世界で戦うとは?「直撃 本田圭佑」

プロサッカープレイヤーとして、海外でガチンコのチャレンジをして、どんだけ屈辱的なことがあって出口がまったくみえなくなっても、ひたすら世界一を目指す男、本田圭佑。正直言って本田氏の実力は、サッカーに詳しくない僕には分からないのですが、そのひたむきさはとにかくかっこいいと言わざるをえない。

──今は谷だから、次はこういう山にしようというイメージがあるということ? 「それがイメージできたらすごいけどね。大抵は自分が今から谷に向かっていますって受け入れられるものではない。トンネルをくぐっていて、それが山なのか谷なのか、いつ抜けられるかもわからない。でもなんとか、その真っ暗なトンネルを抜けたくて必死に進むわけですよ。大事なのは、その辛い時期を残念と思うのか、自分にしかできないチャンスだと思うのか、っていうところだと僕は思っている

本当にこういった必死のチャレンジの中からしか劇的な成功というのは生まれないと思います。メルカリももがきながら海外事業をやっているわけですが、すごく共感します。

──日本には職場や学校で壁に直面している人がたくさんいると思う。本田くんは苦しいとき、何を意識して行動しているんだろう? 「今、自分が意識していることはたくさんあるんだけど、そのうちの1つをあえて紹介するなら、『基本的なことを続ける』ということだね」 ──基本? 「うん。自分にできる基本を繰り返す。それが状況を打開するポイントになるから

『基本的なことを続ける』こと、メルカリで言えばプロダクトのことを考え抜き、よりよいものにしていくこと。

「まあ、やっていることはみんなとあまり変わらないんだけどね。結局、みんなが嫌がることを我慢してできるかどうかなんですよ。オレはスーパーマンでもなんでもない。ただみんなが嫌なこともやれるし、夢のためにやりたいことも我慢できる。それを本当に徹底していて、あとは人よりも思いがちょっと強いだけ。その差が結果に現れたりするんですよ

 「1年後の成功を想像すると、日々の地味な作業に取り組むことができる。僕はその味をしめてしまったんですよ

僕もこれからしばらく海外事業に専念していきたいと思います。

人類の全てを描こうとする意欲作「サピエンス全史」

サピエンスとはもちろんホモ・サピエンス、すなわち人類の全史を描こうとする非常に意欲的な作品。

著者は、人類と動物の真の違いを「多数の個体や家族、集団を結びつける神話という接着剤」のあるなしだという。それがゆえに人類は大規模な文明を築くことができたと。確かに家族や村や国家や株式会社というのはある種の神話であって、みなが信じているがゆえに正しいということは多い。だから昔は正しいと思われていたことが今は正しくないことは多い。例えば、奴隷制なんかもそう。今では人々は人は皆平等であって自由な存在であるし、お金というある種の虚構を信じている。だからこそ人と人がお金を使った取引が可能になる。

このように人類史を違った視点から描いているのが非常に知的好奇心を刺激され、大変勉強になる一冊です。かなり長いですが、夢中で読み進めました。

以下は抜粋コメントしていきたいと思います。

平均的なサピエンスの脳の大きさは、狩猟採集時代以降、じつは縮小したという証拠がある(5)。狩猟採集時代に生き延びるためには、誰もが素晴らしい能力を持っている必要があった。農業や工業が始まると、人々は生き延びるためにしだいに他者の技能に頼れるようになり、「愚か者のニッチ」が新たに開けた。凡庸な人も、水の運搬人や製造ラインの労働者として働いて生き延び、凡庸な遺伝子を次の世代に伝えることができたのだ。

狩猟採集時代の方が生きるために知らなければならないことが膨大にあり、むしろそれ以降の方が脳の大きさは縮小したと。

平均寿命はどうやらわずか三〇~四〇歳だったようだが、それは子供の死亡率が高かったのが主な原因だ。危険に満ちた最初の数年を生き延びた子供たちは、六〇歳まで生きる可能性がたっぷりあり、八〇代まで生きる者さえいた。現代の狩猟採集社会では、四五歳の女性の平均余命は二〇年で、人口の五~八パーセントが六〇歳を超えている(6)。

子供の死亡率が高いだけで、意外に高齢者も多かったらしい。

人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ(2)。  では、それは誰の責任だったのか? 王のせいでもなければ、聖職者や商人のせいでもない。犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物種だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ。

