あけましておめでとうございます+2012年の本ベスト10

少し遅くなりましたが、あけましておめでとうございます!

昨年は世界一周というそれまでとはまったく違うことにチャレンジして、無事に終えることができました。本当に幸運でした。

想像を超えた自然や風景、さまざまなひとや文化に触れて、喜怒哀楽があり、いろいろな経験ができました。そういう意味で昨年はインプットの年だったと思います。今年はそれをアウトプットしていく年にしたいと思っています。

また今年、インターネット・サービスを作って再度起業しようと思ってます。興味がある方がいたらご連絡ください。特にエンジニアの方はぜひ。

毎年振り返っている本については、旅行中ながらもデジタル化して持ち歩くことでかなりたくさんの本を読むことができました。一部の素晴らしかった本はブログにアップしましたが、その中からトップ10をあげたいと思います。

10位 ウィルゲート 逆境から生まれたチーム/小島 梨揮
ウィルゲートが苦境に陥りV字回復するまでの物語。起業家の陥りやすい罠について。

9位 起業GAME/ジェフリー・バスギャング
起業家と投資家の両方の豊富な経験をもつ著者からの貴重なアドバイス。

8位 (日本人)/橘 玲
日本人のルーツを探り、意外な日本人像を発見する。

7位 幸せな未来は「ゲーム」が創る/ジェイン・マクゴニガル
優れたゲームから学び、世界を良くするためにいかにゲームを使うべきかを考察する。

6位 ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉/リンダ・グラットン
これからの仕事の選び方。好きなことだけでなく、その代償について考えるべきという新しい視点。

5位 他人のカネで生きているアメリカ人に告ぐ ―リバータリアン政治宣言―/ロン・ポール
アメリカ下院議員ロン・ポールからリバタリアン思想について学ぶ。

4位 媚びない人生/ジョン・キム
慶応大学准教授キム氏からの若者へのメッセージ。若者ならずともぐっと来ます。

3位 木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか/増田俊也
史上最強の格闘家と言われる木村政彦を追った超弩級のドキュメンタリー。戦前から戦後の雰囲気も知れて非常におもしろいです。

2位 偶然の科学/ダンカン・ワッツ
元物理学者が物理学的厳密さで世の中のさまざまな事象を解き明かそうとする意欲作。ものすごい濃密。

1位 MAKERS―21世紀の産業革命が始まる/クリス・アンダーソン
3Dプリンタを中心としたいわゆる「メイカーズ」だけではなく、これからのビジネスの一つのトレンドになるであろうコミュニティ形成について深い洞察が得られる名著。

P.S.2006年2007年2008年2009年2010年2011年はこちらからどうぞ。

元物理学者が社会学の限界に挑む「偶然の科学」

著者ダンカン・ワッツは物理学者から社会学者に転身したという変わり種のコロンビア大学教授。物理学が一つの体系を築いているのに対して社会学はそうなっていないという話から始まり、様々な事例で、それはなぜで著者はどのように考え、解決しようとしているのかを書いています。

文章そのものは難しくないのですが、元物理学者ならではの厳密な論理により組み立てられていて哲学書を読んでいるようです。通常この手の本は、新たにこんなことが分かった、証明された、という論調なのに加えて、何が分かっていないかまで踏み込んであり、論理に奥行きがあるのが素晴らしいです。

個人的にものすごい多くの気づきがあって、まだぜんぜん消化しきれてないのですが、ひとつだけ。

ロールズは、自分が社会経済上のどの階層に属するかを前もって知らないとき、どのような社会で生きていくのを選ぶかと問うた。非常に裕福な人々にはいれる見こみはきわめて少ないので、合理的な人間ならわずかな人々が非常に裕福で多くの人々が非常に貧しい社会よりも、平等主義の社会、つまり最も貧しい者でもなるべく豊かになれる社会を選ぶはずだとロールズは推論した。

