イトマン事件の裏側「住友銀行秘史」

主にイトマン事件の話について、当時住友銀行員であった國重氏(その後、楽天の副社長を勤めている)が詳細なメモを元にイトマン社内や住友銀行の内部抗争を再現したドキュメンタリー。

正直今までいくつかの書籍を読んでも、いろいろな経緯があるとはいえ銀行内にも気づいている人がいる中で、なぜイトマンにそれだけの融資がされて、そのお金が消えるにいたったのかがぴんと来なかったのですが、本書を読んでなるほどなと思いました。

イトマンは伊藤寿永光氏のゴルフ場案件などに融資をする見返りに、その融資金の一部を伊藤氏側から企画料などの名目でイトマンに入金させていた。河村社長はこの仕組みを利用することで決算利益を計上することができ、伊藤氏はイトマンから融資金を引き出せるという意味で両者にとって都合のいいスキームであった。

例えば、こんなスキームなど。本当によく考えるなと思う話がたくさんあって非常に興味深かったです。

正直、本書に書いてあることがどこまでが本当なのか、というかある側面では本当だとは思うのですが、イトマン事件について書かれたものはすごくいろんな立場があって、よく分からないところもあります。が、すごく歴史的に意味がある作品だと思います。

それだけでなく、スピード感があって抜群におもしろかったです。

<抜粋>
・創業家一族の持っていた株式の評価額は約400億円。ただし、バブル当時、儲け話には必ずと言っていいほど跋扈していた闇の勢力が手を伸ばそうとしていたこともあり、カネはイトマン系列の金融子会社イトマンファイナンスが出すが、保有は稲波山実業旧知の佐藤茂氏という人物に依頼することになった。  佐藤氏は旧川崎財閥の資産管理会社・川崎定徳の社長を長く務め、政界、財界、そして闇の世界に豊富な人脈を持つ「フィクサー」として高名だった。  もちろん佐藤氏に対しては、行内でも本当に信頼に足る人物なのか、途中で気が変わって株を他行などに売ってしまうことはないのかとの不安があった。株価によっては彼は大儲けすることだってできたからだが、結論から言えば、佐藤氏は住友銀行を裏切ることはなかった。佐藤氏はのちのイトマン事件でも大いに暗躍してくれることになる。
・私がカネの行き先を調べようと動いていたところ、40億円はある信用金庫の八重洲画廊の口座に入金されたとわかった。そこで大蔵省関東財務局の金融課長と話をして、信用金庫の預金の出入りを調べてもらっていた。もちろんそんなことは簡単にできるわけもなく、私のMOF担としての経験と人脈があったからこそではある。  口座の出入りはどうなっていたか。  なんてことはない。実は40億円はすべて、借り入れの返済と大口定期の運用に使われていた。要するに、真部氏は40億円を単に自分の金繰りのために使っていたのだ。当時はこれが政界に渡ったと言われ、東京地検が捜査までしたが、結局は尻尾を摑めなかったのも当然である。  最終的に1993年3月末、八重洲画廊は100億円の負債を抱えて倒産する。事件のころにはすでに金繰りが大変だったのかもしれない。
・こうして、1986年10月、住友銀行は平和相銀と合併した。  磯田会長は最後まで私のことを、「あの坊や」と呼んでいたらしい。松下室長によれば、磯田会長は「あの坊やを取締役にする」と言っていたようだ。私からすると笑止千万であり、磯田会長の取り立てがなくても、実力で取締役になれると思っていた。
・しかし、一番効果があったのは、支店長自らの営業だった。私が外回りをするのにあたり、前もって、部下に「今度の支店長は本社の企画畑を歩いてきたエースで、将来の頭取候補ナンバーワン」と言わせて回った。まあ、実際そういう評価もあったわけだが……。
・銀行員の人生というのは、まず一番の目標は支店長になること。支店長になった次は、取締役になること。それから、経営会議メンバーである常務から上になること。そして最後は頭取になることだ。
