危ういと思わざるをえません。

しかし、現実には、才能も運もコントロールできないわけなので、正しく努力する他ないわけです。だからこそ自分が好きで寝食忘れて取り組める対象を探すのが大切だと思うし、成功には努力だけでは必要十分でないと分かっていてもやり続けるしかない

アーセン・ベンゲルはこう語っている。「できるかぎりのパフォーマンスをするには、論理的な正当化をはるかにこえる強さで信じることを自分に教えてやらなければならない。この非合理的な楽観能力を欠く一流選手はいない。そして合理的な疑いを心から取り払う能力なしに、最大限の力を発揮できたスポーツマンもいないのだ」。

この言葉は非常に正しいし、そうありたいと思います。

しかし、それではすべてのひとが自らを信じ切って最高のパフォーマンスを発揮して、成功をおさめることができるかといえば、それはあり得ない。成功するには才能も努力も運も必要で、本来あり得ないほどすごいことであり、だからこそ尊い、これが一般的な見方であるし、真実であると思います。

どうも著者は自らが非合理的に信じ、努力し続け、かつ結果を出すことに成功した傑出した卓球プレイヤーであったからこそ、だれでもできると考えて(信じて)しまっているのではないかなと思いました。一流選手としての経験が、眼を曇らせているのではないかと。

全体としてはおもしろい事例もたくさんあり、視点としては非常に勉強になるのですが、個人的にはダンカン・ワッツや「ブラック・スワン」のタレブのような身も蓋もない世界観の方が好きだし、真実を捉えてると思います。