ノージックはロールズの主張を大いに問題視したが、その大きな理由は、ロールズが個人の成果の少なくとも一部をその人物の努力ではなく社会に帰していることだった。もし個人が自分の才能や努力の産物を所持しつづけられないのであれば、自由意志に反して他人のために働かされるのと同じであり、自分自身を完全には「所有」できないとノージックは論を進めた。だから課税も、そのほかの富の再配分の試みも、道徳にかなった奴隷制に等しく、それゆえいかなる恩恵を他人に与えようとも認められない。

確かにロールズが言うように生まれ、才能、機会にせよ不平等が本質的に偶然によるのならば、社会はリバタリアン的なものではなく平等主義的であるべきなのかもしれません。

が、ここには人類の進歩を推し進めるために努力し、結果を出した人間への評価が考えられていません。もし成功しても名声はともかくとして、平等社会の名のもとに、富も平準化されてしまうのだとしたら、人類の進歩へ貢献したひとへのリスペクトが足りていないと思います。

しかも、国家という仕組みがある以上、能力のあるひとがより税金が安く能力を発揮しやすい国への移住するのは防げません。だから結局完全なる平等社会は実現できず、より世の中はリバタリアリズムな社会になっていくはずです。

もちろん最低限の生活の保障は得られるべきだと思うけれども、それ以上の税金での搾取はやはりリバタリアンからすると受け入れ難い。ましてや国家予算における不正を防ぐ手立てがない現状では。

われわれの個人としての行動が、社会的関係のネットワークに逃れようもなく埋めこまれているとするサンデルの主張は、公正と正義に関する議論だけでなく、道徳と美徳に関する議論にも影響を及ぼす。実際、サンデルは対立する主張を道徳面から評価せずに何が公正かを決めることはできないと論じている。そしてそのためには、社会制度の道徳的な目的を明らかにしなければならない。

ただ、よく分かったのは、サンデルが一世を風靡して、なぜ受け入れられたのかというと、能力や努力だけではどうにもならないことがある、という事実を世の中の多くのひとが感じているからだということです。

しかし、サンデルの哲学では結局のところどこまでを保障するかは道徳による社会的な合意によることになりますが、道徳というのは確かなようで、実はすごく移ろい易い。だから、結局のところシステムの抜け穴を見つけて甘い汁を吸う不正な輩が出てくることになります。

現状では世界は全体で見れば貧しいし、止む負えない部分もあります。ただ世の中が豊かになりグローバルになればなるほど、国家が税金に頼る部分も少なくなり、リバタリアン国家が台頭してくるのではないか、というのが僕の今の考えです。

本書ではその他、成功の不確実性の証明やそれに対する対抗手段など素晴らしい考察もあり、非常におもしろいです。内容は先も書いたようにかなり重厚なのですが、今後の世界を生き抜く上で非常に示唆に富んでいるのですべての方におすすめしたいと思います。

