「ハーバード白熱教室」などで有名なマイケル・サンデル氏の新作。実は、サンデルの書籍ははじめて読んだのですが、コミュニタリアンの思想がよく分かってすごく勉強になりました(ちなみに本人は否定しているらしいですが)。
確かに、サンデルのいうように過去30年間の行き過ぎた市場主義を何とかするために、市場主義ではなんともならない「善」や「腐敗」について徹底的に議論しなければならないというのは一理あると思います。
一方で、コミュニタリズムな解決が唯一の道なのか、という疑念は残ります。「善」というものは、時代によっても、場所によっても変わるものなわけで、その線引きに結局のところどのくらい妥当性があるのか、どうやっても正解に辿りつけないのではないか、という気もします。
例えば、学校がお金を得るために企業スポンサーの広告で溢れかえっているという話。広告がなく、よい教育を施す学校があれば、そちらを選びたいのが親だと思います。だから、日本でもアメリカでもいい学校のある学区に引っ越すというのが頻繁に起きてます。そういった地域は土地の値段もあがるし、所得が高いひとが移り住むのでますます教育へ回せる税金も増えます。
それでは貧しい人の子どもはいつまでたっても広告まみれの学校で学ばなければならないのか、それは「道徳的によくない」ので、禁止すべき、というのがサンデルの主張です。しかし、僕としては、確かに「道徳的によくない」かもしれないが、それでもそのお金でその他の部分の教育予算が増えるのであれば、うまく活用して、次の世代をより富ませられればいいのではないか、と思うのです。もし「道徳的によくない」からといって禁止してしまったら、教育にお金をかけられないことで、貧しい人の子どもも貧しいままになってしまいます。
そうすれば、全体として豊かになっていき、次の世代では企業スポンサーをつけなくてもよくなるかもしれません。
これは一例ですが、本書に出ている議論を呼ぶ事例も、本当にそうなんだろうか、と思うことがたびたびありました。僕は本質的にはリバタリアンで、将来に対して楽観的な方なので、そう感じるのかもしれませんが、もし間違っていたのならやめればいいと思うし、サンデルのいうような「後戻り不可能な」ケースというのは意外に少ないのではないかと思っています。また、本書には取り上げられない当時の道徳に照らしあわせて実験的な試みで、やってみたらすごくうまく行ったこともあるはずです。
人の道徳感というのはものすごく変わるので(例えば、「風と共に去りぬ」を読むと奴隷が当時どれだけ当たり前だったか分かります)、その時々の選択はコミュニティで徹底的に議論して決める、というのはすごくいいと思います。またその際に、市場的側面だけではなくて、「善」など市場に現れない側面を重視するのも、そのコミュニティが大切にするもので、合意が取れるならいいのではないでしょうか(しかし、個人的には「善」は最終的には市場的価値もあげると考えますが)。
しかし、本書で取り上げられているような新しい議論を呼ぶような実験的事例については、受けいられる可能性もあるだけに、自身の道徳観念で否定すべきではないのではないでしょうか。そういった中で失敗するものも多いと思いますが、であれば市場原理から退場させられるわけで、それで決定的に何かが失われるということはほとんどないのではないでしょうか(短期的に困ったことになるというのはありそうですが)。
もちろんやる時にも徹底的に考える前提ですが、後で徹底的に検証して、やめるならやめるし、間違ったところは正して行く。そしてそれを全世界各地でやっていく。それができるならば、よりよい世の中になっていくと思うのです。
正直言って、サンデルの思想には疑問も感じますが、多様な問題提起はすごく刺激になりましたし、問題の切り分けについては、思考整理法としてすごく勉強になりました。他の著作も読んでみようと思います。
<抜粋>
・すべてが売り物となる社会に向かっていることを心配するのはなぜだろうか。 理由は二つある。一つは不平等にかかわるもの、もう一つは腐敗にかかわるものだ。
・経済学者はよく、史上は自力では動けないし、取引の対象に影響を与えることもないと決めつける。だが、それは間違いだ。市場はその足跡を残す。ときとして、大切にすべき非市場的価値が、市場価値に押しのけられてしまうこともあるのだ。
・もちろん、大切にすべき価値とは何か、またそれはなぜかという点について、人々の意見は分かれる。したがって、お金で買うことが許されるものと許されないものを決めるには、社会・市民生活のさまざまな領域を律すべき価値は何かを決めなければならない。この問題をいかに考え抜くかが、本書のテーマである。