たしかに村落の生活は、野生動物や雨、寒さなどから前よりもよく守られるといった恩恵を、初期の農耕民にただちにもたらした。とはいえ、平均的な人間にとっては、おそらく不都合な点のほうが好都合な点より多かっただろう。これは、繁栄している今日の社会の人々にはなかなか理解し難い。私たちは豊かさや安心を享受しており、その豊かさや安心は農業革命が据えた土台の上に築かれているので、農業革命は素晴らしい進歩だったと思い込んでいる。だが、今日の視点から何千年にも及ぶ歴史を判断するのは間違っている。

それでは、もくろみが裏目に出たとき、人類はなぜ農耕から手を引かなかったのか? 一つには、小さな変化が積み重なって社会を変えるまでには何世代もかかり、社会が変わったころには、かつて違う暮らしをしていたことを思い出せる人が誰もいなかったからだ。そして、人口が増加したために、もう引き返せなかったという事情もある。農耕の導入で村落の人口が一〇〇人から一一〇人へと増えたなら、他の人々が古き良き時代に戻れるようにと、進んで飢え死にする人が一〇人も出るはずがなかった。後戻りは不可能で、罠の入口は、バタンと閉じてしまったのだ。

農耕には不可逆性があったという話、非常におもしろい。

この法典は、家族の中にも厳密なヒエラルキーを定めている。それによれば、子供は独立した人間ではなく、親の財産だった。したがって、高位の男性が別の高位の男性の娘を殺したら、罰として殺害者の娘が殺される。殺人者は無傷のまま、無実の娘が殺されるというのは、私たちには奇妙に感じられるかもしれないが、ハンムラビとバビロニア人たちには、これは完璧に公正に思えた。ハンムラビ法典は、王の臣民がみなヒエラルキーの中の自分の位置を受け容れ、それに即して行動すれば、帝国の一〇〇万の住民が効果的に協力できるという前提に基づいていた。効果的に協力できれば、全員分の食糧を生産し、それを効率的に分配し、敵から帝国を守り、領土を拡大してさらなる富と安全を確保できるというわけだ。

なぜ昔のハンムラビ法典や聖書が奇妙に思えるか。それは人類が生き延びるために皆が信じる神話であって、現代の神話とは異なるから。

鳥の視点の代わりに、宇宙を飛ぶスパイ衛星の視点を採用したほうがいい。この視点からなら、数百年ではなく数千年が見渡せる。そのような視点に立てば、歴史は統一に向かって執拗に進み続けていることが歴然とする。キリスト教の分割やモンゴル帝国の崩壊は、歴史という幹線道路におけるただのスピード抑止帯でしかないのだ。

これはすごく目からウロコの視点でした。いまBrexitやトランプ政権誕生などで世界が分離していくかのような気がしますが、本書では長い目で見れば必ず世界は統一されていくと言い切っています。

イスラム教や仏教のような、歴史上有数の宗教は、普遍的であり、宣教を行なっている。その結果、人々は、宗教はみなそういうものだと思う傾向にある。ところが、古代の宗教の大半は、局地的で排他的だった。信者は地元の神々や霊を信奉し、全人類を改宗させる意図は持っていなかった。私たちの知るかぎりでは、普遍的で、宣教を行なう宗教が現れ始めたのは、紀元前一〇〇〇年紀だ。そのような宗教の出現は、歴史上屈指の重要な革命であり、普遍的な帝国や普遍的な貨幣の出現とちょうど同じように、人類の統一に不可欠の貢献をした。

宗教=宣教するものではないという事実。そして、それはお金の登場と同様に文明化を推し進めたと。

政治も二次のカオス系だ。一九八九年の革命を予想しそこなったとしてソ連研究家を非難し、二〇一一年のアラブの春の革命を予知しなかったとして中東の専門家を酷評する人は多い。だが、これは公正を欠く。革命はそもそも予想不可能に決まっているのだ。予想可能な革命はけっして勃発しない。

