神話から始まる「善と悪の経済学」

世界初の長編物語である「ギルガメシュ叙事詩」にはお金が出てこないという。ギルガメッシュはまさに自然状態から都市を築いていく、すなわち文明化していく物語です。しかし、その後の旧約聖書には自然礼賛が見受けられ、富に対する嫌悪も貧しさの称賛もほとんど出てこない。一方で、新約聖書は富者を手ひどく軽蔑し、天国の新しい都エルサレムの楽園としている。

神話は現実の抽象化であり、モデルであり、比喩であり、物語である。神話をこれまでとはちがう角度から見たら、科学にしても、理論を巡る神話を形成していることがわかるだろう。人間は事実を物理的に見るのではなく、事実が表していると解釈したものを見る。太陽が「昇る」のは誰でも目にするが、なぜ、どうして、ということは解釈に拠る。ここに物語の入り込む余地がある。

これらの神話は世の中を抽象化したものであり、経済思想の源流となっています。

二人の偉大な経済学者、ハイエクとシュンペーターは、マンデヴィル★57とスミス★58いずれについても経済思想の独創性を否定する一方で、心理学、倫理学、哲学に関しては両者を重要な思想家と評価している。それなのに、経済学の基礎を築いたのはスミスだという見方がなぜ定着したのだろうか。これは要するに、実際には心理学、倫理学、哲学が経済学の核の部分に存在するからではあるまいか。

マンデヴィルとスミスは心理学、倫理学、哲学で独創性を示したが、これはまさに経済思想の核であった。

私としては、経済思想が単なる応用数学よりはるかにゆたかな学問であることを、ここで思い出してほしいのである。そして、人間の行動を説明したいなら、このゆたかな学問の広がりを理解すべきであると強調したい。数学はたしかに必要だが、十分ではない。数学は経済学という大きな器の一部にすぎない。この器にはもっと根本的な問題がたくさん詰まっており、本書ではそれらを論じようと試みてきた。

