鮮やかに描かれた「日本を揺るがせた怪物たち」

田原総一朗氏が日本を揺るがせた怪物たちに自身の関わった経験からその人物像を鮮やかに描いています。人物は死んで伝説化しているひともいれば、まだ生きているひともいますが、いずれも歴史を動かした政治家や起業家、文化人などの大人物となっています。

もちろん田原氏との関わりからの印象に引っ張られている部分もあると思いますが、そのやりとりは非常に鮮明ですごく刺激的です。それぞれ普通ではない独特の哲学を持っているのですが、だからこそ世の中へインパクトを出せたのだろうなと思いました。

<抜粋>
・「風見鶏だ」と言われたら「そんなことはない」と否定するか怒るかだと思った。怒らせて、そこから先の発言を引き出そうと思っていた。それなのに、ムッとした表情も見せずに「偉大な政治家は風見鶏だ」と開き直る。ここがいかにも中曽根なのだ。
・政治評論家で大平のブレーンであった伊藤昌哉は、 「中曽根内閣のオーナーは田中角栄。中曽根は雇われマダム」  と言っていたのである。  それが、中曽根内閣は五年も続いた。国鉄、電電公社、専売公社の民営化を実現し、レーガンほか各国首脳と緊密な関係を結んだ。サミットでも中曽根の行動は話題になり、これまでの首相にない存在感を示した。売上税の導入に失敗して支持率が急降下するが、やがて人気を取りもどし、一九八七年(昭和六二年)には、竹下登を後継総裁に指名して退陣した。
「あなたが首相になったことはいいけれども、人間としては大いに問題がある」  すると、小泉の返答はこうだった。 「田原さん、確かにその通りだ。人間としては問題がある」  そして、こう続けた。 「しかし、権力とはそういうものだ」
・「だから田原さん、こう言っておいてくれ。『小泉は人の言うことを一切聞くつもりがないようだ』とね」
「いくつも話すと、もっとも不快な部分だけを記者たちが拡大して取り上げる。一つのことしか言わなければ、どのメディアもそれを報じるしかないからいいのです」
・本田は昭和三年二二歳で最初の結婚をするのだが、こんな調子で仕事に遊びにと家庭を顧みることがなかったせいか、七年で離婚になった。一九三五年(昭和一〇年)に、生涯の伴侶となる磯部さちと再婚している。
・本田がイギリスに行って実際のコースを一ヵ月かけて視察する間、日本では、藤沢が手形の決済日を綱渡りで乗り切り、倒産を回避していた。  羽田空港で出迎えた藤沢の笑顔を見たとき、本田は人目もはばからず涙をこぼした。本田が見た世界トップクラスのレーシングエンジンは、想定した倍以上のパワーで走っていた。ホンダと世界の力の差に打ちのめされていたのだ。  このとき、本田はそれまで分散していた技術部門を統合して、本田技術研究所として独立させた。これは藤沢の発想だった。資金不足と外務省がレース遠征への許可を渋ったこともあり、本田レーシングチームが再びマン島TTレースに参戦したのは、一九五九年(昭和三四年)になってからのことだった。
本田技研が急成長を遂げた一九五〇年代から六〇年代にかけて、日本におけるオートバイのイメージは決していいものではなかった。 「いまだに自動車に乗る人は良い人で、オートバイに乗るのは悪い人間だ、という固定観念がある。人間は、自分がやらないもの、得意になれないものに対して悪口をたたく、エゴのかたまりだ。おまわりさんがオートバイに乗る若者をはじめから暴走族と決めてかかっているし、ジャーナリストも自分では乗らないから、オートバイは悪いものと記事を書く。しかし、道路を走る権利、乗る権利は平等に与えられ、好きか嫌いかはその人の自由なんですよ」 と、本田は言い、日本人の持ちがちな個性的なものに対する偏見や反発と戦い続けてきた。
・かつて一〇〇人以上の部下を抱える技術部長が、大勢の前で二発殴られたことがあると言っていた。その理由は、ボルト一本の設計が間違っていたというもので、殴られた部長は、本田をにらみ返した。 「たかがボルト一本でこんな扱いを受けるのなら、こんな会社、いつでもやめてやる」 と、まさにその言葉を叫ぼうとしたとき、息を吞んだ。目の前の本田が、ぶるぶると手を震わせ、三角になった目にいっぱい涙を浮かべていたからである。大勢の社員の前で、涙を浮かべて真剣に怒る本田を見て、部長の怒りは逆に消え去った。