確かに…

古代の知識の伝統は、二種類の無知しか認めていない。第一に、個人が何か重要な事柄を知らない場合。その場合、必要な知識を得るためには、誰かもっと賢い人に尋ねさえすればよかった。まだ誰も知らないことを発見する必要はなかった。たとえば、一三世紀のヨークシャーのある村で、農民が人類の起源を知りたければ、彼は当然キリスト教の伝統に決定的な答えが見つかると考えた。だから、地元の聖職者に尋ねさえすれば済んだ。  第二に、伝統全体が重要でない事柄について無知な場合。当然ながら、偉大な神々や過去の賢人たちがわざわざ私たちに伝えないことは、何であれ重要ではない。先ほどのヨークシャーの農民が、クモはどうやって巣を張るのかを知りたければ、聖職者に尋ねても無駄だった。この疑問に対する答えは、キリスト教の聖典のどれにも見つからないからだ。だからといって、キリスト教に欠陥があるわけではなかった。それは、クモがどうやって巣を張るかを理解するのは重要ではないということだ。つまるところ、神はクモがどうやるかは完璧に知っていた。これが人間の繁栄と救済にとって必要な、重要極まりない情報だったなら、神は聖書に広範囲に及ぶ説明を含めていただろう。

知識への考え方が、古代と現代ではがらりと変わったという視点。

人類は何千年もの間、この袋小路にはまっていた。その結果、経済は停滞したままだった。そして近代に入ってようやく、この罠から逃れる方法が見つかった。将来への信頼に基づく、新たな制度が登場したのだ。この制度では、人々は想像上の財、つまり現在はまだ存在していない財を特別な種類のお金に換えることに同意し、それを「信用」と呼ぶようになった。この信用に基づく経済活動によって、私たちは将来のお金で現在を築くことができるようになった。信用という考え方は、私たちの将来の資力が現在の資力とは比べ物にならないほど豊かになるという想定の上に成り立っている。将来の収入を使って、現時点でものを生み出せれば、新たな素晴らしい機会が無数に開かれる。  信用がそれほど優れたものなら、どうして昔は誰も思いつかなかったのだろうか?

近代以前の問題は、誰も信用を考えつかなかったとか、その使い方がわからなかったとかいうことではない。あまり信用供与を行なおうとしなかった点にある。なぜなら彼らには、将来が現在よりも良くなるとはとうてい信じられなかったからだ。概して昔の人々は自分たちの時代よりも過去のほうが良かったと思い、将来は今よりも悪くなるか、せいぜい今と同程度だろうと考えていた。

その違いがなぜ生じたかと言えば、将来が現在よりも良くなるという視点で、それにより信用というものすごいイノベーションが生まれました。

多くの文化で、大金を稼ぐことが罪悪と見なされたのも、そのためだ。イエスの言うように、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(「マタイによる福音書」第19章24節)(日本聖書協会『聖書』新共同訳より)。パイの大きさが変わらない以上、一人がたっぷり取れば、必ず誰かの取り分が減る。だから裕福な人々は、余った富を慈善事業に寄付することで、己の悪行に対する贖罪の意を示さなければならなかった。

昔はパイが変わらない中でゼロサムになっていたが、将来がより豊かになるのであれば信用や知識に対する考え方も変わる。

そこで国家と市場は、けっして拒絶できない申し出を人々に持ちかけた。「個人になるのだ」と提唱したのだ。「親の許可を求めることなく、誰でも好きな相手と結婚すればいい。地元の長老らが眉をひそめようとも、何でも自分に向いた仕事をすればいい。たとえ毎週家族との夕食の席に着けないとしても、どこでも好きな所に住めばいい。あなた方はもはや、家族やコミュニティに依存してはいないのだ。我々国家と市場が、代わりにあなた方の面倒を見よう。食事を、住まいを、教育を、医療を、福祉を、職を提供しよう。年金を、保険を、保護を提供しようではないか」

次に国家と市場が登場し、家族や村社会のようなコミュニティから「個人になる」ことを提案しました。これも農耕と同じく「けっして拒絶できない申し出」でした。

一九四五年以降、国連の承認を受けた独立国家が征服されて地図上から消えたことは一度もない。国家間の限定戦争〔訳註 相手の殲滅を目指すことなく、その目的や、攻撃の範囲や目標、手段などに一定の制限を設けた戦争〕は、今なおときおり勃発するし、何百万もの人が戦争で命を落としているが、戦争はもう、当たり前の出来事ではない。

現在は不安も高まっているわけですが、確かに征服により国家がなくなることがなくなったことは事実であるし、貧困もこれから数十年で撲滅できるのではないかと言われています。

今まで人類は停滞もありながらも発展し続けてきたし、未来は明るいのではないかと思いました。

インテル元社長のマネジメント哲学「HIGH OUTPUT MANAGEMENT」

インテル三番目の社員で元インテル社長アンドリュー・S・グローブによるマネジメント本。かなり昔の本らしいのですが、今になってなぜか翻訳されたようです。
※復刊だそうです。編集の中川さんによる復刊の経緯はこちらをご覧ください。