そしてこの1990年3月20日から記述を始めることにしたのだ。  それから2年あまり、スーツの内ポケットに入る、はがき半分ほどの大きさの縦長の手帳にメモを取り続けた。小さな字で記したメモは、最終的に手帳8冊分にもなった。ここから始まる話も、この手帳に残るメモの記述がもとになっている。
・さらに、先述したように河村社長はイトマンを使って住銀に平和相互銀行合併という大きな果実をもたらし、磯田会長からの絶対的な信頼を得るようになっていた。「天皇」である磯田会長の庇護を受ける河村社長に意見をできる人間はだんだんと減り、メーンバンクの住友銀行でも口を出しづらい河村ワンマン体制が構築されていた。しかし、それは同時に、人知れずイトマン内部に問題が吹きだまっていく過程でもあった。
伊藤寿永光氏は結婚式場チェーン平安閣の総帥を名乗っていたが、実体は協和綜合開発研究所なる自らの会社を中心にして地上げなどを手掛ける不動産のプロ。しかし、このころには資金繰りに窮しており、新たな金主を必要としていた。そこで、不動産事業を立て直したいと頭を抱えていた河村社長に「プロ」を自任して巧みに近づき、イトマンを喰い物にしようとしていた。
許永中氏は在日韓国人の実業家。大阪政界のフィクサーとして知られた野村周史に師事したことから、野村永中と名乗ることもあった。関西財界ではすでに株の仕手戦などに名前が浮上する有名人ながら、その実体がうかがえない怪人物として知られていたという。そんな許氏も河村社長の弱みに付け込み、同じくイトマンに喰い込もうとしていた。  のちに「イトマン事件」と呼ばれるようになる一連の出来事はイトマンのみならず、メーンバンクである住友銀行をも大きく吞み込んでいく。
・当然、池田氏へ多額を貸し付けていた債権者たちは債権回収に奔走し、それと並行するように雅叙園観光の経営権は池田氏から、許永中氏、そして伊藤寿永光氏に移っていく。  しかし、伊藤寿永光氏もまた乱発手形の処理に手こずり、資金繰りが追い詰められていく。そこで伊藤寿永光氏が接近したのがイトマンだった。雅叙園観光を舞台にした再開発計画をイトマン側に提示し、今度はイトマンが金づるとして利用されるようになっていくのだ。  その根拠となっているのは、ホテルが隣接する土地を買収して再開発し、新たな結婚式場やホテルなどの一大施設をつくるという計画だった。  ところが、後でわかったことだが、ホテルの建っている土地は、もともと目黒雅叙園を所有していた一族と大蔵省が所有しており、まったく売却の可能性はなかった。つまり、架空の計画に巨額の投資マネーが動いていたのだ。目黒雅叙園と雅叙園観光はまったく別の会社なのに、名前が似ているというだけで信用したのがあだになったようだ。何ともお粗末だが。
・ここで注意してほしいのは、河村社長と磯田会長の3月22日の会話だ(前出参照)。  河村社長はそこではっきりと「(伊藤氏の)バックにヤクザはなし」と語っているのだ。しかし、その裏ではこんな脅しまがいのことも平気で口にしていたのだった。河村社長は伊藤寿永光氏が闇の勢力と結びついていることを知りながら、それでも伊藤氏をそばに置いていたことになる。
河村・伊藤寿永光両氏に近い側と、そうではない勢力で、猛烈な綱引きが行われていた。そこに住銀内の人事もからんで、すさまじい権力争いの様相を呈していたのだ。  大上常務が前者に属していたのは一目瞭然。そして、伊藤寿永光氏と麻雀をしていたという西副頭取も。  支店長会議の後は、いつものメンバーで、東京・御茶ノ水にある行きつけのレストラン「ビストロ備前」で打ち上げだったのだが、磯田会長、西副頭取、秋津裕哉専務、塚田史城常務の4人は途中から浅草の料亭「花谷」へ麻雀に行ってしまった。  これは、西副頭取が秋津専務をアンチ玉井として、そして塚田常務をアンチ松下として引き入れようとしていた動きの一環だった。懸命に陣取り合戦が行われていたのだ。
