「シャープ崩壊」までのドキュメンタリー

シャープ崩壊までを日経が丁寧に追ったドキュメンタリー。

様々なタイミングで正しい決断、つまり提携(資本)、撤退や人事が行われなかったが故にズルズルと悪い状況に陥っていく様が描かれています。結局のところまとめると液晶で大成功したがゆえの自己イメージの増幅による崩壊ということなのかなと。

液晶工場への投資は確かに多かったかもしれないが、それで成功してきた歴史があるのだから個人的には責められない。ただ過剰投資が分かってからも、甘い見込みや先代社長や部門への配慮から提携も進まず最後は屈辱的な条件を飲まざるを得ないところまで行ってしまったのはなんとも擁護しがたい。

本書は一貫して会社側に厳しい視点で、いわば一方的な見方ではあると思いますが、いろいろと学ぶべきものがありました。いずれにしても勝てば官軍負ければ賊軍、経営は結果が全て、ですね。

<抜粋>
・だが、シャープの多くの社員たちは片山に憎悪の視線を投げかける。「会社を傾かせたのに反省がない片山さんだけは許せない」
「片山さんはものすごく頭がよくて、先見性がありました。一切残業はしないので、夕方6時ぐらいに帰ります。ところが翌日になると、自動車向け液晶の駆動回路ですばらしいアイデアとかが出ている。
・シャープにはもともと、取引先よりも社内の都合を優先する傾向があった。「中小企業で規模も大きくなかったから、取引は内需が中心で、長く本格的な外販をしてこなかった。営業が弱く、外との付き合いがうまくなかった」と片山の側近だった社員は話す。社内事情を最優先とする〝内向き志向〟がはびこり、商談中でも「上司から呼び出しがあったので」と席を立つのも半ば常識だったという。
・時計の針をいったん1年前の2010年に戻す。堺工場の稼働率が悪化するとすぐ、片山は液晶事業のてこ入れに向けて新たな一歩を踏み出した。10兆円規模の売上高を持つ、電子機器の受託製造サービス(EMS)の世界最大手、台湾の鴻海精密工業との連携だ。  しかし、この交渉で片山は鴻海の董事長(会長)、郭台銘(テリー・ゴウ)に振り回され続けた。鴻海への警戒を強めた町田は、片山の経営能力に次第に疑問を抱くようになっていった。
・過去に結んだシリコン調達契約をすべて洗い直したところ、調達額の合計は3000億円弱。シリコンの市価は、ピークだった08年のリーマン・ショック前に比べて20分の1以下にまで下落していた。割高な原料調達契約を結んでいたことが、国内トップシェアでありながら太陽電池事業の赤字が続いていた大きな要因だったのだ。  この違約金支払いが表面化するまで「トップは太陽電池事業の赤字の本質をつかみ切れていなかったから、抜本対策も打てなかった」(中堅幹部)といわれる。
・売上高20兆円の世界最大の電機メーカー、サムスン。瀕死のシャープに手を差し伸べるという名目のもと、〝はした金〟に過ぎない100億円でここまで要求を飲ませた。逆にいえば、シャープは100億円欲しさにサムスンに全面的にかしずいたともいえる。
・「危機になったのは自業自得だ」「下請けいじめしていた罰が当たったんだよ」──。高橋が本社に戻ってきて、取引先や部下から聞く声は、同情や激励というより、「上から目線」で多くの取引先を敵に回していた実態だった。  高橋自身、親しい同僚役員に「シャープの評判は最悪や。本当に潰れるかもしれない」と吐露したこともある。「高橋さん、あなただから信用して話しますけど、シャープがこういうことになって『ざまあみろ』と思っている人は多いですよ」。取引先や関係者から直接、何度も耳打ちされた。
・下請け企業に対し執拗に部品の値下げを迫り、横柄な態度で接するシャープの悪評は、地元の関西地域ではよく知られていた。取引先を「おまえ」呼ばわりし、怒鳴り散らすのは当たり前。シャープとだけは二度と取引しないという下請けも少なくない。パナソニックに吸収された三洋電機の経営危機とは違い、地元ではシャープに対する同情論はほとんど広がっていなかった。
・交渉に携わったシャープ関係者はこう指摘する。 「最後は時間切れで交渉が終了した。高橋の意思は最後までよく分からなかったが、それが高橋の戦略かもしれない。少なくとも複写機という収益事業を切り売りしなかったことで、高橋さんへの社内の求心力が高まったことだけは間違いない」
・「(第3代社長の)さんは約束を破ると怒るけど、失敗したことには文句を言わない。だから、さんのころまでは自由だったのです。町田さんは文句を言うやつは許さないから、雰囲気が変わっていった。液晶テレビで成功したために勘違いしたのか、『(会社として)一流意識を持つように』などと言い出しました。これでは以前のように冒険はできません」
・佐伯は全社で100人に過ぎない技術者のうち、浅田ら20人を研究所へ移し、半導体や計算機などの開発に没頭させた。浅田がリーダーとして担当したのが電卓だ。電卓の開発では、大阪大学の工学部の教授に顧問になってもらった。
・「シャープは天理や三重に液晶工場を建てたことで、液晶の生産能力が増えすぎて、自分たちで使わざるを得なくなりました。液晶ビューカムのようなヒットが生まれたのは事実です。しかし冷蔵庫に液晶を付けるなど、あらゆる商品に液晶を搭載するという戦略には明らかに無理がありました。液晶をさばききれなかったから無理やり商品側に押しつける。それでは売れる商品にはなりません」。目のつけどころがシャープさという強さが消えていったのである。
・高橋の側近の幹部はこう分析する。 「高橋さんは液晶のことが分からなかった。特に、14年秋以降、液晶がみるみる悪くなっていたところをトップとして把握できなかった。それは高橋さんの責任だと思います。自分に近い人間を亀山に送りましたが、その人も液晶は素人だったんです。結局、液晶を統括する専務の方志(教和)さんの情報を信じすぎたんですよ。液晶が一番の不安であれば、自分で亀山に乗り込めばいいんですけど、そうしなかった。『大丈夫、大丈夫、まだまだ挽回できる』と方志さんもそう思ったし、高橋さんもああいう性格だから厳しく追及しなかった。いや、できなかった。当事者意識がなかったんですよ。誰も。それで危機が再燃するんですから自業自得です」
・金融機関幹部は当時の流れを振り返ってこう話す。「主力2行が恐れていたのはシャープが開き直ることだった。万が一、民事再生法など法的整理の道を選ばれれば、銀行にとっては大きな痛手になる。多額の債務の回収ができず、責任が問われるからだ。だから、扱いやすい高橋さんには残っていただくのが都合よかった。神輿は軽い方がいい」。高橋にとっても自らの首がつながる提案ゆえ、断る理由などなかった。