昔の本で広範囲の経営の話を扱っていながら、ほぼ色褪せておらず、今でも使える内容ばかりで、非常に勉強になり感銘を受けました。やはりこれくらいの経営哲学を持てるようになりたい。インテルがあそこまで大成功したのも納得でした。

抜粋コメントでいきます。

実はワン・オン・ワンのミーティングはマネジャーと社員のコミュニケーションの基本であるだけでなく、マネジャーが入手しうる組織の知識のソースとしておそらく最良のものだ。私の経験では、ワン・オン・ワンの話し合いを軽視するマネジャーは自分が所属する組織の情報が驚くほど貧弱だった。

僕自身も1on1は役員と行っており、マネージャーにも奨励していますが、本書でも「最良のもの」として、かなり多くの時間を割いて具体的な手法まで踏み込んであります。一部自分とやり方が違う部分もあったので、うまく取り入れていきたいなと思いました。

インテル社で、私はかつてあるミドル・マネジャーに次のような質問を受けた。社内教育のコースを教えたり、製造プラントを見て回ったり、社内の私からは数階層も離れた人の問題にかかわったりしながら、なぜ自分の仕事をする時間があるのか、という趣旨だった。私はそのマネジャーに、私の仕事は何だと思うか、と尋ねた。しばらく考えていたが、彼は自分で自分の質問にこう答えた。「それらもあなたの仕事だからですね」

僕も割りとフラフラといろんなひとと話をしたり、目的なく各拠点を行ったり来たりしているのはこれが仕事だからです。

事実を伝えるということ以上に、マネジャーは自分の目標や重点事項や優先事項などについても、特定の仕事の処理の仕方に関連するかぎり伝えなければならない。これはきわめて重要なことである。というのは、マネジャーがこういうことを知らせさえすれば、部下は、どうすれば上司であるマネジャーや監督者に認めてもらえるような意思決定ができるかがわかるからである。こうして、目標や望ましいアプローチを伝えることが権限委譲の成功のカギとなる。あとでわかるように、企業文化を共有することはビジネスにとって不可欠なのである。企業文化の価値を守る人々──聡明で全社的な意識を持った社員──は似たような状況下で一貫した行動を取るようになる。つまり、マネジャーは、同じ結果を得るために時として用いられる形式的な規則、手続き、規則がもたらす非能率さに悩まされないでよいということになるからだ。

「目標や望ましいアプローチを伝えることが権限委譲の成功のカギ」、これすごく重要で僕が参加するミーティングで非常に意識しています。これを繰り返すと、権限委譲できるようになっていきます。

ミーティングに関して、もうひとつの見方がある。前にも述べたとおり、ミドル・マネジャーの仕事の大部分は情報やノウハウの提供であり、物事を処理する望ましい方法を自分の感じたとおりに監督下にいる人々や影響下にあるグループに伝えることである。マネジャーは意思決定もするし、人の意思決定の援助もする。この基本的なマネジャーの仕事は両方とも、膝を交えての話合いのとき、したがってミーティングを通じてのみ遂行できる。だから、ミーティングはマネジャーが仕事を遂行する〝手段〟そのものにほかならないと、私はここでもう一度主張しておきたい。ということは、われわれはミーティングの存在の当否と戦うのではなく、むしろその時間をできるだけ能率良く使わなければならないのである。

ミーティングと1on1がマネージャーの仕事のほぼすべてですね。

マネジャーも、自分にとっては〝わずかな〟時間しかかからないが、他の人の業務遂行には〝長い〟期間にわたって影響するような活動を展開することによって、高いテコ作用を発揮することができる。人事考課はその好例である。マネジャーは考課の準備や伝達に数時間を使うだけで、それを受ける部下の仕事に長期にわたって非常に大きな影響を与えられる。この場合でもまた、テコ作用は、ポジティブにもネガティブにも働かせることができる。部下がやる気を出して頑張り直すこともあれば、考課によって失望させ、底なし沼のような意欲低下をそれこそ長い期間もたらすこともある。

