ソニー創業者井深氏の語る「わが友 本田宗一郎」

ソニー創業者の井深大氏が親交の深かったホンダ創業者の本田宗一郎について語った本。戦後超一流のベンチャーを生み出した経営者たちがどのような関係性で、どのようにお互い見ていたのかが見て取れて非常におもしろかったです。

ものをつくる苦労や喜びを知っている人は、自分の失敗を、そう簡単に人のせいにはしません。失敗したのは、自分がどこか間違っていたからだということがわかっているからです。失敗を人のせいにしていたら、いつまでたっても、新しいものなどつくれっこありません。  逆にいえば、ものをつくっていればこそ、ほんとうの自信なども生まれてくるのです。本田さんの生き方は、ご存じのように、たいへん堂々として男らしいものでしたが、その自信も、ものをつくっているところに源があったのだと思います。  ものづくりにこだわり、生涯、ものをつくることに情熱を傾けた本田さんの姿勢を、いまの人たちがもっと学んでほしいと願うのは、おそらく私ひとりではないでしょう。

僕もものづくりにこだわってやっていきたいと思いました。

<抜粋>
本田さんは、私にとって、かけがえのない兄貴であり、先輩でありました。  よく人に聞かれるのですが、私と本田さんは仕事の面でもいろいろなつながりがあったように思っている人もいるようです。しかし、仕事のことで直接相談したり、いっしょに仕事をしたということは、四十年間のおつきあいのなかで一度もありませんでした。まして、困ったからあいつに助けてもらおう、などということはまったくありません。お互いに、相手の会社や仕事のことには口を出さないという不文律のようなものがあったのです。本田さんも私も、仕事では自分勝手というかわがままというか、唯我独尊のところがありますから、もしふたりが仕事を媒介につながっていたら、すぐけんか別れをしていたかもしれません。
・技術者として、本田さんと私とのあいだに共通していたのは、ふたりとも、厳密にいえば技術の専門家ではなく、ある意味で〝素人〟だったということでしょう。  技術者というのは、一般的にいえば、ある専門の技術を持っていて、その技術を生かして仕事をしている人ということになるでしょう。しかし、私も本田さんも、この技術があるから、それを生かして何かしようなどということは、まずしませんでした。最初にあるのは、こういうものをこしらえたい、という目的、目標なのです。それも、ふたりとも人真似が嫌いですから、いままでにないものをつくろうと、いきなり大きな目標を立ててしまいます。この目標があって、さあ、それを実現するためにどうしたらいいか、ということになります。この技術はどうか、あの技術はどうか、使えるものがなければ、自分で工夫しよう、というように、すでにある技術や手法にはこだわらず、とにかく目標に合ったものを探していく――そんなやり方を、私も本田さんもしていました。
・社長として、会社の経営をちゃんとやろうなどという考えは、おそらく本田さんにはいっさいなかったでしょう。本田さんが、六十六歳で社長をやめ、以来、会社の経営にはいっさい口出しをしなかったということが話題になっていますが、実際のところは、最初から社長でなかった、と言ったほうが、本田さんの本心に近いかもしれません。会社を自分の思うように動かしていこうなどという考えはまったくなく、自分がこれをつくろうと思ったら、その目的に向かってとにかく進んでいくだけでした。途中のプロセスにどんな困難があるかということなどは、最初からまったく頭にはなく、あるのは「こういうものをつくりたい」という目的だけ。
長いつきあいのなかでも、ふたりのあいだでは経営の話なんていうのは、まず出てきませんでした。ふたりとも経営者としては失格だったのですが、ご存じのように、それぞれ藤沢武夫、盛田昭夫といういい相手がいたからこそ、ここまでやってこられたわけです。
・本田さんがいつも研究所にいて、本社にはほとんど顔を出さず、ハンコから何から会社のことはすべて藤沢さんにまかせておいたというのは有名な話ですが、私も、そろばん勘定などめんどうなことは、すべて盛田君がやってくれました。自分の夢を実現することだけを考えて、一生懸命やっていればいい。そういう状態をつくってくれる人たちに恵まれていたという点で、私たちふたりはほんとうに幸せだったと思います。
・私が、本田さんを高く評価する点は、大きくいって二つあります。ひとつは、技術者としての志の高さというか、完璧なエンジンづくりを目指したその姿勢です。もうひとつは、会社のことだけでなく、広く世の中のことや、みんなが上手に幸せに暮らしていけることをつねに考え、ほんとうの意味での「真理」を自分のできることで実行し、一生を貫いた存在だった、ということです。
・もともと、日本の産業界というのは、外国からモノを持ってきては、それを見本に同じものをつくりだす、ということから始まっていて、いまでも、それが半ば体質のようになっています。新しい技術にしても、ひとつの会社が新しいものをつくり出すと、それまで無理だ、不可能だと言っていた他社も、すぐ同じものをつくるようになります。そういうところは、日本人は上手なのです。
・本田さんのオートバイエンジンのときも、同じようなことが起こりました。この、まったく新しいエンジンに刺激され、各社が競いあって技術開発に取り組んだ結果、日本のオートバイの技術レベルはいっきょに世界の先をいくものに飛躍したのです。  ですから、人真似が上手ということは、けっして悪いことだとは、私は考えていません。一社だけが独占している状態より、各社が競争しあったほうが、よりいいものができあがってくるからです。ただ、人の真似をしているよりは、日本で初めて、世界で初めてというものをつくったほうが、人より一歩先に進むことができます。ホンダやソニーが大きくなれたのも、それがあったから、という話なのです。