参考)「それをお金で買いますか――市場主義の限界」マイケル・サンデル

<抜粋>
・こうした物語は冷静な説明の形をとっているため、われわれはそれに予測の力があるかのように扱う。このようにして、われわれは自分自身を欺き、不可能なはずの予測ができるかのように信じこむ。 したがって、常識に基づく推論はただひとつの決定的な限界ではなく、複数の限界が組み合わさったものに悩まされている。そしてそれらはすべて補完関係にあり、さらにはお互いを覆い隠している。その結果、常識に基づく推論は世界に意味づけをするのは得意だが、世界を理解するのは必ずしも得意ではない。
・(続き)しかし、われわれは常識がまさに神話のような働きをするとは思っていない。常識に基づく解釈は、人々が置かれた状況に対して都合のいい説明を与えることで、日々の営みをつづけていくための自信を与え、自分が知っていると思っていることは果たしてほんとうに真実なのか、それともただの思いこみなのかと逐一悩むことから解放してくれる。 だがその代償として、われわれは物事を理解していると自分では思いながらも、実際はもっともらしい物語でごまかしているだけだ。そしてこの錯覚のせいでわれわれは、医学や工学や科学の問題を扱うように社会の問題も扱おうとは考えず、結果として、常識が実は世界の理解を妨げてしまっている。
・人々がなんらかの形で金銭的な報酬に反応することにはほぼ異論の余地がないものの、望ましい結果を引き出すために実際にそれをどう用いるべきなのかはわかっていない。数十年にわたる研究のすえ、金銭的インセンティブは仕事ぶりにはほとんど関係ないと結論した経営学者もいる。 しかしながら、この教訓を何度指摘しようとも、経営者や経済学者や政治家はインセンティブを利用すれば人間の行動を左右できるかのような顔をしつづけている。
・われわれは芸術作品をその特質に基いて評価しているように思えるが、実は反対のことをしている。つまり、まずどの絵が最高かを決めたうえで、その特質から評価基準を導き出している。こうすれば、すでに知っている結果を一見すると合理的かつ客観的な形で正当化するのに、この評価基準を引き合いに出せる。しかし、これがもたらすのは循環論法である。われわれは<モナ・リザ>が世界で最も有名であるのはXとかYとかZとかの特質を備えているからだと言い張る。だがほんとうのところは、<モナ・リザ>が有名なのはそれがほかの何よりも<モナ・リザ>的だからだと言っているにすぎない。
・常識は、「ハリー・ポッター」シリーズは3億5000万人以上が買ったくらいなのだから、特別にちがいないと教えている。たとえ、出版を見送った半ダースばかりの児童書の出版社が、当時はそう思わなかったにせよ。そしてどんなモデルも、あらゆる形で単純化した仮定をせざるをえないので、常識を疑うかモデルを疑うかの選択を迫られたとき、われわれはいつも後者を選ぶ傾向がある。
どの曲が最も人気を集めたか、つまりヒット曲になったのかは世界によって違っていた。言い換えれば、社会的影響を人間の意思決定に持ちこむと、不均衡性だけでなく予測不可能性も増していた。この予測不可能性は、サイコロの表面を仔細に眺めてもどの目が出るかを予測する役には立たないのと同じで、曲の情報をもっと増やしても解消されなかった。予測不可能性は市場そのもののダイナミクスにもとから備わっていたのだ。
・「ハリー・ポッター」シリーズや<モナ・リザ>が独自の特徴を備えているのとまったく同じで、フェイスブックも独自の特徴を備えており、それらはみな独自の結果をともなっている。とはいえ、こうした特徴が何か有意な形でその結果の原因になったとは言えない。
・シミュレーションで大きな連鎖が起こったときはいつも、だれかそれを起こす人物がいなければならなかったのは当然の事実だ。そういう人物はなんら特別でないと思っていても、やはり少数者の法則にまさしくあてはまるように思える。「仕事の大半をこなすわずかな割合の人々」という考え方である。しかしながら、われわれがシミュレーションから知ったのは、こうした個人に特別なことなどほんとうはまったくないということだった。われわれがそのように設定したからである。
われわれの結論を言うと、エネルギーや人脈によって本をベストセラーにしたり製品をヒットさせたりできるほどの影響力の強い人物は、十中八九タイミングと状況の偶然によって生まれる。いわば「偶然の重要人物」なのである。