考課がとてつもなく重要な理由。ここがしっかりできるかは本当に大きな違いを生みます。これがうまくできるとスーパーボスになることができます。

ブルースとシンディの活動の基本は、そのプランニングが、〝将来〟の出来事に影響を与えるために〝現在〟達成しなければならない仕事を生み出した点にある。私がこれまで見たところでは、今日のギャップを認識してそれを埋めるために、懸命に意思決定しようとしている人々があまりにも多い。しかし、今日のギャップは過去のいつかの時点で計画したときの失敗を表わしている。今日の問題を改めるのに必要な意思決定に集中することを強いられるのは、比喩的にいえば、車のガソリンが切れてしまって慌てておたおた走り回っているようなものだ。早目に満タンにしておくべきだったことは明らかである。このような運命に陥るのを避けるために、計画するときに解答しなければならない問いがあることを思い出そう。それは〝明日〟の問題を解決するために〝今日〟何をなすべきかについてである。

〝現在〟に忙殺されてしまっているマネージャーは多い。〝明日〟の問題を解決するために動けてないとダメですね。

訓練とは、端的にいうならば、マネジャーとして遂行できる最高のテコ作用を持つ活動のひとつである。自分の部署の人々に4回連続の講義をする可能性があるとかりに考えるとしよう。その各コース1時間あたりに、3時間の準備が必要だと計算するならば、全部で12時間の仕事になる。その講義に、かりに10人の勉強する参加者がいたとしよう。来年それらの人々は、会社のために全部で2万時間働くことになる。訓練の努力を怠らないことによって部下の業績を1パーセント改善しうるならば、あなたは12時間という時間を消費するだけで、200時間に相当する利得を得ることになる。

個人的にこれはあまりできてなかったのですが、「最高のテコ作用を持つ活動」というのは確かにと思いました。できることやっていきます。

波乱万丈の経営物語「再起動 リブート」

数々の失敗を経て現在はループス・コミュニケーションズ社長の斉藤氏による半自伝。

日本版「HARD THINGS」といった感じで、ともかく胃が痛くなるシーンの連続。ベン・ホロウィッツの「HARD THINGS」はまだ海の向こうのシリコンバレーの出来事だと思えましたが、舞台が日本なのでリアリティがすごいです。

岩郷氏の金銭感覚が僕たちとは大きくずれていたことも、問題を大いに複雑にした。彼がフレックスファームの経営に関与してから約二年間で、支払った報酬は億を超え、それ以外にも会社名義で高級外車や自分の居住用に青山の高級マンションを購入するなど、贅沢三昧だったのだ。

途中で助けてくれるひとが実は会社を食い物にしているが、いなければ潰れてしまうために何もできない話や銀行に借金を追い立てられる話、VCに追い出される話などがかなり具体的に書かれていて非常に勉強になりました。

こうして成功事例だけでなく、失敗事例が共有されることには大きな意味があると思います。

僕はようやく自覚した。今起きているトラブルは、すべて僕の甘さや判断ミスが原因であり、もとをたどると僕自身の見栄や焦り、未熟さ、恐怖心から来たものだった。フレックスファームの経営難という現実は、それらが積み上がった結果だった。 目の前にある現実は限りなく厳しい。あたかも何重にも固く絡まった糸の玉のようだ。 だが、それらは僕自身が編んでいった糸なのだ。どれだけ絡まった糸の玉でも、一本一本、丹念に選り分けていけば、必ず解きほぐすことができるはずだ。そこから目を背けずに、自分でコントロールできることに焦点を絞って、冷静に次の一歩を踏み出そう。この苦難はきっと、僕を成長させるために神様が与えてくれた「神のパズル」なのだ。 その時、僕の心に勇気の灯がともった。

そもそも失敗の原因は複合的だ。しかし、それを自らの過ちではなく、経営環境、幹部や社員、不運といった他責にする経営者は、人間不信の度を深め、孤独の闇に陥ってしまう。自分自身の弱点や失敗を客観的に見て、素直に変わろうと努力する人だけが、新しい自分、未見の我に出会い、新たな自分を創造できるのだろう。

しかし結局のところはすべては自らに責任がある、と認めることからしか、成功への道は開けない。実は多くのトラブルは気づいて適切に行動すれば事前に防げるし、非連続な成長に導くこともできる。ただ、その気づきをどう得るかが難しい。

