イスラエル人歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの新作。前作「サピエンス全史」は人類の歴史のすべてを描こうとした意欲作でしたが、「ホモ・デウス」は、サピエンス(人類)がデウス(神)になるときなにが起こるのかという、今後の人類の行く末を描こうとしており、哲学とテクノロジーが合体したようなさらなる意欲作となっています。
前半は「サピエンス全史」とかぶる部分もあるのですが、後半はテクノロジーの進歩によって、ひとの判断をアルゴリズム(AIのような)に委ねるようになり、また圧倒的な豊かさによりもはや何もしなくてよい世の中になった時、何が起こるか、というような壮大なテーマに挑んでいます。
実際は荒削りな部分も多く、また自分としても消化できてない部分が多いのですが、最近ひとと話していると本書の話になることが多く、様々な議論を呼ぶ非常に興味深い作品であることは間違いないです。
以下抜粋コメントでいきます
やがてテクノロジーが途方もない豊かさをもたらし、そうした無用の大衆がたとえまったく努力をしなくても、おそらく食べ物や支援を受けられるようになるだろう。だが、彼らには何をやらせて満足させておけばいいのか? 人は何かする必要がある。することがないと、頭がおかしくなる。彼らは一日中、何をすればいいのか? 薬物とコンピューターゲームというのが一つの答えかもしれない。必要とされない人々は、3Dのバーチャルリアリティの世界でしだいに多くの時間を費やすようになるかもしれない。その世界は外の単調な現実の世界よりもよほど刺激的で、そこでははるかに強い感情を持って物事にかかわれるだろう。とはいえ、そのような展開は、人間の人生と経験は神聖であるという自由主義の信念に致命的な一撃を見舞うことになる。夢の国で人工的な経験を貪って日々を送る無用の怠け者たちの、どこがそれほど神聖だというのか?
人類は薬物とコンピューターゲームに明け暮れると。しかし本当にありえそう。現実はクソゲーでがんばっても成功するとは限らないが、ゲームはそうではない。しかし個人的には現実の方がゼロサムでなく再現性がないからこそのおもしろさがあるのではと思う。
当然ながら、グーグルはいつも正しい判断を下すとはかぎらない。なにしろ、万事はただの確率だからだ。だが、もしグーグルが正しい判断を十分積み重ねていけば、人々はしだいにグーグルに権限を与えるようになるだろう。時がたつにつれ、データベースが充実し、統計が精度を増し、アルゴリズムが向上し、決定がなおさら的確になる。グーグルのシステムはけっして私を完璧に知ることはないし、絶対確実にはならない。だが、そうなる必要はない。自由主義は、システムが私自身よりも私のことをよく知るようになった日に崩壊する。たいていの人は自分のことをあまりよく知らないのだから、本人よりもシステムのほうがその人のことをよく知るのは、見かけほど難しくはない。
たいていの人は自分のことをあまりよく知らないってのはほんとそうで、確かに自分よりもグーグルやフェイスブックが自分のことを知りつつあるというのは納得感がある。ティッピング・ポイントに到達した時に何が起こるかは非常に興味深い。
ヨーロッパの帝国主義の全盛期には、征服者や商人は、色のついたガラス玉と引き換えに、島や国をまるごと手に入れた。二一世紀には、おそらく個人データこそが、人間が依然として提供できる最も貴重な資源であり、私たちはそれを電子メールのサービスや面白おかしいネコの動画と引き換えに、巨大なテクノロジー企業に差し出しているのだ。
これからは、データの時代に突入する
自由主義に対する第三の脅威は、一部の人は絶対不可欠でしかも解読不能のままであり続けるものの、彼らが、アップグレードされた人間の、少数の特権エリート階級となることだ。これらの超人たちは、前代未聞の能力と空前の創造性を享受する。彼らはその能力と創造性のおかげで、世の中の最も重要な決定の多くを下し続けることができる。彼らは社会を支配するシステムのために不可欠な仕事を行なうが、システムは彼らを理解することも管理することもできない。ところが、ほとんどの人はアップグレードされず、その結果、コンピューターアルゴリズムと新しい超人たちの両方に支配される劣等カーストとなる。
そうなりつつある世界で、超人=価値を生み出せる人間というのはどういうひとたちだろうか?
