元祖技術ベンチャーに学ぶ「本田宗一郎 夢を力に―私の履歴書」

インターネット関連の日本企業で世界で大成功した例というのはないわけなのですが、過去を振り返れば、自動車、電機、ゲームなどで世界的ブランドとなった日本企業は多々あります。最近はそういった会社がどのように海外で成功してきたかに興味があります。

ホンダはその一例であり、トヨタに比べれば会社が小さな時代から東南アジアでなくアメリカに進出し成功した点や、強力な創業者に率いられた技術ベンチャーである点などから非常に参考になるのではないかと思っています。

抜粋コメント形式で、勉強になった部分をあげておきます。

二十五歳のときには、もう月々千円もうけるのは軽かった。二十二歳のとき一生かかって千円ためようと思ったことが、わずか数年で毎月千円以上もうかるようになったのだ。工員は五十人ぐらいにふえ、向上もどんどん拡張した。そして収入がふえてくるとそれだけに遊びも激しくなり、金をためようという気などはどこかへ行ってしまった。

若さとカネにものをいわせて芸者を買っては飲めや歌えの大騒ぎをしたり、芸者連中を連れて方々を遊び回った。

本田宗一郎は藤沢武夫と組んでホンダを世界的企業に育てたのですが、実はその前から東海精機という会社はかなりの成功を収めており経営者としての素地はありました。戦後にトヨタに売りしばらくフラフラした後に作ったのがホンダでした。当時39歳。僕は二社目作ったのが35歳なのでまだまだ時間はありそうです。

二人の創業者は八重洲の本社から離れて、文字通りの分業体制に入った。以降、二人が引退するまで顔を合わせるのは料理屋で年に数回程度というから、我が道を行くスタイルは徹底している。

どのように経営していたのか結構謎ですが、この後4人の後継者にあっさりと後を譲りかつそれが成功していることから、早い段階から世界的に相当な分業体制ができあがっていたのだろうと推測します。世界的な企業になるにはこれくらいの分業体制でないといけないのかもしれません。

技術があれば何でも解決できるわけではない。技術以前に気づくということが必要になる。日本にはいくらでも技術屋はいるが、なかなか解決できない。気づかないからだ。もし気づけば、ではこれを半分の時間でやるにはどうすればいいかということになる。 そういう課題がでたときに技術屋がいる。気づくまではシロウトでもいい。そういういちばん初歩のところを、みんな置き忘れているのではないかという気がしてならない。

技術があるという前提では、確かに「気づく」の重要さは軽視されているように思います。逆に優れた技術者とは「気づく」のがうまいとも言えると思います。

ものを作ることの専門家が、なぜシロウトの大衆に聞かなければならないのだろうか。それでは専門家とは言えない。どんなのがいいかを大衆に聞けば、これは古いことになってしまう。シロウトが知っていることなんだから、ニューデザインではなくなる。 大衆の意表にでることが、発明、創意、つまりニューデザインだ。それを間違えて新しいものを作るときにアンケートをとるから、たいてい総花式なものになる。他のメーカーの後ばかり追うことになる。 つまり職人になっちゃう。

