数十年後の未来を想像する「限界費用ゼロ社会」

IoT(モノのインターネット)がバズワードになっている感もある最近ですが、本書はIoTがなぜ重要で、社会にどのような影響を与え、今後どのようなことが起こりえるのかをあらゆる切り口から描いています。

正直、かなり荒削りな部分があるのは確かで、「え、本気で言ってるの?」と思うことも多々ありました。しかし短期的にはありえなくとも、その方向に世の中が向かっているのは確かであり、であればそうなることを前提にこれからのことを考える方がよいと言えます。

数十年後の未来を想像するのに非常に示唆に富んだ素晴らしい一冊です。

いくつか重要なポイントを抜粋コメントしておきます。

だが依然として権力者たちは、グローバルなエネルギー市場における再生可能エネルギーの将来の占有率を過小に見積もり続ける。その理由の一つは、一九七〇年代のIT業界や電気通信業界と同様、たとえ数十年にわたる累積的な倍増実績を目の当たりにしていても、指数曲線がある時点から大きく変化することを、彼らは予測していないからだ。

カーツワイルはいくぶん楽観的かもしれない。だが、不慮の事態にでも陥らないかぎり、二〇四〇年よりはだいぶ前に再生可能エネルギーによる電力がほぼ八割に達するだろうと、私自身は見ている。

再生可能エネルギーについて、確かにその効率がムーアの法則ばりの指数曲線であがっていくならばまったく別の考えをしなければならない。

新しい3Dプリンティングの革命は、「極限生産性」の一例だ。まだ完全には実現していないが、本格的に拡がり始めれば、いずれ限界費用を必然的にほぼゼロまで減らし、利益を消し去り、(すべてではないが)多くの製品の、市場における資産の交換を無用にするだろう。  製造が大衆化されれば、誰であろうと、そしていずれは誰もが、生産手段へのアクセスを得るので、誰が生産手段を所有して支配すべきかという問いは的外れとなり、それに伴って資本主義も時代遅れになる。

すべてのものが3Dプリンティングで提供されると限界費用がゼロになり、資本主義が時代遅れになると。

レンタル分野が活況を呈するなか、再流通のネットワークでも同じような状況が生じている。プラスチックやガラス、紙などのリサイクルに親しみながら成長してきた若い世代が、今度は自分の所有物のリサイクルに目を向けたとしても何ら不思議はない。リサイクル製品を製造する必要性を削減するために、それぞれの品物のライフサイクルを最大限引き延ばそうという意識は、持続可能性こそが新たな倹約を意味する若い人々にとって、自然と身につく第二の天性のようなものになった。

メルカリはこの流れに乗っている。

今から半世紀後、私たちの孫は、私たちがかつての奴隷制や農奴制をまったく信じられない思いで振り返るのと同じように、市場経済における大量雇用の時代を顧みることだろう。生活の大半が協働型コモンズで営まれるという高度に自動化された世界に生きる私たちの子孫にしてみれば、人間の価値はほぼ絶対的に当人の財やサービスの生産高と物質的な豊かさで決まるという考え方そのものが、原始的に、いや、野蛮にさえ思え、人間の価値をひどく減じるものとしてしか捉えようがないはずだ。

中長期的には、雇用はしだいに市場部門からコモンズへ移ってゆくに違いない。市場経済で財やサービスを生み出すために必要とされる人手は減少する一方で、コモンズでは機械は人の代用として比較的小さな役割しか担えないだろう。なぜなら、社会と深くかかわり、社会関係資本を蓄積するというのは、本質的に人間の営為にほかならないからだ。機械がいつの日か社会関係資本を生み出すという考えには、どれほど熱烈な技術信奉者であっても賛同しない。

