なぜ名経営者になったのか「スティーブ・ジョブズ 無謀な男が真のリーダーになるまで」

スティーブ・ジョブズとアップルについては本当に様々な本が出版されていて、起業家としては世界一成功した企業の事例としていつも参考にしています。しかし、あまりにも激しい性格のスティーブ・ジョブズがアップル復帰後なぜ名経営者となったのかについてはよく分からないのが実情でした。本書は、ジョブズに比較的親しいジャーナリストがジョブズの知られざる側面を紹介して、その謎に迫っています。

結論としては、追放事件後にあった様々な出来事がジョブズを変えていったということのようです。特にピクサーの二大天才ラセターとキャットムルとの仕事ぶりとその後の成功を見てひとを信じられるようになった、というのが大きかったのかなと個人的には思いました。

スティーブは、ラセターとキャットムル、そして彼らの下で働く才能豊かな社員が魔法を編み上げていく様から多くのことを学び、人生が大きく変わった。映画制作を始めたあとを中心にピクサーでスティーブが吸収した経営手法こそ、1997年のアップル復帰後、彼が手腕を発揮できた源泉である。この時期、彼の交渉スタイルは、勇猛果敢で押しの強いところを失うことなく微妙な駆け引きが可能なものとなっていく。先頭に立ち、やる気を引きだす能力を失うことなく、チームワークとは小さなグループを鼓舞して行け行けにする以上の、もっと複雑なことだとわかりはじめたのもこの時期だ。彼一流の鼓舞力を失うことなく、忍耐力を身につけはじめたのもこの時期だ。

いずれにしても、僕自身も聖人君子からほど遠い性格なので、非常に見に包まされるものがあったし、ジョブズがあそこまで自己改革して結果を出し続けたというのは励みになりました。

<抜粋(上巻)>
スティーブの仕事人生について一番の疑問はこれだ――支離滅裂、軽挙妄動を地で行き、意固地なあまり創業した会社を追い出された男が、なぜ、優れたCEOとしてアップルを再生できたのか、文化を一新するほどの製品を次から次へと作れたのか、世界一の価値を持ち、世界中の人々に称賛される会社にアップルを変身させる製品、社会的にも経済的にも文化的にも異なる何十億もの人々の日常生活を一変させるような製品を作れたのか、だ。スティーブ本人は、このあたりにまったく興味がなかった。内省的ではあるが回顧的ではなく「過去をふり返ってなんになるんだ? これから起きるいいことを楽しみにするほうが僕はいいと思うな」という電子メールをもらったこともあるくらいだ。
人は少しずつしか成長しない。「大人」ならわかっているはずだが、我々は自分の才能および欠点とどう付き合っていくのか、人生を通じて悩み、学んでいくのだ。成長というのは終わりのないプロセスである。また、いくら成長しても、まったく違う人間になれるわけではない。スティーブの成長をつぶさに検討すれば、つまり、自分の強みを生かす能力を彼がどう強化したのか、また、その強みを妨げる自分の性格をどう押さえ込んだのかを検討すれば、いろいろと勉強になるはずだ。欠点はなくならなかったし、優れた別の気質に変化したわけでもない。ただ、自分をコントロールする術を学んだ。自分の才能に混じる毒気をコントロールし、人当たりの悪さをコントロールする術を学んだのだ。
・フェルナンデスもコトケも3年前のスティーブにとっては大事な人だったが、その状態が続かなかったと考えてしまうのだ。ふたりともいまなおアップルに大きな貢献をしているわけではない、つまり、スティーブの人生に大きな貢献をしているわけではない、優先すべきは、たったいま、アップルをよくしようとしている人々だ、というわけだ。
・アップルからは、当初、年俸30万ドルにアップル株式50万株(1800万ドル相当)のオプションが提示されたが、スカリーはこれを蹴っている。
マックの華々しいデビューにより、突然、超有名人の仲間入りをしたのもよくなかった。えらくなってしまったのだ。ミック・ジャガーやショーン・レノン、アンディ・ウォーホルなどにマックを届けたり、サンフランシスコのセントフランシス・ホテルに1000人も集め、エラ・フィッツジェラルドにも登場してもらって30歳の誕生日を祝ったりした。高圧的な態度で、コンピューター業界から疎まれたりもした。マック開発中も、これは自分が大事にしているマシンで、そのアプリケーションを開発させてもらえるのは大きな特権なんだというかのような態度をとり、大事なソフトウェア開発者のコミュニティーから反感を買っていたとビル・ゲイツも証言している。
