木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか/増田俊也

ひさしぶりに超弩級のドキュメンタリーを読みました。

戦前から戦後にかけて、木村政彦という史上最強の柔道家がいました。しかし、木村はプロレスに力道山に敗れて世間から忘れ去られ、その屈辱を一生背負うことになります。

なぜ木村が史上最強と言われているのか。なぜ力道山に敗れたのか。戦前と戦後の柔道の違い(戦前の柔道では打撃は当たり前にあった)。戦前の柔道が、木村がブラジルで破ったエリオ・グレイシーからグレイシー柔術となって日本に再上陸するまでの経緯。などなど、柔道やプロレス、総合格闘技に対する見方が一変する骨太ドキュメンタリーです。

二段組で文量は相当に多いのですが、それだけの価値があります。こういう本に出会うと本当に幸せだなぁと思います。

<抜粋>
・嘉納がイメージしていた柔道は、まさに現在の総合格闘技を柔道衣を着てやるものだった。まず離れた間合いから殴ったり蹴ったりという当て身で攻め、あるいは相手の当て身を捌いて相手を捕まえ、それから投げ、そして寝技に行くのが嘉納の理想とする柔道だった。街中での実戦、つまり護身性の高いものを求めていたのである。
・いまオリンピックスポーツとして世界中で行われている柔道とは、すなわち明治十五年(1882)に嘉納治五郎が開いた講道館という名の新興柔術流派のひとつの町道場にすぎない。
・講道館は巨大化するうちに、組織として歴史に勝ったのだ。活字としてさまざまなものを残すうち、歴史に勝ったのだ。
・モミジの巨木への打ち込み。(中略)打ちこむたびに予想以上の痛みが脳天まで突き抜け、百回でその場にへたり込んだ。次の日は二百回、さらに次の日は三百回と増やしていき、最終的には一本背負いを千回と釣り込み腰を千回、合わせて二千回の打ち込みを毎日やるようになった。 そのうちに幹に巻いてあった座布団も外した。打ち込むたびにガツンッという音が響き、樹上の小枝が騒ぐ。あまりの衝撃で木村は失神し、その場で朝まで目覚めなかったこともある。
・戦前の柔道界は、講道館柔道、武徳会の柔道、高専柔道の三つの勢力が、今われわれが考えるよりも小差でしのぎを削っていた。
・講道館柔道の感覚からいえば、上の者が絶対的に有利である。だから相手を投げて上から攻めたいのだ。しかし、本当に上からの者だけが有利ならば、講道館はルールを変えてまで高専柔道の下からの寝技の封じ込めをはかる必要はなかったはずである。下からの寝技に対抗できなかったからこそ引き込みを禁止したのだ。
・木村の稽古は毎日九時間以上という信じられないものになっていく。この伝説の九時間の練習量を「それは座禅やウェイトトレーニングなどの時間も入れているのではないか」と思っている者が多いと思う。 だが違うのだ。 木村は乱取り(スパーリング)だけで毎日百本はこなした。一本五分としても、これだけで九時間近くになる。ウェイトトレーニングなども含めると十三時間から十四時間はこなしていることになる。
・(ボクシングで負けて)すぐに黒人ボクサーに週に二回のボクシング指導を頼んだ。 こういうところが木村の凄いところだ。普通、ひとつの格闘技で頂点に立った人間が頭を下げてこんなことはできない。しかも木村の場合、トップ中のトップなのだ。
・講道館=全柔連がGHQにその場を取り繕うような形で「柔道は武道ではなくスポーツである」と断言してまで柔道を復活させた経緯を検証・総括できていないことが、実に六十年たった今でも柔道界を混乱させているのだ。
・嘉納先生が仰ったことを紐解いてみると、ほとんど柔道を総合格闘技のように捉えているんです。『ボクサーを連れてきて実践的な訓練をしなくてはいけない』と言ってみたり、実際、空手が沖縄から日本本土に紹介された時、嘉納先生はかなり音頭をとられた。
・(木村と組み合ったことのある遠藤幸吉氏)「巨大な岩です。岩と組み合ってるみたいなもんなんだからまったく動きませんよ。柔道では相手を崩してから技をかけろっていうでしょう。でも動かないんだから。一センチも動かないんだから。どうやって崩せっていうの。崩せないんだから技もかけられないでしょう」(中略)「遠藤さんは戦後の柔道家をたくさん見てこられた歴史の生き証人だと思うんですが、木村先生と、その後の日本の一流選手、それから外国人のヘーシングとかルスカとか、そういった人とやったらどうなると思われますか」 「お話にならない」 「そんなに違いますか……」 「違う」
・(ブラジルにて戦後)日系人二十五万人は、日本の敗戦を絶対に信じない者たちと負けた事実を受け入れて屈辱に耐える者たちに、真っ二つに別れてしまった。(中略)そのうち、勝ち組が負け組に対して天誅と称した攻撃を加えるようになり、三月には溝辺幾太バストス産業組合専務理事を暗殺する。 すぐに血で血を洗う報復合戦が始まった。
・戦後、「軍国主義的である」としてGHQによって大日本武徳会が潰され、さらに学校柔道が禁止されるにいたり、焦った講道館が「柔道は武道ではなくスポーツである」として復活させたのはいいが、柔道がもともと持っていた実戦性も忘れ去られていった。(中略)しかし、ここブラジルの地には遠く離れた本国日本の柔道の変質はいまだ伝わらず、武道としての実践的な柔道が、伝わったときのままの形で化石のように残されていった。それがグレイシー柔術である。
・九十五歳まで生きて大往生を遂げたエリオは、最晩年にこう言っている。 「私はただ一度、柔術の試合で敗れたことがある。その相手は日本の偉大なる柔道家木村政彦だ。彼との戦いは私にとって生涯忘れられぬ屈辱であり、同時に誇りでもある。彼ほど余裕を持ち、友好的に人に接することができる男には、あれ以降会ったことがない。五十年前に戦い私に勝った木村、彼のことは特別に尊敬しています」