一気通貫で知る「昭和史 1926-1945」

戦前と戦中については教科書で習って以来細切れにしか把握できてなかったので、すごく一気通貫に世の中はどういう雰囲気で、どういう政治や生活があって戦争に向かっていき、そして敗戦したのかがすごく理解できてよかったです。

といっても内容は難しくなく、特に雰囲気については著者の子どもの頃の感覚も書かれていて分かりやすかったです。

結局のところ、ずっと際どい道を渡っていたがそれがうまく行き続けることで、世間的にも後退は許されなくなってしまい、サンクコストが大きくなりすぎてしまったのでしょうね。直前で満州権益くらいまでギブアップすればなんとかなったかもしれませんが、そんなことは世間が許さなかったと。

いずれにしても何もかもゼロ、というかマイナスになったことで、誰もがひとの足の引っ張り合いをするヒマもなかったことで戦後の高度経済成長があったと。今、日本はいろいろな問題が蓄積されていますが、これを自己改革できるのでしょうか。

<抜粋>
・ではこの〝魔法の杖〟を考え出したのは誰か。この概念で政治を動かせると思いついたのは、北一輝*4だと言われています。この半分宗教家ともいえる天才哲学者が統帥権干犯問題を考えつき、犬養さんや鳩山さんら野党に教え込んだ、それにまた海軍の強硬派がとびついた。そこで妙な大喧嘩がはじまった。しかも、国際的な条約が結ばれたあとで、それが暴発して日本を揺すぶったのです。考えてみると、まことに理不尽な話でした。そして多くの優秀な海軍軍人が現役を去っていきました。
元老の西園寺さんは、天皇の御意見番として、昭和前期の内閣総理大臣をほとんど一人で決めたといってもいいと思います。何かあって内閣が倒壊し、次は誰かという時には、西園寺さんが住む静岡県興津の駅前旅館に新聞記者らが殺到するほど権威があり、いわゆる「興津詣で」でこの旅館が大いに繁昌したという逸話も残っています。
・斎藤内閣は「挙国一致内閣」といいまして、もう政党などにかまっておられず、国のためを思う人たちを集めて内閣を組織しました。これ以後もそうなります。つまり五・一五事件の結果として、日本の政党内閣は息の根を止められた。さらに、軍人の暴力が政治や言論の上に君臨しはじめる、一種の「恐怖時代」がここに明瞭にはじまるのです。
『落日燃ゆ』*4で非常に持ち上げたためたいへん立派な人と広田さんは思われているのですが、二・二六事件後の新しい体制を整えるという一番大事なところで広田内閣がやったことは全部、とんでもないことばかりです。スタートから、「政治が悪いから事件が起きた。政治を革新せよ」という軍部の要求を受け入れて、「従来の秕政を一新」という方針に同調して組閣しました。秕政とは悪い政治という意味です。これでは軍部独走の道を開くことと同じなんですね。
日本の第23師団約二万人のうち約七〇パーセントが死傷して師団が消滅してしまったほどの大戦争が起きていることを、どうも昭和天皇は知らなかったようなんですね。考えてみるとずいぶんおかしなことなのですが、そう考えるより解釈のしようがない。
・ポーランドにとってはひどい話ですが、ひどいといえば日本にとってもそうです。これまで見てきましたように、対ソ連の有利な戦略を練るためにドイツと軍事同盟を結ぼうかと盛んに議論している最中に、ヒトラーとスターリンが手を結んだとなると、日本は何のために七十数回も五相会議をやっているんだかわからなくなります。世界の裏側で首脳たちが何を考え、どんなやりとりをし、何が起こりつつあるかをまったく知らないまま、日本は一所懸命議論をしていたわけです。アホーもいいところです。
・かつて米内光政・山本五十六・井上成美トリオが猛反対し、当時の海軍中堅クラスも陸軍と戦争をする覚悟で反対した三国同盟を、一年たつかたたないうちに海軍が事実上賛成してしまったのはどうしてか。これが昭和史の大問題なのです。この同盟を結ぶことは、完全にイギリスはもちろんのこと、それを応援しているアメリカをも敵であると明示することになる、非常に大事な決定だったのです。ここをこれからちょっと詳しくみていきます。
・「内乱では国は滅びない。戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に賭けるとは、主客顛倒もはなはだしい」
・その時、松岡のほうから、二人で「電撃外交」をやって全世界をあっと驚かせようじゃないか、と言い出したという話も残っています。いや、スターリンからともいわれていますが、いずれにせよスターリンがいかなる政戦略を頭に描いていたのか、話がトントンと妙に進んであっという間に四月十三日午後二時、その日のうちに世界じゅうの誰もが予想していなかった日ソ中立条約が調印されてしまったのです。