・1984年の第2四半期、マックの売上が崖から転げ落ちた。アップルⅡは、アップルの売上の70%を占めていた。IBMのPCは市場シェアを拡大。年が明けても状況は改善しない。マックは販売目標に遠く及ばず、アップルⅢとLisaに続く大失敗になりそうな勢いだった。アップルⅡの後継およびIBMキラーとしてマックに期待していた取締役会も、ついに、CEOにもその重要製品の部門トップにも先行きが見えていないことに気づきはじめる。
スティーブは無能な抑圧者からようやく解放されたと思っていたが、実はこのとき、彼はさまざまなものに縛られていた。名声、ささいなところまで完璧にしないと気がすまない性格、軽はずみかつ専制的な経営スタイル、業界分析能力の欠如、焼けるような報復の欲望、そして、このような問題を見ようともしない性格などだ。自分中心で理想ばかりを追い求め、現実世界では避けられない浮き沈みにきちんと対処できないと、とにかく、まだ、子どもだったのだ。  アップルが成功したのは、タイミングがよかったことと多くの社員の貢献があったからでもあるのだが、自分のことしか考えないスティーブにはそれがわかっていなかった。自分がどれほど多くの問題を引きおこしていたのかもわかっていなかった。事業についても、本当はほとんどなにも学んでいないことがわかっていなかった。スティーブがアップルのCEOだったのは、会社設立からマイケル・スコットが来るまでの何カ月かだけだし、その間も名前だけのCEOでしかなかった。だから、会社のリーダーとはどうあるべきなのか、ほとんどわかっていなかった。頭はいいので、社員が推進するたくさんのプロジェクトやアイデアに優先順位をつけなければならないことは理解していたが、それを上手にやれるようになるには、また、自分の考えが必ず最良だという思いを抑えて優先順位をつけられるようになるには、長い年月が必要だった。競争相手がうじゃうじゃいる領域でどう会社を立ちあげればいいのかもわかっていなかった。そして、自分にこのような弱みがあることが、まったく、わかっていなかった。
・サンは、創業から年商10億ドルまでを最速で駆けぬけたメーカーとして米国実業界で知られている。4年しかかからなかったのだ。そして、年商10億ドルという節目をサンが迎えようとしていた年こそ、スティーブが新会社を立ちあげた年だった。
・いまふり返ってみると、このときのノセラは、ジョブズを含めてほとんどの人が見ようとしなかったことを指摘している。すなわち、1986年のスティーブ・ジョブズはあまりに卑しくあまりに自己中心的、そして、あまりに未熟で、一流CEOに必要とされるバランス感覚がまったくなかったという点だ。
・本当ならすごい話だ。だがその実体は、単なる自信過剰、自己欺瞞の塊にすぎない。アップルを立ちあげたとき、スティーブは、事業経営がわかっていると思っていなかった。だから、少なくともしばらくは、メンターや先輩を頼みにしていた。だが今回は、給与やエンジニアリングからマーケティングや製造まで、すべてがわかっているという前提で行動している。どんな瑣末なことまでも、今回は自分が正しくやってみせると思っているのだ。
・自分に対する世の中の見方を信じていたからという面もあるだろう。メディアや投資家は、彼を天才として扱っていた。ロス・ペローも、「50年分の事業経験を持つ33歳」とジョブズを持ち上げていた。これが大まちがいだとジョブズはまったくわからなかった。なにせ、ロナルド・レーガン大統領の商務長官マルコム・ボルドリッジも、ジョブズにアドバイスを求めてくるのだ。有力メディアも、コンピューターや技術だけでなく、さまざまなことについてスティーブがどう考えているのかを知ろうと記者を西海岸に派遣してくる(私自身、そういう仕事でスティーブに取材し、産業政策、ロシアとの競争、薬物戦争、パナマのマヌエル・ノリエガ将軍について自信たっぷりに語られる意見を拝聴したことがある)。
