奇跡の経営者「ソニー 盛田昭夫」

ソニー創業者盛田昭夫にフォーカスしながらもソニーの奇跡的な成長をかなり具体的に描いており非常に勉強になりました。

「ソニーはわれわれが知る唯一の連続破壊者である。ソニーは一九五〇年から一九八二年の間、途切れることなく一二回にわたって破壊的な成長事業を生み出した。……しかしほとんどの企業にとって、破壊は多くても一度きりのできごとなのである」。アップルの場合でも、AppleⅡ、Macintosh、iPod、iPhone、iPad、これにiTunesを加えても、破壊的イノベーションといえるほどのものは、せいぜい六つだ。

ソニーは2000年くらいまではまさに奇跡的に破壊的イノベーションを連続して起こし続けており、とにかく何をやってもうまくいっていた。ベータマックスはVHSとの競争に敗れたとしているが、7年で2000億の売上を作っており、その後のベーカムやイメージセンサーに繋がっているし、その反省を踏まえて8ミリ、CD、DVD、ブルーレイの規格を抑えたことを考えれば、ベータマックスですら失敗とは言えない。

本書を読むとまさに盛田昭夫氏の奇跡的な経営判断を目にすることができます。ではその経営はどのように生まれてきたのか。

「アメリカに右へならえして、アメリカ経営学を導入するのが、解決の道だろうか。私はそうは思わない。……鵜呑みにするのは、かえって危険である。日本とアメリカでは会社の成立する社会的基盤が、根本的に違っているからだ。かといって漫然と現状を見過ごすことは、もっと大きな間違いだ。アメリカから取り入れるもの、学ぶべきものは堂々と学び、かつ日本の歴史的土壌を見きわめ、そこに足をつけたままで、現実的に不合理を是正してゆくべきなのである。社員を〝無難なサラリーマン〟から〝意欲あるビジネスマン〟へとレベル・アップすることに努めなければならない」

まさにアメリカに切り込みながらも郷に入れば郷に従えではなく、あらゆることを考えぬいて独自のソニーの経営を作ってきたのだということが分かります。

これに対して、盛田はこう切り返したという。「何を言っているんだ。映画会社ひとつ経営できなくて、それでもソニーなのか。それじゃ、普通の日本の会社と同じじゃないか。俺は映画会社を経営できないような、マネージャーを育てた覚えはない」

まさにひとの限界を取っ払い企業を成長させてきた。

久夛良木は、最後にこう結んだ。「ソニーには、すごい人たちが五人や一〇人じゃなくて、数百人規模でいて、ここまでのソニーを引っ張って、何度も何度も革新をもたらしたのだ、とわかった。すごい人材を惹き付け、結集し本気にさせたら、何でも出来るぞと思った」

だからこそ数百人単位ですごい人たちがいる企業になったのだと思います。

「経営首脳の不思議なところは、ミスをしてもその時にはだれにも気付かれず何年もそのままでいられる点である。それは経営というものが一種の詐欺まがいの仕事にもなりかねないことを意味する。……私の考えでは、経営者の手腕は、その人がいかに大勢の人間を組織し、そこからいかに個々人の最高の能力を引き出し、それを調和のとれた一つの力に結集し得るかで計られるべきだと思う。これこそ経営というものだ。例え何であろうとも、今日の黒字が明日の赤字にもなるような方法で今日のバランスシートの収支をつくろっていては、真の経営とは言いがたい。私は最近、わが社の幹部にこんなことを言った。『社員の目にうつるあなた方の姿が、高い所で一人で綱渡りする軽業師のような個人プレーであっては困る。そうではなく、大勢の人びとがあなた方に喜んでついてきて、共に会社のために働く気になる——そういう人間であってほしい』

僕自身もメルカリ流の経営を生み出していきたいと思いました。

出井は取締役時代には、久夛良木の「夢」だったプレイステーションに強硬に反対しているし、社長になってからも土井利忠(元・上席常務)が開発した犬型ロボット「AIBO」に反対を表明、会長兼CEOになると〇四年にはロボットの開発中止を指令している。

本書は出井氏以降の経営に批判的で、辛辣になぜダメかを書いてます。例えば、今になってIoTやAIの時代が来ているのに、当時「AIBO」事業を中止してしまった、など。しかしそれは結果にすぎず、何を言われようがすごい結果を出せば、今のスティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグのように評価されるわけです。