・これはイトマン事件の深層に迫る重要情報だった。  というのも、ピサは西武百貨店系列の高級宝飾品店で、磯田会長の長女、黒川園子氏が嘱託社員として勤めていたからだ。そこで伊藤寿永光氏や稲川会の石井進会長が大量に絵を買っているというのは結論から言うとまさにこのとおりで、磯田会長のトーンが和らいでしまったのにはこの娘の事情があったわけだ。
・いろいろな情報が飛び交い、常に誰かと誰かが秘密裏に接触していた。誰もが自分のこと、自分の処遇とポストしか考えていないように見えることがあった。  自分だけは、そうならないようにしよう、この銀行を救うことを一番に考え、使命と大局観を見失わないようにしよう。私は自分にそう言い聞かせていた。
・通常、記者は自分だけの特ダネを狙うものなのだが、今回の場合はすでにその次元を超えていた。報じることによって銀行を、そして社会を動かそうとしていたのだ。そのためには一大キャンペーンを張らなくてはならず、他のマスコミも動員する必要があった。だから、私も読売新聞などとも接触を始めていたのだ。  私と心中してもよい──。重い言葉だった。大塚記者も本気だった。一世一代の大勝負だった。  しかし、このころには社内の目が厳しく光り始めていた。
のちにイトマン事件が明るみに出ると、この内部告発文書はさまざまに出回ることになる。しかし、これを誰が出したのか、誰が書いたのか、当時もいまも「犯人」はずっと特定されずにきた。気付いていた人もいたのかもしれないが、それは私であった。 「Letter」を出していること自体は、大塚記者も知っていた。が、それを私が自ら書いていたことは知らせていない。大塚記者は、私がイトマン内部の誰かに書かせていると思っていただろう。
・経堂のマンションとは、磯田会長が私有していたマンションだ。磯田会長は大阪府豊中市に豪邸を持っており、東京では住友銀行の用意した豪華社宅に住んでいた。そして経堂のマンションは誰かに貸していたのだが、それが誰なのか。何か匂う。  私はそう感じて調べていたのだった。
・しかし、私と大塚記者はこうした抵抗があればあるほど、ますます深い信頼関係で結ばれていった。真剣勝負だった。特ダネとか、自分の手柄を超えて、日本の経済・社会を何とかして救わなければ、ここで自分たちがやらなければ日本は本当におかしくなる。そんな危機感に私たちは突き動かされていた。
・佐藤正忠氏は、雑誌『経済界』を創刊、主幹を務めていた。のちに、河村社長から2億円もらってイトマンのちょうちん記事を書いたと自ら明らかにしている。
私にはイトマンにもディープスロート(内部告発者)がいた。その存在は非常に役に立った。「Letter」には、イトマンの封筒と便箋が必須だった。それを入手できたからだ。
今に至るまで誰一人として自分が書いていたと明かしたこともなければ、紙や封筒にも自分の指紋を残さないよう、扱うときには必ず手袋をし、最後に念を入れて、ふき取ることも忘れなかった。絶対に、ばれてはいけないと決意していた。攻めるなら、大きな戦略と細心の注意がなければ。  こういう細部の詰めにもこだわるところが、銀行員としては相当型破りの私が順調に出世していった理由かもしれない。私は基本的に「攻め」のタイプだが、メガバンクとは「守り」の組織である。そして徹底した減点主義。1回でもバツがつくともうおしまいだ。  そのなかで出世コースを昇っていけたのは、調子よく見えて、意外に細かいところまで気を付けていた、それが理由かもしれない。
・河村社長、伊藤寿永光、西副頭取のマッチポンプはひどいもの。磯田会長もうすうす気づいていると思う。先般も、磯田会長の女のことが週刊誌に出ると騒いだ。河村社長、伊藤寿永光、西副頭取がもみ消したことになっている。ところが、磯田会長は心配になって、巽頭取にももみ消しに行けと言った。巽頭取が行ったら、相手は「?」だった。まったくでたらめの話をでっち上げて消したふりをして、磯田会長の信頼を得る完全なマッチポンプ。  巽頭取はいろいろざっくばらんに話をしてくれた。 佐藤「関東のヤクザの間の常識では、野村永中と伊藤寿永光はもうイトマンをしゃぶりつくした。これ以上、カネが出ないとなると今度は住銀にやってくる。イトマンや河村社長が方々に約束した(と称する)事項の履行を求めて住銀に来る。そのとき、磯田会長が伊藤寿永光たちに深入りしていることは致命的に弱い。住銀にヤクザが来たときは自分の力で何とかする。心配しないでよいと巽頭取には言っておいた」