<抜粋>
・財務的にも好調だった。なにしろプロレス道場の初月売上は約一〇〇〇万円だ。その後ペースは落ちていったが、それでも番組は堅調に収益を稼いでくれた。そこに僕が副業としていたシステム開発の収益も加わり、収支は初月から黒字を計上した。 それにも増してうれしかったのは、真の自由を得られたことだった。 夏場でもスーツとネクタイを着用するのが当たり前の時代だ。毎日大汗をかきながら満員電車にゆられ、会社に着く頃には疲れ切ってしまう。何を着るかは僕の自由だし、大切なことはいい仕事をすることだ。何事も自分の頭で考えて、信念にしたがって生きたい。それは僕にとって一番大切な価値観だった。
フレックスファームは順調に成長を続け、一九九二年末には月間の売上が一億円を超えた。創業わずか一年八カ月で月商一億円だ。これで楽しくないわけがない。僕たちは成長路線をひた走っていた。 一方、事業の急拡大にともない、現場はてんてこ舞いだった。人手を増やさなくてはいけない。管理するのも管理されるのも苦手だった僕は、前代未聞の人事施策を考え出した。社員の待遇を三種類だけに限定し、それぞれ固定給としたのだ。 「僕を含めて役員五人の報酬は全員一律で月八〇万円。管理職の給料は月六〇万円、一般社員は月四〇万円。職種は問わない。これで恨みっこなしね」
過当競争で新しい番組を立ち上げても新規利用者の獲得が困難になっていた。サーバーや広告の準備があるため、契約締結から番組開始までには三カ月ほどかかる。その間も競合番組は増え続け、売上が当初予想を大きく下回ってしまう。売上や利益を保証していたわけではないが、彼らの怒りの矛先は、当然のように僕たちに向けられた。 ダイヤルQ2市場は早くも踊り場を迎えていた。
・だが、僕の見通しは甘かった。ブームが去ると、業績は下降線をたどり、一億円あった月商は一気に目減りしていった。 「マズいよ、斉藤。今月の売上は五〇〇〇万円にも届きそうにない……」 福田が深刻な表情で話しかけてきた。 「社員四〇名の人件費だけで二〇〇〇万円を超える。それに家賃に回線費用、仕入れ代金を払うと完全に赤字だ」
・思い悩んだあげく、僕は母に事情を説明した。 突然の申し出だったが、母は驚いたそぶりさえ見せず、父と相談してみると言った。心中穏やかであったはずはない。息子の会社はうまくいっていると信じていたのに、いきなり借金の相談だ。会社を立ち上げた時も、何も言わずにお金を貸してくれた両親だ。さぞ複雑な思いがあったに違いないが、その時も文句のひとつも言わずに僕のわがままを聞き入れてくれた。 二世帯住宅の隣の自宅に帰ってから、若菜にも同じことを説明した。彼女は少し心配そうな顔つきをして「そうなの?」と聞いてきたが、僕が黙ってうなずくと、最後は「わかった。あなたの好きにして」と言ってくれた。
取引先からの裁判に対する支払い、未払い家賃に加えて、月々の人件費、家賃、仕入れ、営業経費、そして銀行への返済。すべてを支払うことはできないので、毎月多くの取引先へ足を運び、お詫びと状況報告する日々が延々と続いた。裁判の和解金と未払い家賃を支払い終えるまでに約二年の歳月がかかり、銀行からの借り入れはいびつに膨らんでいった。
・岩郷氏の金銭感覚が僕たちとは大きくずれていたことも、問題を大いに複雑にした。彼がフレックスファームの経営に関与してから約二年間で、支払った報酬は億を超え、それ以外にも会社名義で高級外車や自分の居住用に青山の高級マンションを購入するなど、贅沢三昧だったのだ。
・僕の浮き沈み激しい人生のなかでも、最もつらかったのがこの時期だ。起業家なのに事業のことを考える余裕などほとんどない。お金を調達してくることだけが自分に課せられた使命なのだ。
・僕はようやく自覚した。今起きているトラブルは、すべて僕の甘さや判断ミスが原因であり、もとをたどると僕自身の見栄や焦り、未熟さ、恐怖心から来たものだった。フレックスファームの経営難という現実は、それらが積み上がった結果だった。 目の前にある現実は限りなく厳しい。あたかも何重にも固く絡まった糸の玉のようだ。 だが、それらは僕自身が編んでいった糸なのだ。どれだけ絡まった糸の玉でも、一本一本、丹念に選り分けていけば、必ず解きほぐすことができるはずだ。そこから目を背けずに、自分でコントロールできることに焦点を絞って、冷静に次の一歩を踏み出そう。この苦難はきっと、僕を成長させるために神様が与えてくれた「神のパズル」なのだ。 その時、僕の心に勇気の灯がともった。