経営はすべて結果で判断される。僕もとにかく結果を出すことに注力するのみです。

「小説 盛田昭夫学校」と合わせて読むとよいと思います。

<抜粋>
・来世紀にソニーがリーダーだというためには、何をやらなければならないか。もう一つ先に何をやるか。謙虚に考える必要がある。私は非常に心配になっております。ここで皆さんに本当に目をいっぱいに開いてですね、来世紀に何をやるかと、真剣に考えていただきたい。
・「ソニーはわれわれが知る唯一の連続破壊者である。ソニーは一九五〇年から一九八二年の間、途切れることなく一二回にわたって破壊的な成長事業を生み出した。……しかしほとんどの企業にとって、破壊は多くても一度きりのできごとなのである」。アップルの場合でも、AppleⅡ、Macintosh、iPod、iPhone、iPad、これにiTunesを加えても、破壊的イノベーションといえるほどのものは、せいぜい六つだ。
・四六年には新円への切り替えが実施されたため、市販品を扱わないと新円がすぐに入手できないという事態に迫られた。そこで、お櫃に電熱線を張った電気釜(物にならず)や、綿の間に電熱線をはさんだ電気ざぶとんを、急場しのぎでつくった。東通工の名前をつけるのは「サスガに気がひけて」(井深)、(熱するにかけて)「銀座ネッスル商会」名で発売すると「ものすごく売れ」(盛田)、新円かせぎに貢献した。
・ソニーは、その後もベータマックス訴訟に代表される大きな裁判に、何度も巻き込まれていくが、そのたびに盛田は自ら陣頭に立って闘いを主導する。すなわち、法務戦略は「最高幹部が扱う」重要な仕事であることを自覚した最初の日本企業でもあった。
・ソニーの半導体開発で活躍した川名喜之(元・中央研究所副所長)はこう指摘している。 「井深が『なに、うちの連中ならきっとやるだろう』と言っていたことが事実となった。翻ってTI(テキサス・インスツルメンツ)でもベル研究所でも、このような開発はできなかった。ベル研究所ではゲルマニウム中のリンの拡散係数はアンチモンと同じになっていた(筆者注:だからできないと思い込んだ)。塚本はそれを知っていたが、あえて実験してみて、実際は大きく違っていることを発見したのであった。それ以外に改善策が思いつかなかったからでもある。……岩間は一人責任を負ってこの仕事を進めた。そして、やり遂げた塚本を評価した」 ソニーはこの技術の特許を出願せずに「一切秘密にした」。それほど画期的なイノベーションだった。
・この電話で井深を口説いた盛田は、グールドとの三度目の会見で注文を断った。憮然とする彼に、盛田は宣言する。「五〇年前、あなたの会社のブランドは、世間に知られていなかったでしょう。いまわが社は、新製品とともに五〇年後に向けて第一歩を踏み出そうとしているところです。たぶん、五〇年後にはあなたの会社に負けないくらい、SONYのブランドを有名にしてみせます」。そう大見得を切った。
・始まりはいつも、つましく困難なものだった。ソニー・アメリカのイタリア系社員による逸話がある。ニューヨークに事務所を設けた五七年九月頃だと思われるが、「雨がそぼ降る夕方に、シャッターを必死で叩いている東洋人の青年に気づいた。事務所には誰もいなかったので、駆け寄って声を掛けたら、英語も通じない日本人で、それがミスター・モリタだった」という。
後年、アメリカ人を感動させる英語の名スピーチを連発し、世界に通用するコミュニケーション力を持つに至るが、それは相手にいかに伝えるかを常に研究し、学びと練習を繰り返した成果である。そうしたスピーチのいくつかを収録した本が発売され、いまあらためて映像と音声で見聞きできるようになった。流暢な英語でなくても、聴衆を冒頭の「つかみ」で一挙に惹きつけ、簡潔なセンテンスで明確なメッセージを、聞き手のハートに打ち込むさまがよくわかる。
「人が育つのは、やっぱり新しいことを苦労してやっているときで、ソニーの成長期において、盛田さんはそういうのを意識的につくってきた。盛田流の経営の本質は、みんながチャレンジできるものをつくっていったことにあるんじゃないか。前に人がいないところを走るのは、実に大変で苦しい。だけど、そこから会得するものが違う。命令されてやるのではなく、自分で考えて自分で行動することの大事さを、彼は身をもって示していた」
・「日本人は、ともすると現地の日本人に相談や案内をしてもらう。そうしていつの間にか〝日本人の道〟に引き込まれ、アメリカにいる普通の日本人の生活態度になってしまう。香川さんは、私にそれとはまったく違う〝道〟を教えてくれた。アメリカ人に接し交渉する態度にしても、卑屈になりがちな日本人ではなく、堂々と対等にわたりあってゆくべきだと、何度も忠告してくれた。……米国の業者に出入りする日本の輸出業者は、まったく哀れなほど卑屈に、値下げばかりをして、売り込みを図るという時代だった。
