弟/石原慎太郎

現都知事、石原慎太郎氏による弟の俳優、石原裕次郎についての回想録。96年発売当時ベストセラーというので軽い内容かと思ってましたが、内容は重厚で多岐に渡っていて、幼少時代の思い出から始まって、なぜ自らが作家になったのか、その映画化で石原裕次郎が世に出た裏話、石原裕次郎が常に肉体的な業苦に苦しめられていたこと、などが赤裸々に綴られています。やはり芥川賞作家だけあって文章もすごく読みやすくて、その時代や場所の空気感が伝わってきて、すばらしいエッセーだと思います。

また、抜粋を読んでいただいても分かりますが、自分たちが世の中に出たのはお互いがあってこそだし、あくまで偶然の積み重ねで自分たちは運が良かった、という話が常に出されており、個人的にはこの人生観は非常に好きだなと思いました。

<抜粋>
・弟とてももともと大いに期するところがあって役者になった訳ではなし、まして会社側の人間にスカウトとしてのたいした目があるものでもないだろう。まあ要するに、本物のスターの誕生なぞ不条理ともいえるきっかけがもたらすものでしかなく、その時代、その当人の性格、そしてなんといっても運が揃わなくてはどうなるものでもない、という公理を、逆に弟の出現は証していたはずだ。
・番頭の小林にせよ、弟がもし呆けて元に戻らぬなら自分の命と引き換えにでも弟の名声を非常の手段で保ってみせると告白した渡(注:哲也)にせよ、誰のためでもなく弟の記録を綴った金宇にせよ、ただ仲間という縁だけで弟に没入してくれた男たちと弟との関わりというのはいったい何だったのだろうかと改めて思う。 人間の関わりについて「絆」などという言葉が空疎にしか感じられなくなったこの頃に、他人は果たしてそれを何と呼ぶのだろうか。ただ友情か、あるいは無類の献身か、いずれにせよああした男たちに囲まれていた男たちに囲まれていた弟が、あの若い医師がいっていたように男としての至福を味わったことを私は疑わない。
・今改めて思えば、結局、私たち兄弟の人生は超現実的としかいえない素晴らしい偶然の積み重ねの上にあったのだった。 時代の恩寵ということ一つにしても、とてもそうとしかいいようがない。 私がいなければ彼はありはしなかったし、同じように、いやそれ以上に彼がいなければ私はありはしなかったのだ。(中略)人間というのは所詮何か大きな力の仕組みの中で生かされ、その罰も報償もその何かによって自在に与えられるものだということを感じさせる。

10万年の世界経済史/グレゴリー・クラーク

固いタイトルですが、『銃・病原菌・鉄』などのジャレド・ダイヤモンドのような知的興奮度の高い良作です。

世界経済史の中で最も重要な産業革命がなぜ英国(中国や日本でもなく)で1800年頃に起きたのかをコアにしながら、狩猟採集民と産業革命前夜の民衆の暮らしでは前者の方が実は豊かであったことや、現在のアフリカ諸国が産業革命以前よりも貧しいことなど、非常に広範囲にとりあげて豊富な資料とともに解説していきます。

個人的に印象的だったのは、最貧国に対するIMFや世界銀行のやり方を批判していることで、確かにここ何十年もやり続けていて成果がでないのであれば、根本的にやり方を変えた方がいいのではないか、と思いました。他にも従来の常識を打ち崩すような事実が書かれていて、非常に考えさせられました。