・その世界のキム・カーダシアンにあたる人物たちはたしかに平均より影響力があったが、非常に高くつき、買い得ではなかった。情報を広めるうえで最も費用対効果が高かったのは、影響力が平均かそれより小さい、われわれが一般のインフルエンサーと呼んだ個人の場合が多かったのである。
・イラク戦争がヴェトナム戦争やアフガニスタン紛争とそのまま比較できるとはだれも思わないし、だから一方の教訓を他方にあてはめようとするのは用心しなければならない。同様に、<モナ・リザ>の成功を研究すれば現代の芸術家が成功するかしないかも判断できるとはだれも思わない。にもかかわらず、われわれは歴史から教訓を学べるとたしかに思っているし、実際よりも多くを学んだかのように思いこみがちだ。
われわれは結果の原因をひとりの特別な人間に求める誘惑に駆られるが、この誘惑はわれわれがそのような世界の仕組みを好むからであって、実際にそのような仕組みになっているわけではないことに留意しなければならない。
・歴史の説明は、起こったことを公平かつ客観的に述べている「だけ」だとよく言われるからだ。しかし、バーリンとダントがともに論じるとおり、起こったことをありのままに述べるのは不可能である。これはおそらくもっと大切なのだが、起こったことをありのままに述べても、歴史の説明が目的とするのは過去の出来事を再現するというより、なぜそれが重要なのかを明らかにすることなのだから、その目的にかなわない。そして何が重要で、なぜ重要なのかを知るには、結果として何が起こったかをたしかめるしかない。
・物語と理論の混同は、常識によって世界を理解しようとするときの問題の核心を突いている。すでに起こったことを理解しようとしているだけであるかのようにわれわれは言う。だがその舌の根も乾かぬうちに、自分が学んだと思っている「教訓」を未来に実行するつもりの計画や政策に応用する。物語を作ることから理論を組み立てることへの切り替えは、非常にたやすく直観的にできるので、われわれはほとんどの場合、切り替えていることを自覚さえしない。だがこの切り替えは、ふたつが根本からちがうもので、目的も異なれば証拠の基準も異なることを見落としている。だから、物語としての出来に基いて選ばれた説明が、未来の傾向や趨勢を予測する役には立たなくても、驚くにはあたらない。
・過去に目を向けるとき、われわれは起こったことしか見ない、つまり起こったかもしれないことが起こらなかったことには目が行き届かない。そのため常識に基づく説明は、実際は単に出来事が連続しているだけなのに、因果関係があるかのように誤解する。これと同じで、未来を考えるときも、われわれは未来が出来事の連なる一本の糸をなしていて、またそれが明らかになっていないだけであるかのようについ想像しがちである。現実には、そのような糸など存在しない。むしろ未来は可能性のある糸の束のようなもので、それについてたぐり寄せられる確率があり、われわれはいろいろな糸の確率を見積もることくらいしかできない。しかし、未来のどこかの時点でこうした確率のすべてが一本の糸に収斂するのを知っているので、重要になってくる一本の糸におのずと注目したがる。
・(注:常識からすれば立てられそうな予測が立てられない理由)第一に、常識はたったひとつの未来だけが起こると教えるので、それについての明確な予測を立てたくなっても無理はない。しかしながら、われわれの社会生活と経済生活の大部分を構成する複雑なシステムでは、ある種の出来事が起こる確率をなるべく正しく見積もることくらいしか望めない。 第二に、われわれはいつでも予測を立てられるが、常識は興味を引かない予測や重要でない予測の多くを無視し、重要な結果に注目するよう求める。だが現実には、どの事件が未来に重要になるかを予測するのは原理的にも不可能である。
複雑なシステムについての予測は、収穫逓減の法則に大きく左右される。最初の情報は大いに役立つが、いかなる改善の見込みもすぐさま使い果たされてしまう。 もちろん、予測の精確さをわずかに改善することがおざなりにできない状況もある。たとえば、オンライン広告や商いが盛んな証券取引では、日々何万何億という予測が立てられており、巨額の金がかかっている。こうした状況では、きわめてとらえがたいパターンを利用する精緻な方法に労力と時間をつぎこむ価値はある。しかし、映画製作や本の出版や新しいテクノロジーの開発といったほかの分野のほとんどでは、年に数十か多くても数百の予測しか立てられず、その予測もたいていは意思決定の過程全体の一部分にすぎないので、わりあい単純な方法を使うだけで、限界近くまで正確な予測ができるだろう。