・経済学者にとって、財やサービスを手に入れるために長い行列をつくるのは無駄にして非効率であり、価格システムが需要と供給を調整しそこなった証拠である。空港、遊園地、高速道路で、お金を払ってよりはやいサービスを受けられるようにすれば、人々は自分の時間に値をつけられるので、経済効率が向上するのだ。
・HIVに感染している女性に40ドルを支払い、一種の長期避妊となる子宮内器具を装着してもらっているのだ。ケニヤと、次に進出予定の南アフリカでは、保護当局者と人権擁護者から怒りと反対の声があがっている。 市場の論理の観点からは、このプログラムが怒りを買う理由ははっきりしない。
・199年代、イヌイットの指導者たちは、カナダ政府にある提案を持ちかけた。イヌイットに割り当てられたセイウチを殺す権利の一部を、大物ハンターに売らせて欲しいというのだ。殺されるセイウチの数は変わらない。イヌイットはハンティング料を取り、トロフィーハンターのガイドを務め、獲物をしとめるのを監督し、従来どおり肉と皮を保存する。このシステムを使えば、現在の割当頭数はそのままで、貧しいコミュニティーの経済的福祉が改善されるはずだ。カナダ政府はそれを了承した。
・こうした経済学者的美観は、市場信仰をあおり、本来ふさわしくない場所にまで市場を広げてしまう。しかし、その比喩は誤解を招くおそれがある。利他心、寛容、連帯、市場精神は、使うと減るようなものではない。鍛えることによって発達し、強靭になる筋肉のようなものなのだ。市場主導の社会の欠点の一つは、こうした美徳を衰弱させてしまうことだ。公共生活を再建するために、われわれはもっと精力的に美徳を鍛える必要がある。
・「金融市場は信じがたいほど強力な情報収集装置であり、従来の手法よりもすぐれた予測をすることが多い」。彼らはアイオワ電子市場を例に挙げた。これはオンラインの先物市場で、数度の大統領選挙の結果を世論調査よりも正確に予測したのだ。別の例としてはオレンジジュースの先物市場があった。「濃縮オレンジジュースの先物市場は、気象局よりも正確にフロリダの天気を予測する」
・テロの先物市場が道徳的に複雑なものとなるのは、デスプールとは違い、それが善をなすとされているからだ。この先物市場がうまく機能するなら、そこから貴重な情報がもたらされる。
・(マネーボールについて)アスレチックスがプレーオフに進出したのは2006年が最後で、それ以降は一シーズンも優勝していない。公平を期すために言うと、これはマネーボールの失敗ではなく拡大のせいだ。
・さまざまな財や活動に関して、私が本書で一貫して言おうとしてきたポイントが、ここに表れている。つまり、市場の効率性を増すこと自体は美徳ではないということだ。真の問題は、あれやこれやの市場メカニズムを導入することによって、野球の善が増すのか減じるのかにある。これは野球だけでなく、われわれが生きる社会についても問うに値する問題なのだ。
・広告にふさわしい場所とふさわしくない場所を決めるのは、一方で所有権について、他方で公正さについて論じるだけでは不十分なのだ。われわれはまた、社会的慣行の意味と、それらが体現する善について論じなければならない。そして、その慣行が商業化によって堕落するかどうかを、それぞれのケースごとに問わなければならない。
・学校にはびこる商業化は、二つの面で腐敗を招く。第一に、企業が提供する教材の大半は偏見と歪曲だらけで、内容が浅薄だ。消費者同盟の調査によれば、驚くまでもないが、スポンサー提供の教材の80パーセント近くが、スポンサーの製品や観点に好意的だ。しかし、たとえ企業スポンサーが客観的で非の打ちどころのない品質の教育ツールを提供したとしても、教室の商業広告は有害な存在だ。なぜなら、学校の目的と相容れないからである。広告は、物をほしがり、欲望を満たすよう人を促す。教育は、欲望について批判的に考えたうえで、それを抑えたり強めたりするよう促す。広告の目的が消費者を惹きつけることであるのに対し、公立学校の目的は市民を育成することだ。
・市場や商業は触れた善の性質を変えてしまうことをひとたび理解すれば、われわれは、市場がふさわしい場所はどこで、ふさわしくない場所はどこかを問わざるをえない。そして、この問いに答えるには、善の意味と目的について、それらを支配すべき価値観についての熟議が欠かせない。
・そのような熟議は、良き生をめぐって対立する考え方に触れざるをえない。それは、われわれがときに踏み込むのを恐れる領域だ。われわれは不一致を恐れるあまり、みずからの道徳的・精神的信念を公の場に持ち出すのをためらう。だが、こうした問いに尻込みしたからといって、答えが出ないまま問いが放置されるわけではない。市場がわれわれの代わりに答えを出すだけだ。それが、過去30年の教訓である。