・八月八日にはじまって、十二月三十一日、天皇陛下が「このような情勢では大晦日も正月もない」と急きょ、御前会議を開いてガダルカナル島撤退を決めるまで約五カ月間の戦闘で、海軍は艦艇(戦艦含む)二十四隻、計十三万四百八十三トンが沈みました。アメリカも二十四隻、計十二万六千二百四十トンが沈むほど、全力をあげてぶつかり合ったのです。一方、日本の飛行機は八百九十三機が撃墜され、搭乗員二千三百六十二人が戦死しました。これは非常に大きなことで、ここで日本のベテラン飛行機乗りの大半が戦死し、あるいは傷つき、以後、あまり熟練していない人たちが飛行機に乗るようになりました。陸軍が投入した兵力三万三千六百人のうち、戦死約八千二百人、戦病死約一万一千人、そのほとんどが栄養失調による餓死なんです。哀れというほかはない。 一方アメリカは、作戦参加の陸軍および海兵隊計六万人のうち、戦死千五百九十八人、戦傷四千七百九人で、戦病死者はなし。ペニシリンがすでに発明されていましたから、たいていの傷病はどんどん治ったのです。
・河辺も牟田口も、飢えてどんどん死んでゆく兵隊、その死体が山のようになっていくことを知っていました。置き捨てられた死体をネズミが食い、目の玉をかじる、負傷兵の上をイギリス・インド連合軍の戦車がばく進してゆくことも知っていながら、作戦中止を言わなかったのです。河辺の戦後の回想があります。 「この作戦には私の視野以外さらに大きな性格があった。この作戦には日本とインド両国の運命がかかっていた。チャンドラ・ボースと心中するのだと、予は自分自身にいい聞かせた」
・つまりチャーチルは「俺は知らない」とはっきり言ってるんですね。トルーマンの記憶が正しいのか、チャーチルの記述が本当なのか、あるいはチャーチルが自分の責任を回避して全責任をトルーマンにあずけているのかは疑問なわけです。
・午前十時三十分に会議がはじまり、鈴木首相はいきなり言いました。 「広島の原爆といい、ソ連の参戦といい、これ以上の戦争継続は不可能であると思います。ポツダム宣言を受諾し、戦争を終結させるほかはない。ついては各員のご意見をうけたまわりたい」 こうしてはっきり「戦争を終結させなくてはならない」と首相が軍部の前で明言したのです。会議は重い沈黙で誰もしゃべらなくなってしまいました。まあ、原爆にしろソ連参戦にしろ、考えてもみないような鉄槌を二つも頭からくらったのですから、ほとんどの人がどうしていいかわからない状態だったのでしょう。
・また日本の要求をイギリス、ソ連、中国に知らせると、イギリスと中国は比較的早く返事がきて、どちらかといえばこれ以上の流血の惨事より条件をのんだほうがいいのでは、という意見でした。ただソ連はなかなか結論が出ず、またアメリカ内部の議論も長引き、ようやく日本時間の八月十二日の夜、連合軍側からの回答が決まります。そこでサンフランシスコ放送を通して日本に伝えました。それは実にあいまいで、何にも答えないような回答でした。
・わたしは、明治天皇が三国干渉の時の苦しいお心持をしのび、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う。これからは日本は平和な国として再建するのであるが、これは難しいことであり、また時も長くかかることと思うが、国民が心を合わせ、協力一致して努力すれば、かならずできると思う。私も国民とともに努力する。
・今日まで戦場にあって、戦死し、あるいは、内地にいて非命にたおれた者やその遺族のことを思えば、悲嘆に堪えないし、戦傷を負い、戦災を蒙り、家業を失った者の今後の生活については、私は心配に堪えない。この際、私のできることはなんでもする。国民は今何も知らないでいるのだから定めて動揺すると思うが、私が国民に呼びかけることがよければいつでもマイクの前に立つ。陸海軍将兵はとくに動揺も大きく、陸海軍大臣は、その心持をなだめるのに、相当困難を感ずるであろうが、必要があれば、私はどこへでも出かけて親しく説きさとしてもよい。内閣では、至急に終戦に関する詔書を用意してほしい」
第一に国民的熱狂をつくってはいけない。その国民的熱狂に流されてしまってはいけない。ひとことで言えば、時の勢いに駆り立てられてはいけないということです。
・「読んでいいですか」と聞くと「いい」と言うので読みますと、先ほど少し申しました須見元連隊長からでした。 文面を全部記憶しているわけではないので大意だけ申しますと、「私は司馬さんという人を信じて何でもお話したが、あなたは私を大いに失望させる人であった。したがって、今までお話したことは全部なかったことにしてくれ。私の話は全部聞かなかったことにしてくれ」という趣旨でした。 その理由は、「あなたは『文藝春秋』誌上で、瀬島龍三大本営元参謀と実に仲良く話している。瀬島さんのような、国を誤った最大の責任者の一人とそんなに仲良く話しておられるあなたには、もう信用はおけない。昭和史のさまざまなことをきちんと読めば、瀬島さんに代表されるような参謀本部の人が何をしたかは明瞭である。そういう人たちと、まるで親友のごとく話しているのは許せない」といったことでした。この手紙を読んで、あ、これでは司馬さんはノモンハンを書けないなと思いました。