・(注:MDプレイヤーvs iPodについて)唯一の重要なちがいは、ソニーの選択がたまたま誤っていたことであり、アップルの選択がたまたま正しかったことだった。 これが戦略のパラドックスである。戦略上の失敗のおもな原因は劣悪な戦略にあるのではなく、優秀な戦略がたまたま誤ることにあるとレイナーは論じる。(中略)優秀な戦略は完全な成功をもたらしうるが、完全な失敗ももたらしうる。 このように、優秀な戦略が成功するか失敗するかは、すべて最初の展望がたまたま正しいかどうかにかかっている。そしてそれを前もって知るのは困難というより、不可能である。
・レイナーによれば、ほとんどの企業がかかえる問題は、取締役会や経営トップなどの経営陣が、既存の戦略の管理と最適化ーーレイナーが運営管理と呼ぶものーーに時間を使いすぎ、戦略的不確実性をじゅうぶんに考えていないことだという。経営陣はむしろ経営的不確実性の管理にすべての時間をつぎこみ、運営計画は部署の長に任せるべきだとレイナーは論じ、こう述べている。 「組織の取締役会とCEOは短期業績ばかりを気にするのではなく、事業部署のために戦略上の選択肢を作り出すことに専念すべきである」
・結局のところ、計画法としての戦略的柔軟性がかかえるおもな問題は、それが解決しようとしている問題となんら変わらない。すなわち、ある産業を形作った動向は、あとから考えると決まって自明に見えるということである。
・(注:ハフィントン・ポストの話で)これを解決するのがマレット戦略である。記事を読む人がごく少ない後ろのページでは、1000もの(あるいは100万もの)花が咲き乱れるままにする。そのうえで、題材を慎重に選んで後ろのページから高価な広告スペースのある前のページヘと昇格させ、そこからは厳格な編集管理のもとに置くというわけだ。
・真の問題は、広告主が知りたがるのは、広告が売上の伸びの原因になっているのかどうかという点にある。だが、広告主が測定するのはほぼ決まって、両社の相関関係でしかない。 もちろん、理屈のうえでは、相関関係と因果関係がちがうことはだれしも「知っている」が、実際には両者は混同されやすく、現にしょっちゅう混同されている。
・最も重要なのは、ブライト・スポットとブートストラップどちらにおいても、計画者側が考え方を改めなければならないことである。第一に計画者は、どんな問題(中略)であれ、現場の人間が恐らくその解決策の一部を有していて、それを共有する気があることを認識しなければならない。そして第二に、あらゆる問題の解決策を自力で探す必要はないことを認識したら、分野にとらわれずに既存の解決策を探すことに資源を割りあて、その解決策をもっと広く実行することができる。
・すべてに共通しているのは(中略)計画者が直感と経験のみに基づいて計画を練りあげられるといううぬぼれを捨てなければならないことだ。言い換えれば、計画が失敗するのは計画者が常識を無視したときではなく、みずからの常識に頼って自分と異なる人々の行動を推論したときである。(中略。注:これはどうすることもできないが)常識にあまり頼らず、測定可能なものにもっと頼らなければならないと覚えておくことならできる。
一度きりしか計画を試せない場合、ハロー効果を避ける最善の方法は、行動の評価と改善をその行動の最中に全力でおこなうことである。これまでに論じたシナリオ分析や戦略的柔軟性などの計画技法は、組織がずさんな想定をあぶり出し、明白な誤りを避ける助けになるし、予測市場や意見調査は集団の知恵を利用して、結果がわかる前に計画の質を評価できる。また前章で論じたように、クラウドソーシングや現場実験やブートストラップは、何が役に立って、何が役に立たないかを組織が学び、ただちに修正する助けになる。
・これらの方法はどれも、計画の立て方や実行の仕方を改善することで、成功の可能性を高めるのが目的になっている。だが成功を保証することはできないし、保証するはずもない。したがってどういう場合でも、すぐれた計画が失敗して劣った計画が成功するときもあるのだと、つまりそれはただの偶然によって決まるのだということを心に留めておく必要があるし、だから既知の結果だけでなくそれ自体のすぐれた点からも計画を評価する必要がある。
保険会社のAIGでボーナスを受け取ったある人物もこう述べている。 「自分はそれだけのお金を稼いだし、AIGで起こった残念なこととはいっさい関係がありませんでした」(中略)われわれの知る限り、どちらの銀行員もまったく同じゲームをしている可能性がある。 つぎの思考実験を少し考えていただきたい。毎年あなたはコイン投げをする。表が出れば「よい」年になり、裏が出れば「悪い」年になる。(中略)AIGの社員は自分がコイン投げをしているとは思っていないだろうし、このたとえもまるで理解できないだろう。自分の成功は運ではなく実力と経験と努力のおかげであり、自分の避けてきた誤りを同僚が犯したと考えている。