そしてコモンズが力を持ち、社会関係資本こそが資本主義の次の拠り所になると。

<抜粋>
・じつは、エントロピーを増大させる一方の工業化時代のつけはすでに回ってきている。厖大な量の炭素エネルギーを燃やして大気中に放出した二酸化炭素が累積し、気候変動が起こり、地球の生物圏が大規模に破壊され、既存の経済モデルに疑問の声が上がっている。それにもかかわらず、経済学は概して、経済活動が熱力学の法則によって左右されるという事実にまだ向き合っていない。
私たちは、資本主義市場と政府の二つだけが経済生活を構成する手段であるという考え方に慣れきっているがゆえに、コモンズというもう一つ別の構成モデルが身の回りに存在していることを見過ごしている。
・しだいに多くの財やサービスがほぼ無料になるにつれ、市場での購入は減少し、これまたGDPにブレーキをかける。依然として交換経済で購入される財でさえ、量が減ってきている。かつては購入していた財を、共有型経済の中で再流通させたりリサイクルしたりする人が増えたため、使用可能なライフサイクルが引き延ばされ、結果としてGDPの損失を招いているのだ。
・縮絨機が劇的な生産性拡大をもたらしたおかげで、土地の利用法が変わった。自給用の食物の栽培から、輸出や市場での交換用の羊毛生産のための羊飼育へと切り替えれば経済的で、非常に大きな利益が生まれるからだ。縮絨機が「一三世紀の産業革命[15]」と言われることがあるのも無理はない。
・古典派と新古典派の経済学者の大半は、利益は自らの資本を危険にさらす資本家に対する正当な報酬だと考えている。だが、社会主義を信奉する経済学者は、若き日のカール・マルクスに賛同するかもしれない。マルクスは、労働者の貢献のうち、本来支払われるべき賃金から差し引かれ、利益として取っておかれる部分(剰余価値)は不正な横領であり、生産を共有化して、労働者に自らの労働による貢献の恩恵を全面的に享受させるほうが公平であると主張した。
・一八四五年には、イギリスの鉄道利用客は年間四八〇〇万人に達していた[10]。アメリカでは、一八五〇年代だけでも二万一〇〇〇マイル(約三万四〇〇〇キロメートル)の線路が敷設され、ミシシッピ川以東の国土の大半を結びつけた[11]。人々の時間と空間の感覚を鉄道がどのように圧縮したかを理解するためには、一八四七年にニューヨークからシカゴまで駅馬車で旅するのに三週間以上かかった事実を考えるとよい。一八五七年には、鉄道を利用すれば同じ区間に三日しかかからなくなっていた[12]。
・実質的に鉄道会社は、近代的な資本主義の事業会社の第一号となった。これらの会社は、所有権と経営管理を分離する新しいビジネスモデルを生み出した。それ以後、大企業は、投資収益を株主のために確保することを最大の責務とする、有給雇用のプロの経営者によって経営されるようになる。資本主義は独特かつ風変わりな事業形態で、従業員は製品を生み出す道具・機械の所有権を奪われ、企業を所有する投資家は自らの企業を経営管理する権限を奪われている。
・小さな町や田園地帯に住む何百万ものアメリカ人は、事務機器や家庭用家具、衣服の事実上いっさいを、シカゴの大手印刷会社が印刷したカタログを見て購入した。品物は鉄道で運ばれ、郵政公社の手で企業や家庭に直接配達された。一九〇五年、シアーズの通信販売の売上は、なんと二八六万八〇〇〇ドルにのぼり、これを二〇一三年の価値に換算すると、七五四七万三六八〇ドルに相当する[26]。
・ダーウィンは二番目の著書『人間の進化と性淘汰』で、人間は心的能力を進化させて良心を育み、その良心の働きによって、最大多数の最大幸福を支持する功利主義的原理をしだいに忠実に守るようになったと主張した。経済学者はダーウィンの考えから、自らの唱える功利主義には「自然という後ろ盾」があるという自信を得られた。  ところがダーウィンは、自分の進化論が盗用されたことが不満だった。けっきょくのところ彼は、人間という種の持つ功利的性質は、ずっと高次のもの──人々の間で共感の拡がりと協力を促すもの──だと主張していたのであって、自らの見識が、物質的私利の集団的な追求を正当化するというもっぱら経済的な目的に狭められたのを知って、立腹した。もっともな話だ。
・経済が発展した国々では、たいていの人がおよそ一〇〇〇個から五〇〇〇個のモノを持っている[19]。法外な数に思えるかもしれないが、自宅や車庫、自動車、オフィスを見回して、電動歯ブラシに電子書籍、ガレージドア開閉装置、建物の出入り用の電子パスといったものを数えてみれば、自分がどれだけ多くのデバイスを持っているかに驚くものだ。こうしたデバイスの多くには、今後一〇年ほどの間にタグがつき、インターネットを使って自分のモノと他のモノとをつなげることになるだろう。