・私はかなり危惧していた。伊藤寿永光氏にあの調子でやられたら、住銀の連中はころりとだまされてしまうかもしれない。伊藤氏からしたら、住銀のエリートなど甘ちゃんばかり、赤子の手をひねるようなものだろう。それでは調査をしたが、「問題ありませんでした」ということになり、逆効果になりかねなかった。
・磯田会長の娘の園子氏、そしてその夫の黒川洋氏が重要なキーを握っているのは明らかだった。園子氏が勤める高級宝飾店ピサからイトマンは何百億円もの絵画を購入していたし、黒川氏の会社ジャパンスコープが住友グループのあらゆるところに喰い込んでいた。  これは周囲の人間たちが磯田会長のことをおもんぱかって、みなが勝手に黒川氏への厚遇を進めていった面が大きい。その結果、黒川氏の意図するしないにかかわらず、黒川氏がある種権力の結節点となってしまっていた。こうして権力は周囲から腐っていく。
・イトマンは伊藤寿永光氏のゴルフ場案件などに融資をする見返りに、その融資金の一部を伊藤氏側から企画料などの名目でイトマンに入金させていた。河村社長はこの仕組みを利用することで決算利益を計上することができ、伊藤氏はイトマンから融資金を引き出せるという意味で両者にとって都合のいいスキームであった。
・花月会とは、浅草橋の料亭「花月」でやっていた会合だ。東京国税と東京地検の幹部を招いて定期的に住銀が接待をしていた。だが、このころ、東京地検特捜部がコーリンの件で動いているという情報も伝わってきており、いかにも微妙なタイミングだった。
・仕事は部下がやってくれるから、皆時間はあるのだ。それをいかに使うか。私は銀行を変えたいと思って情報を集め、工作をする。少し格好つけて言えば、自分の信念があり、正義を貫こうとしていた。他の人たちは自分の拠って立つもの、一貫した筋がない。変幻自在、いかに出世をするかに腐心をして、人ごとに言うことを変えるようにする。そこに気を配って時間を使う。  私は、自分に絶対の自信があった。自惚れかもしれないが、能力があるのだと思っていた。だからそれを貫きたかった。  もちろん、自分がこれだけ陰で動いていることがばれれば、私のサラリーマン生活は終わる。それでも、私はおかしなことをおかしいと言わない連中への憤懣が強くあった。黙っていられなかったし、じっとしていられなかった。ばれて会社から排除されれば、それもまた一つの生き方である。  だから、誰に命じられるでもなく、誰に言うでもなく、私は一人で動いていた。  住友銀行のため、愛社精神というよりも自負心、プライドの問題だった。
・早くと願っていたことであり、遅すぎると焦り、地団駄を踏んでいた私だった。そのために、彼を苦しませ、傷つけたであろうことにまで手を染めた。だが、いざそのときが来てみると、なぜだろう、苦かった。  それほどまでに、権力の頂点にあった人物を引き摺りおろすのは重いことだった。  今の住友は十字架を背負っている。その原因となった人物は責任を取るべきなのだ。頭では理解している。だが……。  自ら手を下したことが実現した今、喜びや達成感というよりも、苦さがこみあげ、そして穴がぽっかり空いたような寂莫感はその後もあった。
・今回、西副頭取は辞表を出していない。恭順の意を表すのとはちょっと違う。生き残りを考えているようだ。西副頭取いわく「私(西)も玉井も一緒に辞めるべきだ」と。  9月16日の日経は玉井副頭取のリークだ。許せない。磯田会長を守ることは住友を守ることだ。結果として磯田会長をめちゃくちゃにしたことは玉井副頭取の責任だ。  いつからか西副頭取は後ろにひっこんで磯田会長が前面に出た。磯田会長のスキャンダル、私は知らなかった。
