ホンダ創業者のひとり藤沢武夫氏によるエッセーですが、とりとめのないように見えてひとつひとつが非常に勉強になります。
特にホンダは稀に見る後継者をうまく育てた会社だと思いますが、どのように権限委譲をしていったのかという役員室構想の話は今後役に立ちそうです。
役員室構想ですが、これをつくるまでは、重役は大部長制のようなもので、経理部長、営業部長、製作所長等々を兼務する重役なので、担当以外には知識もないし、また興味がないんです。口を出すのを遠慮もする。したがって、重役会議は自分の部門についての現況報告が多い。 企業の未来への道──これは大変むずかしい問題ですし、一口ではいえませんが──企業全体を把握した上での第三者的大局観といったものの必要は、一年に一度、あるいは二年に一度あるかどうかですが、企業はそれによって大きく展開するものだと思うのです。しかしそれを一人の人間に求めるのは、なかなかむずかしいことですから、大勢の重役の集団思考でこれをつくろうと考えて、役員室制度を構想したわけです。 重役になるくらいの人は、何かのエキスパートです。そういう人の担当部門をなくし部下を管理するわずらわしさから離れてもらって、一人だけの力で一部屋の役員室へ集まってもらう。日常毎日の話題は経験のないことでも、重役になるくらいの人は、担当者が気がつかないことを見つける力を持っているものです。また、共通の話題が厚くなれば、専門的な事柄もわかってもらえるから、話しやすくなり、誤解の出ようも少ない。
「いや、重役は何もしないんだよ。俺もそれでやっていた。何もない空の中から、どうあるべきかをさがすのが重役で、日常業務を片づけるのは部長の仕事だ。所長であり重役であるというのは対外的な面子から、交渉のときもまずいだろうということでそうなっているだけで、重要な問題ではない。だから、役員は全部こっちへきて、何もないところから、どうあるべきかをさがすことをやってほしい」といったのです。
経営についても
今度のドル・ショック(注:昭和四十六年)に対しても、それによって転換すべきかを会社全体で考えればよいわけで、そのための集団思考を十二分に発揮できる体制は、いまや完全に整ったわけです。もはや本田なり私が決めるのではなく、下からのアイデア、上からのアイデア、いろいろなものをこね回し、集団思考でやっていける体制は完了したのです。 私は現在、企業に利益があるとかないとかよりも、その仕組みができたこと、そして全体のレベルを上げるべきだという社長の考え方がその中に織り込まれてあること、これが何よりも大切だと考えています。
企業には社是があり、経営の基本方針が決定されている。私は、経営とは、それにそっているか、どうかを見守っていることだと思っている。(中略)企業がスムーズに展開されて障害がなく、これからも同じように阻害さるべき要素を、未然に探究しておくことが、私は、経営だと思っている。
としており、非常に納得感がありました。
<抜粋>
・とにかく、きのう入った人間が今日はもう親方ヅラしていたりね。権限の委譲なんて、もう日常のことですよ。というと体裁いいんだが、まあ、権限の取りっこをしているようなもんです。 給料もアンバランスだし、仕事もアンバランス。しかし、そのうちにも徐々に秩序というものはできてくるんですね。そうして、伸びるものは伸びる。いまの河島社長、川島副社長、白井、西田の両専務を始め、幹部連中はみんな、そんな中から頭角をあらわしてきたんですよ。創業期の熱気といいますか、そんなものがむんむんしていたんです。本田は、ナッパ服着込んで工場や研究所に毎日のように出向いていましたね。
・私は、企業というものはリズミカルであり、美的なものでなければならないとつねづね思っている。企業に芸術がなければ、それは企業にならない。というのは、みんなの心に訴えるものは、新しい詩であり、音楽であり、絵であり、芸術的なものである。企業の中に、それがなければ、人は無味乾燥になってしまう。だから、そのリズミカルなもの、あるいは美しさといったことで、人の心を感動させるものが、ちょくちょくなければいけないと思ってますね。
・急激に膨張した会社だから、中途入社の人が多くて、その人たちは以前の経験、習慣で仕事をするんですね。思い思いの書類を使っていたし、ソロバンを持っているんですよ。私はソロバン嫌いだから、「そんなの使わないですむ方法ないの」って聞いたもんです。