・本田技研工業には、今でも社長室や役員専用の個室はない。創業当時は、普通の会社のように社長室も役員室もあったのだ。しかし、本田がいつも語っていた「社長は役割に過ぎない。人間としては平等だ」という考えに基づき、一九六四年に全廃された。
・「うちが五〇年かかって築き上げたブランドを使わずに、無名のソニーブランドで売るのは馬鹿げた話だ」 とあきれ返った。それに対して、盛田は次のように答えた。 「五〇年前には、あなたの会社のブランドも現在のソニーと同様に無名だったに違いない。わが社は今五〇年の第一歩を踏み出すのです。五〇年後には現在のあなたの会社同様に、有名にしてみせます」
・一九五八年一二月、稲盛は仲間を引き連れて松風工業を退社し、翌年四月に京セラの前身である京都セラミックが発足した。当時の社員数は、社長以下二七名ほど。見通しなど何もなかった。本人や仲間たちはもちろん、前年に結婚したばかりの妻の朝子までが新会社は一年もたたずにつぶれるに違いないと思い込んでいたらしい。  ところが一年たって、京セラの社員数は、役員を除いて六〇人あまりになっていた。倍増である。一年間の売り上げは二六二七万六〇〇〇円、利益は一八六万九〇〇〇円。倒産もせずなんと黒字になったのだ。
「アメリカで売れると世界中で売れる」、この図式は現在もそうで、だからこそ、世界の企業がシリコンバレーを意識する。京セラも、日本国内のマーケットに足場を作るための戦いが、一挙に京セラを世界マーケットに押し上げたのだ。
・野坂は反原発を貫いたが、大島は原発絶対反対ではなかった。ただ、原発は非常に危険なエネルギーであって、事故が起きる可能性がある。そして、起きたら大変なのだということを当初からしきりに言っていた。  そう言うと、原発推進派は、 「チェルノブイリの原発事故は、ロシアなんていう国だから起きたのだ。日本ではあんな事故は起きない」 と熱弁していたのだが、結局二〇一一年には大変な事故が起きてしまった。あの討論のときの「そうは言っても人間というのはミスをする。想定外の問題で事故が起きる可能性があるのだ」という大島の言葉は正しかった。
さっそく立ち読みを始めてあっという間に読んでしまい、しばし呆然とした。『太陽の季節』は、石原が弟の石原裕次郎から聞いた話をモデルに書いたものなのだが、当時の青春を正面から描いた作品で、ものすごいリアリティがあった。  それに引き換え、私が書いていたのは、まるで私小説の作家たちの文章を模写するかのようなものだった。恋愛もセックスもろくに経験もないのに、ただそのまね事を書いていたのだ。「これは駄目だ。まったくかなわない」と、そこで意欲の半分が崩れ去った。  その後間もなく、やはり本屋の店先で「芥川賞大江健三郎『飼育』」という短冊を見つけた。すぐに読んで、その翻訳調で非常に鮮烈な文体に圧倒された。これで、作家への夢は完全に挫折したのである。
・インタビュアーが、相手とけんかするというのは言語道断である。もうこれで石原との関係は終わりだなと思っていたら、数日経って、石原事務所から電話がかかってきた。 「先日の田原さんとの話を、うちの後援会誌に全文載せたいのですが」  という。石原がとてもおもしろがっているというのだ。こちらは、かなりぼろくそに言ったのだから、思いもよらない話だった。そこから、石原と話をするようになっていった。
・彼の発言は「歯に衣着せぬ」と言われ、いつも問題になった。しかしどれだけ失言で物議を醸しても、本人はなんとも思っていない。だから謝罪も撤回もしない。これは、石原が政治家ではなく、作家としてしゃべっているからだ。  作家というのは、世の中に波風を立てることが仕事である。著作が「旋風を巻き起こした」とされるのは、作家としては間違いなく褒め言葉になる。石原が言いたいことを言うときは、わざわざ世の中に波風を立てる、あるいは波乱を起こすために発言しているのだ。