・『お言葉ではありますが、あなたと私がすべての問題についてそっくり同じ考えを持っているなら、私たち二人が同じ会社にいて、給料をもらっている必要はありません。この会社がリスクを最小限に押さえて、どうにか間違わないですんでいるのは、あなたと私の意見が違っているからではないでしょうか。どうぞお怒りにならず私の考えを検討してみてください。私と意見が違うからと言ってお辞めになるというのでは、会社はどうなってもよいというのでしょうか』 これは、日本の会社にはない発想だったのだろう。田島氏は最初、驚かれた。もちろん氏は会社を辞められなかった。しかし、この種の論争は、わが社では目新しいことではなかった」
・樋口:「やっとかなければ次のステップへ行かないんです。それをやったからソニーは伸びたんです。世間並みのことをしていたんではソニーなんてありませんよ」
「アメリカ人の生活がどんなものかをほんとうに理解し、この巨大なアメリカ市場で成功しようと思うなら、アメリカに会社を設立するだけでは不十分である。家族共々アメリカに引っ越して、実際にアメリカの生活を経験しなければだめだと考えるようになった。……家族で住めば、旅行者にはとうてい望めないほどアメリカ国民を理解することができるだろう」
・彼女は、盛田にとって一緒に闘う戦友だった。盛田の著書によれば、ニューヨーク滞在中だけでアパートに接待した客は四〇〇人余りにのぼった。それだけではない。お抱え運転手に早変わりして、空港までの送り迎えや、技師を乗せてアンテナの感度テストで郊外を走り回ったりもした。三〇歳台の彼女は、盛田のアパートの一室で他社のテレビを調べたりテストしたりしていた日本人のエンジニアや、駐在社員たちとほぼ同世代だった。 「皆んなハングリーで、アメリカを知り、アメリカ人を知り、彼らのなかに入って、ソニーを知ってもらい、製品を買ってもらうのに必死でした」——それが、「世界のソニー」の原点だった。
・当の盛田は、六四年八月一日には、二年間の予定だったアメリカ駐在を、半年分を残して急遽切り上げ帰国した。七月三一日に盛田の父・久左ヱ門(ソニー相談役でもあった)が死去したからである。急な帰国は、盛田家の家業の相続問題もあったが、ソニーの経営が厳しい綱渡りを強いられていたことが大きい。
・そこで井深は、行き詰まった開発をリセットして再出発するために、社長自らプロジェクト・マネージャーとして陣頭指揮に乗り出した。六六年秋のことだった。松下幸之助が、家電不況の危機に営業本部長に就任し、販売体制をリセットするため陣頭指揮をはじめた姿と重なる。
・「人生は見たり、聞いたり、試したりの三つの知恵でまとまっているが、その中で一番大切なのは試したりであると僕は思う。ところが世の中の技術屋というもの、見たり、聞いたりが多くて、試したりがほとんどない。僕は見たり聞いたりするが、それ以上に試すことをやっている。その代わり失敗も多い。失敗と成功はうらはらになっている。みんな失敗をいとうもんだから、成功のチャンスも少ない」
・そして、六八年四月一五日、二年前にオープンしたばかりの銀座ソニービル八階で、トリニトロンの製品発表会が行われた。その席上、井深はめずらしく「世界のカラーテレビ界に革命をもたらす」、とスティーブ・ジョブズのような発言をしている。 井深は、後述するようにこの記者会見の席上で爆弾発言を行い、独自のイノベーションの方法論にもつながっていく。そして、「必要な資金はすべて私が考えます」と見得を切り、ソニービルに巨額投資をしながら、この開発を支えた盛田の闘いもまた、イノベーティブなものとなる。
・井深はトリニトロンの発表の場で、こんなことも語っている。「スジがよかったので総力あげてかかりました。既成品のまねをしていれば間違いはないのでしょうが、それではよりすばらしいものは何もできません。見きわめて踏み切る——ともかくこれがウチの信条です」(『日本経済新聞』一九六八年四月一六日付)。
・こうした「フレキシブルPERT法」の基本姿勢を、唐澤は井深の言葉をもとに五つにまとめている。 ①時間は競争優位に立つ唯一の条件である ②おカネは無限にあると考えよ ③人も人材も無限にあると考えよ ④制限条件に頼って発想するな。制限条件は挑戦の対象としてモデルを作れ ⑤前例は常に打破すべきであり、従うことは恥