<上巻抜粋>
・1800年の英国では、ごく慎ましやかな生活ですら、一生あくせく働き続けなければ入らなかった。消費する物質の多様化も進まず、一般的な狩猟採集民の食事や労働条件のほうが、1800年の英国における典型的労働者のそれよりも、はるかに変化に富んでいた。1800年までには、英国の食卓に紅茶やコショウ、砂糖などの、外国産の食品がのぼるようになっていたにもかかわらずである。
・産業革命によって、社会内部の所得格差は縮小したいっぽうで、各社会間の所得格差は拡大してきた。このプロセスは近年、「大いなる分岐(the Great Divergence)」と呼ばれている。各国間の所得格差は、およそ50対1に及んでいる。現代社会には、至上もっとも豊かな人々と、もっとも貧しい人々が共存しているのだ。
・マルサス的経済の時代の英国では、極貧の人々の子供はほとんど生きのびられず、その家系は途絶えていった。このため、産業化以前の英国社会では、つねに人口の“下方移動”がみられた。(中略)この結果、後世の動的な経済活動を支える、忍耐、勤勉、創意工夫、創造力、教養といった特質が、生物学的なメカニズムをつうじて人々に広まっていったのである。
・世界銀行や国際通貨基金がこんにち強調しているような経済成長の制度的前提条件は、英国などの国々では、1200年までにすべて整っていた。
・2002年における衣料産業の労働者の時給は、インドでは0.38ドルだったのに対し、米国では9ドルだった。(中略)現代のインドの綿織物工場に勤める労働者は、工場にいるあいだ、1時間あたりわずか15分しか実際は仕事をしていない。したがって、全世界での時給の格差は、豊かな国々と貧しい国々のあいだの見かけの賃金格差よりも、現実にはずっと小さいのである。
・ジャレド・ダイヤモンドは著書の『銃・病原菌・鉄』で、地理学的、植物学的、動物学的な条件は宿命的なものだと論じた。(中略、ヨーロッパやアジアなど)には家畜化できる動物が生息していたうえ、ユーラシア大陸は、栽培品種化した植物や家畜化した動物が、他の社会に広まりやすい地形だったというのだ。しかし、この主張には大きな欠陥がある。豊かさが工業化をつうじて実現されるこの現代世界で、なぜ不機嫌なシマウマやカバが、サハラ砂漠以南のアフリカ諸国の経済成長を妨げる原因になるのだろうか。
・経済史からわかる最後の驚くべき事実ーーこれは、ここ30年ほどのあいだに明らかになったばかりだがーーは、物質的な豊かさや、子供の死亡率の低下、成人の平均余命の延長、不平等の改善などが実現したにもかかわらず、現代人は狩猟採集時代の祖先に比べて、少しも幸福になっていないことである。
・所得を貧困層(当時の英国では、おもに単純農場労働者)に再配分すれば、長期的には必ず貧者がされに増え、その賃金水準は前より低下することを、マルサス的経済モデルが示唆しているのはたしかだ。
・狩猟採集民と自給農耕民の時間配分に関する体系的調査の結果、狩猟採集社会での労働時間は驚くほど短いことがわかった。たとえば、ベネズエラの狩猟採集民であるヒウィ族は、1日に1705キロカロリーしか摂取せず、空腹を訴えることも多かった。とはいえ、男性が狩猟採集にかける時間は、一般に一日あたり二時間未満で、一時間の労働で得られる食物はかなり多かったという。(中略)こうした自給自足社会で暮らす男性は、豊かな現代ヨーロッパの住民よりも、年間で1000時間も長い余暇をすごしている。
・アダム・スミスは、産業化以前の世界で経済活動が停滞していたのは、社会制度によって経済活性化のインセンティブが十分に提供されなかった結果だと、繰り返し説明している。現代経済学はこうしたスミスの理念に貫かれており、IMFや世界銀行の実務的な協議会から、大学の経済学部の理論家にいたるまでが、この考えをよりどころにしている。(中略)しかし、過去の社会に関する数々の実証的研究は、スミスの仮説を裏づけるどころか、むしろ次のような事実を体系的に明らかにしている。昔の社会の多くは、経済成長に必要な前提条件をすべて満たしていたものの、技術が進歩しなかったために経済も成長しなかった。1800年以前のどの社会でも技術進歩率は低かったが、そのいっぽうで、一部の社会には、現在の世界銀行もうらやむほどの、経済成長にとって望ましい制度があったのである。
<下巻抜粋>
・産業革命期に従来の流れが劇的に変わったようにみえるのは、「英国での生産性上昇率が高まったこと」と、「1750〜1870年にかけて、英国の人口が予期しない形で、生産性とは関係なく急増したこと」の二つが、偶然に重なったからなのだ。(中略)人口の急増は、産業革命の特徴である。繊維、蒸気機関、鉄、農業の各部門における生産性の向上とは、まったく関係がないと考えられる。まず、いずれかの部門で生産性の大幅な上昇が始まる前から、人口の増加は始まっていた。