日本リース破綻によって、フレックスファームはたちまち連鎖倒産の危機に追い込まれた。この時点で日本リースからの借入残高は、すでに信用枠いっぱいの一億円近くあった。早晩この一億円は返済を余儀なくされるだろう。取引銀行は資金回収に懸命で、追加融資など考えられない。またしても、僕たちは谷底へ突き落とされたのだ。
・フレックスファームの事業譲渡の話も佳境に入り、先方から最終条件が提示された。 受託開発や人材派遣にかかる事業に必要なすべてを移管すること、そのなかにはバーチャルスタッフのデータベースや運用システム、さらに荻野と福田の経営陣、営業チームの新会社への移籍も含まれていた。何年ものあいだ、地を這うような艱難辛苦をともにした福田とも、ついに別れる日がやってきたのだ。
・携帯電話という新しいデバイスが登場した。近い将来PCを凌駕するかもしれない。そのコンテンツで、日本は世界に先行している。当時の米国は多数のキャリアが群雄割拠しており、機器もコンテンツも日本よりはるかに遅れていた。「米国人は指が大きいから携帯コンテンツは流行らないだろう」などという根拠のない予測がまかり通っていた時代だ。それほど日本の携帯文化は進んでいた。だからこそ、ネクスト・テクノロジーは日本で生まれ、日本が世界をリードできるのだ。
二人と信頼関係のある僕が調整にひと役買えばうまく収まったかもしれないが、それは社長である稲垣の役割だと僕は考えていた。創業者が口を出せば、社長の指揮権が揺らぎかねない。僕と稲垣はお互いに遠慮していた。 「東京と京都は水と油で、交わろうとしないんだ。ホントに困ったよ」 稲垣は頭を抱えていた。IBMのような大企業と異なり、ベンチャーでは社員の意思に背いてまで組織を動かすのはむずかしい。だからこそ、人間同士の信頼関係が大切になるのだ。 「何か、力になれることはないかな」 「うん、とにかくもう一度、三人で話し合ってみるよ」 稲垣が出した結論は、東京と京都が別々に「クロス・サーブレット」の新バージョンを開発し、社内コンペにより、どちらか一方を採用するというものだった。IBMの研究開発部門では、実際に数多くのソリューションが、世界数カ所のラボによる社内コンペで開発されていた。米国企業らしいフェアなやり方だ。
・それにサーバーサイドをJavaで開発するという点は共通だが、京都はServlet、東京はJSPという異なる開発環境を用いる方針だった。技術者としてのプライドを賭けた戦いだ。採用されなければ、その成果はお蔵入りだ。精魂込めて開発したソリューションが利用されることなく捨てられる。それは残酷なレースだった。 数カ月の開発競争ののち、中核となる技術の実績を重視して、稲垣は京都のソリューションを選定した。僕はこの競争プロセスに関与せず、社長が出した結論にしたがった。会社としての決着はついたのだ。 しかし、その直後に恐れていた事態が発生した。坂田をはじめ数名の東京ラボ・メンバーから辞表が提出されたのだ。僕自身も慰留に努めたが、彼らの意思は固く、その辞意が翻ることはなかった。その後、東京ラボとも近かった伊藤靖からも辞表が提出される。フレックスファームが新体制になってから、その屋台骨を支えてくれた幹部の離脱は痛かった。 原因は、社内コンペの結論に対する不満、それに管理志向の強い稲垣との確執だった。日本IBMに一五年勤めた稲垣には、大企業における組織運営の考え方が染みついていた。生粋のベンチャーで、自由や多様性を大切にするフレックスファームの価値観と相容れないものがあったのだ。
・契約のポイントは、そのなかに記された買い戻し条項にあった。資料に虚偽の記載があったり、一定期間内に株式上場できなかったりした時に、投資家が時価で買い戻しを要求できるという条件は珍しくはない。しかし、この契約の買い戻し条項には特別な条件がついていた。それは、三社に対して取締役会や株主総会で反対票を投じた場合には、僕が三社の持つフレックスファーム株式を彼らが投資した約一〇億円という金額で、買い戻さなくてはいけないという、取締役会と株主総会における僕の行動に対する制限だった。つまり、彼らとの投資者間契約を結んだ瞬間に、僕は事実上、彼らの意向に反対できなくなっていたのだ。
