人類の全てを描こうとする意欲作「サピエンス全史」

サピエンスとはもちろんホモ・サピエンス、すなわち人類の全史を描こうとする非常に意欲的な作品。

著者は、人類と動物の真の違いを「多数の個体や家族、集団を結びつける神話という接着剤」のあるなしだという。それがゆえに人類は大規模な文明を築くことができたと。確かに家族や村や国家や株式会社というのはある種の神話であって、みなが信じているがゆえに正しいということは多い。だから昔は正しいと思われていたことが今は正しくないことは多い。例えば、奴隷制なんかもそう。今では人々は人は皆平等であって自由な存在であるし、お金というある種の虚構を信じている。だからこそ人と人がお金を使った取引が可能になる。

このように人類史を違った視点から描いているのが非常に知的好奇心を刺激され、大変勉強になる一冊です。かなり長いですが、夢中で読み進めました。

以下は抜粋コメントしていきたいと思います。

平均的なサピエンスの脳の大きさは、狩猟採集時代以降、じつは縮小したという証拠がある(5)。狩猟採集時代に生き延びるためには、誰もが素晴らしい能力を持っている必要があった。農業や工業が始まると、人々は生き延びるためにしだいに他者の技能に頼れるようになり、「愚か者のニッチ」が新たに開けた。凡庸な人も、水の運搬人や製造ラインの労働者として働いて生き延び、凡庸な遺伝子を次の世代に伝えることができたのだ。

狩猟採集時代の方が生きるために知らなければならないことが膨大にあり、むしろそれ以降の方が脳の大きさは縮小したと。

平均寿命はどうやらわずか三〇~四〇歳だったようだが、それは子供の死亡率が高かったのが主な原因だ。危険に満ちた最初の数年を生き延びた子供たちは、六〇歳まで生きる可能性がたっぷりあり、八〇代まで生きる者さえいた。現代の狩猟採集社会では、四五歳の女性の平均余命は二〇年で、人口の五~八パーセントが六〇歳を超えている(6)。

子供の死亡率が高いだけで、意外に高齢者も多かったらしい。

人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ(2)。  では、それは誰の責任だったのか? 王のせいでもなければ、聖職者や商人のせいでもない。犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物種だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ。

たしかに村落の生活は、野生動物や雨、寒さなどから前よりもよく守られるといった恩恵を、初期の農耕民にただちにもたらした。とはいえ、平均的な人間にとっては、おそらく不都合な点のほうが好都合な点より多かっただろう。これは、繁栄している今日の社会の人々にはなかなか理解し難い。私たちは豊かさや安心を享受しており、その豊かさや安心は農業革命が据えた土台の上に築かれているので、農業革命は素晴らしい進歩だったと思い込んでいる。だが、今日の視点から何千年にも及ぶ歴史を判断するのは間違っている。

それでは、もくろみが裏目に出たとき、人類はなぜ農耕から手を引かなかったのか? 一つには、小さな変化が積み重なって社会を変えるまでには何世代もかかり、社会が変わったころには、かつて違う暮らしをしていたことを思い出せる人が誰もいなかったからだ。そして、人口が増加したために、もう引き返せなかったという事情もある。農耕の導入で村落の人口が一〇〇人から一一〇人へと増えたなら、他の人々が古き良き時代に戻れるようにと、進んで飢え死にする人が一〇人も出るはずがなかった。後戻りは不可能で、罠の入口は、バタンと閉じてしまったのだ。

農耕には不可逆性があったという話、非常におもしろい。

この法典は、家族の中にも厳密なヒエラルキーを定めている。それによれば、子供は独立した人間ではなく、親の財産だった。したがって、高位の男性が別の高位の男性の娘を殺したら、罰として殺害者の娘が殺される。殺人者は無傷のまま、無実の娘が殺されるというのは、私たちには奇妙に感じられるかもしれないが、ハンムラビとバビロニア人たちには、これは完璧に公正に思えた。ハンムラビ法典は、王の臣民がみなヒエラルキーの中の自分の位置を受け容れ、それに即して行動すれば、帝国の一〇〇万の住民が効果的に協力できるという前提に基づいていた。効果的に協力できれば、全員分の食糧を生産し、それを効率的に分配し、敵から帝国を守り、領土を拡大してさらなる富と安全を確保できるというわけだ。

なぜ昔のハンムラビ法典や聖書が奇妙に思えるか。それは人類が生き延びるために皆が信じる神話であって、現代の神話とは異なるから。

鳥の視点の代わりに、宇宙を飛ぶスパイ衛星の視点を採用したほうがいい。この視点からなら、数百年ではなく数千年が見渡せる。そのような視点に立てば、歴史は統一に向かって執拗に進み続けていることが歴然とする。キリスト教の分割やモンゴル帝国の崩壊は、歴史という幹線道路におけるただのスピード抑止帯でしかないのだ。

これはすごく目からウロコの視点でした。いまBrexitやトランプ政権誕生などで世界が分離していくかのような気がしますが、本書では長い目で見れば必ず世界は統一されていくと言い切っています。

イスラム教や仏教のような、歴史上有数の宗教は、普遍的であり、宣教を行なっている。その結果、人々は、宗教はみなそういうものだと思う傾向にある。ところが、古代の宗教の大半は、局地的で排他的だった。信者は地元の神々や霊を信奉し、全人類を改宗させる意図は持っていなかった。私たちの知るかぎりでは、普遍的で、宣教を行なう宗教が現れ始めたのは、紀元前一〇〇〇年紀だ。そのような宗教の出現は、歴史上屈指の重要な革命であり、普遍的な帝国や普遍的な貨幣の出現とちょうど同じように、人類の統一に不可欠の貢献をした。