・この時代の特徴のうち、結婚年齢が低下し、結婚率が上がったことの要因として唯一考えられるのは、出産時の母親の死亡率が低下したことである。(中略)女性は、結婚にともなう死のリスクをよく承知していたはずである。17世紀にはこうしたリスクが高かったために、このリスクを減らす手段として結婚を遅らせたり、多くの女性が生涯結婚しない決断をしたりした可能性もある。
・「なぜ中国やインド、日本ではなく、英国で産業革命が起きたのか」という疑問に対しては、次のような答えが考えられる。安定した定住農耕社会の歴史が英国より長い中国や日本は、1600〜1800年にかけて、それぞれにヨーロッパ北西部に似た発展の道のりを歩んでいた。これらの社会は、変化のない静的な社会ではなかったが、この発展の歩みは英国より遅かった。この現象を説明する重要な要因としては、次の二つが考えられる。第一に、1300〜1750年には、英国よりも中国や日本のほうが、人口増加のペースが速かった。第二に、中国や日本の人口システムのもとでは、富裕層の生殖面での優位性は、英国ほど大きくなかった。したがって、英国の優位性は、1200〜1800年にかけて、文化的に、そしておそらくは遺伝的にも、経済的成功者の価値観が社会全体に急速に広まったことにあったと推測できる。
・産業革命を即した力は、知識の増大だった。しかし、驚くべきことに、産業革命によって他のどの人々よりも多くの利益を得たのは、単純労働者だった。マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』で暗い未来像を示したが、単純労働者の運命に関する彼らの見方はことごとく間違っていた。
・しかし、これまでの経済成長がそうした恵み深いものだったとしても、この先も経済成長によって社会の平等化が即される保証はない。近い将来に、数々の本でその恐怖が語られている暗黒の世界、すなわち、単純労働者の賃金が、社会的に決定される「最低生存費水準」を下回るところまで落ちこみ、社会の人口の大半を永続的に公費で支えなければならなくなる事態が、現実に訪れる可能性もある。
・産業革命以後に、資本に対する支払総額は飛躍的に増えたが、これはたんに資本ストックが急増したからである。資本ストックは、現在にいたるまで天井知らずの増大が続いている。その増加の速さは産出高増大のペースと同等であり、資本ストックが豊富であるために、資本一単位あたりの実質的収益率は低水準にとどまってきた。
・世界のもっとも豊かな国々ともっとも貧しい国々のあいだの、物質的生活水準の格差は、1800年には最大でも四対一程度だったと考えられるのに対し、現在では五十対一以上に広がっている。産業革命以降の物質的生活水準は、英国や米国などの経済発展をとげた国々でも、10倍ほどしか増大していない。したがって、タンザニアやエチオピアなどの現代の最貧国は、産業革命以前の平均的な社会より貧しいといえる。
・気候、人種、栄養状態、教育、文化などの側面をひととおり調査した研究者は、必ず「貧しい国々の政治的・社会的制度の破綻」というテーマに立ち戻る。しかし、後述するように、これを格差の原因と考えるのは、二つの意味で明らかに誤っている。まず、政治的・社会的制度の破綻は、現代の格差の構造、つまり貧しい国々が貧困から抜け出せないしくみの詳細を説明できるものではない。さらに、貧しい国々という患者を治療する手立てとしての、社会制度や政治の改革は、これまでに何度も失敗を繰り返している。 それにも関わらず(中略)現代経済の医師らは、世界銀行や国際通貨基金などのカルト組織をつうじて、毎年毎年同じ薬を処方続けている。薬がきかないときは、その量をもっと増やすことしか考えていない。
・労働者の質に違いが生じることの根本的原因に関しては、納得のいく理論は存在しない。現代人からみれば、各国の経済は、比較的活気のある時期と停滞する時期を、多かれ少なかれ、変則的に繰り返している。
・歴史が示唆しているのは、貧しい国々に提示すべき経済成長のモデルは、いまだに欧米諸国のあいだには見つからないことである。経済成長を保証する単純な経済的即効薬はなく、複雑な経済改革も、貧困に苦しむ社会が救われる明確な見通しをもたらすものではない。(中略)欧米諸国が実行できる支援策で、少なくとも第三世界の貧困層の一部に確実に利益をもたらす策とは、こうした国々からの移民を自由化することである。