・人生の多くの部分は、社会学者のロバート・マートンのいう「マタイ効果」に支配されている。この名は、マタイによる福音書の「持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでもとりあげられる」という一節にちなんでいる。マタイは明らかに富のことを言っていたのだが(中略)マートンは同じルールがもっと広い意味での成功にもあてはまると論じた。個人がキャリアの早いうちに成功をおさめると、一定の構造的優位を得られるので、本来の能力にかかわりなく、その後も成功する見こみがずっと大きくなるということだ。
・社会学者でハーヴァード・ビジネス・スクールの教授であるラケシュ・クラーナも、著者の『カリスマ幻想』で、一般に企業の実績はCEOの行動よりも、個々のリーダーにはどうすることもできない業界全般や経済全体の好不調のような外部の要因によって決まってくると論じている。4章で論じたハブやインフルエンサーとちょうど同じように、成功についての従来の説明が精神的指導者の力を持ち出すのは、そういう断定を支持する証拠があるからではなく、この種の人物がいなければ、複雑で大規模な組織体がどのように機能しているのかを直感的に理解できないからだとクラーナは結論している。
・ロールズは、自分が社会経済上のどの階層に属するかを前もって知らないとき、どのような社会で生きていくのを選ぶかと問うた。非常に裕福な人々にはいれる見こみはきわめて少ないので、合理的な人間ならわずかな人々が非常に裕福で多くの人々が非常に貧しい社会よりも、平等主義の社会、つまり最も貧しい者でもなるべく豊かになれる社会を選ぶはずだとロールズは推論した。
・ノージックはロールズの主張を大いに問題視したが、その大きな理由は、ロールズが個人の成果の少なくとも一部をその人物の努力ではなく社会に帰していることだった。もし個人が自分の才能や努力の産物を所持しつづけられないのであれば、自由意志に反して他人のために働かされるのと同じであり、自分自身を完全には「所有」できないとノージックは論を進めた。だから課税も、そのほかの富の再配分の試みも、道徳にかなった奴隷制に等しく、それゆえいかなる恩恵を他人に与えようとも認められない。
・自然状態では、ノージックは正しいのかもしれない。だがロールズの主張の肝心な点は、われわれはそのような世界に生きていないということだ。(中略)生まれにせよ、才能にせよ、機会にせよ、不平等が起こる仕組みは本質が偶然の産物であるのだから、公平な社会とはこうした偶然の不利な効果が最小化される社会だとロールズは主張した。
・肝心なのは、銀行がリバタリアンならば成功の重みも失敗の重みもすべて引き受けるべきであり、さもなければロールズ主義者として自分の面倒を見てくれるシステムに税を払うべきだという点である。みずからの都合しだいで哲学を切り替えるべきではない。
・われわれの個人としての行動が、社会的関係のネットワークに逃れようもなく埋めこまれているとするサンデルの主張は、公正と正義に関する議論だけでなく、道徳と美徳に関する議論にも影響を及ぼす。実際、サンデルは対立する主張を道徳面から評価せずに何が公正かを決めることはできないと論じている。そしてそのためには、社会制度の道徳的な目的を明らかにしなければならない。
公正の判断基準となる価値観は所与のものではなく社会の産物にほかならないというサンデルの主張は、1960年代に社会学者がはじめて唱えた、われわれが生きる社会の「現実」は当の社会によって「構築」されたものであり、なんらかの外部の世界からもたらされたのではないとする思想を映し出している。したがって、サンデルの主張は、政治哲学の根本にある問いは社会学の問いでもあるという重要な示唆を与えている。
・「おそらく」とマートンは嘆いている。「社会学は自分たちのアインシュタインを迎える準備がまだできていないのだろう。いまだに自分たちのケプラーを見いだしていないのだからーーニュートン、ラプラス、ギブズ、マックスウェル、ブランクは言うまでもなく」 したがって、社会学者は人間の行動の大理論や普遍法則を探求するのではなく、「中範囲の理論」を発展することに集中すべきだとマートンは説いた。

