ブラック・スワン[上]/ナシーム・ニコラス・タレブ

まぐれ」のタレブ新作。本書も超刺激的でものすごいおもしろいです。数週間前に読んだのですが、消化に時間がかかってしまいました。そして、抜粋があまりに長いので、上巻と下巻に分けてエントリします。ただし、感想は上巻と下巻のものに分かれているわけではありませんので、ご注意ください。

本書でも著者は、現在の常識と言われるものを実例をあげながらばっさばっさを切っていきます。歴史から学ぶことの問題、銀行は安全なビジネスだという幻想、医者の思い込みによる被害、マスコミやエコノミストの欺瞞、経営計画立案の無意味さなどなど。そして、なぜ世の中がそのようになっているのか、を人間の性質(情緒)と絡めて暴露していきます。

そして、だからどうすればよいのか、という点も。これを簡単にまとめると、大部分を超保守的なシナリオにかけながら、自分にとって都合のよい非常に稀にしか起きない出来事(ブラック・スワンすなわち黒い白鳥)に賭けるということになります。確かに著者も言うように、確率は非常に稀すぎて分からないけれども、影響は計り知れるものはあります(例えば、地震など)。

人は原因と結果が明確なものに惹かれやすい。だから、多くの人は情緒に引きずられ、自分の予測を過大評価し、大きなリスクには対応できないが、何かをすればダイレクトに結果の出る仕事に精を出してしまいます。