オンリーワンは創意である/町田勝彦

シャープ前社長町田氏がシャープ躍進の裏側を語った本。非常に文章も分かりやすく読みやすいし、成功体験を例にあげながらで非常に気持ちいいです。ただ「液晶」への選択と集中で成功したから言えることだとは思います。つまり(今の)任天堂をすごいなと思うのと同じで、後付けで考えれば、あれがよかった、この選択もよかった、となるわけですが、実際のところ全部うまくやっていても、集中したものが悪ければ失敗します。例えば、ソニーでほぼ同時期に出井さんはデジタルへの集中を志したが、うまくいったとは言えないわけで。最近「ブラックスワン」などの影響もあって、こういった本を読むとこのように考えて何をどう捉えて考えたらいいか考えてしまいます。なかなか難しいですね。

<抜粋/コメント>

  1. 1998年に社長に就任してまもなくのマスコミ記者との懇談会の席上で、「国内で販売するテレビを2005年までにブラウン管から液晶に置き換える」と宣言して、液晶でシャープの顔づくりを決意した後、マスコミ広告活動の方針を、「液晶応用商品以外は宣伝しない。しかも、液晶応用商品の宣伝量は、業界ナンバーワンにする」と決めたが、宣伝費をカットされた事業部門はおもしろくなかったと思う。
    1998年のシャープの「ブランド力」は業界7位で「顔の見えない会社」だったので、ブランドを作るべき選択と集中を行ったという。「20世紀に、置いていくもの。21世紀に持ってゆくもの。」という吉永小百合の宣伝がそれ。
  2. それまでのシャープの製品はブランドが低いが故に、たとえ機能性能が優れていても、トップブランド品よりも、安く売られていた。一年間通してその売価差を積み上げてみると、衝撃的な結果が出た。 私は、この金額の大きさに愕然とした。
    このことから「液晶」を前面に押し出してブランドイメージをあげる広告に切り替えたところ、なんと宣伝していなかった「白モノ家電」までもが売れ始めた、という。規模感によってブランドの作り方も全然違うとは思いますが、僕も会社経営するものとしてブランド重要なんだなと改めて思いました。
  3. ライバル会社も、隣の部門も、同期で入社した同僚も、だれもが同じように努力を重ね、同じように頑張っている。その中で現状に満足しない気持ち、すなわち「もうちょっとの心」を持って事にあたれば成果が差となって現れてくる。会社は、社員一人ひとりの「もうちょっとの心」で進化してゆくものだ。この「もうちょっとの心」が、私の大切な「座右の銘」である。
    いったいどういう時に差がついてくるのか、という疑問への回答になると思いました。

ブラック・スワン[下]/ナシーム・ニコラス・タレブ

上巻からの続き

本書での矛盾は、超保守的というのは国債を買うようなことだと書いていますが、しかし実際には超保守的とは言えないということでしょうか。今のような不確実性の高い世界では超保守的などありえないわけで。であれば、自らを守る方法も多様化せざるを得ませんが、そういったことについてはほとんど言及がありません。

さらに言えば、リスクテイクについて、個人がやりたいことや、なりたい自分への衝動が無視されていること。起業するのは割に合わないのはもしかすると自明なことかもしれませんが、やりたいからやるのはそんなに馬鹿げていることでしょうか。同じように、医者になって世の中の人を病気から救いたい、政治家になってこの国を良くしたい、という衝動については、尊重されるべきだと思います。

もちろん本書では、人の「人生への態度」への警笛が主であって、それ自体非常に有益だと思います。だから、僕としては、この態度を学んだ上で、自らのやりたいことをするための糧にできればいいのではないかなと思いました。