・懐疑的な見方をする人は、成長曲線は、固定価格買取制度という形の、グリーンエネルギーへの助成金によって梃入れされていると主張する。だが現実には、助成金は単に普及と規模拡大の速度を上げ、競争を促し、イノベーションを奨励しているにすぎない。それによって、さらに再生可能エネルギーの採取テクノロジーの効率が上がり、発電と設置にかかるコストが下がる。
・だが依然として権力者たちは、グローバルなエネルギー市場における再生可能エネルギーの将来の占有率を過小に見積もり続ける。その理由の一つは、一九七〇年代のIT業界や電気通信業界と同様、たとえ数十年にわたる累積的な倍増実績を目の当たりにしていても、指数曲線がある時点から大きく変化することを、彼らは予測していないからだ。
・カーツワイルはいくぶん楽観的かもしれない。だが、不慮の事態にでも陥らないかぎり、二〇四〇年よりはだいぶ前に再生可能エネルギーによる電力がほぼ八割に達するだろうと、私自身は見ている。
・新しい3Dプリンティングの革命は、「極限生産性」の一例だ。まだ完全には実現していないが、本格的に拡がり始めれば、いずれ限界費用を必然的にほぼゼロまで減らし、利益を消し去り、(すべてではないが)多くの製品の、市場における資産の交換を無用にするだろう。  製造が大衆化されれば、誰であろうと、そしていずれは誰もが、生産手段へのアクセスを得るので、誰が生産手段を所有して支配すべきかという問いは的外れとなり、それに伴って資本主義も時代遅れになる。
・グラム・パワー社以外にも、インドの田園地帯に展開し、地元の村がグリーンなマイクロ送電網を設置して電気を普及させるのを助けている新規企業は多数ある。ビハール州に本拠を置くハスク・パワー・システムズ社も、そんな企業の一つだ。ビハール州では、八五パーセントの住民が電気なしで暮らしている。同社は、籾殻のバイオマスを地元の九〇か所の発電所の燃料としている。これらの発電所はマイクロ送電網を利用し、田園地帯の四万五〇〇〇世帯に電気を供給する。人口一〇〇人程度の村にマイクロ送電網を設置する費用はわずか二五〇〇ドルほどで、村はほんの数年で投資を回収でき、その後は、電気を一キロワット発電・送電するごとにかかる限界費用はほぼゼロとなる[42]。
・製造部門で、テクノロジーが原因の人員削減が現在の割合で続くと(業界アナリストは加速する一方だと見ている)、二〇〇三年には一億六三〇〇万人いた工場労働者は、二〇四〇年にはわずか数百万人にまで減り、世界全体で工場での大量雇用が終焉を迎えることになるだろう[21]。
・実店舗で営業している小売業者の売上は、好調とまではゆかないまでも、表面上は堅調そのものに見える。これらの業者の売上は、二〇一一年の小売全体の売上の九二パーセントを占め、オンライン小売業者の売上はわずか八パーセントだった[27]。だが、もう少し深く覗いてみると、成長率では不吉な前兆が出始めている。アメリカ小売業協会によれば、実店舗で営業する小売業者は年間成長率がわずか二・八パーセントなのに対し、オンライン小売業者の年間成長率は一五パーセントで、固定費が大きく人件費も多くかかる従来型の小売業者が、労働の限界費用がはるかに少ないオンラインの業者といつまで闘えるかという疑問が生じる[28]。
この期に及んでもまだ、古典派経済理論の根底にある前提──生産性が向上すれば、それによって排除されるよりも多くの雇用が生み出される──がもはや信頼できるものではないと、前に進み出てついに認めようとする経済学者がほとんどいないことに、私は今でもいささか驚きを禁じえない。
・今から半世紀後、私たちの孫は、私たちがかつての奴隷制や農奴制をまったく信じられない思いで振り返るのと同じように、市場経済における大量雇用の時代を顧みることだろう。生活の大半が協働型コモンズで営まれるという高度に自動化された世界に生きる私たちの子孫にしてみれば、人間の価値はほぼ絶対的に当人の財やサービスの生産高と物質的な豊かさで決まるという考え方そのものが、原始的に、いや、野蛮にさえ思え、人間の価値をひどく減じるものとしてしか捉えようがないはずだ。
