自由はどこまで可能か=リバタリアニズム入門/森村進

リバタリアンはどのように考え、行動するかというのを(リバタリアニズムの中の)様々な説から検証している良書。2001年と少し前の新書なんですが、今読んでもぜんぜん色褪せてません。

僕は自分をリバタリアンだと考えているのですが、実際には今自分が当たり前と考えている考え方について、リバタリアニズムから検討すると、いつの間にか自分がリバタリアニズムと反していることがあることに驚きます。

リバタリアンであれば、国家による婚姻制度は認めるべきではないし、会社の賠償責任は無限であるべきだし、国民栄誉賞は認めるべきではないし、相続税は認めても累進課税は認めるべきではない(ただし、もちろんリバタリアニズムにもいろいろな説があります)。こういう思考実験というのはすごく刺激的でおもしろいです。

いまはまだ自分の中でもまとまっているわけではないけれども、折にふれて深く考えたり、ひとと議論したりしながら、自分の人生観を変えていきたいと思います。そのための入門として素晴らしい作品だと思います。

<抜粋>
・訴訟遅延は確かに重大な問題だが、法的サービスは国家しか提供できないものではない。アメリカのリバタリアンは、紛争の解決は民間でもできるという発想から、専門的な民間の第三者による仲裁や和解といった「代替的紛争解決」(ADR)のサービスを高く評価している。アメリカにはADRを行う大きな会社や非営利組織が多数活動していて、利用者の満足を得ている。
・興味深いことに、リバタリアンの中には、この点でアメリカよりも日本の刑事法制度の方が被害者の権利をよく保護していると主張する論者もいる。(中略)日本の刑事裁判ではアメリカと違って、被告人が悪い環境で育ったなどという言い訳が責任軽減事由としてはほとんど通用せず、また被告人と検察官との間のプリー・バーゲニング(有罪答弁取引)も存在しない一方、犯人が犯行を自白し、真摯に後悔して、被害者側に謝罪・賠償しその許しを得るということが基礎の有無や量刑において重要な役割を果たすといった事実を指摘する。
・国家の中立性というリバタリアニズムの原理は、政府が教育の場などで特定の歴史観(唯物史観、新自由主義史観、民衆史観など)やライフスタイル(核家族、一夫一妻制、禁煙運動など)を押しつけたり援助したりすることも排除する。一夫一妻制だけを法的な婚姻制度として認めたり、特定の近親者だけに遺留分として相続財産への特権を与えたりすることは、この見地からは弁護しがたい。また政府が人々をその功績によってーー官尊民卑の観点からーー格付けする叙勲制度も廃止すべきである。
・そもそも婚姻という制度を法的に定めなければならない理由は明らかでない。実際には多くの法制度は色々な点で既婚者を独身者よりも優遇しているが、この優遇も法の下の中立性と衝突するから、もっと根本的に、婚姻という制度を法的には廃止すべきである。
・相続制度が廃止され、親への扶養義務が法的には最小化された社会の家族は、確かに現在の家族とはかなり変わってくるに違いない。そこでは親の扶養義務をめぐる争いはずっと少なくなり、遺産相続をめぐる紛争はほぼ消滅するだろう。成人した子供と親の間の関係はもっとドライなものになるだろう。そして代々続く「家」という観念も薄くなるだろう。法的な絆がないと(事実上の)離婚も多くなるかもしれない。このような変化を耐え難いと感ずる人もいるだろう。しかし自由を愛する人は、むしろそれをどろどろした血のしがらみからの開放と考えるだろう。親族関係は自発的な友人関係に近くなるのである。
・これらの(注:リバタリアンの)要請をもっともよく満たすのは、何の例外も控除もない、一定率の所得税か消費税である。所得税の税率は、累進課税では、所得の少ない者のために所得が多い者を搾取することになり、不公正である。税金が市場制度の使用料のようなものだと考えれば、その額は市場で得られた所得に比例しているのが公正だろう。
・大気や水の汚染は、その空間や水面の利用者の人身と財産への侵害に他ならない。工場主をはじめとする汚染者たちは、自分の財産の領域を超えて他人の人身と財産に損害を与えているのに、その責任を問われない。したがって最善の公害対策は、私的所有権、特に不動産所有権の厳格な執行ーー侵害行為に対する事前的な差し止めと、事後的な損害賠償ーーである。そしてその際、伝統的な過失責任ではなくて無過失責任主義を取るべきである。

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