800年間の金融の歴史から学ぶ「国家は破綻する」

一般的には国家がデフォルトを起こすことなど非常に稀にように思えますが、実際はかなり多く起こっているということが豊富なデータから指し示されています。

さらに、国外債務より国内債務の方がはるかにデフォルトされやすいとか、国家がデフォルトするかどうかは、その国家の「意思」によって決まるとして、債権者の権利が非常に乏しいことが描かれています(例えば、ロシアが破綻したとき国家の財産であるルーブル美術館の美術品を放出せよとは誰も言わなかったし、実際不可能であった)。

日本も破綻するかしないか議論されていますが、本書を読む限りだと破綻する可能性はあると言わざるを得ません。起きないに越したことはないですが、その際に何が起こるのかを知っておくことは生き方の知恵だなと思います。

<抜粋>
・本書では、「めったに起きない」としてとかく忘れがちな現象にスポットライトを当てるべく、注意を払った。実際にはそうした現象は一般に考えられているよりはるかにひんぱんに起きているし、お互いに似通ってもいる。ところがアナリスト、政策担当者、さらには経済学者までもが、新たに起きた聞きをごく狭い視界で捉えるという好ましからぬ傾向を示す。すなわち、限られた国、限られた時期の狭い範囲から抽出した標準的なデータセットに基づいて、判断を下そうとする。債務やデフォルトを扱った学術文献や政策研究の大半が、1980年以降に収集されたデータに基づいて結論を出しているのは、こうしたデータなら入手が容易だという理由によるところが大きい。
「今回はちがう」シンドロームの本質は、ごく単純である。この症状は、金融危機はいつかどこかで誰かに起きるもので、いまここで自分の身に降りかかるものではない、という強固な思い込みに根ざしている。われわれは前よりうまくやれる、われわれは賢くなった、われわれは過去の誤りから学んだ。それに、昔のルールはもう当てはまらない、という具合である。
・貸し手は主権国家の返済能力だけでなく返済の意思にも依存しているのであり、この事実がすでに、主権国家の破産が企業の破産とはまったくちがうことを示している。企業や個人が破産した場合、債権者には明確に規定された権利があり、債務者の資産の多くを取り上げ、将来の所得に相応の先取特権を設置することが認められている。だが国家の破産の場合には、たとえ書類上はそうできることになっていても、実際に債権者がそれを執行する力は相当に制限される。
なぜ政府は、インフレで問題が解決できるときに、わざわざ国内債務の返済を拒否するのだろうか。言うまでもなく一つの答えは、インフレがとくに銀行システムと金融部門に歪みを生じさせるから、というものである。インフレという選択肢があっても、支払い拒絶の方がましであり、少なくともコストは小さいと政府が判断することもある。
・2007年に五大投資銀行の幹部が手にしたボーナスは、総額360億ドルを上回った。金融業界の大物たちは、この業界の高い収益率を金融イノベーションと正真正銘の高付加価値商品の賜物だとみなし、自分たちの会社がとっている潜在的リスクをひどく過小評価する傾向があった。
・こうした中、国際通貨基金(IMF)は2007年4月に「世界経済見通し」(年2回発表)の中で、グローバル経済を脅かすリスクはきわめて小さくなり、当面は何も懸念すべき材料はないとノベル。世界の金融のお目付役である国際機関が何も心配はいらないと請け合ったのだから、「今回はちがう」ことのこれほど確かな表明はなかった。

「MAKERS」で21世紀型のコミュニティを知る

『フリー』『ロングテール』のクリス・アンダーソンが、3Dプリンタを中心として誰でも製造業=メイカーになれる「メイカーズ」時代の到来について紹介する衝撃的な著作。

僕は前々からこの分野にすごく興味があって、2007年からCerevoでインターネット×ハードウェアのようなこともやろうとしてきたりもしました。

しかし、本書で一番衝撃を受けたのは、そのコミュニティでした。結局のところ3Dプリンタが身近になったから、メイカーズ・ムーブメントが来ているわけではなくて、出力するデジタルデータやソフトウェアを共有するようなコミュニティがあるからこそ、ムーブメントになってきているのだと思いました。

