複雑な人物「江副浩正」

リクルート創業者江副浩正氏の人生を元リクルート社員が追ったすばらしいノンフィクションです。

極めて複雑な人物で、リクルートという未だに成長し続けるすばらしい企業を作った一方で、家族や社会(例えば、野村證券や稲盛和夫氏)への確執もすごかったらしい。若い頃のエピソードはどれもエキサイティングで江副氏の天才性が垣間見れて非常に勉強になりおもしろかったし、後半のもがき続ける姿はもの悲しくもありましたが、ものすごいパッションを感じました。

優れた起業家としての評価も確立していたのだから、それで満足して作品としてのリクルートという会社を残せばよかったのでは、とも思ったのですが、実際は遅くはなくリクルート事件による強制退場があったために、リクルートという会社が解き放たれたのかもしれません。

以下、抜粋コメント形式でいきます。

ここずっと考えてきたことを、江副は初めて口に出して言った。 「広告だけの本」  ぼんやり考えてきたことが、言葉にしたことで実像となった。とたんに反対の声が次々に上がった。 「広告だけの本をだれが買う?」 「いや、売らないんだ。無料で配る」 「なにそれ」 「無茶だよ、そんなの」  反対が多いということは、それだけ関心があるということだ。 「得意先からの広告費で、すべてをまかなう」 「できるわけないよ」 「できるさ。出版経費、配送費をすべて足してわれわれの利益を乗せて、それを広告掲載社数で割れば、一社当たりの広告費がでてくる」 「いいね、広告だけの本なんて、どこを探してもないものな」

最初の頃のエピソードでは、江副氏が極めてすぐれたアイデアマンであることが分かる。もうダメだというシチュエーションを何度も乗り越えてきている。

手描きで制作している「リクルートブック」の地図も、いつかコンピュータ処理ができる時代が来る。そうすれば、一度作った情報は効率よく再利用でき、制作原価が一段と下がる。いま携わる、自分たちのすべての情報をコンピュータのもとに集約できれば、日本で一番進んだ情報産業になれる。そう信じていたのだ。IBMのセールスエンジニアが言う。 「それなら、最新の事務処理能力をもつのはIBM1130となります」 「わかりました。十台入れましょう」  リクルート創業七年目。売上高四億二千万円。利益二千四百万円、社員数八十人の会社が、まだ日本にコンピュータが全部で三百台しかないという時代に、その利益をすべて吐き出しても、最新機器を十台も導入するという。位田とセールスエンジニアは驚くしかない。

導入を決めたはいいが、社内にコンピュータの専門家は一人もいない。江副自身が東大の芝の研究室に出向き、情報理論の講義を直接受けた。その難解さをかみしめながらも江副は、コンピュータの本質を直感でつかみ取っていた。 「わが社はどんな産業に属するか? という問いには『情報産業である』と答えることができます。また電子計算機をいいかえて、情報処理機器とよぶこともできるでしょう。これからのわが社にとって、電子計算機はなくてはならないものになるはずです」(「週刊リクルート」六八年二二五号)

リクルートを情報ビジネスだと認識していたからこそコンピュータビジネスにも乗り出した。

「とらばーゆ」は女性の熱い支持を受け、発売翌日にほぼ完売。新聞は一面で「女性の転職時代の到来」と大々的に報じた。結婚すれば寿退社して女性は家に籠もるものという社会通念は、この年を境に、日本から徐々に崩れていく。「とらばーゆ」の創刊は、戦前戦後に築かれてきた日本の社会構造を変える、一つの要因となったのである。 「住宅情報」に次ぐ「とらばーゆ」の成功で、江副はますます時代を演出し、時代と並走する経営者として注目を集めるようになった。

土地臨調、税調特別委と国の要職にかかわってみると、いち早くさまざまな土地や金融情報が手に入ることがわかった。それで、コスモスやFFの仕事は先手、先手が打てた。サービス精神あふれる江副のことだけに、マスコミが与えた「民間のあばれ馬」にふさわしい態度も多々取ることになった。

成功に次ぐ成功、そして国の要職にかかわるようになり、この辺りから変わっていったらしい。

しかし不動産やノンバンク事業に傾斜し、ニューメディア事業で疾走する江副のなりふり構わないワンマンぶりに対して、社内ではひそかにこう言い交わされ始めていた。 「江副二号」  敬愛の念を込めて「江副さん」と言っていた社員たちが、絶対君主のようにふるまう江副にとまどい、その変容ぶりを嘆くかのようにそう呼んだのである。「住宅情報」を開発したころの江副が「江副一号」だとすると、いまの江副は「江副二号」だというわけだ。 「江副一号」が徐々に「江副二号」に変容していった契機は、父、良之の死にあったといえるだろう。かつて「リクルートのマネジャーに贈る十章」の最後に書いた言葉は、父にたたき込まれた「謙虚であれ、己を殺して公につくせ」という葉隠精神からきていたといっていい。

内なる父からの解放と重なるように、経団連、経済同友会入りを果たした江副の口から、一つの言葉がたびたびこぼれるようになっていった。 「リクルートは実業ではない。実業をしたい」  その言葉を江副から聞くたびに、江副が掲げた「誰もしていないことをする主義」を信じ、新たなサービスを開発することにまい進してきた多くのリクルート社員はとまどった。ならば、いまやっている、かつて誰もしたことのなかった仕事は、虚業だったということか。

絶対君主化していったと。

取締役会は江副の独壇場になった。江副の成功体験に引きずられ、誰も反対意見を言い出せないまま、取締役会は江副の思い通りに動いていった。そしてリクルートは「誰もしていないことをする主義」からはほど遠い、デジタル回線、コンピュータレンタルの下請け事業、そして不動産業へと急激に傾斜していく。  次々と新規事業を開設していった「江副一号」。それとは対照的に、「江副二号」は何一つ新しい事業を開発し、軌道に乗せられずに、リクルート王国の国王として君臨した。