インターネット・サービスでも使ってみて「おお!」と意表をつく体験があるサービスこそが広まってきたと思います。意表をつくサービスを作っていきたいです。

<抜粋>
・二十五歳のときには、もう月々千円もうけるのは軽かった。二十二歳のとき一生かかって千円ためようと思ったことが、わずか数年で毎月千円以上もうかるようになったのだ。工員は五十人ぐらいにふえ、向上もどんどん拡張した。そして収入がふえてくるとそれだけに遊びも激しくなり、金をためようという気などはどこかへ行ってしまった。
・若さとカネにものをいわせて芸者を買っては飲めや歌えの大騒ぎをしたり、芸者連中を連れて方々を遊び回った。
・事業主としてのこの間の生活は遊びどころでなく、非常に苦しい日々が続いた。だがピストンリングの製作に成功すればどうにかなるという前途に期待をかけ、みんな励まし合ってこの苦しさと戦った。 どうにか物になるピストンリングの製作に成功したのは昭和十二年(1937年)十一月二十日だった。製作にとりかかってからすでに九か月すぎていた。大勢の工員をかかえ製品なしの辛苦の九か月間だった。
・戦時中トヨタの資本が四十%はいり資本金百二十万円の会社に成長してピストンリングの生産は本格化した。そのときトヨタから取締役としてはいって来たのが石田退三さん(トヨタ自工会長)だった。
東海精機の株主であるトヨタからはトヨタの部品を作ったらという話があったが、私は断然断って私の持ち株全部をトヨタに売り渡し身を引いてしまった。戦時中だったから小じゅうと的なトヨタの言うことを聞いていたが、戦争が終わったのだからこんどは自分の個性をのばした好き勝手なことをやりたいと思ったからである。
私はずいぶん無鉄砲な生き方をしてきたが、私がやった仕事で本当に成功したものは、全体のわずか一%にすぎないということも言っておきたい。九九%は失敗の連続であった。そしてその実を結んだ一%の成功が現在の私である。その失敗の陰に、迷惑をかけた人たちのことを、私は決して忘却しないだろう。
・「どうにも納得できないということで、僕も暴れたわけで。特振法とは何事だ。おれにはやる権利がある。既存のメーカーだけで自動車をつくって、われわれがやってはいけないという法律をつくるとは何事だ。自由である。大きな物を永久に大きいと誰が断言できる。歴史を見なさい。新興勢力が伸びるに決まっている。そんなに合同(合併)させたかったら、通産省が株主になって、株主総会でものを言え、と怒ったのです。うちは株主の会社であり、政府の命令で、おれは動かない
・「強力な創業者がいて、しかもその人が技術的にトップに立っている。加えて、過去にどえらい成功体験を持っている。そういうリーダーがいるということは、行く所まで行ってしまわないと、途中で止めるということはとてもできない企業体質だった」(注:技術研究所所長杉浦英男)
・二人の創業者は八重洲の本社から離れて、文字通りの分業体制に入った。以降、二人が引退するまで顔を合わせるのは料理屋で年に数回程度というから、我が道を行くスタイルは徹底している。
「資本主義の牙城、世界経済の中心であるアメリカで成功すれば、これは世界に広がる。逆にアメリカで成功しないような商品では、国際商品になりえない。やっぱりアメリカをやろう」
「実はシビックが発売四年目で大ヒットしたので、鈴鹿製作所に増産のための第二ラインを新設することを一度取締役会で決定した。しかし、社長だった僕はどうにも乗り気になれない。この計画を実行すると、トヨタと全面戦争になる。それは得策じゃない。当時のホンダとトヨタでは、十両にも上がっていない力士が横綱に挑むようなものだった」と決断した河島は「それならいっそ、アメリカに工場を造ろうじゃないか」と川島、西田の両副社長に提案した。
・技術があれば何でも解決できるわけではない。技術以前に気づくということが必要になる。日本にはいくらでも技術屋はいるが、なかなか解決できない。気づかないからだ。もし気づけば、ではこれを半分の時間でやるにはどうすればいいかということになる。 そういう課題がでたときに技術屋がいる。気づくまではシロウトでもいい。そういういちばん初歩のところを、みんな置き忘れているのではないかという気がしてならない。
・ものを作ることの専門家が、なぜシロウトの大衆に聞かなければならないのだろうか。それでは専門家とは言えない。どんなのがいいかを大衆に聞けば、これは古いことになってしまう。シロウトが知っていることなんだから、ニューデザインではなくなる。 大衆の意表にでることが、発明、創意、つまりニューデザインだ。それを間違えて新しいものを作るときにアンケートをとるから、たいてい総花式なものになる。他のメーカーの後ばかり追うことになる。 つまり職人になっちゃう。

Google文化がいかにしてできたか「How Google Works」

グーグル前CEOのエリック・シュミットと、前プロダクト担当SVPジョナサン・ローゼンバーグによるGoogleの仕事の進め方。今はGoogle出身者も増えてきてGoogle的経営を取り入れたりその話も表に出てきていますが、それでもどのようにGoogleという特異なベンチャーが生まれ育ってきたかをまとめた本書はすごく刺激的で勉強になりました。

ただ、これらは創業者の二人含めた経営陣が(に限らずGoogleのひとびとも)時に失敗もしながらいろいろと試行錯誤して見つけてきた新しいやり方であって一朝一夕にできたものではありません。僕も経営者として、参考にしながらも、自分たち独自のやり方を見つけていかなければならないなと思いました。