前エントリにも書きましたが、上下巻に分かれている上に非常に濃密なので、読むのに時間もかかりますが、ものすごいよい本なので、非常におすすめです。

<下巻抜粋>
・(ヨーロッパ系金融機関にて)彼らは夏の間を通じて、「五カ年計画を作成する」べく会議を何度も開いていた。五カ年計画は、充実した内容を持つ一種のマニュアルになるはずだった。五カ年計画だと? 真ん中に居座って計画を立てるなんていう連中がまるっきり信じられない私からすると、そんなものは考えるだけでバカバカしかった。企業の内部で起こる成長は有機的で予測不可能なものだ。草の根レベルから立ちのぼるものであって、上からばら撒くものではない。
・別に探していたわけではないものを見つけて、それが世界を変えてしまう。そして発見の後になって、どうしてこんな当たり前なものにたどり着くのに、「こんなにも長いことかかったんだろう」と不思議に思うのだ。車輪が発明されたとき、そこに記者はいなかった。でも、たぶんみんなで車輪(これのおかげで、その後大きな経済成長が実現した)を発明する計画を立て、予定表に沿って仕事を進めて完成させたわけじゃないだろう。賭けてもいい。ほとんどの発明はそういうものだ。
・私たちはガリレオは科学の殉教者だと思っている。実際は、教会は彼に真面目に取り合わなかったのだ。むしろ、大騒ぎしていたのはガリレオのほうで、それが誰かの毛を逆なでしたようだ。ダーウィンとウォレスが、リンネ協会で自然選択による進化の論文を発表した年の終わり、当のリンネ協会の会長は、「衝撃を受けるような発見はなかった」と述べている。
私たちは自分たちが予測をする段になると、ものごとは予測できないということをすっかり忘れてしまう。だからこそ、みんなこの章とか、この章と同じような話を読んで、まったくそのとおりだと思っても、いざ自分が将来のことを考えるときになると、うなずいたはずの主張に従えなくなってしまう。
・知識に関する謙虚さについて考えよう。ものすごく内省的で、自分は思い上がっているのではないかと思って煩悶している人を思い浮かべよう。バカの勇気はないが、「ぼくにはわからない」と言える、めったに見ないガッツは持ち合わせている。阿呆とか、もっと悪くすると無知な人みたいに見えるのは気にしない。ためらい、明言はせず、間違っていたことで起こった結果のことを詫びる。内省し、内省し、内省して、肉体的にも精神的にもくたびれ果ててしまう。 だからといって、自信がないというのではない。ただ、自分自身の知識を疑ってかかっているだけだ。私はそういう人を「認識主義者」と呼んでいる。
・バーベル戦略とはこんなやり方だ。黒い白鳥のせいで、自分が予測の誤りに左右されるのがわかっており、かつ、ほとんどの「リスク測度」には欠陥があると認めるなら、とるべき戦略は、可能な限り超保守的かつ超積極的になることであり、ちょっと積極的だったり、ちょっと保守的だったりする戦略ではない。
<以下、その具体的な部分>
・よい方の白い白鳥にめいっぱい自分をさらし、同時に、悪い方の黒い白鳥には被害妄想みたいな態度を取るのだ。よい方の黒い白鳥にさらされている部分では、不確実性の構造をちゃんと分かっていなくていい。損がとても限られているなら、あらん限りの力を尽くして積極的に投機的に、なんなら「理不尽に」ならないといけないのだが、どうもそれがうまくわかってもらえない。 
・細かいことや局所的なことは見ない。(中略)予測ではなく、備えの方に資源を費やすのだ。
チャンスや、チャンスみたいに見えるものには片っ端から手を出す。(中略)人生で運のいいことがあっても、それに気づかない人があまりにも多い。大手の出版社から仕事が舞い込みそうなら、予定なんか全部放り出せ。もう二度と扉は開かないかもしれないのだ。チャンスはその辺の気に生えてくるものじゃないのが、みんなほとんどわかっていないので、私はときどきショックを受ける。
・政府が持ち出す、こと細かな計画には用心する。(中略)企業に競争をやらせると、悪い方の黒い白鳥に一番さらされている連中が一番生存に適しているみたいに見えることがある。
・予測をどうしても聞かないといけないはめになったら、先のことになればなるほど予測の正確さは急激に低下するのを頭に置いておこう。
<ここまで>
・地震が起こるオッズはわからないが、起こったらサンフランシスコがどんなことになるかは想像ができる。意思決定をするときは、確率(これはわからない)よりも影響(これはわかるかもしれない)のほうに焦点を当てるべきなのだ。不確実性の本質はそこにある。
知的生産に凡人はなんの役割も果たさない。でも、みんなそれがよくわかってないし、(不安になるので)否定したりする。知性の面で、ほんの一握りの人たちが大きな影響を及ぼすというのは、富の分布がとても偏っていることよりずっと不安な話だ。
(LTCMの)マートンとショールズの考えも、モダン・ポートフォリオ理論も崩れ落ちた。彼らの出した損失はそれほど大きかった。(中略)私の友だちも私もポートフォリオ理論の信者はタバコ会社と同じ運命をたどるんだろうと思った。(中略)でも、そんなことには全然ならなかった。 その代わり、ビジネススクールのMBAの連中は、相変わらずポートフォリオ理論を教えられていた。オプションの公式には、相変わらずブラック=ショールズ=マートンの名前がついていた。