現在の経済学を痛烈に批判しつつそういった壮大な経済思想の歴史を描いています。読み終わった後、壮大な旅をしたようになれる良書でした。

<抜粋>
最初に文字の書かれた粘土板が手形や帳簿であって、それらは商売や戦争のためだったとしても、最初に書かれた物語が主に描いたのは、偉大な友情と冒険だった。意外にも、そこにはお金のことも戦争のことも出てこない。ものを売る人も買う人も登場しない★5。
・C・S・ルイスが書いたように、「友情は、哲学のように、芸術のように……不必要である。友情に存在価値はない。しかし友情は、生きることに価値を与えてくれるものの一つだ★15」。
だが友情は、偶然や外生的要因も絡んでくるにしても、ゆたかな発想を生み、偉業を成し遂げる下地となり、社会を変えられるほどの力を持つ★19。友情は、自分一人では逆らえないような既存体制にさえ、立ち向かう勇気を与えてくれる。
・ここには、一つの重大な歴史的変化も示されている。人々は、都市という不自然な環境で暮らすことを自然だと感じるようになったのである。メソポタミアの人々にとって、人間の住まうところは都市だった。
つまりギルガメシュは単に腕っ節の強さだけでなく、経済的な重要性を持つ発見や行為によって英雄になったと考えられる。杉の森を切り倒して建設資材を手に入れたことも、エンキドゥがウルクの経済を乱すのを防いだことも、冒険の途上で砂漠を横断する新しいルートを発見したことも、これに該当する。
・人間の中には二つの傾向があるように思われる。一つは経済人のそれであり、合理的で、抑制や最大化や効率向上をめざす。もう一つは野生児のそれであり、動物に近く、予測不能で荒々しい。人間であるということは、両者の間のどこか、あるいは両方なのではあるまいか。
彼は自然を出て城壁を越えて人間になったが、この変化は不可逆的で、以前の生活に戻ることはできない。「野の動物たちは彼を避け★36」るようになる。自然は、一度その胎内から出た者が戻ることを許さない。「遠い昔に人間を生んだ自然は、いまも外にあり、城壁の向こうにある。自然は見知らぬものであり、いくらか敵対的である★37」。
文化の歴史は、自然の気まぐれをできるだけ遮断しようとする人間の努力の歴史でもある★39。文明が高度化するほど、人間は自然やその影響から守られ、望み通りの安定した環境あるいは制御可能な環境を整える術を身につける。現代人の予定は、もはや収穫にも、野生の獲物にも、季節にも左右されない。外が極寒であれ猛暑であれ、家の中の温度を一定に保つこともできる。
・「城壁は、都市の永続性を象徴すると同時に、それを実現するものだった。都市は恒久的な建造物であり、住民に安全を保障し、個人の一生をはるかに超えるような事業に投資しうる環境を整えた。ウルクの繁栄と富は、城壁の確実性に支えられていたのである。地方から来た者は都市の住民に憧れ、おそらくは羨んだだろう★43」。
・すべてのニーズを満たされていたエンキドゥは、自然状態において幸福だったと言ってよかろう。文明人の場合、持てば持つほど、洗練されゆたかになるほど、必要なものは(けっして満たされないものも含め)増えていくように見える。
文明と進歩は都市の中で実現する、都市こそは人間の「自然な」住処だ──これは、ギルガメシュ叙事詩を貫く無言のメッセージである。この視点からすれば、自然のままの状態でいることは、人間にとってけっして自然ではない。そもそも都市は、人間のみならず神の住処でもあった。
・生まれたときの自然な状態は、ギルガメシュ叙事詩の中では不完全であり、悪である。人間の本性は、手を加え、文明化し、育て、押さえつけなければならない。この叙事詩の視点からは、次のような象徴的な見方をすることができる。すなわち人間の本性は不十分な悪いものである。教育や修練によってありのままの姿から断ち切ったときに初めて、よいもの、人間的なものが生まれる。人間らしさこそが文明の始まりなのだ……。
・ギルガメシュ叙事詩にはことさら自然を讃えた箇所はないが、旧約聖書には詩の形をとった自然礼賛が見受けられる。
このように、自然や自然状態はヘブライ人にとってよいものであり、都市文明は悪いものだった。神の祭壇の原型は移動式で、固定されたときもただ天幕の中に置かれるだけである。ユダヤ教の幕屋(タバナクル)という移動式の神殿はここに由来する。彼らは、文明は人間をだめにすると考えていたのだろう。自然に近ければ近いほど、より人間らしくいることができた。人間がありのままの姿でいるためには、いかなる文明もよいものではなかったし、人間的でもなかった。ギルガメシュ叙事詩とは反対に、ヘブライ人にとって悪は城壁の中に、文明の中に存在した。
たとえば新約聖書の最後の書「ヨハネの黙示録」を読めば、楽園の構想が、庭園だった旧約聖書の時代から大幅に変わったことがわかる。ヨハネは、天国を都市として、新しい都エルサレムの楽園として語っている。城壁の内側の様子がことこまかに語られ、純金の大通りや真珠の門があるという。生命の木があり、河はそこから流れ出すとあるが、それ以外に自然に言及した箇所は見当たらない。
