貴重な銀行頭取の回顧録「ザ・ラストバンカー」

三井住友銀行元頭取、日本郵政公社の民営化も総裁として務めた西川氏による回顧録。銀行トップが自らの言葉で、世の中を騒がせた事件を言及しているのは非常に珍しい。また内容も新たな視点がたくさんあり大変おもしろいです。

一方で、イトマン事件や磯田さんを退任させた件などでは何かを意図的に言及していない感じもあり、やはりひとつのモノの見方だと考える必要もありそうです。

とはいっても、個人的には非常に明確なポリシーのもとの仕事をされている仕事人と思い好感を持ちました。

<抜粋>
・実際に国は「道路運送車両の保安基準」を改正して、一九六九(昭和四四)年四月一日以降に国内で生産された普通乗用車、一〇月一日以降に生産された軽自動車の運転席にシートベルトの設置を義務付けた。それとともにタカタにはシートベルトの発注が大量に押し寄せた。落下傘のひもからの見事な業態転換だった。シートベルトはその後、運転席だけでなく全座席設置が義務化されたし、エアバッグも義務化されているから、今では当時と比べものにならない優良企業に成長している。二代目の社長さんの手腕が大きかった。会社の良し悪しはやはり経営者で決まると再認識させられた。
・当時の安宅産業の負債総額は一兆円あり、もし安宅産業が倒れれば、一九七五(昭和五〇)年八月に戦後最大の負債総額で倒産したばかりの興人の五倍にも達する超大型倒産になってしまう。三万五〇〇〇社もある取引先の連鎖倒産、主力銀行の住友銀行はじめ二三〇行ある取引銀行の債権焦げ付き、関連会社を含めると二万人もの従業員の失業にもつながりかねない。しかも、これを放置して十大商社の一角が破綻し外銀が損失を受けたとなれば、日本の総合商社というビジネスそのものに対する国際的信用が地に落ち、総合商社に多額の融資をしている日本の銀行の国際的信用をも失う。信用不安がとめどもなく連鎖し、一九二七(昭和二)年の昭和金融恐慌の再現となるばかりか、海外でのビジネスに壊滅的な打撃を与え、日本経済は焦土と化してしまうかもしれない──。  そういった認識だったから、一一月四日には伊部恭之助頭取が極秘に日本銀行に森永貞一郎総裁を訪ねて会談し、「安宅アメリカの破綻は万難排して食い止める」と発言している。安宅破綻によってとくに地方銀行が痛撃を受け、バタバタ倒産することは、日銀も絶対に阻止したかった。
安宅を破綻させてはならない。対応を誤ったら日本経済はおしまいだ。私たちは文字通り日本経済を救う使命感を持って、この問題に取り組んだのだ。
・その頃の融資第三部には、八〇人から九〇人もの職員が在籍していた。皆、組織図の上では私の部下ということになっていたが、そのほとんどが私より年上で、私より年下の職員は一〇人そこそこしかいなかった。どうしてそんなことになっていたかというと、以上に述べてきたような安宅の関係会社に社長として派遣される支店長や副支店長経験者などの優秀なベテランが、ここに在籍した上で出向していったからである。  安宅地所、安宅木材、安宅建材、日本ハードボード工業、三精輸送機といった関係会社の社長は皆ベテラン支店長だった人が社長として就任した。こうした資本関係がある会社以外でも経営支援して再建しなければいけない会社がたくさんあって、銀行中から人材を集めた。現役職員だけでなく住友銀行OBの人たちにも社長になってもらった。だから部長といっても部の中で私は若造のほうで、給料は三〇番目以下だったと思う。
・事実としては、まず佐藤社長が河村社長とは関係なく平和相銀の株を買い取り、その資金をイトマンファイナンスから融資された。この返済をするためには平和相銀株をどこかに売らなければならない。そこで住友銀行がその株式を買い取ったわけである。前もって平和相銀株取得の下相談が佐藤社長と河村社長との間にあったのかもしれないが、私は知らなかったし、頭取の小松さんも、副頭取のさんもそのことは何も知らされていなかった。下相談があったかどうかはともかく、イトマンの資金で佐藤社長を抱き込み、小宮山家の株を取得した時点で三和との争奪戦は実質的に住友銀行の勝利に終わったのである。  ちなみにこのとき、当時大蔵大臣だった竹下登氏の秘書、青木伊平氏の紹介で、平和相銀株を買い戻そうと焦っていた伊坂氏に対して真部俊生八重洲画廊社長が「金蒔絵時代行列という金屛風を四〇億円で購入すれば株買い戻しの取引が可能になる」と持ちかけ、伊坂氏は自らが経営していたコンサルタント会社に購入代金四一億円を融資し金屛風を購入したにもかかわらず株の買い戻しができなかったのが、後に言う「金屛風事件」である。