・そこで、五月に金融引き締めが発表になると同時に、すぐ値下げを断行したんです。さらに、七月の第二回引き締めのときに、もう一回やれといってさらに値下げしました。 この二回にわたる値下げで、ドリームの価格は十五万円台になった。これには、みんなびっくりしちまったですね。その結果、ホンダは国内二輪車市場を八〇%くらい取ってしまって、シェアは絶対のものになったわけです。この時点で、ホンダのオートバイは、品質的にも、価格的にも、本格的に世界に通用する国際商品としての条件が調ったといえますね。外注工場も含めて、数量効果がまだ十分に出せた時代でした。
・苦労しても、パイプは自分でつくらなければいけません。いっぺんつくってしまえば、それは自分のもの。ところが、他人のパイプにちょっと入れさせてもらうよ、といっても、いっぱいになれば、たちまち弾き出されてしまいますからね。
・市場調査では、アメリカよりも欧州が有望ということでしたね。当時、アメリカは二輪車の売れない国で、一年に六万台くらいの消費しかない。オートバイを乗りまわすのは、ブラック・ジャケットの暴れ者といった状態ですよ。一方、欧州は、有力なメーカーもあるし、年間三百万台もの二輪車が売れていたんです。 けれども、私は「欧州はだめだ。アメリカに行け」と主張したんです。アメリカこそホンダの夢を実現できる主戦場だというのが、私のかねての考えで、ですから、本格的な進出が可能になるまでは、サンプル輸入の注文があっても一台も出さずに、満を持していたんです。というのは、世界の消費経済はアメリカから起こっている。アメリカに需要を起こすことができれば、その商品は将来がある。アメリカでだめな商品は、国際商品にはなりえないという信念を、私は持っていたんです。
・川島は、東南アジアにまず出るべきだという考えでしたね。地理的に見ても、ヨーロッパの有力メーカーと対抗でき、需要拡大も容易なのは東南アジアだというわけです。とにかくアメリカは、四輪自動車の市場として成熟しているし、現地の生活を見れば東南アジアの先行有望と見るのは、ある意味では当然だったでしょうね。 けれども、市場の規模は格段の差があるし、波及効果を考えれば、なんとしてもアメリカ市場の開拓が先決だという、私の考えは変わりませんでした。東南アジアで売れれば、当面短期的な効果は大きいけれども、世界商品として伸びていくという形にはとうていなりえないと見ていたわけです。
・昭和三十四年の五月ごろでしたか、川島を呼んで、「おまえ、アメリカへ行け。俺の切り札はおまえしかいないよ。おまえが行ってだめなら、社長に頼んで、オートバイじゃない他の商売してもらうよ」といって、強引にアメリカへやっちまったんです。私は本当に、アメリカでだめなら、オートバイ企業の将来なんて先が知れていると思っていたものですからね。しかし、国内販売で十分経験を積んでいるとはいうものの、ほとんど未知のアメリカ市場に独自な販売網をつくり上げろというんですから、川島もあんまり嬉しそうな顔ではありませんでした。でも、この物好きは出かけましたがね。そして、この男がまたどでかいことをやりあげたわけですが……。
・ところで、これは何も営業に限らないが、私は陰へ呼んでこそこそ叱ることは、絶対やりません。なぜなら、人間なんてものは、叱られるようなこと、教えなければいけないことは、みんな同じなんですよ。だから、まとめて、全部の人に教えちまう。それには馬鹿でっかい声で派手にやるに限ります。このやり方は私自身の勉強にもなる。うっかりした叱り方じゃあ、皆に軽蔑されますからね。
・そこで私は、「私の記録」というものを書こうではないか、と提案したんです。だれしも定年で退職するときには、なにがしかの退職金を受け取ります。しかし、退職金がその人間の仕事を語っているわけではない。どんな仕事をし、どんな成果をあげたかがわかるわけではありません。だから、考えたことは記録で残す。それを同僚も見、班長も課長も見て、公認のものにする。そうすれば、たとえば転職する場合でも、エキスパート要員として認められるし、退職するときも、息子や孫に自分の仕事の歴史を知ってもらうこともできるわけですね。 各職場で「私の記録」が書かれるようになりました。これは望ましい副産物も生みました。現場ではしばしば、口の達者な者が無口の者の仕事を横取りしてしまうようなことがありますけれども、「私の記録」が書かれるようになってから、うまく立ち回って、聞きかじりでうまいことをいって成功するといった輩が、影をひそめたんです。