・かあっと、いろいろなものが一気にこみあげてきた。しかし、言葉にすることはできなかった。怒り、悔しさ、絶望、あきらめ、悲しさ……。  だからこの組織はダメになってしまったのではないか。こんなふうになってしまったのではないか。それなのに、この期に及んで、なぜ……。こんなことでは永久に変われない。おかしい、許せない、信じられない……。  頭取以下、テーブルを囲んでいる重役たちは誰も何も言わなかった。なぜ、何も言わないのだ。みんな住銀とイトマンを改革すると誓ったはずだろう。  私は立ち上がった。 「僕は……不愉快です」  やっとの思いでそれだけ言うと、踵を返してスイートルームを出て、エレベーターホールへと向かった。
・大阪銀行の本店営業部副部長という人が立ち上がった。 「それじゃあ玉井さん、そう一筆書いてくれますか」  玉井副頭取がそちらに向き直った。まっすぐ彼のほうを向いて言った。 「何を言っているんですか」  しんとした会議室に彼の声が響き渡った。 「逃げも隠れもしない。天下の住友銀行の副頭取の玉井が、みなさんの前で言っているんです。それにもかかわらず書いたものがいるんですか」  沈黙がその場を支配する。誰も、反論できなかった。
・巽頭取の見通しがいかに甘いものだったか、いかにまやかしの和解だったか。ここから河村社長を辞めさせるために、さんざん苦労することになる。  玉井副頭取と河村社長の会話にしても、言うまでもなく、これは心の通った本音の会話ではない。お互いに適当なことを言って相手の心を探り合っているのだ。  もし本音を言い出したら、玉井副頭取は「あなたが全部悪いんです」と言っただろうし、それに対して河村社長も怒り出す。だから、心の底ではお互いにバカにし合いながら表面上は取り繕い、いかにも和解したような話をしているのだ。
・終わった。目的は達成した。  だが、そこに高揚感はまったくなかった。  前日にはあった。いよいよ明日だ、行くのだ、成功させるのだ、絶対、と意気があがり、緊張感があり、力がみなぎっていた。  しかし、いざ目的を達成したときに、そこにはやり遂げたという充実感はなぜかなかった。  いや、達成したとは思っているのだが、後味が悪かったのだ。  一度は一緒に働き、同じ目的に向かった人の首を無理やりに切った。  確かに、それを目指していたのだが……。  私たちは皆、疲れ切っていた。
・喰い物にされようとしているのは、イトマン、住銀や富士銀行などだけではなかった。しかし、ある意味で伊藤寿永光氏や許永中氏の幅の広さ、あれもこれも、という貪欲さに感動すら覚えそうになるときがある。飽くなき欲望の追求。カネのためならば何でもする。
・当時は、総会と言えばヤクザが仕切るのが当たり前のことになっていた。イトマンの総会は、佐藤茂氏などの関東系の人々が扱っていたという。それが、伊藤寿永光氏が介入してきたことで東京から別の総会屋にうつった。それで、I氏がメンツをつぶされたと怒ったらしい。  しかし、伊藤氏の裏にもヤクザがおり、面倒になるのは避けたいということで、N氏は手を引いたというのだ。
だが、あるとき、知り合いの講談社の編集者と話していてイトマン事件の話題になり、私が何気なく手帳の存在を口にしたことがあった。今から20年近くも前のことだ。  その編集者はずっとそれを覚えていて、折に触れ、「手帳を公開する気になったらいつでも言ってください」と声を掛け続けてくれた。そのたびに私は「迷惑が掛かる人がいるかもしれないから」と口を濁してきたのだが、彼の「イトマン事件の記録はあなただけのものではなく、日本の経済史の一場面として、絶対に残しておくべきです」という言葉は私の中に残り続けた。  イトマン事件から、はや四半世紀が過ぎた。本書の登場人物の中にもお亡くなりになった方が少なくないし、住友銀行も三井住友銀行として生まれ変わった。今なら、さほど迷惑を掛けることもないだろう。幸い私はまだビジネスの現場で生きているが、70歳になったのを機に、あの事件を語れる人間の一人として記録を残しておくのも、自分に与えられた役割の一つではないかと考えるようになった。