・とにかく、私からすれば平和相銀は、数だけは一〇三店と多くてもボロ店舗ばかりで、住友銀行は余計な苦労を抱え込むばかりに見えた。しかし磯田さんは「一〇〇年経ってもこれは手に入らない」とよく言っていた。たしかにこのとき支店を手に入れた東京の西新橋や飯田橋では、当時はそう簡単に新規出店などできない。店舗行政の制約を突破して住友銀行を日本のトップバンクにしようとする強い執念が磯田さんを突き動かし、それが住友銀行全体を動かした。磯田さんはどちらかというと言葉数の少ない人だったが、こうと決めて発言したら絶対譲らないバイタリティがあったし、周囲にはそれをサポートする側用人のような役員が大勢いた。
・私はこのとき常務企画部長の任に就いていたが、だんだんわかってきた事態の中でも特に困ったことだと思ったのは、こうした絵画取引に磯田さんの長女である磯田園子さんが勤務していたセゾングループの宝飾販売会社でピサという会社が間に入っていたことだ。  今まで私を含めて誰も住友銀行関係者は語ってこなかったことがある。この機会にあえて申し上げよう。イトマン事件は磯田さんが長女の園子さんをことのほか可愛がったために泥沼化したのだと私は思う。私は磯田園子さんと直接話した機会はなかったのだが、磯田さんの溺愛ぶりを示す、こんなことを耳にしたことがあった。後に結婚することになるアパレル会社社長の黒川洋氏と磯田園子さんがロサンゼルスに駆け落ちした。それを認めるわけにいかず困っていた磯田さんは、秘書を派遣して二人を連れ戻させたのだ。磯田さんの秘書は園子さんに振り回されて、本当に苦労したようだ。  そういう磯田さんに、父親として娘の事業を後押ししたい気持ちがなかったわけがない。磯田さんが溺愛していることを知って、イトマンの河村社長も伊藤常務も彼女の面倒をよく見ていたようだ。
しかも、マスコミが騒ぎ立てたことによって、伊藤寿永光氏や許永中氏との関連が取り沙汰されて、住友銀行は闇の紳士たちと関係が深いダーティーな銀行だという、実態とはかけ離れたイメージが定着し始めていた。私たちがどんなにそれを否定して、正論を吐いても、トップが磯田さんである限り、誰一人耳を貸してはくれない。磯田さんの個人的な問題のせいで住友銀行全体が危うくなることなど、私は絶対に許せないと思った。
・これに追い打ちをかけるように、この頃、雑誌の記事に磯田さんが出た。そこで当時の大蔵大臣だった橋本龍太郎さんのことを青二才呼ばわりしていたのだ。私は目の前が真っ暗になるような衝撃を受けた。傍若無人にも程がある。「天皇」と持ち上げられ、周囲を自分におもねる人ばかりで固め、状況を冷静に見ることができなくなっていないか。よりによってこんなタイミングで、こんな馬鹿なことをしでかすトップを戴いていることが恥ずかしかった。
そういう心配があったので、全員の意見を集約する形で磯田会長退任要望書をまとめた。印鑑をもっている人は印鑑で、もっていない人は朱肉に指をつけて全員が押印した。昔で言うなら血判状である。  その中には磯田さんの秘書を務めた人物もいたし、それぞれ万感の思いが去来していたにちがいない。しかし全員異論はなかった。欠席した人には電話で伝えた。銀行のために今なすべきことは何か、皆一致していた。
・こうして一九八六(昭和六一)年四月から九一(平成三)年一一月までの、四七歳から五三歳にわたる私の企画部長時代は、就任してすぐに安宅を処理した関係で平和相互の始末をつけさせられ、さらに銀行全体に影響していた問題としてイトマン事件でも奔走させられた。だから私には楽しい思い出というものが本当にない。しかしこれらを通じて、あいつは問題処理に強い、厄介事は西川に任せておけという評価が定着してしまったようだ。
これはもうトップ交渉しかないと思った私はイギリスに向かい、イングランド銀行のロイド・ジョージ総裁を訪ねた。総裁とは旧知の間柄だった。私の顔を見るなり「よくおいでになりました。話は聞いています。FSAには私のほうから電話しておきますよ」と言ってくれ、非常に話が早い。しばらく旧交を温めたあと、その足でFSAを訪問すると、大変丁重に迎えてくれる。こちらがSMBCは何も変わっていない事情を説明すると、納得してすぐに認可をおろしてくれた。