・所有権の歴史の分野における二〇世紀の名高い権威で、トロント大学教授の故クロフォード・マクファーソンは、次のように指摘している。私たちは所有権を、他者が何かを利用したり、何かの恩恵に与ったりするのを許さない権利だと考えることにあまりにも慣れ過ぎているため、それより古い所有権の概念のことを忘れてしまった。それは共有物を利用する慣習的な権利、すなわち、水路を自由に航行したり、田舎道を散歩したり、公共広場を利用したりする権利だ[5]。
・ここで、たいていの経済学者は途方に暮れるだろう。なぜなら彼らの学問は、人間の本性はあくまで利己的で、各自が自己決定権を最大にしようとするという考えと、切っても切れない関係にあるからだ。集団の利益を追求することを進んで選ぶという考えそのものが、多くの市場志向型の経済学者に忌み嫌われている。彼らは、進化生物学者と神経認知科学者の研究成果について猛勉強すると得るところが大きいかもしれない。過去二〇年間に数多くの調査と発見がなされ、人類は根底では他人を搾取して自らを豊かにする機会を求め、市場を徘徊して実利を追求する一匹狼だ、という長い間信じられてきた考えが打ち砕かれているからだ。
・ところが残念ながら、グーグルやフェイスブックやツイッターといった、ウェブ上でも最大級のアプリのいくつかは、自らをここまで大きな成功に導いてくれた、まさにその参加規程を金儲けの種にし、自社のサービスで伝送されるビッグデータから入手した大量の情報を、ターゲット広告、販売キャンペーン、市場調査、新しい財やサービスの開発などの多くの商業的事業に利用する、営利目的の入札者や事業者に売っている。要するに、コモンズを商売に利用しているのだ。バーナーズ=リーは自らの記事で、「大きなソーシャルネットワーキング・サイトは、ユーザーが投稿した情報を壁で囲ってウェブの他の部分から引き離し」、囲い込んだ商業空間を創り出していると警告している[16]
・今日、九〇〇の非営利の農村電力協同組合が、四七州で二五〇万マイル(約四〇〇万キロメートル)に及ぶ送電線を管理して、四二〇〇万人の顧客に電力を供給している。アメリカの送電線の四二パーセントは農村電力協同組合によるものだ。その送電線は、国土の四分の三に張り巡らされており、アメリカで売られる総電力の一一パーセントを届けている。各地の農村電力協同組合の資産を合計すると、一四〇〇億ドルを超える[59]。
実際は、現在一〇億を超える人、つまり地球上の人間の七人に一人が協同組合に所属している。また、一億人以上が協同組合に雇用されており、これは多国籍企業の従業員より二割多い。
ロジスティクスを単独で行なうことには欠点がある。ロジスティクスや輸送に関して、社内のトップダウンの集中制御を維持すれば、民間企業は自社の生産、保管、流通経路を強力に支配できるが、その支配には効率や生産性を損ない二酸化炭素の排出量を増やすという高い代償が伴う。
・現在のロジスティクス体制では、ほとんどの民間企業が一つもしくは複数の倉庫や流通センターを所有しており、その数が二〇を超えることはめったにない。独立した倉庫や流通センターのほとんどは、普通、民間企業一社と専用契約を交わしており、一〇社以上のロジスティクスを扱うことは稀だ。つまり、民間企業には利用できる倉庫や流通センターがわずかしかなく、それが財の保管や大陸の広域輸送業務を制約しているわけだ。
アメリカでは、自動車は使用されていない時間が平均で九二パーセントにものぼり、きわめて効率の悪い固定資産になっている[11]。そのため、若い人々には所有ではなく、時間単位で移動手段の費用を負担するほうが、はるかに気安く思われるのだ[12]。
カーシェアリング団体の会員の八割が、ネットワーク加入後、それ以前に保有していた自動車を売却したこと、そしてカーシェアリングの車両一台につき個人所有の車一五台が道路上から姿を消していることを思い出してほしい。すでに利鞘はごくわずかで、競争を継続する余力も乏しい自動車メイカー各社は、この新たな競争自体で売上が下落し、すでに微々たるものになっている利鞘がさらに圧縮されるだけであっても、カーシェアリング事業に乗り出さざるをえないのだ。
・レンタル分野が活況を呈するなか、再流通のネットワークでも同じような状況が生じている。プラスチックやガラス、紙などのリサイクルに親しみながら成長してきた若い世代が、今度は自分の所有物のリサイクルに目を向けたとしても何ら不思議はない。リサイクル製品を製造する必要性を削減するために、それぞれの品物のライフサイクルを最大限引き延ばそうという意識は、持続可能性こそが新たな倹約を意味する若い人々にとって、自然と身につく第二の天性のようなものになった。