・「思わぬ反応が返ってきて、あわてていることもありました。『向こうはどうして怒ったんだ?』と尋ねられることも一度や二度でなくありました。つまり、相手を怒らせようとしていたわけではないんです。品性下劣ということではなく、単純にスキルがなかったということでしょう」
・ここまでの成功を収めれば、ゲイツ本人に対する世間の認識も変わっていく。1980年代、彼は、IBMやアップルに懇願する側からスタートした。一方、そのころのジョブズは、コンピューター業界の富を代表する人物で、創設した会社のIPOにより時価2億5600万ドルもの株式を資産として持っていた。マイクロソフトは1986年3月に株式を公開し、45%の株式を保有するゲイツの資産は3億5000万ドルとなった。そして、1991年に取材をしたころ、その資産は10億ドルを突破して世界一若いビリオネアとなっていた。一方、すごい新製品を求めて徘徊を続けたスティーブの銀行口座は、その数字をめっきり減らしていた。主導権はビルに移り、コンピューター業界でなにがしかの役割をスティーブ・ジョブズが果たす未来はだんだんと想像しにくくなっていたのだ。
ビル・ゲイツというのもいろいろと気むずかしい人物なのだが、そのあたりは忘れられているようだ。2000年にマイクロソフトのCEOを退いたあと、ゲイツは世界的な慈善家として知られるようになり、公衆衛生や教育といった大変に難しい問題をなんとか解決しようとする長老的人物、親切で思慮深く、それでいて明確な目的意識を持つ人物だと一般には思われている。
・スティーブは、ラセターとキャットムル、そして彼らの下で働く才能豊かな社員が魔法を編み上げていく様から多くのことを学び、人生が大きく変わった。映画制作を始めたあとを中心にピクサーでスティーブが吸収した経営手法こそ、1997年のアップル復帰後、彼が手腕を発揮できた源泉である。この時期、彼の交渉スタイルは、勇猛果敢で押しの強いところを失うことなく微妙な駆け引きが可能なものとなっていく。先頭に立ち、やる気を引きだす能力を失うことなく、チームワークとは小さなグループを鼓舞して行け行けにする以上の、もっと複雑なことだとわかりはじめたのもこの時期だ。彼一流の鼓舞力を失うことなく、忍耐力を身につけはじめたのもこの時期だ。
・スピンドラーが追い出され、アメリオに交代する1996年ごろ、アップルは、どこを取っても規律がめちゃくちゃで混乱の極みとなっていたし、売上は本当にまずい勢いで縮小しつつあった。成長が終わり、キャッシュ不足となった会社は、お金という血を流しはじめる。生産能力も在庫も、そしてもちろん人員も、必要以上にだぶついていたし、支えられないほどにだぶついていた。期待の持てる新製品がもうすぐ出てくるという話もなかったし、水平線の向こうにそういう製品があるという話もなかった。スピンドラーがストレスに苦しんだのも当然だし、彼が首になったのも当然だ。アメリオと古参のアップル取締役マイク・マークラが買収してくれるところを必死で探し、サン・マイクロシステムズや長い歴史を誇るAT&T、さらにはIBMにまで声をかけたのも当然だ。破産申請を考えたのも当然だ。優れた最高財務責任者を必要としていたのも当然だ。
・だが、ガセーは戦術をあやまる。絞れるだけ絞り取ろうと無理をしたのだ。アメリオからの提示額は1億ドルほどで、実績があまりない会社の買収額としては妥当な額だった。ガセーはこれを突っぱね、1億2000万ドルを要求する。
・スティーブにとってこれは赤子の手をひねるようなものだった。アメリオはCEOでいたいだけで、パーソナルコンピューターの販売などほとんどわかっていないとスティーブは見ていた。だから、全力でアメリオを魅了しようとした。12月2日、アメリオCEOとエレン・ハンコックCTOを前に切れのいいプレゼンテーションを展開し、契約をまとめるためならなんでもする用意がある、NeXTを選ぶのが賢明な判断だと信じていると訴えた。そして12月10日には、パロアルトのガーデンコート・ホテルでおこなわれたビーとの最終決戦で、アビーとふたり、アメリオが「くらくらするほどだった」と言うほどのプレゼンテーションをNeXTオペレーティングシステムについて展開した。