最近では、Etsyのようなウェブサービスでも、コミュニティをうまく形成し、エコシステムを作っているサービスが増えてきています。個人的には、こちらの流れに非常に注目しています。

<抜粋>
・メイカーボットはもっともシンプルな3Dプリンタのひとつだ。モーターは四個だけ。X軸、Y軸、Z軸を動かすモーターに加えて四個目のモーターはABS樹脂を熱で溶かし、作業用トレーまで運ぶためのものだ。メイカーボットの外枠は、レーザーカッターで切った合板を合わせたもので、プラスチック製の歯車の一部は別のメイカーボットのプリンターで作られている。内部の電子機器には、アルドゥイーノ基板が使われている。
・メイカーボットの哲学は奥が深い。レップラップの3Dプリンタ(スマートで華奢なデザイン)、アルドゥイーノのマイコン基板、CADファイルを指示に転換して3Dプリンタの三個のモーターを制御する一連のソフトウェアなど、歴代のオープンソースのプロジェクトの上にこれが築かれているからだ。ここでいう「オープンソース」とは、なんでもオープンにすることだ。電子部品、ソフトウェア、商品デザイン、製品仕様やマニュアル、それからロゴまでも。メイカーボットのほぼすべてが、コミュニティによって開発されたか、その中のだれかが自主的に作ったものだ。それは知的財産権を放棄することで、コミュニティの指示と善意による強力な保護が得られる。輝かしい実例だ。
・その違いーーひとりが発信するブログ形式のニュースや情報ではなく、コミュニティが作るサイトであることーーは、天と地ほどの大きさだった。
・確かに、ラリーファイターはバギーカーとそれほど変わらない。しかし、ローカルモーターズの電気自動車は、これまでとまったく違うものになる。そして世界的な自動車メーカーは、コミュニティによる開発モデルの力に気付くだけでなく、それを羨むことになるだろう。
・スペースXの基本的なロケット技術はNASAとそう変わらないが、生産工程のおかげで打ち上げコストは比べものにならないほど低い。請負業者、下請け、孫請けが絡んだ、航空宇宙業界の複雑な(しかも政治的な)ネットワークのかわりに、スペースXはデジタル工作ツールを使ってほとんどなんでも内製する。テクノロジーが製造業の複雑さとお役所的な構造を簡略化し、コストを10分の1にまで削減しながら、信頼性はあげている。NASAのモデルを改善するために宇宙工学の仕組みからやり直す必要はない。ほとんどのイノベーションは工場で生まれるからだ。
・いまもアメリカで作られているものは? 国内で販売される大型製品(たとえば自動車)や、価格に比べて人件費の割合が小さい高付加価値製品(たとえば飛行機)、そして価格競争にさらされれにくい特殊品(たとえば医療機器)などだ。
・スパークファンは、コミュニティを核とする典型的な企業だ。ウェブサイトの最初のページには製品ではなくブログが載り、人気のチュートリアルや社員の動画が掲載されている。掲示板では大勢のファンがお互いに助け合っている。
・チェンとストリックラーは、キックスターターがもの作りの資金調達源として注目されることに、いまも少し違和感がある。もともとは、大手レコード会社やハリウッドがなかなか売り出してくれない音楽や映画に加えて、アート、舞台芸術、コミック本、ファッションなどのプロジェクトのためのプラットフォームとして、キックスターターを立ち上げたのだ。
・ある日、喫茶店のオーナーのマルシア・ドーシーが、コンピューター好きの息子がアルバイトを探していると言ってきた。そこで、その息子にミラノ事務所に来てもらうことにした。(中略)「ああ、ちょっと終わるまで待ってもらえるかな」と言って仕事に戻った。 30分後、まっケルビーは男の子のことを完全に忘れていたことに気づいた。顔を上げると、驚いたことに、ドーシーはまださっきとまったく同じ場所に、両手をまっすぐにぶら下げて立っていた。