残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法/橘玲

お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』などの橘玲氏の新作。知能は遺伝するとか、性格は家庭とは無関係とか、自己啓発では変われないとか、(アメリカ人に比べて)日本人は会社が嫌いだった、とか様々な実験や理論からズバズバ書いていておもしろいです。

全部が全部合っているか分からないにせよ、そういう可能性もある、という前提で世の中を捉える方がいいのだろうなと。今まで常識と思われていたことがことごとく覆る世の中だからこそ、こういうありえる現実に触れるのは重要なんじゃないかと思います。

すごく読みやすいですし、頭のトレーニングになります。

<抜粋>
・ぼくたちの社会では、スポーツが得意ならうらやましがられるけれど、運動能力が劣っているからといって不利益を被ることはない。音楽や芸術などの才能も同じで、ピアノが弾けたり絵がうまかったりすることは生きていくうえで必須の条件ではない。 それに対して知能の差は、就職の機会や収入を通じてすべてのひとに大きな影響を与える。誰もが身に沁みて知っているように、知識社会では、学歴や資格で知能を証明しなければ高い評価は得られないのだ。 もしそうなら、知能が遺伝で決まるというのは不平等を容認するのと同じことになる。政治家が国会で、行動遺伝学の統計を示しながら、「バカな親からはバカな子どもが生まれる可能性が高く、彼らの多くはニートやフリーターになる」と発言したら大騒動になるだろう。すなわち、知能は「政治的に」遺伝してはならないのだ。
・ハリスは、子どもの性格の半分は遺伝によって、残りの半分は家庭とは無関係な子ども同士の社会的な関係につくられると考えた。(中略)子どもは、親や大人たちではなく、自分が所属する子ども集団の言語や文化を身につけ、同時に、集団のなかで自分の役割(キャラ)を目立たせようと奮闘するのだ(『子育ての大誤解』<早川書房>)。 集団への同化と集団内での分化によって形成された性格は、思春期までには安定し、それ以降は生涯変わらない。ぼくたちは長い進化の歴史のなかで、いったん獲得した性格を死ぬまで持ちつづけるように最適化されている。
・もうちょっと正確にいうと、適性に欠けた能力は学習や訓練では向上しない。「やればできる」ことはあるかもしれないけれど、「やってもできない」ことのほうがずっと多いのだ。 こちらが正しければ、努力に意味はない。やってもできないのに努力することは、たんなる時間の無駄ではなく、ほとんどの場合は有害だ。
・中間共同体とは、PTAや自治会、会社の同期会のような「他人以上友だち未満」の人間関係の総称だ。日本や欧米先進諸国では、貨幣空間の膨張によってこうした共同体が急速に消滅しつつある。PTA活動や自治会活動は面倒臭いから、お金を払ってサービスを購入すればいい、というわけだ。 中間共同体が消えてしまうと、次に友情空間が貨幣に侵食されるようになる。友だちというのは、維持するのがとても難しい人間関係だ。それによくよく考えてみれば、たまたま同級生になっただけの他人が、思い出を共有しているというだけで、自分にとって「特別なひと」になる合理的な理由があるわけではない。
・アメリカの有名大学でMBAを取得した優秀なひとたちが、最新のマーケティング理論を引っ提げて起業に挑戦するけれど、ほとんどは失敗する。それは彼らが儲かることをやろうとして、好きなことをしないからだ。 それに対して「好き」を仕事にすれば、そこには必ずマーケットがあるのだから空振りはない(バットにボールを当てることはできる)。ほとんどのひとは社会的な意味での「成功」を得られないだろうけど、すくなくとも塁に出てチャレンジしつづけることはできる。