ブラック・スワン[上]/ナシーム・ニコラス・タレブ

まぐれ」のタレブ新作。本書も超刺激的でものすごいおもしろいです。数週間前に読んだのですが、消化に時間がかかってしまいました。そして、抜粋があまりに長いので、上巻と下巻に分けてエントリします。ただし、感想は上巻と下巻のものに分かれているわけではありませんので、ご注意ください。

本書でも著者は、現在の常識と言われるものを実例をあげながらばっさばっさを切っていきます。歴史から学ぶことの問題、銀行は安全なビジネスだという幻想、医者の思い込みによる被害、マスコミやエコノミストの欺瞞、経営計画立案の無意味さなどなど。そして、なぜ世の中がそのようになっているのか、を人間の性質(情緒)と絡めて暴露していきます。

そして、だからどうすればよいのか、という点も。これを簡単にまとめると、大部分を超保守的なシナリオにかけながら、自分にとって都合のよい非常に稀にしか起きない出来事(ブラック・スワンすなわち黒い白鳥)に賭けるということになります。確かに著者も言うように、確率は非常に稀すぎて分からないけれども、影響は計り知れるものはあります(例えば、地震など)。

人は原因と結果が明確なものに惹かれやすい。だから、多くの人は情緒に引きずられ、自分の予測を過大評価し、大きなリスクには対応できないが、何かをすればダイレクトに結果の出る仕事に精を出してしまいます。