・スレッドアップの指摘によると、子供が一七歳までに着られなくなってしまう衣料品は、平均で一三六〇点以上にもなるという[43]。
・シェアードアースは有意義な影響を与えうる存在であると思うし、そうした影響を与えることが私の希望でもある。一〇〇〇万エーカーの耕作地があると、ちょっと想像してみてほしい。そうした土地は、多くの酸素を生成し、多くの二酸化炭素を吸収し、多くの食物を生み出すのだ[51]。
・クラウドファンディングの熱烈な支持者は、お金が目当てではないことを強調する。彼らは、他者が夢を追いかけるのをじかに支援できることを喜び、自分のささやかな貢献が大きな効果を持つこと──すなわち、プロジェクトを前進させる上できわめて重要であること──を実感しているのだ。ガートナー社の推計によると、ピアトゥピアの融資額は、二〇一三年末には五〇億ドルを超えると見られる[11]。
・だが中長期的には、雇用はしだいに市場部門からコモンズへ移ってゆくに違いない。市場経済で財やサービスを生み出すために必要とされる人手は減少する一方で、コモンズでは機械は人の代用として比較的小さな役割しか担えないだろう。なぜなら、社会と深くかかわり、社会関係資本を蓄積するというのは、本質的に人間の営為にほかならないからだ。機械がいつの日か社会関係資本を生み出すという考えには、どれほど熱烈な技術信奉者であっても賛同しない。
・ワールド・ウォッチ研究所(人間が地球資源に与える影響を監視している組織)の創立者であるレスター・ブラウンは、答えはどういった食生活を選ぶかによって決まるという。アメリカの食生活を基準にすれば、年間一人当たり平均八〇〇キログラムの穀物を、食糧や家畜の飼料という形で摂取することになる。世界中の誰もがこのような食生活を送っていたら、年間二〇億トンという世界の穀物収穫量では、二五億人の世界人口しか支えられない。これに対して、年間穀物摂取量が一人当たり四〇〇キログラムのイタリア・地中海地方の食生活を基準にすれば、世界の年間穀物収穫量で五〇億の人口を維持できる。さらに、年間穀物摂取量が一人当たり二〇〇キログラムのインドの食生活を基準にすれば、地球は最大で一〇〇億人を養えることになる。
・二〇世紀には、中央集中型の電化、石油、自動車輸送が結びつき、大量消費社会が台頭し、またしても新たな認識上の移行、すなわちイデオロギー的意識から「心理的意識」への移行をもたらすことになった。私たちにとって、セラピーのように自らを省みることや、内面世界と外界の双方を同時に生きていると考えることは(それが人づき合いや日々の生活にたえず影響を及ぼしているのだが)、しごく当たり前になった。そのため、私たちはつい、祖父母以前の人々は誰一人として(厳密には、歴史上傑出したごくわずかの例外者を除いては)、心理的観点から考えることなどできなかったという事実を失念してしまう。私の祖父母はイデオロギー的観点や神学的観点、あるいは神話的観点からさえ、物事を眺められたが、心理的観点に立つことはまったく不可能だったのだ。
共感を抱くとはすなわち、文明化することであり……文明化するとは、共感を抱くことにほかならない。じつのところ、両者は不可分なのだ。
・人類の歩んだ歴史を振り返ると、幸福は物質主義ではなく、共感に満ちたかかわりの中に見出されることがわかる。人生の黄昏時を迎えて来し方を振り返ったとき、記憶の中にはっきりと浮かび上がるのが物質的な利得や名声、財産であることはほとんどないだろう。私たちの存在の核心に触れるのは、共感に満ち溢れた巡り会いの瞬間──自分自身の殻を抜け出して、繁栄を目指す他者の奮闘を余すところなく、我がことのように経験するという超越的な感覚が得られた瞬間なのだ。  
・資本主義市場と共有型経済の両方から成るハイブリッドの経済体制に向かおうとしているのに対して、日本は、老朽化しつつある原子力産業を断固として復活させる決意でいる堅固な業界と、日本経済を方向転換させて、スマートでグリーンなIoT時代への移行によってもたらされる厖大な数の新たな機会を捉えようとする、新しいデジタル企業や業界との板挟みになってもがいている。
・この新たな現実が最も如実に表れているのが、新しい再生可能エネルギーへの移行だ。すでに述べたように、ドイツでは再生可能エネルギーの大半が、いっしょになって電力協同組合を結成した何百万もの家庭と何千、何万もの企業によって、おのおのの場所で生み出されている。そのグリーン電力はデジタル化されたエネルギー・インターネット全体でシェアされる。これはピアトゥピアのエネルギー生産・流通という新時代の始まりを告げている。