宗教=宣教するものではないという事実。そして、それはお金の登場と同様に文明化を推し進めたと。

政治も二次のカオス系だ。一九八九年の革命を予想しそこなったとしてソ連研究家を非難し、二〇一一年のアラブの春の革命を予知しなかったとして中東の専門家を酷評する人は多い。だが、これは公正を欠く。革命はそもそも予想不可能に決まっているのだ。予想可能な革命はけっして勃発しない。

確かに…

古代の知識の伝統は、二種類の無知しか認めていない。第一に、個人が何か重要な事柄を知らない場合。その場合、必要な知識を得るためには、誰かもっと賢い人に尋ねさえすればよかった。まだ誰も知らないことを発見する必要はなかった。たとえば、一三世紀のヨークシャーのある村で、農民が人類の起源を知りたければ、彼は当然キリスト教の伝統に決定的な答えが見つかると考えた。だから、地元の聖職者に尋ねさえすれば済んだ。  第二に、伝統全体が重要でない事柄について無知な場合。当然ながら、偉大な神々や過去の賢人たちがわざわざ私たちに伝えないことは、何であれ重要ではない。先ほどのヨークシャーの農民が、クモはどうやって巣を張るのかを知りたければ、聖職者に尋ねても無駄だった。この疑問に対する答えは、キリスト教の聖典のどれにも見つからないからだ。だからといって、キリスト教に欠陥があるわけではなかった。それは、クモがどうやって巣を張るかを理解するのは重要ではないということだ。つまるところ、神はクモがどうやるかは完璧に知っていた。これが人間の繁栄と救済にとって必要な、重要極まりない情報だったなら、神は聖書に広範囲に及ぶ説明を含めていただろう。

知識への考え方が、古代と現代ではがらりと変わったという視点。

人類は何千年もの間、この袋小路にはまっていた。その結果、経済は停滞したままだった。そして近代に入ってようやく、この罠から逃れる方法が見つかった。将来への信頼に基づく、新たな制度が登場したのだ。この制度では、人々は想像上の財、つまり現在はまだ存在していない財を特別な種類のお金に換えることに同意し、それを「信用」と呼ぶようになった。この信用に基づく経済活動によって、私たちは将来のお金で現在を築くことができるようになった。信用という考え方は、私たちの将来の資力が現在の資力とは比べ物にならないほど豊かになるという想定の上に成り立っている。将来の収入を使って、現時点でものを生み出せれば、新たな素晴らしい機会が無数に開かれる。  信用がそれほど優れたものなら、どうして昔は誰も思いつかなかったのだろうか?

近代以前の問題は、誰も信用を考えつかなかったとか、その使い方がわからなかったとかいうことではない。あまり信用供与を行なおうとしなかった点にある。なぜなら彼らには、将来が現在よりも良くなるとはとうてい信じられなかったからだ。概して昔の人々は自分たちの時代よりも過去のほうが良かったと思い、将来は今よりも悪くなるか、せいぜい今と同程度だろうと考えていた。

その違いがなぜ生じたかと言えば、将来が現在よりも良くなるという視点で、それにより信用というものすごいイノベーションが生まれました。

多くの文化で、大金を稼ぐことが罪悪と見なされたのも、そのためだ。イエスの言うように、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(「マタイによる福音書」第19章24節)(日本聖書協会『聖書』新共同訳より)。パイの大きさが変わらない以上、一人がたっぷり取れば、必ず誰かの取り分が減る。だから裕福な人々は、余った富を慈善事業に寄付することで、己の悪行に対する贖罪の意を示さなければならなかった。

昔はパイが変わらない中でゼロサムになっていたが、将来がより豊かになるのであれば信用や知識に対する考え方も変わる。

そこで国家と市場は、けっして拒絶できない申し出を人々に持ちかけた。「個人になるのだ」と提唱したのだ。「親の許可を求めることなく、誰でも好きな相手と結婚すればいい。地元の長老らが眉をひそめようとも、何でも自分に向いた仕事をすればいい。たとえ毎週家族との夕食の席に着けないとしても、どこでも好きな所に住めばいい。あなた方はもはや、家族やコミュニティに依存してはいないのだ。我々国家と市場が、代わりにあなた方の面倒を見よう。食事を、住まいを、教育を、医療を、福祉を、職を提供しよう。年金を、保険を、保護を提供しようではないか」

次に国家と市場が登場し、家族や村社会のようなコミュニティから「個人になる」ことを提案しました。これも農耕と同じく「けっして拒絶できない申し出」でした。

一九四五年以降、国連の承認を受けた独立国家が征服されて地図上から消えたことは一度もない。国家間の限定戦争〔訳註 相手の殲滅を目指すことなく、その目的や、攻撃の範囲や目標、手段などに一定の制限を設けた戦争〕は、今なおときおり勃発するし、何百万もの人が戦争で命を落としているが、戦争はもう、当たり前の出来事ではない。

現在は不安も高まっているわけですが、確かに征服により国家がなくなることがなくなったことは事実であるし、貧困もこれから数十年で撲滅できるのではないかと言われています。

今まで人類は停滞もありながらも発展し続けてきたし、未来は明るいのではないかと思いました。