しかし、後半に手掛けた事業はほぼすべて失敗した。そして、リクルートを辞めてからも失敗し続け資産を失い続ける。

同時期、同じように「江副の黒い芽」を警告する財界人がいた。  リクルート調べ大学生人気企業ランキングで技術系トップの座に就くことをNECの関本忠弘社長は長年めざしていた。そしてようやくその座を射止め、喜んだ関本は江副を築地の吉兆に招待する。お互い囲碁好きのふたりは、食後和気あいあいと碁を打ち別れた。  翌朝、リクルートのNEC担当営業部長が、相手方の人事部長に呼ばれた。 「うちの関本が昨夜の江副さんに危惧をいだいたとのこと、老婆心ですがお伝えします」  何が起きたのだろう。営業部長は青ざめながら聞いた。 「江副さんは吉兆のなじみらしく、出された料理を、僕はこれが嫌いだからほかのものにしてよと代えさせた。あの席は自分の招待した席だから非常に気分を害された。ちょっと傲慢になっていないか、これじゃ先行きが危ないよと、関本から私に、朝一番の電話でした」

数々の警告はあった。自信から来る傲慢さがそれを助長させたのだろうか。

会長辞任翌日の夜、赤坂の料亭で会食をする中江を電話でつかまえ、江副は念を押した。 「本当に、撃ち方、止めにしてもらえるのですね。ならば、編集長お一人とだけ会いましょう」  江副は約束した場所に単独で赴いた。  江副が『リクルート事件・江副浩正の真実』で記すところによれば、そこで待ち受けていたのは六人の記者だった。彼らが繰り出す執拗な質問攻めに、江副は錯乱した。 「アエラ」七月二十三日号には、事件報道以来、初めてマスコミの前に姿を現した江副の顔写真が大きく載っていた。  痩せ細った体を紺の背広に包み、眉間に皺をよせ、顔をゆがませる江副浩正の顔写真。  それは「撃ち方、止め」どころか「撃ち方、始め」になり、炎はますます勢いを増した。  眠れず、食欲もなく、汗だけが限りなく流れる日々に、江副の心身は急激に疲弊していく。七月二十六日、毎年人間ドックを受診してきた半蔵門病院に、倒れるように担ぎ込まれた。

逮捕から、百十三日目の六月六日、江副は、NTT、労働省(現・厚生労働省)、文部省(現・文部科学省)、政界四ルートの供述書のすべてに署名して保釈金二億円を払い、大勢のカメラマンが取り囲むなか小菅拘置所を出た。  そのニュースを見た精神科医の井上博士は、すぐに半蔵門病院に駆けつけた。  ベッドに横たわる江副は、逮捕前よりも症状が重く、拘禁反応からくる深い鬱状態が顕著だった。井上はルジオミール、ワイパックスといった抗鬱剤を投与し、体ではなく心が目覚めるまで江副が眠られるよう、睡眠薬のネルボン、ベンザリンなどを処方する。しかし深く内向し、激しい鬱状態に落ち込んだ江副は、自死願望にとりつかれ、何度も病室の開かぬ窓に体当たりを繰り返した。秘書のだれかが交代で四六時中看病しなければならない状態が長く続いた。  このままでは本当に虫けら百二十六番になってしまう。この混沌とした意識の毎日から抜け出すのだ。まず自分を信じてついてきてくれた社員たちへ、いまの気持ちを正直に伝えよう。「リクルートの社員への手紙」を書くことで自分を取り戻すのだ。

マスコミと取り調べにより人格を破壊された。

一度新聞で報じられ活字になった事実は、いつか受け入れざるを得ない既定事項となっていく。社員は憤りをもちつつも、「江副、株売却」の事実を早急に受け入れ、自ら生き残る道を模索しだした。  しかし、江副だけは、まだリクルートは自分を必要としていると信じた。  この混乱する事態にもかかわらず、なぜだれも相談に来ない。江副の心のなかに、大きな寂寥感と喪失感が満ちる。「待ち」ができない江副は、中内と交わした「経営は位田尚隆以下現経営陣に一任す」の一条を忘れたように、中内のもとに次々とファクスで手紙を送り続けた。 「今回のことは中内㓛様に新しいリクルートを再構築していただきたい、との思いから発したものですが、リクルートの現執行部には、私がダイエーにリクルートを売る行為であるとの批判もあり、社長の位田も執行部の一部にあるダイエーと対峙していきたいとの声に対してじっと止まったままでございます(もともと待ちの経営者です)。この局面にどう対応していいのかがよく見えないのが今の位田執行部の現状ですので、中内様の思いでお進め頂くのがよろしいかと存じます」

ダイエーへの株式売却後の経営陣とのすれ違いが悲しい。

今治から帰ったころから、江副の認知症は急速に進行した。スペースデザインの決算が悪いと次々に社長を解任、ついには自ら社長に就き、落ち続ける業績にヒステリックな声をあげた。株はますます投機的になり、資産運用の意識は欠落した。破たん株にしか手を出さないのである。安比高原も今年中に倒産する、芋を植えて飢えをしのがなくてはと、芝生を剥がし芋畑の開墾を始める始末だ。迫りくる食糧危機には米の確保が大切と、江副は突然、三千万円分の米を契約し、保管場所もなく周りを困惑させた。幼少期に体験した食糧難が、強迫観念となって江副に襲いかかり、江副の混乱に拍車をかけているかのようだった。

リクルート事件がなかったらどうなっていただろうか。