・その後の報道では見過ごされるのだが、実は、基調講演の最後で新たなスローガンがひそかに公開されていた。このときスティーブは、物事を別の視点から見ようとすること、そういう方法で自分の考えを検証することがとても大事だと何度もくり返し訴えた。つまり、「シンク・ディファレント」が大事だと訴えたのだ。このキャッチフレーズが広告に使われるのはもう数カ月あとのことになるが、このときすでに、スティーブは、アップル再生の檄としてこのコンセプトを採用していたのだ。付けくわえるなら、このときすでに、スティーブは、フルタイムでアップルの仕事をするつもりにもなっていた。
「僕はボブ・ディランを見ながら大きくなったんだけど、彼は立ち止まらないんだ。真のアーティストというのは、なにかを極めた人というのは、そのあと一生、そのことを続けられると思うものなんだ。そして、すごく成功しているとほかの人には見られるかもしれないけど、自分が心から満足できることはないものなんだ。アーティストというのは、その瞬間、自分自身を理解するんだと思う。失敗を恐れずトライしつづけるなら、アーティストでいられる。ディランもピカソも、失敗を恐れずトライする人たちだ」

<抜粋(下巻)>
・直接的な効果がふたつあった。まず、アップル社員に誇りが戻りはじめたこと。クパチーノ・キャンパスのあちこちにビルボード広告が置かれ、ポスターが貼られる。スティーブがナレーターを務めたバージョンのビデオが折々社内に流されたし、1998年のエミー賞最優秀広告賞を獲得したあとには50ページの記念小冊子が全社員に配られた。
・彼からは、そういうすごい仕事をだれがしているのかを知られたくない、知られると他社に引き抜かれるから、などと返ってきたりする。これが本心のはずはない。シリコンバレーは狭い世界で、テクノロジー系の才能は株式市場もかくやと思うほど詳しくチェックされているからだ。本当のところは、製品や会社について、自分と同じくらい上手に語れる人はいないと思っていたからだろう。スティーブは常にすばらしい演技者であり、取材も演技だと考えていた。当意即妙な受け答えも得意で、自分なら、どのような場合にも広報のチャンスを最大限生かせると思っていた。
「会社というもの、信じられないほどの力を持つこの抽象的概念は、人類史上最高クラスの発明だよ。それでも、僕にとっては製品のほうが大事だ。おもしろくて頭がよくてクリエイティブな人々と一緒に働くこと、そうやってすばらしいものを生みだすことが大事なんだ。お金のためじゃない。だから、会社というのは、次なるすごいもの以上のなにかを生みだせる人々が集まったものなんだ。人材だよ。能力だよ。文化だよ。ものの見方だよ。次なるものを一緒に作る方法だよ。そのまた次なるものを、さらにそのまた次なるものを一緒に作る方法だよ」
・スティーブは、オペレーティングシステムのルック&フィールにこだわり抜いた。月曜午後のOSX会議では、鍵をかけた会議室で、対応中のものについて、一つひとつ、最新の状況をアビーが直接、実演によって示していたとスレイドは言う。 「OSXについては、くり返しくり返しチェックしました。ピクセルごとに、機能ごとに、スクリーンごとに、です。ジニーエフェクトはこんな感じでいいのか? ドックアイコンはどのくらいまで拡大するのがいいのか? 書体は? ダイヤルがこんなふうになっているのはなぜなのか? 毎週、こういうルック&フィールの一つひとつについて、スティーブの承認をもらうのです」
・スティーブのこういう面はなかなか見られないし、彼もこういう面をふれ回ろうとしない。世の中に広がるスティーブ像はどこまでも突きすすむ自己中の天才で、自分が成功するためにはどんな人も物も犠牲にすることをいとわない人間というものであり、であれば当然だが、他人を思いやる心などなくて、いい父親にもなれなければいい友人にもなれないはずだと思われている。私が知るスティーブは、そんなステレオタイプとは似ても似つかない人物だ。
ノーと言うこと。ソフトウェア機能にノーと言う、新規プロジェクトにノーと言う、新規雇用にノーと言う、無駄な会議にノーと言う、メディアからの問い合わせにノーと言う、さらには、将来的な収益予測の精度を高めたいというウォールストリートの欲望にもノーと言う。本質的でないと思われることやじゃまになると思われること、すべてにノーと言うのだ。このようにノーと言いつづければ、彼も含む社員全員が本当に重要なことに傾注できる。極限まで切りつめた4象限戦略に立脚した結果、くり返しくり返しノーと言う組織が生まれた。その組織がイエスと言うのは、全力で新規プロジェクトに突きすすむ用意ができたときだ。