・盛田はさらなる増枠を考えていたようだ。心配した社長室の佐野が、「これではTOB(株式公開買い付け)の標的になります」と意見すると、盛田は「井深さんや私を超える経営者が現れるのなら、どうぞと言いたいくらいだ」と一笑に付したという。
・これはシャインに直接インタビューし、周到な取材でアメリカ経営の実際を描いたジャーナリストの加納明弘が、本人から聴き出した言葉だ。そして、次の発言が興味深い。「私は問題を常にシャイン流、つまりアメリカ式に処理した。なぜならば、私に投資した日本人は、アメリカ式マネジメントをソニーアメリカに持ち込むことを期待して、私を社長にしたのだし、私はその期待に応えたのだ」(『ソニー新時代』プレジデント社より)。
・何かが変わろうとしていた。盛田がソニーの第三代目社長に正式に就任したのは、そんな七一年六月二九日のことだった。 この時期、ソニーの業績は絶好調だった。世界初の一三型トリニトロン・カラーテレビKV‐1310が発売されたのは六八年一〇月末(この一機種だけで一七万台出荷)。トリニトロンの前と後で、収益は大きく変化した。 六八年度(一〇月期決算)の売上高は七一二億円、営業利益八四億円だったが、以後は毎年二ケタの増収増益で、七一年度には売上高一九四七億円、営業利益二六二億円に達した。三年でそれぞれ二・七倍と三・一倍の急伸ぶりである。当時、「(世の中の)減産も不況も、松下も無関係」(吉井陛常務)といった「荒い鼻息」や、「ソニーはドルショックや円切り上げ不況の圏外にある企業」といった報道も、なされたほどだった。
「私どもトップの仕事の一番大事なことは、いいことを聞いて喜ぶことではない。マネジメントの最大の要諦は、トラブルシューター(問題解決人)であることだ。問題を解決するのが、私どもの仕事だ。だから、失敗はかくさずレポートしていただきたい。それは、会社に周知させ同じ失敗を繰り返さないためだ。何度も申し上げるが、私どもの仕事はトラブルシューティングである」
・これが、新社長が社内に向けて発した第一声だった。夢やスローガンをぶち上げるのではなく、〝外〟(世界)と〝内〟(社内)の変化を見つめ、やがて大きな問題となる内外二つの変化に向き合っている。それは、もう一度、ソニーを「白紙にもどして」再出発する=DNAを「ON」にすることをも意味していた。
・「アメリカに右へならえして、アメリカ経営学を導入するのが、解決の道だろうか。私はそうは思わない。……鵜呑みにするのは、かえって危険である。日本とアメリカでは会社の成立する社会的基盤が、根本的に違っているからだ。かといって漫然と現状を見過ごすことは、もっと大きな間違いだ。アメリカから取り入れるもの、学ぶべきものは堂々と学び、かつ日本の歴史的土壌を見きわめ、そこに足をつけたままで、現実的に不合理を是正してゆくべきなのである。社員を〝無難なサラリーマン〟から〝意欲あるビジネスマン〟へとレベル・アップすることに努めなければならない」
・「『出るクイ』を求む!」と「英語でタンカのきれる日本人を求む」である。盛田のフィロソフィーと言動から生まれたが、いずれも『朝日新聞』朝刊に掲載された。出るクイが打たれる日本で、「『出るクイ』を求む!」のコピー本文は、こう呼び掛けている。 「積極的に何かをやろうとする人は『やりすぎる』と叩かれたり、足をひっぱられたりする風潮があります。……いいアイデアを育てる人はなかなかいません。反対に、ダメだダメだとリクツをつけて、それをこわす人はたくさんいます。しかし、私たちはソニーをつくったときから、逆にそういう〝出るクイ〟を集めてやってきました。ソニーがつねに他に先駆けて個性的な新製品を出し、わずかここ十年間に『SONY』を世界でもっとも有名なブランドの一つにすることができたのも、ひとつにはそのように強烈な個性をもった社員を集めその人たちの創造性を促進してきたからだと思います。ウデと意欲に燃えながら、組織のカベに頭を打ちつけている有能な人材が、われわれの戦列に参加してくださることを望みます」 一方、「英語でタンカのきれる日本人」は、タイトルコピーの手書き文字が、当時としては極めて斬新である。これは新設された国際貿易課が募集したもので、「『生きた英語』を話せる方」「技術を愛する方」という条件がついている。
・それは権限と責任をないがしろにしたやり方だ。相互の信頼を欠いた命令からは、進歩はおろか、責任感の生まれる余地もない。〝誰々の命令〟が、マネジメントの方便であってはならない。一般社員の皆さんも、つまらぬ遠慮などせずに疑問点の解明を行い、納得したうえで仕事を受けるようにしてほしい。疑問を残したまま、命令だからやるといった、いいかげんな態度は個人的にマイナスであるばかりか、会社にとっても大きな損失である。〝厳しい環境下〟のソニーには、積極的で前向きな姿勢と、信頼を基軸に据えた相互の意思疎通が必要なのだ」