そして、自分としてはその非情な世界の中でもがくことをやっていきたいと思ってます。

<抜粋>
・スポーツの世界は実力主義だと思いたがる人が多いーー成功するのは才能と努力のおかげだと。でも、じつは全然そんなことはない。
・20歳になるまでに、最高のバイオリニストたちは平均一万時間の練習を積んでいた。これは良いバイオリニストたちより2000時間も多く、音楽教師になりたいバイオリニストたちより6000時間も多い。この差は統計的に有意どころか、すさまじいちがいだ。最高の演奏家たちは、最高の演奏家になるための作業に、何千時間もよけいに費やしていたわけだ。 だが、それだけではない。エリクソンはまた、このパターンに例外はないことを発見した。辛抱強い練習なしにエリート集団に入れた生徒は一人もいなかったし、死ぬほど練習してトップ集団に入れなかった生徒もまったくなし。最高の生徒とそのほかの生徒を分かつ要因は、目的性のある練習だけなのだ。
・しばしばそれは、ものの二、三週間ほど、あるいは二、三か月ほど、あまり身を入れずにやってみた結果にもとづいた発言だったりする。科学の示すところでは、傑出性の域に突入するには何千時間もの練習が必要なのだ。
・不思議なことに、トップクラスの意思決定者たちーー医療でも消火活動でも軍指揮官等々でもーーは、予想外の要因にもとづいて意思決定をしているわけではなかった。彼らはそもそも選択などしていないようだった。そのときの状況をちょっと考えて、代替案などいっさい検討せず、パッと決断してしまうのだ。自分がじっさいにおこなった行動をどういう理由でとったのか、説明すらできない人もいた。
・一流スポーツ分野を見てまわって、トレーニング法のはてしないかのように見受けられるトレーニング法の多様さに圧倒されるのは簡単だ。だが一皮むけば、すべての成功しているシステムには一つの共通点があることに気づかされる。目的性訓練の原理を制度化しているのだ。最大の卓球王国である中国にはマルチボール・トレーニングがあるし、もっとも成功しているサッカー王国ブラジルにはフットサルがある。
だが念入りな研究の結果、創造的なイノベーションは一貫したパターンをたどることがわかった。傑出性と同じで、目的性訓練の苦難から生まれるのだ。エキスパートは、自分の選んだ分野にとても長いことひたっているために、創造的なエネルギーが充満するとでも言ったらいいだろうか。べつの言い方をすれば、ひらめきの瞬間は晴天の霹靂ではなく、専門分野に深く没頭したあとに湧きおこった高潮なのだ。
・創造性の10年ルールは人間のあらゆる取り組みにおいて見受けられる。131人の詩人を対象としたカーネギーメロン大学のジョン・ヘイズの研究によると、全体の80パーセントが、もっとも創造的な作品の執筆に取りかかる前に10年以上の持続的な準備を要していた。著名な科学者たちを徹底的に研究したアリゾナ大学の心理学者アン・ローは、科学的創造性とは「勤勉な取り組みによる機能」であると結論づけている。
・やはり創造性のひらめき理論の見本とされることの多い芸術家、ミケランジェロが述べているとおりだ。「これほど熟達するまでにどれほど熱心に取り組まなければならなかったか、人びとが知ったなら、さほどすばらしいとは思ってくれまい」。
・十三世紀には、数学を習得するには30〜40年かかると考えられていた。現在ではほぼすべての学生が解析学を習得している。だが、それは人類がかしこくなかったからではない。数学の手法と教育が洗練されたからだ。
・ジャクソンと同じ誕生日の学生たちの動機水準は少々上がったり、はね上がったりしたどころではない。激増したのだ。誕生日が同じ学生たちは、そうでない学生たちに比べて65パーセントも長く解けない難問に取り組み続けた。
マイケル・ジョーダンがこう言うコマーシャルだ。「9000回以上シュートをミスした。300回くらい負けた。勝利を決めるシュートをまかされて、26回はずした」。 このメッセージに困惑した人は多かったが、ジョーダンーー成長の気がまえの生きた証拠ーーにとっては、深みのある断固とした事実だ。史上最高のバスケットボールプレーヤーになるには、失敗を受け入れなければならない。「精神的なタフさと佑樹は、身体的な強みをはるかにまさる」と、ジョーダン。「ぼくはずっとそう言ってきたし、そう信じてきたよ」。
・ポロティエリーは努力をほめ、けっして才能をほめない。機会があるたび練習がもつ変化の力に賛辞をおくり、プレイが途切れるたびに苦労が肝要であることを説く。そして生徒の失敗を良いとも悪いともみなさず、ただ向上の機会ととらえる。「それでいい」と、フォアハンドを大きめに打ってしまった生徒に彼は言った。「いい方向に向かってる。失敗じゃない。そうやって返すんだ」
・エンロンの戦略には二つの異なる理由から不備があった。一つはマッキンゼーが積極的に推奨したまちがった前提をもとにしていたこと。つまり、才能が知識よりも重要だという発想だ。これはでたらめだ。第一章で見たように、複雑性を特徴とするあらゆる状況ーースポーツだろうとビジネスだろうとなんだろうとーーでは、うまい意思決定を推進してくれるのは、生得的な能力ではなく、豊富な経験でしか構築できない知識なのだ。 だがエンロンの戦略は、さらにたちの悪い欠陥をもっていた。エンロンの中心的哲学は生産性をそこなっただけでなかった。とても特殊な文化をつくりあげることにつながった。個人の発達より才能をたたえる文化。学習は能力をつくり変えられるとする考え方をあざける文化だ。固定した気がまえを推奨し、育て、最終的には定着させた文化である。
・アーセン・ベンゲルはこう語っている。「できるかぎりのパフォーマンスをするには、論理的な正当化をはるかにこえる強さで信じることを自分に教えてやらなければならない。この非合理的な楽観能力を欠く一流選手はいない。そして合理的な疑いを心から取り払う能力なしに、最大限の力を発揮できたスポーツマンもいないのだ」。
・顕在記憶システムから潜在記憶システムへの遷移には、大きな利点が二つある。第一に、熟練者は、複雑なわざを構成する各部分を滑らかな一つのかたまりにまとめあげられる(中略)。これは意識的にやるのは不可能だ。意識が処理しなければならない関連し合った変数が多すぎるからだ。そして第二に、そちらに気を取られずに済むために、技能のより高度な側面、つまり作戦や戦術に集中させてくれる点だ。
・問題は注意が足りないことではなく、注意しすぎることにあった。意識的な監視が潜在的システムの滑らかなはたらきを台なしにしていたのだ。異なる運動反応の順序づけとタイミングが、初心者並みにばらばらになっていた。事実上ふたたび新米になってしまったのだ。
・(外国語を聞く時)聞こえてくるのは支離滅裂で理解できないノイズの洪水で、切れ目も構造もわからない。視力を回復したばかりの人間が顔を見ようと試みるのは、ちょうどこんなものだ。友人を見つめていても、見えるのは混乱ともやだけ。なぜなら、意味のある知覚を生み出すトップダウン知識が欠けているからだ。 ここで重要なのは、知識はたんに知覚を理解するためには使われていないということだ。知識は知覚に組み込まれている。偉大なイギリス人哲学者ピーター・ストローソン卿は語っている。「知覚には概念が浸透しているのだ」
・アリの政治的、文化的な影響はリングのなかで獲得したものではない。リングを超越できたことから獲得されたのだ。彼のこぶしは基盤を提供したが、黒人過激主義を述べることで白人多数派に恐怖を植えつけたことが、20世紀アメリカ史の方向を変えるのに役立ったのだ。(中略)つまるところ、黒人は知的に不足しているというステレオタイプをたたきつぶす力をアリが示したために、世界は震撼したのであり、彼が白人のあごをくだく能力をもっていたためではない。

非才!―あなたの子どもを勝者にする成功の科学