リベラルへの痛烈批判「実力も運のうち 能力主義は正義か?」

NHK『ハーバード白熱教室』や「それをお金で買いますか――市場主義の限界」などで知られるマイケル・サンデル新作。昨今ブレグジットやトランプ大統領誕生(と退場)を含め政治的ポジションニングが二分してしまっています。多くの場合リベラルがグローバリズムを推進したり、温暖化を防ごうとしたり、能力主義を信奉しているのに対して、時代に逆らって対抗しているひとたちがいる、というような構造で語られることが多いと思います。

本書では、まずこういったリベラルが無意識に差別をしている、ということを明らかにします。

この研究論文の執筆者たちは、大学卒のエリートが学歴の低い人びとに向けるさげすみの目を明らかにしただけでなく、いくつかの興味深い結論を提示している。第一に、高学歴のエリートは学歴の低い人びとよりも道徳的に啓発されており、したがってより寛容であるというよくある考え方に異論を唱えている。高学歴のエリートも低学歴の人びとに劣らず偏見にとらわれているというのが彼らの結論だ。「むしろ、偏見の対象が異なっているのだ」。しかも、エリートは自らの偏見を恥と思っていない。彼らは人種差別や性差別を非難するかもしれないが、低学歴者に対する否定的態度については非を認めようとしない。

オバマは、民主的社会において意見の衝突が生じる最大の原因は、一般市民が十分な情報を持っていないことだと信じていた。  情報不足が問題なら、解決策は次のようになる。事実をよりよく理解している者が仲間の市民に代わって決定を下したり、あるいは、少なくとも彼らを啓発すべく、市民自身が賢明な決定を下すために知るべきことを教えてやったりすればいいのだ。

批判しているのはこういった上から目線ですが、確かに思い当たることも多いです。そして、その能力主義(メリトクラシー)と言えるものが世の中の分断を生んでいる、と指摘しています。

能力に基づく入学とのコントラストは明らかであるように思える。正真正銘の輝かしい成績によって入学した者は、自ら達成した成果に誇りを感じ、自力で入学したのだと考える。だが、これはある意味で人を誤らせる考え方だ。彼らの入学が熱意と努力の賜物であるのは確かだとしても、彼らだけの手柄だとは言い切れない。入学へ至る努力を手助けしてくれた親や教師はどうなるのだろうか? 自力ですべてをつくりあげたとは言えない才能や素質は? たまたま恵まれていた才能を育て、報いを与えてくれる社会で暮らしている幸運についてはどう考えればいいだろうか?  競争の激しい能力主義社会で努力と才能によって勝利を収める人びとは、さまざまな恩恵を被っているにもかかわらず、競争のせいでそれを忘れてしまいがちだ。能力主義が高じると、奮闘努力するうちに我を忘れ、与えられる恩恵など目に入らなくなってしまう。こうして、不正も、贈収賄も、富裕層向けの特権もない公正な能力主義社会においてさえ、間違った印象が植え付けられることになる──われわれは自分一人の力で成功したのだと。

一見すると、経済的成功をめぐるロールズの非能力主義的な考え方は、成功者には謙虚さを、恵まれない人びとには慰めをもたらすはずだ。それはエリートにありがちな能力主義的おごりを抑制し、権力や資産を持たない人たちが自尊心を保てるようにするに違いない。私が、自分の成功は自分の手柄ではなく幸運のおかげだと本気で信じていれば、この幸運をほかの人たちと分かち合う義務があると感じる可能性が高いだろう。  こんにち、こうした感情は不足している。成功者の謙虚さは、現代の社会・経済生活において目立つ特徴ではない。ポピュリストの反発を誘発した要因の一つは、労働者のあいだにエリートに見下されているという感覚が広がっていることだ。それが事実であるかぎり、現代の社会保障制度が、正義にかなう社会というロールズの理念に達していないことを示すものだろう。あるいは、平等主義リベラリズムは結局のところ、エリートの自己満足をとがめていないことを示唆しているのかもしれない。

僕自身大卒ではあるし、起業して収入も多く、成功したエリートだと言えると思います。一方で、個人的には、この成功が自分自身の能力のおかげだと思えず、むしろ才能や能力で圧倒的に優れた家族や友だちに囲まれ続けた結果、生存戦略として起業を選ぶしかなかったと思ってます。その後も何年もうまくいかない中で自身の能力の低さを痛感しながら、七転八倒してきたという感覚です。

人はその才能に市場が与えるどんな富にも値するという能力主義的な信念は、連帯をほとんど不可能なプロジェクトにしてしまう。いったいなぜ、成功者が社会の恵まれないメンバーに負うものがあるというのだろうか? その問いに答えるためには、われわれはどれほど頑張ったにしても、自分だけの力で身を立て、生きているのではないこと、才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで、自分の手柄ではないことを認めなくてはならない。自分の運命が偶然の産物であることを身にしみて感じれば、ある種の謙虚さが生まれ、こんなふうに思うのではないだろうか。「神の恩寵か、出自の偶然か、運命の神秘がなかったら、私もああなっていた」。そのような謙虚さが、われわれを分断する冷酷な成功の倫理から引き返すきっかけとなる。

道徳的な観点からすると、才能ある人びとが、市場主導型の社会が成功者に惜しみなく与えてくれる巨額の報酬を受けるに値する理由は、はっきりしない。能力主義の倫理を支える論拠の中心には、自分で制御できない要素に基づいて報酬を受ける、あるいはお預けにされるのはおかしいという考え方がある。だが、ある才能を持っていること(あるいは持っていないこと)は、本当にわれわれ自身の手柄(あるいは落ち度)だろうか。そうでないとすれば、次の点を理解するのは難しい。自分の才能のおかげで成功を収める人びとが、同じように努力していながら、市場がたまたま高く評価してくれる才能に恵まれていない人びとよりも多くの報酬を受けるに値するのはなぜだろう

今ここにいるのは、たまたま自分が好きになり、ずっとやってきた「インターネット・サービスを創る」という能力が、たまたま現在、金銭的な評価されやすかったということに過ぎない、と思っています。この幸運には本当に感謝しているし、不相応な資産は世の中のために使いたいと考えています。

サンデルもそういったマインドが重要であるから、エリートは考え方を改めるべき、と言い、適切にインセンティバイズ(動機付け)できれば、すべてのひと(エッセンシャルワーカーなど含め)が尊厳を持って仕事をでき、よい報酬や分配を得られ、コミュニティをつくれる、と言います。

が、実際のところ道徳的に何が正しいかを決めてインセンティバイズしたり、再分配するというのは非常に難しいとも思います。道徳とは何かという概念が人によっても時代によっても全然違うだけに。

だからといって僕もよい解決方法は思いつかないのですが、、、社会的発揮能力が金銭に繋がっていることを是正するよりは、より多様な価値観でもって金銭価値を無効化するような方向性なのかなと思ってはいます。

今のところ僕としては、リスペクトを持ってすべてのひとに接し、自分が今の立場でできること(仕事であってもそうでなくても)をしていこうと考えています。