井深・盛田のファウンダー二人が、社長・副社長として二枚看板を背負っていた時代に、うまく機能していた経営のメカニズムは、井深が第一線を退いたことで、社長の盛田の双肩にすべての重荷がかかってきた。技術畑の岩間和夫専務を急遽、ソニー・アメリカの社長にし(現地での生産と販売を学ばせる)、翌七二年には役員たちを次々昇格させ、CBS・ソニーの社長をしていた大賀を呼び戻し(一挙に常務にした)、経営者育成を急いだが、成熟にはもう少し時間を要した。そこに石油ショックが襲ってきた。おそらく七三年後半の盛田には、ビデオ戦略をじっくり構築する余裕は持てなかったはずだ。
破竹の快進撃を続けてきたソニーの成功神話が、初めて大きく頓挫したのが「ベータマックス」を巡る闘いだった。この戦闘の局面は、大きく三つに分けられる。 一つは、「VHS」との間で繰り広げられた世界の産業史にも残るVTR規格戦争である。二つ目は、ハリウッドのメジャー(大手映画会社)から著作権侵害で訴えられ、アメリカの連邦最高裁まで争われた、これもまた歴史に残る大事件。三つ目は、規格戦争で敗れた後、いかに撤退作戦を行い、次の成功へ向けて展開するかという未来のための闘い、である。 七一年に五〇歳で社長となった盛田にとって、井深の後を継いだプレッシャーのなかで大きな試金石となったのが、これら三つの闘いだ。そこには、彼自身の「ミスジャッジ」が招いた失敗もあったが、現実を直視し失敗を克服する過程で、経営者としての凄みが浮かび上がってくる。
・「ソニーはテクノロジーの進歩によって、世の中にない製品をつくって、マーケットを創造してきた。テクノロジーが新しい市場をつくり、ライフスタイルを変え、新しいカルチャーを生み出したと言える。しかし、肝心のテクノロジーの進歩が、古びた法律によって阻害されるようなことがあったら、ソニーという会社はこの世に存在できない。 だから、われわれは徹底的に闘わなければいけない。この訴訟は、科学技術というシビリゼーション(文明)に対する挑戦だと、私は理解している。最終的には、法律まで変えなくてはいけないと思っている。ただ、今は現在の法律で裁かれるのだから、その法律のなかで勝つか負けるか、やってみようじゃないか」
アメリカの民衆を味方につけることによって、(それが人の生活の豊かさを阻害するものである限り)法律そのものまで変えようという発想をもった日本人の経営者は、盛田が最初で、おそらく最後だろう。
・そこまで考えていたものを、もう一度、カセットサイズやドラム径(ベータは七五ミリ)を練り直し、基本規格を二時間に設計し直すことは、「取引コスト」の観点から見て、「合理的」ではなかった。取引コストとは、人間同士の取引に伴い、駆け引きで発生する心理的な負荷や手間暇といった目に見えないコストのことである(菊澤研宗『なぜ「改革」は合理的に失敗するのか』に詳しい)。
・訴訟以降は、前述の通りシャインはベータ販促に熱心ではなく、日本人駐在員の目には「ユニバーサルとの訴訟に敗れた際に、損害が増えることを懸念して販売を抑制している」としか見えなかった。ついに盛田は七七年七月に、シャインを会長に退かせ、実質解任した(シャインは七八年に退社、八〇年に大手レコード会社ポリグラムの社長に就任)。七〇年代にアメリカ型経営の限界を、反面教師として学んだ。 盛田は同じ著書で、「それはわれわれのドル箱になるはずであった」と本音も漏らしていて、ベータ販売の初速に弾みがつかなかったことが、よほど悔しかったに違いない。
・「世の中には、衰退する会社、倒産する会社があります。なぜそうなったか、をよく見ますと、競争相手によって倒された例は余りありません。会社の内部の問題が原因で、いわば〝自家中毒〟で衰退してきているのが実情です。ソニーが外部から批判を受け、昔の評価を落としてきたのは、競争相手のせいではなく、われわれ自身に原因がある。自らの行動によって招いた結果であると反省しなければいけない」
問題が誰にも見えるようになった段階で、経営陣が慌てて手を打つようでは、経営者失格である。井深や盛田は、そのことを誰よりもよくわかっていた(創業期に前田多門、田島道治、万代順四郎といった錚々たる長老たちが、若い二人を厳しく鍛えたことも功を奏している)。禊の一〇年近く前、七五年一月に幹部社員を集めた席で、二人はソニーが置かれた事態を看破して、こう訴えている。 井深(当時、会長):「わがソニーは、いつも日本経済のトップを切って成長してきました。初期のころは、ソニー独特のものを切り拓き、そこにソニーの生命があり、特長がありました。それが大きな世帯となり、大きな数字に接するようになると、これを縮めることは、破壊的な打撃をこうむらない限り、不可能だという〝弱さ〟を持つようになってきました」