しかし、本当に世界を変えたいのならば、著者曰く「チャンスや、チャンスみたいに見えるものには片っ端から手を出す」ことが重要になってきます。

下巻へと続く

<上巻抜粋>
・歴史に接すると人間の頭には三つの症状が出る。私は不透明の三つ子と呼んでいる。具体的には次の通り。 a 分かったという幻想。世界は実感するよりずっと複雑(あるいはランダム)なのに、みんな何が起こっているか自分にはわかっていると思い込んでいる。 b 振り返ったときの歪み。私たちは、バックミラーを見るみたいにして、後づけでものごとを解釈する(歴史は、人が経験する現実よりも、歴史の本で学んだほうがわかりやすい)。 c 実際に起こったことに関する情報を過大評価する。権威と学識のある人は不自由になる。とくにものごとの分類を始めたりすると、つまり「プラトン化」すると、それに縛られてしまう。
・毎日毎日、彼らの予測からかけ離れたことが起こった。でも彼らには、起こったことを自分が予測できていなかったのがわからなかった。それまでに起こったことに照らせば頭がおかしくなるようなことが毎日起こっていた。それなのに、起こったことを後から振り返ると、それほどおかしくないことだったような気がする。そんな後講釈のせいで、起こったことがどれほど稀で、どれほど考えられないことなのかが見えにくくなる。その後も私は、事業の成功や金融市場を考える場で、まったく同じような幻想を目撃することになる。
・キリスト教が地中海沿岸を席巻し、その後西欧全体を覆う宗教になるなんて誰が予測しただろう? 当時のローマの年代記編集者たちは、この新しい宗教に気づいてもいなかった。キリスト教の歴史家たちは、当時の文献がキリスト教に言及していないので、困っている。
・(第二次世界大戦中の日記の)シャイラーの本に出会って、歴史の仕組みについて直感的にわかったことがある。第二次世界大戦の始まりのころを生きた人たちは、何か大変なことが起こっていると書きとめていたに違いない、今の人はそう思うかもしれない。でも、まったくそんなことはなかった。
・作家とパン屋さん、投機家とお医者さん、サギ師と売春婦の違いを考えると、いろいろな営みがわかりやすくなる。世の中の仕事は、仕事量を増やさなくても稼ぎを何桁も増やせる仕事と、仕事量と仕事時間(どちらも供給には限りがある)を増やさないと稼ぎが増えない仕事、つまり重力に縛られた仕事に分けられるのだ。
・七面鳥がいて、毎日エサをもらっている。エサをもらうたび、七面鳥は、人類の中でも親切な人たちがエサをくれるのだ、それが一般的に成り立つ日々の法則なのだと信じ込んでいく。(中略)感謝祭の前の水曜日の午後、「思いもしなかったこと」が七面鳥に降りかかる。七面鳥の信念は覆されるだろう。(中略)七面鳥は、昨日の出来事から、明日何が待っているか推し量れるだろうか? たぶんいろいろわかることはあるだろう。でも、七面鳥自身が思っているよりも、わかることはちょっと少ない。そして、その「ちょっと」で話はまったく変わってくるかもしれないのだ。
・1982年の夏、アメリカの大手銀行は、過去の利益の累計に近い額の損を出した。アメリカの銀行が歴史を通じて稼いできたものが、ほとんど全部吹き飛んだ。ほとんど全部だ。お金を貸していた中南米の国々がまとめて同時にデフォルトしたのだ。「きわめて異例の事態」というやつである。そういうわけで、銀行商売をやっていれば不意打ちを食らうもので、銀行はとても危ない商売で利益を稼いでいるのがはっきりするのにひと夏しかかからなかった。そうなるまで、みんな、とくに銀行の連中は、銀行は「慎重」だと思い込んでいた。
・1960年代の医者たちは、食物繊維が身体に必要だという直接の証拠が見つからなかったので、役に立たないと決めつけた。おかげで一世代がまるごと栄養失調になった。実は、繊維は血液中の糖分の吸収を遅くし、また、腸内で前ガン状態の細胞をこすり落とす働きをする。歴史を通じて、医学はこの手の単純な間違った推測でたくさんの被害を起こしてきた。 医者が信念を持っちゃいけないなんて言うつもりはない。ただ、決定的だ、間違いない、なんて思い込んでしまうのはいけないと言っているのだ。
・講釈の誤りは、連なった事実を見ると、何らかの説明を織り込まずにはいられない私たちの習性に呼び名をつけたものだ。一連の事実に論理的なつながり、あるいは関係を示す矢印を無理やり当てはめることと言ってもいい。説明をすれば事実同士を結びつけることができる。そうすれば事実がずっと簡単に覚えられるし、わかりやすくなる。私たちが道を踏み誤るのは、この性質のせいでわかった気になるときだ。
・2003年12月のある日、サダム・フセインが捕まったとき、ブルンバーグ・ニュースは13時01分にこんな見出しを流した。「米国債上昇、フセイン確保でもテロは減らない可能性も」 市場が動くと必ず「理由」をつけないといけないとマスコミの連中は思い込んでいる。(中略)13時31分、次の見出しが流れた。「米国債下落、フセインの確保でリスク資産の魅力高まる」 それじゃ、同じ一つの確保(原因)で、ある事象とその正反対の事象の両方が説明できるということだろうか? そんなことは不可能なのは明らかだ。(中略)マスコミはそういうことを四六時中やっている。彼らが原因を掲げ、ニュースにして流し、ものごとを手にとってさわれるようにする。選挙で候補者が負ければ、その人が有権者に嫌われた「原因」を供給する。ありそうな原因ならなんだっていい。マスコミには事実調査担当が山ほどいて、ありとあらゆる手を尽くして「徹底的に」裏をとる。なんだか、彼らは間違ったことを限りなく几帳面にやりたいみたいだ。
・私たちの情緒の仕組みは、因果関係が線形である場合向けに設計されている。たとえば、毎日勉強すれば、勉強量に比例して何かが身につくだろうと期待する。どこかに向かっている感覚がないと、情緒が働いてやる気をなくさせようとする。でも、今の現実では、線形で前へ進み続けて満足させてくれる進歩なんてありがたいものはめったにない。ある問題について一年間考え続けて、結局何にも分からないなんてこともある。それでも、何も得られなかったことにがっかりしてあきらめてしまわなければ、ある日突然何かがわかるのだ。
・肩で風を切る山師全員のうち、多くは地に落ちて、ほんの何人かがそのたびに立ち直る。自分は不滅だと信じ込みそうなのは、そうやって生き延びた連中だ。彼らは本が書けるぐらい面白い経験をしていることだろう。(中略)実際、自分はいい星の下に生まれたと言う山師は多い。山師自体がたくさんいて、運が尽きた連中の話は聞けないからだ。
・専門家が専門家で・・・・ないことが多い仕事とは、証券会社の営業マン、臨床心理学者、精神科医、大学の入試担当、裁判官、議員、人事担当者、諜報アナリスト(あれだけコストをかけておいて、CIAの成績は痛々しいほどだ)である。いろいろな文献を読んで私がつけ加えたい人たちは次の通りだ。経済学者金融予想屋、ファイナンスの教授、政治学者、「リスクの専門家」、国際決済銀行の職員、国際金融エンジニア協会(IAFE)の偉いさんたち、それに個人向け金融アドバイザー。 単純に言って、動くもの、したがって知識が必要なものには普通専門家がいない。
・データ提供会社は、JPモルガン・チェースだのモルガン・スタンレーだのといった名誉ある組織で働く(スーツを着た)「著名エコノミスト」の予測を覗き見させてくれる。エコノミストたちが喋ったり、流暢にもっともらしく理屈を説いたりするのを見ることができる。そういう彼らはだいたい七桁の年収を稼ぎ、数字を計算したり予測をつくったりする研究員を後ろに従えて、スターの扱いを受けている。そういうスターの連中はバカだから、自分の予測を平然と公表している。おかげで子々孫々の代まで記録が残り、彼らの能力を観察したり評価したりできるのだ。 さらに、金融機関の多くが毎年の年末に、愚かにも翌年を占った「200x年の見通し」なんてタイトルの小冊子をつくっている。もちろん、前の年に立てた予測を後から振り返って当たったかどうか調べてみたりはしない。調べもせずにそんな予測に乗る一般の人たちは連中に輪をかけてバカかもしれない。
「専門家」の一般的な欠陥を詳しく見ていこう。彼らは不公平な勝負をしている。自分がたまたま当たったときは、自分はよくわかっているからだ、自分には能力があるからだと言う。自分が間違っていたときは、異常なことが起こったからだと言って状況のせいにするか、もっと悪くすると、自分が間違っていたことさえわからずに、また講釈をたれてはしたり顔をする。自分がちゃんとわかっていなかったんだとは、なかなか認めない。でも、こういう持っていき方は、私たちのあらゆる営みに現れる。私たちの中の何かが、自尊心を守るように働いているのだ。