これをキューは次のように表現している。 「スティーブのもとで仕事をすると、不可能を可能にできると学べるんです。くり返し、くり返し。これがいいんですよ」
・使ってみればすばらしいとわかる。iPodの発表会では、初めての試みとして、集まったジャーナリスト全員に製品が配られた。その後書かれた記事では、アップルが売り込もうともしなかった機能が絶賛されていた。その最右翼となったのが、興味を持つ人は少ないとスティーブが予想していたランダム再生機能である。
・スティーブは、商品を並べるのに使う空間がとても少ないのはなぜか、客は店内をどういう風に流れるのかなどと、不幸な店員をつかまえて質問攻めにする。また、店のインテリアを観察し、木材とアーチと階段、さらには、自然光と人工光がどういう具合に交錯し、客が法外な金額を使おうという気になる雰囲気を醸しだしているのかをチェックする。スティーブにとってこのような店は、自分にできていないことを実現しているところなのだ。つまり、ライフスタイル製品を美しくも教育的な形で展示することで、べらぼうな利益率で販売する、だ。こういう店では、商品の示し方も値段に含まれている。サーキットシティやコンプUSAの荒涼とした通路に退屈な販売員では、こういう売り方などできるはずがない。
・緻密に組み上げた基調講演の最後にスティーブがよく言っていたように、2003年には「最後にもうひとつ」があった。夏の終わりに腎臓結石の処置をしたあと、スティーブは、結石が残っていないことを超音波で確認してもらうために病院を訪れた。そして、超音波の影に気づいた泌尿器科医にもう一度来診するように言われたが、生まれてから49年間、病気らしい病気をせずに来ていたこともあり、医師の指示を無視してしまう。結局、あまりにうるさく来いと言われたので、そんな必要はないのにとぶつぶつ言いながら10月に診察を受けた。衝撃の結果となった。膵臓にがんらしき腫瘍があるというのだ。普通なら余命数カ月という場所だ。翌日、膵島細胞神経内分泌腫瘍と呼ばれる腫瘍で進行が遅く、治療できる可能性が高いことが判明する。一安心とスティーブもローリーンも胸をなで下ろしたが、この2日間は感情の乱高下で大変だった。
・アップルには正式な研究開発部門というものがない。スティーブは、どこか別の場所に先端研究をまとめ、なによりも重視している製品開発に携わる人々から見えないようにしてしまうのが嫌いだからだ。だから研究プロジェクトは会社のそこここで進められる。スティーブの承認を受けていないものも多いし、それどころかスティーブが知らないものも多い。そのプロジェクトや技術が有望だと側近のだれかが判断して初めてスティーブに知らされるのだ。そうするとスティーブがチェックし、集めた情報が彼の頭脳という学習機械に入力される。そこで話が終わってなにも起きないこともある。
・似たような技術について5種類ものプロジェクトが乱立するのは、アップルの場合、特に珍しいことではない。アップルにおける開発は、ある日「iPadあれ」とスティーブが宣言し、その意思を実現するため会社全体が全精力を傾けるという形で進められるのではない。そうではなくて、あちこちで常に可能性がぶくぶくと泡立っているのがアップルであり、その可能性を整理し、なにかまったく新しいものへとつなげる道筋を思い描くことがスティーブの仕事なのだ。
・だが、手術以上に有望な方法はみつからなかった。彼の「調査」は何カ月も続き、スティーブと近しく、がんについても知っている人々はじりじりするし、担当医は、がん細胞をすべて切除できる可能性がなくなりそうだと気が気ではなくなっていた。2004年夏、スティーブはついにあきらめ、スタンフォード大学メディカルセンターに入院。そして、7月31日土曜日、ほぼ終日を手術台の上で過ごす。外科医が彼の体を開き、腫瘍を切除したのだ。
スティーブのような病気にかかると、ゆっくり仕事に体を慣らしていく人や、「死ぬまでにやりたいことリスト」をこなすほうに走る人が多い。スティーブは、それまで以上に仕事に集中した。