しかし、本当に世界を変えたいのならば、著者曰く「チャンスや、チャンスみたいに見えるものには片っ端から手を出す」ことが重要になってきます。

下巻へと続く

<上巻抜粋>
・歴史に接すると人間の頭には三つの症状が出る。私は不透明の三つ子と呼んでいる。具体的には次の通り。 a 分かったという幻想。世界は実感するよりずっと複雑(あるいはランダム)なのに、みんな何が起こっているか自分にはわかっていると思い込んでいる。 b 振り返ったときの歪み。私たちは、バックミラーを見るみたいにして、後づけでものごとを解釈する(歴史は、人が経験する現実よりも、歴史の本で学んだほうがわかりやすい)。 c 実際に起こったことに関する情報を過大評価する。権威と学識のある人は不自由になる。とくにものごとの分類を始めたりすると、つまり「プラトン化」すると、それに縛られてしまう。
・毎日毎日、彼らの予測からかけ離れたことが起こった。でも彼らには、起こったことを自分が予測できていなかったのがわからなかった。それまでに起こったことに照らせば頭がおかしくなるようなことが毎日起こっていた。それなのに、起こったことを後から振り返ると、それほどおかしくないことだったような気がする。そんな後講釈のせいで、起こったことがどれほど稀で、どれほど考えられないことなのかが見えにくくなる。その後も私は、事業の成功や金融市場を考える場で、まったく同じような幻想を目撃することになる。
・キリスト教が地中海沿岸を席巻し、その後西欧全体を覆う宗教になるなんて誰が予測しただろう? 当時のローマの年代記編集者たちは、この新しい宗教に気づいてもいなかった。キリスト教の歴史家たちは、当時の文献がキリスト教に言及していないので、困っている。
・(第二次世界大戦中の日記の)シャイラーの本に出会って、歴史の仕組みについて直感的にわかったことがある。第二次世界大戦の始まりのころを生きた人たちは、何か大変なことが起こっていると書きとめていたに違いない、今の人はそう思うかもしれない。でも、まったくそんなことはなかった。
・作家とパン屋さん、投機家とお医者さん、サギ師と売春婦の違いを考えると、いろいろな営みがわかりやすくなる。世の中の仕事は、仕事量を増やさなくても稼ぎを何桁も増やせる仕事と、仕事量と仕事時間(どちらも供給には限りがある)を増やさないと稼ぎが増えない仕事、つまり重力に縛られた仕事に分けられるのだ。
・七面鳥がいて、毎日エサをもらっている。エサをもらうたび、七面鳥は、人類の中でも親切な人たちがエサをくれるのだ、それが一般的に成り立つ日々の法則なのだと信じ込んでいく。(中略)感謝祭の前の水曜日の午後、「思いもしなかったこと」が七面鳥に降りかかる。七面鳥の信念は覆されるだろう。(中略)七面鳥は、昨日の出来事から、明日何が待っているか推し量れるだろうか? たぶんいろいろわかることはあるだろう。でも、七面鳥自身が思っているよりも、わかることはちょっと少ない。そして、その「ちょっと」で話はまったく変わってくるかもしれないのだ。
・1982年の夏、アメリカの大手銀行は、過去の利益の累計に近い額の損を出した。アメリカの銀行が歴史を通じて稼いできたものが、ほとんど全部吹き飛んだ。ほとんど全部だ。お金を貸していた中南米の国々がまとめて同時にデフォルトしたのだ。「きわめて異例の事態」というやつである。そういうわけで、銀行商売をやっていれば不意打ちを食らうもので、銀行はとても危ない商売で利益を稼いでいるのがはっきりするのにひと夏しかかからなかった。そうなるまで、みんな、とくに銀行の連中は、銀行は「慎重」だと思い込んでいた。
・1960年代の医者たちは、食物繊維が身体に必要だという直接の証拠が見つからなかったので、役に立たないと決めつけた。おかげで一世代がまるごと栄養失調になった。実は、繊維は血液中の糖分の吸収を遅くし、また、腸内で前ガン状態の細胞をこすり落とす働きをする。歴史を通じて、医学はこの手の単純な間違った推測でたくさんの被害を起こしてきた。 医者が信念を持っちゃいけないなんて言うつもりはない。ただ、決定的だ、間違いない、なんて思い込んでしまうのはいけないと言っているのだ。
・講釈の誤りは、連なった事実を見ると、何らかの説明を織り込まずにはいられない私たちの習性に呼び名をつけたものだ。一連の事実に論理的なつながり、あるいは関係を示す矢印を無理やり当てはめることと言ってもいい。説明をすれば事実同士を結びつけることができる。そうすれば事実がずっと簡単に覚えられるし、わかりやすくなる。私たちが道を踏み誤るのは、この性質のせいでわかった気になるときだ。
・2003年12月のある日、サダム・フセインが捕まったとき、ブルンバーグ・ニュースは13時01分にこんな見出しを流した。「米国債上昇、フセイン確保でもテロは減らない可能性も」 市場が動くと必ず「理由」をつけないといけないとマスコミの連中は思い込んでいる。(中略)13時31分、次の見出しが流れた。「米国債下落、フセインの確保でリスク資産の魅力高まる」 それじゃ、同じ一つの確保(原因)で、ある事象とその正反対の事象の両方が説明できるということだろうか? そんなことは不可能なのは明らかだ。(中略)マスコミはそういうことを四六時中やっている。彼らが原因を掲げ、ニュースにして流し、ものごとを手にとってさわれるようにする。選挙で候補者が負ければ、その人が有権者に嫌われた「原因」を供給する。ありそうな原因ならなんだっていい。マスコミには事実調査担当が山ほどいて、ありとあらゆる手を尽くして「徹底的に」裏をとる。なんだか、彼らは間違ったことを限りなく几帳面にやりたいみたいだ。
・私たちの情緒の仕組みは、因果関係が線形である場合向けに設計されている。たとえば、毎日勉強すれば、勉強量に比例して何かが身につくだろうと期待する。どこかに向かっている感覚がないと、情緒が働いてやる気をなくさせようとする。でも、今の現実では、線形で前へ進み続けて満足させてくれる進歩なんてありがたいものはめったにない。ある問題について一年間考え続けて、結局何にも分からないなんてこともある。それでも、何も得られなかったことにがっかりしてあきらめてしまわなければ、ある日突然何かがわかるのだ。
・肩で風を切る山師全員のうち、多くは地に落ちて、ほんの何人かがそのたびに立ち直る。自分は不滅だと信じ込みそうなのは、そうやって生き延びた連中だ。彼らは本が書けるぐらい面白い経験をしていることだろう。(中略)実際、自分はいい星の下に生まれたと言う山師は多い。山師自体がたくさんいて、運が尽きた連中の話は聞けないからだ。
・専門家が専門家で・・・・ないことが多い仕事とは、証券会社の営業マン、臨床心理学者、精神科医、大学の入試担当、裁判官、議員、人事担当者、諜報アナリスト(あれだけコストをかけておいて、CIAの成績は痛々しいほどだ)である。いろいろな文献を読んで私がつけ加えたい人たちは次の通りだ。経済学者金融予想屋、ファイナンスの教授、政治学者、「リスクの専門家」、国際決済銀行の職員、国際金融エンジニア協会(IAFE)の偉いさんたち、それに個人向け金融アドバイザー。 単純に言って、動くもの、したがって知識が必要なものには普通専門家がいない。
・データ提供会社は、JPモルガン・チェースだのモルガン・スタンレーだのといった名誉ある組織で働く(スーツを着た)「著名エコノミスト」の予測を覗き見させてくれる。エコノミストたちが喋ったり、流暢にもっともらしく理屈を説いたりするのを見ることができる。そういう彼らはだいたい七桁の年収を稼ぎ、数字を計算したり予測をつくったりする研究員を後ろに従えて、スターの扱いを受けている。そういうスターの連中はバカだから、自分の予測を平然と公表している。おかげで子々孫々の代まで記録が残り、彼らの能力を観察したり評価したりできるのだ。 さらに、金融機関の多くが毎年の年末に、愚かにも翌年を占った「200x年の見通し」なんてタイトルの小冊子をつくっている。もちろん、前の年に立てた予測を後から振り返って当たったかどうか調べてみたりはしない。調べもせずにそんな予測に乗る一般の人たちは連中に輪をかけてバカかもしれない。
「専門家」の一般的な欠陥を詳しく見ていこう。彼らは不公平な勝負をしている。自分がたまたま当たったときは、自分はよくわかっているからだ、自分には能力があるからだと言う。自分が間違っていたときは、異常なことが起こったからだと言って状況のせいにするか、もっと悪くすると、自分が間違っていたことさえわからずに、また講釈をたれてはしたり顔をする。自分がちゃんとわかっていなかったんだとは、なかなか認めない。でも、こういう持っていき方は、私たちのあらゆる営みに現れる。私たちの中の何かが、自尊心を守るように働いているのだ。