絶対貧困/石井光太

著者は途上国の貧困について体当たりで取材し、本やテレビで発表をしている作家。ぜんぜん知らなかった途上国でも最貧民な層の人たちが、どのような仕事があり、どのように恋愛をし、子どもを作ったり育てたりしていくのか、などを綿密な取材から描いています。さらに、売春婦や物乞い、路上生活者などについても触れており、非常に興味深いです。

日本人が途上国で物売りや物乞いを前にした時、よく発する言葉があります。「彼らに一々お金をあげても何の解決にもならないし、キリがない。だからあげるべきじゃない」(中略)私はもっと簡単に考えるべきだと思うのです。物売りを目にしたら「がんばってるなー」ぐらいに思って、安いものを買ってあげればいいと思うのです。お菓子にしたって、ティッシュにしたって十円とかそのぐらいです。ちょっとぼられたって大した値段になるわけでもありません。 もしあなたが買ってあげれば、きっとすぐに彼らと親しくなることができるでしょう。路上の住処につれていってくれるでしょうし、家族や友人を紹介してくれるはずです。もちろん、記念写真を一緒に撮ったっていいと思います。また、外国人を相手に商売をしているような子ならば一日二、三百円も払えば片言の外国語で丸一日ガイドをしてくれるはずです。それがどんなにあなたにとって有意義なことになることか。

確かに自分はたまたまいい地域に生まれただけで、生まれたところが違っていたら同じ境遇だったのだと強く思いました。本書では売春婦の子どもが稼ぎがいいゆえにいい教育を受けていく姿なども描かれています。

こういった矛盾だらけの世界のことを考えると、日本の不平等がまだかわいく見えるし、早くそういった人々を救えるようなポジションにいこうと思うのでした。