・アップルを首にならなければ、まずまちがいなく、このいずれも起きなかったはずです。すごく苦い薬でしたが、でも、必要な薬だったのでしょう。人生というのは、ときどき、頭をレンガでがつんと殴ってくるものです。そういうとき、信念を、こだわりを捨てないでください。私が前に進みつづけられたのは、していたことが大好きだったからだと思います。みなさんも、愛していると言えるほどのものをみつけてください。これは、愛する人をみつけるのと同じくらい大切です。仕事というのは人生のかなりの部分を占めるものであり、そこで本当の満足を得るためには、すばらしい仕事だと信じることをするしか方法がありません。そして、すばらしい仕事をするためには、自分の仕事を大好きになるしか方法がありません。まだみつけられていない人は探しつづけてください。妥協しないこと。心がからむものはそういうものですが、みつかれば必ずわかります。そして、すばらしい関係とはそういうものですが、年を経るごとにもっともっとすばらしくなっていきます。だから、みつかるまで探しつづけてください。妥協しないでください。
・第2幕では、くり返し、くり返し、思いもよらないものからアップルの次なるすごいものが生まれてきた。iMacは、スティーブが打ち切ったeMateのデザインから生まれた。iPodとiTunesは、動画編集ソフトウェアにスティーブが筋違いの興味を抱いたから生まれた。スティーブが祝辞を述べたころ、アップルでは電話の開発が進められていたが、これは、一見するとなんの関係もない5チームがスティーブの後ろ盾を得て好きに研究を進め、その結果、スティーブとしては一番開発したかった製品、すなわちタブレットはあきらめたほうがいいという結論を出さざるをえなくなったからだ。
・こうしてスティーブが他社と話を始めたころ、アイズナーは社内で支持を失いつつあった。2003年秋にはウォルト・ディズニーのおいにあたるロイ・ディズニーが取締役を辞任。アイズナーに追い出されたようなもので、ロイは、辞任直前にCEOを鋭く批判するレターを公開している。
・ただ、実際にやってみると、通信料金の分配は双方にとってあまりありがたくないものだった。だから1年後、契約を変更し、AT&Tからアップルに支払う端末代金を卸売価格(小売価格より200ドルほど安い)ではなく小売価格とした。会計規則により、AT&Tから受けとった端末代金は2年間に分散できるので、アップルにとっては収益ストリームの平準化ができるし、支出の増減を和らげることもできる。AT&Tにしてみれば、それで懐に手を突っこまれなくなるのであれば文句はない。どちらにとっても、このほうがすっきりする――なお、アップルにとってはこの形のほうが有利だというのが、大方のテレコム分野アナリストの見方である。
2007年1月のマックワールドから8年間で、iPhoneは5億台以上も売れた。販売台数、生みだしたドル換算利益、世界中で販売するキャリアの数、作られたアプリの数など、どういう基準で判断しても、これほど成功し、これほど儲かったデジタル家電製品はない。
・「彼のこういう側面はまったく知られていません。アイザックソンの本なんてひどいものですよ。あちこちに書かれていることの焼き直しで、彼の人柄や個性のごく一部にしか光があたっていない。あれでは、自負心ばかりが強く、わがままで強欲な男という印象にしかなりません。ぜんぜん人間が描けていないんです。あそこに登場する人物とだったら、あれほど長い時間、一緒に働きたいなんて思うわけがありません。人生は短いのですから
・「スティーブは、みんなにアップルのことを愛してほしいと願っていました。アップルのために仕事をするだけではなく、心からアップルを愛してほしいと。そして、アップルとはどういう会社なのか、どういう価値を持つのかを深く理解してほしいと。そういうことを壁に書いたりポスターにしたりはしなくなりましたが、でも、みんなに理解してほしいと思っていたのです。大きな目的のために仕事をしてほしいと」
・この製品をスティーブが自分で紹介できるかどうかは疑問だったが、2011年3月2日、彼はiPad2紹介の舞台に立ち、広告と同じ思いを込めた言葉を述べた。 「アップルのDNAには、技術だけでは不十分だと刻まれている。我々の心をふるわせるような成果をもたらすのは人間性と結びついた技術だと、我々は信じている」