・ところで役員室構想ですが、これをつくるまでは、重役は大部長制のようなもので、経理部長、営業部長、製作所長等々を兼務する重役なので、担当以外には知識もないし、また興味がないんです。口を出すのを遠慮もする。したがって、重役会議は自分の部門についての現況報告が多い。 企業の未来への道──これは大変むずかしい問題ですし、一口ではいえませんが──企業全体を把握した上での第三者的大局観といったものの必要は、一年に一度、あるいは二年に一度あるかどうかですが、企業はそれによって大きく展開するものだと思うのです。しかしそれを一人の人間に求めるのは、なかなかむずかしいことですから、大勢の重役の集団思考でこれをつくろうと考えて、役員室制度を構想したわけです。 重役になるくらいの人は、何かのエキスパートです。そういう人の担当部門をなくし部下を管理するわずらわしさから離れてもらって、一人だけの力で一部屋の役員室へ集まってもらう。日常毎日の話題は経験のないことでも、重役になるくらいの人は、担当者が気がつかないことを見つける力を持っているものです。また、共通の話題が厚くなれば、専門的な事柄もわかってもらえるから、話しやすくなり、誤解の出ようも少ない。
・「いや、重役は何もしないんだよ。俺もそれでやっていた。何もない空の中から、どうあるべきかをさがすのが重役で、日常業務を片づけるのは部長の仕事だ。所長であり重役であるというのは対外的な面子から、交渉のときもまずいだろうということでそうなっているだけで、重要な問題ではない。だから、役員は全部こっちへきて、何もないところから、どうあるべきかをさがすことをやってほしい」といったのです。
・そうしたら、「俺は長いこと工場にいたんだから、本社にきてもしようがない」とか、やれいままでは経理をいじってたとか、資材部長だった、営業部長だったと、いろんなことをいうわけです。確かにそれまでは手足も大勢いたのが、全然なくなって秘書室といっても、大勢の重役に女性二人くらいしかつけてもらえない生活になり、たいへんご不満だったようです。
・今度のドル・ショック(注:昭和四十六年)に対しても、それによって転換すべきかを会社全体で考えればよいわけで、そのための集団思考を十二分に発揮できる体制は、いまや完全に整ったわけです。もはや本田なり私が決めるのではなく、下からのアイデア、上からのアイデア、いろいろなものをこね回し、集団思考でやっていける体制は完了したのです。 私は現在、企業に利益があるとかないとかよりも、その仕組みができたこと、そして全体のレベルを上げるべきだという社長の考え方がその中に織り込まれてあること、これが何よりも大切だと考えています。
・企業には社是があり、経営の基本方針が決定されている。私は、経営とは、それにそっているか、どうかを見守っていることだと思っている。
・企業がスムーズに展開されて障害がなく、これからも同じように阻害さるべき要素を、未然に探究しておくことが、私は、経営だと思っている。
・大企業になっては、経営というものは厳しいものであり、個人の趣味、興味というものとは関連がなくなってきている。 端的にいって、私には大きすぎるように思われる。将来のことを考えるとき、経営を会社全体の姿でやっていかれるようにしたいと思っている。 だから、今までもそうであったけれど、私は幹部の研修会には必ず出席して「ものの見方、考えの起点、具体的発展」という点を強調している。そのような基盤ができ上がれば、経営は次の時代を背負う人にとって、しごくやりやすくなると確信しているからだ。最近はその研修会も以前から比べれば、心が浮き浮きするような素晴らしい論理の展開を見せてもらえるときが多くなった。“速度を早めてくれ”と念ずるばかりだ。しかし、私は会社の皆さんに話をする壇の上に立ったときに、温かく見守ってくれるのを感じ、経営者の一人としての喜びを味わわせてもらっている。 それなら、経営というものが私の人生にとって、やはり最高のものだということになる。
・よそから引っこ抜かれるような人材が、本田技研の中から続出すれば、本田技研のこの思想というものが、日本中に広がっていって、もっと素晴らしい日本になると思う。
・三日間くらい寝不足続きに考えても間違いのない結論が出せるようでなければ、経営者とはいえない。平常のときには問題ないが、経営者の決断場の異常事態発生のとき、年齢からくる粘りのない体での“判断の間違い”が企業を破滅させた例を多く知っている。 五十で死んだ信長には未来は画けるが、年を重ねた秀吉にはそれがない。創立二十五周年に退こう、と考えていた。