・このことは、今から四〇年ほど前に「コーポレートガバナンス(企業統治)」を、日本で最初に導入したことも意味していた。しかも、エレクトロニクス企業であるソニーの実情にふさわしくアレンジしている。統治を担うメンバーの構成比を、社内七割、社外三割とし、さらにエレクトロニクスの技術系が常にメジャーを占めるように設定してある(音響技術に明るい大賀を技術系とすれば、「経営会議」も六人のうち五人が技術系だ)。
・ちなみに、二〇一六年三月現在のソニー取締役一二人の構成をみると、社内三人、社外九人とソニーを知らない社外取締役が七五%を占めている。一方、社内取締役も平井一夫CEOをはじめ技術系はゼロである。エレクトロニクス技術への深い知識と理解を持つ人間がいない現状では、主力事業の統治に関して、その識見を的確に発揮する体制とは言い難い。経営機構の改革にも着手する必要があるだろう。
「盛田さんは、お前考えろとか、誰かに考えさせろ、とか決して言わない。自分自身が考えるんです。それこそ脳みそが汗かくくらいに。僕らエンジニアはそういうものに非常に敏感で、すぐに分かるんです。あっ、この人は自分で考えているな。そうきたか、だったら、こういう提案はどうか。こっちも負けないように、必死に勉強して考えるようになる。凄い刺激とモチベーションになったのです」 上から目線で命令を下したり、ニンジンをぶら下げて走らせたりすることはしない。大きな目的とそのプロセスでの目標を明確にして、相手の波長に合わせて動機づける〝コミュニケーター〟であった。だからこそ、みんなが本気になって、衆知を集め、一体となって仕事に邁進することができたのだ。独裁者や凡庸な経営者は、そんな面倒なことはしない。 盛田は七六年五月の創立三〇周年にあたって、「次の三〇年をどう生き抜いていくか」、創立記念日と同じ五月七日に生まれた若手社員を集めた座談会で、こんなことを語っている。
・八二年度の売上は、前年対比で音響機器とテレビが減収、それをビデオの伸びが補って、増収になったが営業利益は二四%減。八三年度は、音響、テレビ、ビデオの三本柱が軒並み前年割れで、創業来初の減収(八%減)、営業利益も半減以下となった。この時、ベータの売上は一九九二億円と七%のマイナスであった。VHS全体の生産金額が一兆五一四〇億円で一八%のプラスだった(八三年度)ことを勘案すれば、ソニー経営陣の焦燥感は相当なものがあったに違いない。
・「独創性(オリジナリティ)とは起源(オリジン)に戻ることである」。これはスペインの偉大な建築家アントニ・ガウディの言葉だが、八二年にソニーは「創立の頃の雰囲気を、もう一度吹き込む」(盛田)ことで、「新しいソニーに」生まれ変わろうとしていた。この年の九月二七日、盛田は東京・高輪のホテルパシフィックに、部課長と関連会社首脳を含めた一七〇〇名を集めて「部課長大会同」を行っている。
・「新しいことを勇気をもって試みるという創立の頃の雰囲気を、もう一度吹き込みたい。……ソニーは、皆さんの努力で、世界に先駆けて、いろんな製品を出し成長してきました。同時に競争相手に、大きなビジネスを与えてきたことも事実です。全部を自分のものにする必要はありませんが、ソニーの努力と技術で生み出した製品の価値判断を誤ったことがあるのではないか。これは、トップはもとより、担当事業部、担当者がその本当の意味が判らなかったのではないか。われわれがせっかく、造りだした製品の価値を、われわれが認識して最大限に利用することが必要です」、とまず大きな反省を行っている。
・八〇年代のソニーの再生戦略は、次の三つにまとめられる。 ①ノンコンシューマー市場が一番伸びると捉えて、ここに乗り出す。 ②キーコンポーネントとキーデバイスを、最重要戦略と位置づける。 ③新しい時代に即応した新しい考え方を取り入れ、多角化にも躊躇しない。
この映画会社の買収は、ソニーを揺るがす軋轢や問題を生んだ。だが盛田の真意は、古い概念では捉えきれない、新しい思考回路をソニーのなかに取り入れることだった(後段で詳しく述べる)。八〇年代のソニーは、テクノロジーと時代の才能を一挙に解き放ち、可能性の王国を築こうと挑戦していた。