私がスピードにこだわったのは競争優位要因になるのはもちろんだが、スピードを軸に業務や身の回りを点検したり検証したりすると、思い切ったプロセス改革が必要であることがわかり、そのためには改善などという穏やかなものではなく、従来に比べて二分の一、三分の一にするぐらいの革新的な取り組みが必要であることがわかるからなのだ。
・そんな話をして私は、「決断を下すに当たって、八〇パーセントの検討で踏み出す勇気を持ってほしい」と訴えている。 「私の経験から言っても、八〇パーセントの自信があれば、ほとんどの判断は正しいものになる。失敗を恐れてはならない。何もスピードを上げたために起きた失敗に限らない。前向きにチャレンジして結果として失敗した場合、その責任は問わない。減点主義の人事を廃していく。何も行動を起こさない者こそ、私は責任を問う」
・だから私は、百日作戦を指示した後に、「リストラに関する留意点」という話をした。つまり、私が訴えているのは、一円や二円を削るにはどうしたらよいかというつましい話ではなく、固定観念に囚われない大胆な事業の検証作業を進めるのが真意だということだった。一円や二円の削減は、その結果として浮かび上がってくるものなのだ。
・その後の百日作戦は、実に徹底したものだった。これに成功したことが、旧住友と旧さくらの壁をなくし、新生の三井住友銀行としての一体感を醸成できたのは間違いない。言葉を換えれば、百日作戦により私たちはスタートダッシュができ、早い段階で新銀行の経営を軌道に乗せることができたのである。  百日作戦では、とにかく見直せるものはすべて見直した。私自身、「聖域はない。あらゆる手だてを総動員して最大限に努力しろ」と発破をかけ続けた。支店では、一般職だけでなく給与の高い総合職も人員の削減対象になったし、ムダなコピーはするなというケチケチ作戦も当然のごとく行った。この結果、二〇〇二(平成一四)年三月期には人件費や店舗維持費用などの物件費を中心とした経費は前年よりも三〇〇億円減り、六七〇一億円となった。さらに業務粗利益に占める経費の割合(経費率=OHR)は、前年の四六・六パーセントから三六・二パーセントにまで低下した。当時、ライバル他行の経費率は五〇パーセント前後であったから、私たちの取り組みは驚異的なものだった。
・その象徴のような存在が経団連だろう。経団連というと、日本企業のトップが集まって日本経済の行方を見据えていると思っている人がいるかもしれないが、実際は組織としてかなり硬直した部分があり、官僚ならぬ民僚まで存在している。彼ら民僚は経済人ではなく、経団連という組織のために動いているのだ。経団連の会長になるには、そういった民僚と戦えるだけの資質と多数のスタッフが必要となる。そんなにしてまで会長になったところで、いま経団連に日本経済を引っ張る力がどれほどあるだろうか。経団連はもはや無用の長物だと私は思っている。
・郵貯に預け入れられた国民の資金は、二〇〇〇(平成一二)年までは大蔵省(当時)の資金運用部に全額を預託する義務があった。預託期間は七年間で、金利は一〇年物国債の利回りに〇・二パーセント程度が上乗せされた。民営化された日本郵政では、運用ノウハウの確立と運用担当者の育成に苦労させられることになるのだが、いきさつを振り返れば、それも至極当然のことなのだった。郵貯は、市中よりも有利な金利で自動的に〝運用〟でき、資金を集めることだけに専念していればよかったのである。言うまでもなく、預託された資金は財政投融資などの資金となり、これがまた特殊法人のずさんな経営を生む一因にもなっていた。
郵政福祉は、給与天引きの資金を運用していたと書いたが、そもそもこの団体は、特定郵便局の局舎を約一五〇〇ほど所有し、公社が家賃を支払う形になっていた。賃料は結構高く、利回りにすると約一〇パーセントで回っていた。しかも財団法人は公益法人なので、税金がかからない。その団体が、局舎を郵政に貸し出して賃料を得、それを運用して職員の退職金に上乗せするという構造は、どう考えてもおかしい。
・結局、二〇〇九(平成二一)年五月には日本郵政の指名委員会が私の社長続投を決め、逆に六月には鳩山大臣が一連の〝郵政騒動〟の責任を取らされるような形で総務相を辞任した。この鳩山大臣の辞任をきっかけとして麻生内閣の支持率が下がり始めるのだが、そのことについて私が書き残すことはない。