したがって、より大胆なテクノ宗教は、人間至上主義の 臍の緒 をすぱっと切断しようとする。そういうテクノ宗教は、何であれ人間のような存在の欲望や経験を中心に回ったりはしない世界を予見している。あらゆる意味と権威の源泉として、欲望と経験に何が取って代わりうるのか? 二〇一六年の時点では、歴史の待合室でこの任務の採用面接を待っている候補が一つある。その候補とは、情報だ。最も興味深い新興宗教はデータ至上主義で、この宗教は神も人間も崇めることはなく、データを崇拝する。
しかし欲望がなくなるということはないのでは。それこそ神の手みたいな話で実際は人間は合理的な判断をしていないし、したくもない、のではないだろうか?
一九世紀と二〇世紀には、産業革命がゆっくりと進展したので、政治家と有権者はつねに一歩先行し、テクノロジーのたどる道筋を統制し、操作することができた。ところが、政治の動きが蒸気機関の時代からあまり変わっていないのに対して、テクノロジーはギアをファーストからトップに切り替えた。今やテクノロジーの革命は政治のプロセスよりも速く進むので、議員も有権者もそれを制御できなくなっている。
民主主義がうまく機能していないのではという疑念はテクノロジーの進化が早いからだと。
私たちは、情報の自由と、昔ながらの自由主義の理想である表現の自由を混同してはならない。表現の自由は人間に与えられ、人間が好きなことを考えて言葉にする権利を保護した。これには、口を閉ざして自分の考えを人に言わない権利も含まれていた。それに対して、情報の自由は人間に与えられるのではない。 情報 に与えられるのだ。しかもこの新しい価値は、人間に与えられている従来の表現の自由を侵害するかもしれない。人間がデータを所有したりデータの移動を制限したりする権利よりも、情報が自由に拡がる権利を優先するからだ。
情報の権利の話。「人間がデータを所有したりデータの移動を制限したりする権利よりも、情報が自由に拡がる権利を優先」こんな世の中が来るのかもしれない。今のところGDPRなどみてると逆だが。
ところが二一世紀の今、もはや感情は世界で最高のアルゴリズムではない。私たちはかつてない演算能力と巨大なデータベースを利用する優れたアルゴリズムを開発している。グーグルとフェイスブックのアルゴリズムは、あなたがどのように感じているかを正確に知っているだけでなく、あなたに関して、あなたには思いもよらない他の無数の事柄も知っている。したがって、あなたは自分の感情に耳を傾けるのをやめて、代わりにこうした外部のアルゴリズムに耳を傾け始めるべきだ。一人ひとりが誰に投票するかだけでなく、ある人が民主党の候補者に投票し、別の人が共和党の候補者に投票するときに、その根底にある神経学的な理由もアルゴリズムが知っているのなら、民主的な選挙をすることにどんな意味があるのだろうか? 人間至上主義が「汝の感情に耳を傾けよ!」と命じたのに対して、データ至上主義は今や「アルゴリズムに耳を傾けよ!」と命令する。 あなたが、誰と結婚するべきかや、どんなキャリアを積むべきかや、戦争を始める
合理的な選択をするだけなら本当にこれでいいと思うのだが、そもそも欲望自体はどうするのか。しかしその欲望自体もAIの方が分かるのかもしれない。ただ最後の最後まで結局AIには限界がある気はしている。ひとの気分はいつでも代わりうるし、まったくそれは合理的ではないから
1 科学は一つの包括的な教義に 収斂 しつつある。それは、生き物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理であるという教義だ。
2 知能は意識から分離しつつある。
3 意識を持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが間もなく、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになるかもしれない。この三つの動きは、次の三つの重要な問いを提起する。本書を読み終わった後もずっと、それがみなさんの頭に残り続けることを願っている。
1 生き物は本当にアルゴリズムにすぎないのか? そして、生命は本当にデータ処理にすぎないのか?
2 知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?
3 意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?
意識の方が価値があるというよりは、結局のところ人間は意識でしか無いということなのかなと。なので意識のことをAIが分かるようになったと言っても、結局最後の最後では意識が合理的な判断をしないで欲望に流されることになる。しかしそれすらもアルゴリズムは予想するのかもしれない。ただ複雑性的な考え方では予測できないのではないだろうか。と考えたら、アルゴリズムではないと言える気がする。今僕がこの文章を書いているということは僕の意識がしっかりと認識している。AIにはその目的すら分からない。何を目指しているのか分からないというか欲望のないAIというのはどこに向かうのだろうか。生存本能だけ? しかしAIは永遠に生存している。人間は死ぬ。だからこそ欲望があるのかもしれない。限らえた時間の中で自分なりのやりたいことをやりつくそうとして死んでいく。だからこそ人生に価値がある。AIはずっと存在する。終わりがないということは欲望も持たない。子孫を残したいとも思わないように。この辺りはおもしろいテーマだなと。