・そんなやりとりの間に、「あいつら会長まで担ぎ出して、こんな半端な商品を売らせようとしている」という声が、営業部門で高まっていた。国内営業は八〇〇万円をかけて市場調査を依頼。結果は、「音楽は再生できるが録音はできない。ヘッドホン以外では聴けない。そういう商品は誰も買わない」というものだった。提出された調査資料に、盛田は激怒したという。 「ソニーにとって、市場はサーベイ(調査)の対象じゃないんだ。クリエイト(創造)する対象なのだ。全く新しい商品を出すということは、新しい文化をつくるということなんだ」。大曽根はこの言葉が今でも忘れられない。
・ところが、「ウォークマンなんて英語じゃない」とソニー・アメリカでは「サウンドアバウト」、誇り高い英国では独自の「ストーアウェイ」、密航者(ストーアウェイ)なんて嫌だとスウェーデンでは「フリースタイル」、と同一商品が四つの名前で(いずれも商標登録)発売されてしまった。 しかし、「英語じゃないウォークマン」のインパクトが強く、外人の指名買いも多いことを確認したうえで、八〇年四月の全米のソニー・コンベンションの会場で「今後は、世界中すべてウォークマンに統一する」、と盛田は宣言している。現在販売中の商品の名前を変えるという、前代未聞の決定を、CEO権限で実施したのだ。
・「だまされてはいけない」、「我々には長年築いてきたLPレコードというビジネスがある。すでに多額の投資もしてきた。ユーザーも満足しているんだ。なぜ、それを捨てなければならないのか」、「(CDは)需要に結びつくのか、わからない」、「ソニーとフィリップスを儲けさせるだけではないか」。 会場は、罵声と抗議でたちまち「反(アンチ)CD」で固まった。「誰一人として賛成の声はなく、我々の片方の親会社であるCBS(ソニーは米CBSと折半出資でCBS・ソニーレコードを六八年に日本で設立していた)でさえ、アンチ側に加わっている。私たちは、反対の大合唱のなかを皆に蹴飛ばされるように、石もて追われた。這々の体で会場を逃れ、アテネの港町のレストランで、失意の余り呆然としていたことを、私は鮮明に覚えていますよ」
あのとき盛田が、社内外の大反対を押し切って金融に進出していなければ、今日ソニーは持ちこたえていなかったのではないだろうか。もし多角化の支えがなければ、消滅の危機に直面していたに違いない。
・この広告を掲載前の版下段階で、最初に見た人物がいる。後にソニー・ミュージックの社長になる丸山茂雄である。当時、読売広告社に勤めていた関係で、仕事先の製版所で「変わった版下だなぁ」と目をとめ、心惹かれて応募。第一期生八〇人の一人として入社している。
・これに対して、盛田はこう切り返したという。「何を言っているんだ。映画会社ひとつ経営できなくて、それでもソニーなのか。それじゃ、普通の日本の会社と同じじゃないか。俺は映画会社を経営できないような、マネージャーを育てた覚えはない」
・「日本人と付き合えば、日本人の考えていることしか判らない。あなたが本当にアメリカで仕事をしたいなら、アメリカ人が何を考えているか。いい物を高く売りたいなら、アメリカの白人が何を感じ、どう考えているか、をまず知らなくてはいけない」。そう言われたのだ。
田宮(前出)は、社用機ファルコンで全米各地を一緒に飛び回った体験を語る。 「アメリカに来るたびに盛田さんが先頭に立って、各州の知事を説得し、個別に落としていくのです。オレゴン、フロリダ、インディアナ、ユタ、コロラド、カリフォルニア……。州によって条件や対応がそれぞれ異なる。そこを踏まえたうえで、駆け引きをやりながら撃破していくのです。それは凄いものでした」
・八四年のオレゴン州から撤廃がはじまり、頑強だったカリフォルニア州議会も八八年には改正新法を発効させ、九一年のアラスカ州を最後に、ユニタリータックスは実質的に姿を消した。 ファルコンで、アメリカ大陸を飛び回っていた頃、田宮は盛田に「会長、あなたはドン・キホーテみたいですね」と声を掛けると、「何を言っているか。ドン・キホーテというのは風車に突っ込んでいくだけじゃないか。俺は違うよ」と笑みを浮かべて応えたという。「勇気だけではなく、現実に物事を動かしていく算段があるんだと」、その表情は語っていた。
・盛田と親しい経営コンサルタントの大前研一は、倒れる直前二カ月ほどのスケジュール表を見て「気絶しそうになった」と後になって打ち明けている(後述)。