最近思っているのは、普通のやり方をしていたら普通の結果しか出ないということです。

本当にスゴいことをやりたければ、常識に逆らったやり方をしなければならない。これを肝に銘じて「最高のプロダクト」を作ることを目指していきたいと思います。

<抜粋>
・競合の脅威に対抗するための先述もいくつか挙げていたが、基本的にマイクロソフトに立ち向かうには最高のプロダクトを作るしかない。
・「企業は何か価値のあることをするために存在する。社会に寄与する存在だ。(中略)まわりを見ると、いまだにカネ以外に興味のない人間もいるが、根本的な意欲というのはもっと別のこと、すなわちプロダクトをつくり、サービスを提供するなど、一般的に何か価値のあることをしたいという欲求から生まれるものなのだ」(注:デビッド・パッカード)
(注:上場時)創業者たちは短期利益の最大化や自社株に対する市場の評価などは一切気にしなかったのだ。会社のユニークな価値観を未来の従業員やパートナーに示すことのほうが、長期的成功にははるかに重要であることを知っていたからだ。いまでは10年も前の株式公開の難解な仕組みなど忘却の彼方だが、「長期的目標に集中する」「エンドユーザの役に立つ」「邪悪にならない」「世界をより良い場所にする」といったフレーズは、いまも会社のあり方をよく言い表している。
私たちがオフィスに投資するのは、社員に自宅からではなく、オフィスで働いてもらおうと考えているからだ。通常の勤務時間内に自宅から遠隔勤務をすることは、先進的経営の証であるかのように思われることも多いが、問題もある。ジョナサンがよく言うことだが、会社全体に広がると職場から生気が失われるリスクがあるのだ。
・彼らにとって「異議を唱える義務」を重んじる文化は、背中を押してくれるものだ。だが、反対意見を述べること、とくに人前でそうすることが苦手な人もいる。だから異議を唱えることを「任意」ではなく「義務」にする必要があるのだ。
目安として、CEOがスタッフ・ミーティングを開くときには出席者の少なくとも50%を、プロダクトやサービスのエキスパートとしてプロダクト開発に責任を負っている人たちにしたい。
ではなぜ、採用を担当者だけに任せるのだろう? 全員がそのスゴイ知り合いを連れてくるべきではないか? 常にずばぬけて優秀な人材が集まってくる、優れた採用文化を醸成する第一歩は、候補者を発掘するうえで採用担当者が果たす役割を正しく理解することだ。ポイントは、候補者の発掘は採用担当者の独占的業務ではない、ということだ。(中略)人材を探すのは全社員の仕事であり、この認識を会社に浸透させる必要がある。採用担当には採用プロセスの管理を任せるが、採用活動には全員を動員すべきだ。
・面接の上限を「五」という魅惑的な素数(少なくともコンピュータ科学者にとっては)に設定した。
・だからといって新規採用者に言い値を払ってはいけない。報酬カーブは低いところから始めるべきだ。(中略)ただし、彼らが入社後、抜群の働きをするようになったら、それにふさわしい報酬を払おう。インパクトが大きい人材ほど、報酬は大きくすべきだ。
インターネットの世紀で最も重要なのは、プロダクトの優位性だ。だから当然、最も手厚い報酬を受け取るべきは、最高のプロダクトやイノベーションの近くにいる人々だ。つまり画期的なプロダクトや機能の開発に貢献した人材には、たとえ駆け出しの平社員であっても莫大な見返りで報いる必要がある。職位や入社年次にかかわらず、ずばぬけた人材にはずばぬけた報酬を払おう。重要なのは、どれだけのインパクトを生み出すかだ。
・大多数は、中国の現体制は持続不可能なのでいずれ政府の行動は変わり、グーグルに再参入のチャンスが来るはずだというセルゲイの意見に賛成した。
すべての社員が四半期ごとに、自らのOKRを更新してイントラネットで公開することになっており、他の同僚がどんな仕事をしているかが簡単にわかる。
・アイデアを思いつくのは割と簡単で、それより何人かの同僚にプロジェクトに賛同してもらい、自分だけでなく彼らの勤務時間の20%を投じてもらうほうがずっと難しい。