・始めギルガメシュは、ウルクの城壁建設というさほど独創的でない方法で自分の名前を永遠に残そうとした。しかし友エンキドゥを得ると、城壁建設を放棄し、英雄としての評価を高めるべく都市を後にする。「永遠の生命を求めて、ギルガメシュは途方もない難事業に挑み、超人的な能力を発揮する★76」。ここではもはや、自分の幸福や利益の最大化は目的ではない。重要なのは、英雄的な行為の形で人類の歴史に名を残すことだった。冒険と名声の最大化が、利益の最大化に取って代わったのである。
この叙事詩では、人間の文明化にも立ち会うことができた。自然状態から解放され、自然から遠ざかっていく壮大なドラマである。ギルガメシュは都市を自然から遮断する城壁を築き、文化のための空間をつくった。それでも「文明の偉大な成果でさえ人間の欲望を満足させることはなかった★86」。人間は、けっして安住することがなく、満足を知らない不安定な傾向を祖先から受け継いでいるのであり、このことを忘れないようにしたい。
経済的な取引や交換からは、友情は抜け落ちている。なぜなら、友情は与えるからだ。真の友は真の友にすべてを与える。
のちに科学を生み出し文明全体に希望をもたらす力となる進歩という観念は★14、歴史を一本の線と捉えたとき初めて生まれた。歴史に始まりと終わりがあり、それは同一地点ではないとすれば、次世代に実を結ぶようなことを探求するのも、意味のある行為になる。こうして進歩は新しい意味を獲得した。
・標準的な世帯の家具は、四〇〇〇年にわたってほとんど変化がなかった。つまり、キリスト生誕のはるか前に眠りについた人が一七世紀になって目覚めたとしたら、日々の生活で使う道具や設備類にさほど変化を認めなかっただろう。
・旧約聖書の教えには、富に対する嫌悪も貧しさの称賛もほとんど出てこない。富者を手ひどく軽蔑する厳格さが表れるのは、新約聖書になってからである。
・シュメール人は二元論を信じており、善の神と悪の神が存在し、地上はその争いの場だった。ユダヤ人は正反対である。世界は善の神によって創造され、悪は倫理に反する人間の行為の結果として生まれる。つまり悪は人間が引き起こすものだった★66。
・同胞には利子を付けて貸してはならない。銀の利子も、食物の利子も、その他利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない。外国人には利子を付けて貸してもよいが、同胞には利子を付けて貸してはならない。それは、あなたが入って得る土地で、あなたの神、主があなたの手の働きすべてに祝福を与えられるためである★156。
・プラトンもアリストテレスも、労働は生きるために必要とみなしてはいたものの、それは低い階級のやることだと考えていた。そうすればエリートは労働に煩わされることなく、「純粋に精神的な活動すなわち芸術や哲学や政治」に専念できる。アリストテレスは、労働は「堕落であり時間の無駄であって、真の名誉への道を妨げる★173」とさえ考えていた。  だが旧約聖書の労働観はまったくちがう。労働を称える文章は枚挙にいとまがない。
・ここですこしアダム・スミスに言及しておこう。近代以降の経済学に対する彼の偉大な貢献の一つは、分業について考察し、生産プロセスの発展と合理化における分業や専門化の重要性を指摘したことにある。ところがクセノポンは、アダム・スミスより二〇〇〇年も前に、分業の重要性を説いているのだ。
・神話は現実の抽象化であり、モデルであり、比喩であり、物語である。神話をこれまでとはちがう角度から見たら、科学にしても、理論を巡る神話を形成していることがわかるだろう。人間は事実を物理的に見るのではなく、事実が表していると解釈したものを見る。太陽が「昇る」のは誰でも目にするが、なぜ、どうして、ということは解釈に拠る。ここに物語の入り込む余地がある。
・ヌスバウムによれば、「ソクラテスは、人間の社会的生活における決定的な真の進歩は、人間が新たな技術、とりわけ計算や測定をこなす技術を発見したときにのみ実現すると述べた★89」。この観点からみれば、人間と文明の歴史全体は「偶発性に対して人間が次第に支配を強めていく物語★90」だと言えよう。
・「アリストテレスの聴衆は、彼が現世の日常的なことばかり好んで論じるのに腹を立て、もっと高尚で洗練されたことを話題にせよと要求した★102」という。だがやがてアリストテレスの語る現世のことは注意を引くようになり、プラトンの観念の世界は脇に押しやられた。アリストテレスは、プラトンが重々しく影にしてしまったことに光を当てたと言える。