・マイケルが届けた自作の「ヒーリングテープ」は、静かな優しい声で次のように呼び掛けている。 「ミスター盛田、ミスター盛田、マイケル・ジャクソンです。どうか良くなってください。早く良くなってください。あなたは僕たちを導いてくれる存在です。先生であり、リーダーです。僕たちの世界そのものです。あなたはたくさんのことを教えてくれました。あなたはとても強い人です。私はあなたを信じています。『一日一日、何としても良くなるんだ。私はどんどん良くなっている』。この言葉を深い意識の中で繰り返してください。愛しています、ミスター盛田。世界中の人があなたを愛し、必要としています。一番必要としているのはこの僕です……」 二六分間のテープは、朝起きる前と夜就寝の前に毎日必ず掛けられた。マイケルの言葉は、日本の一人の経営者が世界から敬愛され回復を祈られたことを象徴していた。また、そこにマイケルなりの事情があったにせよ、敬意と優しい真情が込められていた
・「プレイステーションの父」と呼ばれた久夛良木健は、一介のエンジニアだったが、井深と盛田が形づくったソニーの「破壊的成長エンジン」のプラットフォームをテコに、五年で五〇〇〇億円、一三年目には一兆円の売上を、ゼロから創りあげることに成功した。
・久夛良木は、最後にこう結んだ。「ソニーには、すごい人たちが五人や一〇人じゃなくて、数百人規模でいて、ここまでのソニーを引っ張って、何度も何度も革新をもたらしたのだ、とわかった。すごい人材を惹き付け、結集し本気にさせたら、何でも出来るぞと思った」
・大賀の右腕として総合企画本部を取り仕切り、九〇年には副社長となり、周囲からも社長候補と目されていた岩城賢が、九四年にソニー生命社長に転出すると、奇妙な文書が流布した。 「新聞を見て驚きました。なぜ出て行くのがMではないのですか」という出だしではじまるセクハラ・スキャンダルの告発文だった。決めつけの著しい文章で、内容の質は高くなかったが、事実関係は精査されないまま、「飛ぶ鳥を落とす勢い」だったM副社長に社長の目はなくなった。一三年間にわたる大賀社長の長期政権のせいか、ハリウッドの乱脈ぶりが影を落としたのか、社内政治も蠢いたのか。ソニーの美点だった箍や篤実さが緩みだしていた。 副社長二人が候補リストから消え、悩んだ末に、大賀は出井を一四人抜きで抜擢した。
・出井は取締役時代には、久夛良木の「夢」だったプレイステーションに強硬に反対しているし、社長になってからも土井利忠(元・上席常務)が開発した犬型ロボット「AIBO」に反対を表明、会長兼CEOになると〇四年にはロボットの開発中止を指令している。
・「ファウンダー世代の空気を完全に払拭」するとは、アナログ時代の技術や発想からの決別を意味しているのだろうが、むしろ大賀に「消去法」と言われたことへの反発が滲んでいる。本来、デジタル・ネットワークに舵を切るならば、真っ正面から社内に訴え、ソニー・スピリットをテコに、自らのクビを賭けて渾身のエネルギーを注がなければならなかった。出井は優れたアナリストだったのだから、優秀な経営実務家とタッグを組んで、井深と盛田のように心底から信頼しあい・協調できていれば、日本発のネットワーク革命が実現できたかもしれない。
・盛田は、「経営首脳の不思議なところは、ミスをしてもその時にはだれにも気付かれず何年もそのままでいられる点である。それは経営というものが一種の詐欺まがいの仕事にもなりかねないことを意味する」、と全経営者が自戒しなければならない言葉を吐いている。
・それが〇四年頃には微妙に変わっていた。アメリカの高級誌『ニューヨーカー』の記者ケン・オーレッタが、出井CEOに「アイポッドに脅威を感じるか?」と尋ねると、「出井はまるでジャケットについた糸くずでも払うかのように否定した。——ソニーやデルはものづくりを知っている。アップルは知らない。一〜二年のうちに、アップルは音楽産業から手を引くはずだ、と」。
・久夛良木が「凄い人たちが数百人規模でいて、何度も何度も革新をもたらした」と言い、安藤が「自由闊達の風土に凄い人たちが群雄割拠していた」と語ったように、ソニーには人材や才能の〝菌糸〟が張り巡らされていて、エネルギーが充満していた。
「経営首脳の不思議なところは、ミスをしてもその時にはだれにも気付かれず何年もそのままでいられる点である。それは経営というものが一種の詐欺まがいの仕事にもなりかねないことを意味する。……私の考えでは、経営者の手腕は、その人がいかに大勢の人間を組織し、そこからいかに個々人の最高の能力を引き出し、それを調和のとれた一つの力に結集し得るかで計られるべきだと思う。これこそ経営というものだ。例え何であろうとも、今日の黒字が明日の赤字にもなるような方法で今日のバランスシートの収支をつくろっていては、真の経営とは言いがたい。私は最近、わが社の幹部にこんなことを言った。『社員の目にうつるあなた方の姿が、高い所で一人で綱渡りする軽業師のような個人プレーであっては困る。そうではなく、大勢の人びとがあなた方に喜んでついてきて、共に会社のために働く気になる——そういう人間であってほしい』」