ソニーでやったことも同じです。トランジスタの周波数をどんどん上昇させて、世界ではじめての短波ラジオができ、FMラジオもできた。ものをつくる、ものを変えるということをしなければ、新しいものなどできてこないのです。本田さんは、このものづくりに徹底的にこだわったのです。本田さんが他の経営者とちがっていたのも、ものをつくる喜びを知っていたからです。そんな本田さんだからこそ、紙切れを売り買いするばかばかしさなども、よくご存じだったのですし、また、日本をよくしたいと本気になって考えておられたのです。
・ものをつくる苦労や喜びを知っている人は、自分の失敗を、そう簡単に人のせいにはしません。失敗したのは、自分がどこか間違っていたからだということがわかっているからです。失敗を人のせいにしていたら、いつまでたっても、新しいものなどつくれっこありません。  逆にいえば、ものをつくっていればこそ、ほんとうの自信なども生まれてくるのです。本田さんの生き方は、ご存じのように、たいへん堂々として男らしいものでしたが、その自信も、ものをつくっているところに源があったのだと思います。  ものづくりにこだわり、生涯、ものをつくることに情熱を傾けた本田さんの姿勢を、いまの人たちがもっと学んでほしいと願うのは、おそらく私ひとりではないでしょう。
・井深 企業というものは、激しい競争をやって進歩発展していくんですね。ウカウカしてると、競争に負けてつぶれますよ。競争がないと、これはアグラをかいちゃってダメになる。わたしのところは、テープレコーダーを始めてから五年間くらい、モノポリー(独占)だった。ぜんぜん競争相手がなかったんです。そのときは伸びが遅々としていたんですね。そのうちに競争が始って、よそのがバーッと出てきたら、ウチのがバーッと伸びたんです。一社だけでは油断するんだな。競争は必要ですよ。  本田 宣伝力も一社でやるより、各社でやったほうが強いんです。しかし、企業をやってると、これで大丈夫と思うことはないな。それと、周囲が敵だとファイトがわいてくるんだな。しっかりしなきゃならんと思うからね。
本田技研がなぜここまで伸びたかといえば、本田技研には伝統がなかったということがいえると思う。過去がないから未来しかない。それだけに、古い過去のひっかかりにわずらわされずにのびのびとやれた。だから僕は、よその会社のように、やれ五十年とか三十年の歴史と自慢するような伝統は持たせたくない。強いて伝統という言葉を使うならば、伝統のない伝統、「日に新た」という伝統を残したい。
・また、私がトランジスタの開発に踏みきったのも、じつをいえば、そのころテープレコーダーのテープの開発が一段落し、五十名ほどいた技術者をどうするかという問題をかかえていたからこそなのです。みな大学や専門学校を卒業した高学歴社員で、彼らにしかるべき地位を与えるのがそのころの常識だったので、その悩みで頭がいっぱいでした。そんなとき、トランジスタという新しい技術開発の目標に飛びついたのです。
以前、本田さんが藍綬褒章をもらうことになったとき、皇居で行なわれる伝達式に、正装して出席するようにといわれて、「真っ黒になって働く人間にとって、作業服こそ何よりも尊い制服だ」と言い出して、周囲をおおいに困らせたという話は有名です。
・こうした世間の評判というのは、かなりいい加減なところがあって、本田さんも、マスコミでの自分の評価があまりにコロコロ変わるのにあきれていたことがあります。そんな世間の〝常識〟や評判にとらわれず、自分の考え方を貫いていった本田さんですが、それにしても、たとえへ理屈にせよ、女性に喜ばれる車が売れる車だと言っているのは、本田さんならではの卓見でしょう。
・ちょっと理屈をいうようですが、人間というのは、大人でも子どもでも、自分が見たい、知りたいと思ったことが、簡単に手にはいってしまうと、それ以上、興味を持たなくなりがちです。なかなか手にはいらないからこそ、興味もますますつのってきて、実際に手にはいったときでも、もっと一生懸命やろうとするのです。教育の原点はここにあるような気がしますが、その後、生涯にわたる本田さんの飛行機への関心は、このとき、強く芽生えたのではないでしょうか。そして、私の飛行機への関心は、さほど大きくならないまま、終わってしまったというわけです。
最初から世界一なんて思いもしなかった。せいぜいよくてでっかい企業になればいいなあと思ったぐらいだよ。はじめはこれをやるといった目的のためにやったのじゃない。どんな企業でも同様だと思う。それが一歩一歩進んでいくうちに欲が出てだんだんと夢も大きくなる。つまり欲の積み重ねが、ここまできたというのが現実ですよ。
井深 ウチでも輸出をはじめたのはトランジスタラジオができてからだった。トランジスタは世界で二番目だった。たまたま盛田君がオランダへ行ってフィリップスを見学したが、オランダという小国にありながら世界中に進出して国内市場よりも世界のマーケットが大きかった。そこで日本はこれだと悟って帰国しましてね。それから輸出をはじめたわけです。  本田 トランジスタラジオはソニーにとって大きな節だったね。
「負けてもいいんだという商売をやっている人は、いつまでたっても、他のものも上がってこない。商売でなくても、他では負けないというだけの気持ちがないと、その会社のレベルは上がってこない」とも、おっしゃっていました。本田さんも私も、要するに、負けず嫌いだったから、ここまできたようなものです。
・やはり、各人が一番得意なものに全精力を打ちこんで人に惜しみなく与え、自分の欠陥は人に補ってもらうというのが、道徳教育の基本になるべきである。一生かかって一点非のうちどころのない人間に仕立てあげようとしたって、夜になれば酒も飲みたいだろうし、女房にはうそもつきたい人生なんだから、無理な話である。(『ざっくばらん』より)