幅広い知識で迫る「貨幣の「新」世界史」

元JPモルガンのアナリストでアリババのIPOなども担当した著者が、様々なアプローチでお金の本質について迫った本。幅広い知識で、お金の起源からビットコインのような最新の事例まで迫っており非常に勉強になりました。一方で、お金が、ここ2年で仮想通貨の普及も含めて、ものすごい勢いで再定義されつつあると感じており、また最新の見解を聞いてみたいと思わせました。

以下、抜粋コメントで

広い視野を持つためには広い定義が欠かせない。そこで私は、お金は価値のシンボルだという定義にたどり着いた。シンボルとは何かほかのものの象徴であり、抽象的な形で表現される。一方、価値とは何かの重要性や値打ちを意味する。このふたつをまとめれば、お金は何か価値のあるものや大切なものの象徴ということになる。

お金に関してカーツワイルは、その普遍性を確信してつぎのように述べる。「たとえばアメリカ政府とアルカイダのように、一部の事柄に関して見解が大きく異なっていても、お金を尊重する気持ちはどちらも変わらない。お金という難解で仮想的な複合概念に対する尊敬の念が、ここまで普遍的であることには驚かされる(98)」。誰もがお金を利用し尊重している現実を考慮すれば、大きな変化が生じたときには人類に甚大な影響がおよぶだろう。

確かにこの普遍性は非常に興味深いし、「お金は何か価値のあるものや大切なものの象徴」という定義もおもしろい。

現代のポートフォリオ理論は理に適っているような印象を受ける。しかし意外にもマーコウィッツ自身、自分の退職後に備えた投資の方法については簡単に決めかねている。   私はアセットクラス〔投資対象となる資産の種類や分類〕の過去の共分散を算定してから、有効フロンティア〔ポートフォリオ期待収益の分散において、期待収益を最大にあげられる個別資産の組み合わせの集合〕を引き出すべきだった。ところが、自分の関与しないところで株価が上昇したと言っては狼狽し、逆に自分が深く関与しているところで株価が下落したと言っては絶望に打ちひしがれる場面を思い浮かべた。将来悔やむような展開を最小限に抑えることが、頭から離れなかった。そこで、資産を債券と株式と半分ずつに分けて投資することにした(18)。  現代のポートフォリオ理論の発明家は、自分の発明品を使わなかった。合理的だとされる行動を理解していながら、一見すると不合理な行動を選んでしまった(19)。ノーベル賞を受賞するほどの経済学者がこのような行動をとるのは、人間が合理的だという前提に問題があることの証拠ではないか。日本では、東京の高級住宅街の四四六人の住民を対象に調査が行なわれた。住民は合理的に自己利益を追求するものと予想されたが、ホモ・エコノミクスの行動モデルに忠実だったのは僅か三一人、全体の七パーセントにすぎなかった(20)。「経済学者のモデルはまったく当てにならない。人間的な要素の大切さをすっかり忘れている」と、数量ファイナンスの専門家であり教育者であるポール・ウィルモットは語る(21)。

現代ポートフォリオ理論の考案者のひとりであるマーコウィッツすら、老後の投資に現代ポートフォリオ理論を使わなかったという事実。経済は合理的なひとの行動の集合であるという前提が崩れているのは明らかなのだが。

何世紀ものあいだ経済学者は、物々交換がお金の前身だと主張してきた。しかし実際には、ほかの金融商品が広く普及していた。債務である。

金属主義者と表券主義者のあいだでは、お金の起源についての考え方が異なり、たとえばアダム・スミスとアルフレッド・ミッチェルイネスの見解にも違いが見られる。金属主義者は、物々交換に代わってお金が登場したという前提に立っている。そしてお金は個人の取引から生まれたもので、市場が創り出したものを国家は勝手に神聖化したと見なす。一方、表券主義者は、債務や信用供与の制度がお金よりも先行していたと主張する。古代メソポタミアで利子付きの融資が行なわれていた証拠は残っているが、これはリディア王国で紀元前六三〇年頃に硬貨が登場したよりも何千年も古い。金属主義と表券主義というふたつの学説は、言うなれば断層線で区別されているように大きく異なるが、同様に、金属を介する取引と信用取引も、市場と国家も、ハードとソフトも大きく異なる。

物々交換はなく表券主義であることは定説になりつつあるが、金属主義にはまだ根強い指示もあります。

アメリカは途方もない特権を持ち続けたい。世界の準備通貨としてのドルの地位を守り抜くため、あるいは、それが無理でもせめてシェアの低下を遅らせるため、大勢の人たちが解決策を提案している。そのひとつが、ドルの量を減らして質を高めることで、金本位制の復活も考えられる。しかし、お金を創造することには誰もが抗えない魅力が備わっており、それは歴史によっても証明されている。

いまでは中央銀行が船の舵を握っている。今日、貨幣の世界では様々な機関が密接に関わり合いながら錬金術を駆使しているが、その網の目状のシステムは中央銀行によって統括されている。ドルが銀行家に操られるべきでないと信じていたヘンリー・フォードは、一九二二年に発表した自伝にこう書いている。「[通貨]制度は人びとの生活を左右するが、その制度が主導者である銀行家にどれだけの権限を付与しているか理解したら、[人びとは]これをどう評価するだろうか。実に深刻な問題だ(134)」。現代の通貨制度の仕組みについては正しい理解が必要だ。この制度は非常に複雑だが、ソフトマネーに付き物の悪魔との取引が確実に存在している。

個人的には、仮想通貨がこの歯止めになるのではないかと期待してます。

しかし、ビットコインが通貨として永続的な力を持つのか、あるいはほかの代替通貨のように消滅するのか、現時点では判断できない。価格変動はすでに経験している。二〇一三年には二〇ドルから二六六ドル、そして一三〇ドルへと僅か数カ月の間に揺れ動いた。ノーベル経済学賞を受賞した経済学者ポール・クルーグマンはこの不安定性に注目し、ビットコインは価値貯蔵手段としての信頼性に欠け、貨幣の本来あるべき姿からはかけ離れていると指摘している(38)。

現在の10,000ドルを超えている状況をみても、価値貯蔵手段としての信頼性を欠くというのだろうか?

人類学者のデイヴィッド・グレーバーは、ピタゴラス、ブッダ、孔子など影響力の大きな宗教指導者が、紀元前六世紀に硬貨が発明された地域──ギリシア、インド、中国──に暮らしていた事実を指摘する(15)。そして、お金も永続的な宗教も、どちらも紀元前八〇〇年から紀元六〇〇年にかけて誕生したのは、決して偶然ではないという。市場の重要性が高まるにつれ、組織的な宗教が広がったのではないかと考えている。たとえば、イエス・キリストの初期の弟子たちの多くは貧しかったので、物質的な富に関して逆説的かつ解放的な見識を素直に受け入れたのかもしれない。

お金により富が可視化されたことで、金持ちではないひとを紡ぐある種の幻想が必要になったのではと考えています。大多数がギリギリの生活をしなければならなかったがその心理的な安定、支配者層にとってはそこから来る社会的な安定という意味で利害が一致したのかなと。今は生産性の向上から話が違ってきています。