『指輪物語』の中では、何一つとして売ったり買ったりされないことに読者は気づいておられるだろうか。必要なものはすべて、旅の途上で贈られる★40。細部にこだわる作者のトールキンは、物語のどこにもお金が出てこないよう細心の注意を払った。その効果もあって、『指輪物語』は昔話やおとぎ話、あるいは神話との共通性を感じさせる。ギルガメシュ叙事詩の中にも、お金に関することはいっさい出てこないし、誰かが何かを売る場面もない。大切なものは贈られるか、見つかるか、盗むのである(たとえば「力の指輪」なるものはこれらの方法を使って持ち主を変えるが、売られることはない★41)。
「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます★53」。この一節は、「金銭は諸悪の根源」というふうに誤って引用されることが多い。だが聖書の言いたいことは、そうではない。人を誤らせるのは、金銭そのものではなく、金銭欲なのである。
アダム・スミスほど有名ではないが、現在知られている形での市場の見えざる手を思いついたのは実際にはマンデヴィルであって、アダム・スミスだとする今日の見方は誤りである。
・見栄と虚栄から建てられる病院の数は、徳が束になってかかるよりも多い。 ──バーナード・マンデヴィル★7
スミスが残したほんとうに重要な遺産は、社会を結びつけるのは共感であるという思想と、中立な観察者という概念の二つである。今日では、見えざる手によって経済社会がうまく運営されている、というようなことをスミスが言ったとされているが、実際には彼自身はこの言葉を三回しか使っていない。主著である二冊の著作で一回ずつ、そして『天文学』で一回である。したがって、なぜ見えざる手がこれほどの熱狂を巻き起こしたのか、まったく解せない★18。
・自分の利益を追求する方が、実際にそう意図している場合よりも効率的に、社会の利益を高めることが多いからだ。社会のために事業を行っている人が、実際に大いに社会の役に立った話は、いまだかつて聞いたことがない。
・二人の偉大な経済学者、ハイエクとシュンペーターは、マンデヴィル★57とスミス★58いずれについても経済思想の独創性を否定する一方で、心理学、倫理学、哲学に関しては両者を重要な思想家と評価している。それなのに、経済学の基礎を築いたのはスミスだという見方がなぜ定着したのだろうか。これは要するに、実際には心理学、倫理学、哲学が経済学の核の部分に存在するからではあるまいか。
・旧約聖書の時代には、人々は社会制度のグレーゾーンで生まれるこうした悪に対して、毎年象徴的に生け贄を捧げることによって対処した。罪を誰か特定の人間に負わせることは不可能でも、悪を防ぐことが全体のために必要だと考えたからである。新約聖書の時代になると、「自分が何をしているのか知らない★27」人々や「目の見えない案内人★28」のための象徴的な生け贄は、キリストによって永遠に果たされた。キリストは自ら生け贄の子羊となったのである。社会が複雑化するほど、知らないことが多くなる。私たちは、いま着ているシャツを誰がつくったかさえ知らないし、知ろうともしない。しかもこれは、ごく単純な事柄である。もっと複雑な社会の相互作用になったら、どれほど無知かは改めて言うまでもあるまい。
・とはいえこれは数学批判ではないし、数理経済学にケチをつけるつもりもない。私としては、経済思想が単なる応用数学よりはるかにゆたかな学問であることを、ここで思い出してほしいのである。そして、人間の行動を説明したいなら、このゆたかな学問の広がりを理解すべきであると強調したい。数学はたしかに必要だが、十分ではない。数学は経済学という大きな器の一部にすぎない。この器にはもっと根本的な問題がたくさん詰まっており、本書ではそれらを論じようと試みてきた。
・分別のある人は、自分を世界に適応させる。 分別のない人は、なんとかして世界を自分に適応させようとする。 よって、世の進歩はすべて分別のない人による★2。 ──ジョージ・バーナード・ショー
経済学者は未来を説明したがっているが、じつは過去さえ説明できないことがままある。カール・ポパーは、その名も『歴史主義の貧困』という本を書き、過去の出来事を説明することは現実には不可能か、逆に何通りもの説明を与えることが可能だという結論に達した。たとえば、経済学者は一九二九年の大暴落の原因についていまだに意見が一致していないし、大恐慌が終わった理由についても一致していない。この例一つで十分だろう。
・最も妥当な結論は、二〇世紀最大級の哲学者にして神学者(そして数学者)のアルフレッド・ホワイトヘッドが下したものではないだろうか。それは、未来は神にとってさえ定まっていない、という結論である。アダムとイヴが禁断の木の実を食べると知っていたら、なぜ神はあれほど怒ったのだろう。旧約聖書の預言者たちは、未来を決定論的に預言したのではなく、とくに何か対応策が必要な場合について、警告を発して戦略的選択肢を提示したのである。対応が適切であれば、預言は実現しない。人間は未来について悲観も楽観もすべきではなく、やはり未来はわからないと考えるほかはない。
人間の歴史をふり返ってみていま言えるのは、人間は、人生の単純なことを受け入れて楽しむ方向へと進化しなければならない、ということのように思われる。