・残念ながら、彼らから提示された株価は九万円で、予想を大きく下回るものだった。僕の取り分は四億円あまり。借金を返し、延滞金もすべて支払うことはできるが、納める税金もあわせて計算すると、手元に残るお金はそれほど多くない。足元を見られた格好だが、僕は切羽詰まっており、株式を売らざるを得ない。これも運命として受け入れるしかないだろう。僕に迷いはなかった。 この株価を持って、三社を代表する非常勤取締役と面談する機会が設けられた。 「一株九万円という評価は納得いかないところもありますが、僕には売る以外に選択の余地はありません。どうかご承認ください」 「うーん、困りましたね」 彼らはお互い顔を見合わせていたが、事前に三社ですり合わせていたのだろう。ほどなく条件を切り出してきた。 「本社に報告するうえで、我々も無条件では承認しにくいことをご理解ください。斉藤さんが株式を売却して借金を返済し、税金も支払うと、約二〇〇〇万円の資金が残るはずです。それを我々に提供していただけませんか?」 それを聞いて僕は驚いた。いったいどういうロジックなのか。
・僕は理性的な判断よりも彼らに対する怒りと嫌悪感が先に立ち、それ以上交渉を続ける気持ちになれなかった。現実の損得勘定を超えて、気持ちが完全に途切れてしまったのだ。彼らのような大企業にとって、二〇〇〇万円がどれだけの意味を持つというのか。フレックスファームの取締役として時間をかけて出した結論は、どこまでも創業者を追い詰めることだったのか。そんなことまでして自分の立場を守りたいのか。それが変わらぬ意思ならば、好きにするがいい。 「申し訳ありませんが、この話はもうおしまいにさせてください」 僕はそう言って席を立った。結局、この売却話は最終局面で流れることとなった。
・「フレックスファームの斉藤さん? もう過去の人だよね」 「人の投資を焦げつかせておいて、どのツラ下げてもう一度起業とか言ってるわけ?」 「やめたほうがいいよ、あの人は。信用できないよ」 面と向かって罵倒されることはなかったが、誰それがこんなことを言っていたよ、という噂話がいやでも耳に入ってくる。 米国ではリスクを恐れずに挑戦した経営者は、たとえ失敗してもリスペクトされるが、日本ではそうはいかない。一度失敗の烙印を押された経営者が再浮上するのは非常に困難な社会なのだ。この風潮は起業家の育成には大きなマイナスとなる。新しいことにチャレンジするベンチャーに失敗はつきものだし、リスクを恐れるあまりに無難な手しか打たないのであれば、世の中を変えるようなベンチャーが育つわけはないからだ。
・僕個人が抱えていた一・五億円の債務についても、株式上場時の審査で問題にならないように、あえてこちらから債権回収会社に連絡をとった。そして松原弁護士による交渉の結果、総額五〇〇万円で債権を買い取ることで合意し、長かった借金問題にもようやく終止符が打たれることになった。 資産売却課でコツコツ貯めていたお金はすべてループスの創業と債権買い取りにあてたため、この時点で僕の手元資金はほぼ底をついた。だが、これも起業家の性なのだ。限りなく広がる未来への選択に、僕は少しの迷いも感じなかった。
・その一方で、株式情報SNSの開発プロジェクトは続行した。当初想定より大きく膨らむ仕様、基幹システム並みの文書作成、外注の引き継ぎコストなどがかさみ、毎月発生するプロジェクトの赤字幅は僕たちが吸収できるレベルを大きく超えていた。 顧客の要求は日増しに厳しさを増すばかりだ。僕たちは何度も会議を重ね、状況の打開を図ったが、大株主であるSOZO工房の虎の子プロジェクトであり、その強硬な姿勢を回避することはできなかった。ループスの責任者が、人がよすぎて交渉事に弱い福田だったこともあった。前門の虎、後門の狼にはさまれたループスの懐具合は激しく毀損した。 毎月のように巨額の外注費が発生してゆく。他のベンチャーキャピタルから、投資したマネーがSOZO工房の出資先に流れているとのクレームも出て、株主との信頼関係にも亀裂が入っていった。ループスの経営にも、いよいよ資金繰りの悪魔が忍び寄ってきた。
・「落ち着きましょう。今、浮足立つと打ち手を誤ります」 僕の言葉を聞いて、彼のいらだちはピークに達したようだった。 「斉藤さん、本当にこの状況を理解しているんですか? もう資金がないんです。どこにも支払いできないんですよ。どこに打ち手があるんですか? フレックスに続いてループスでも失敗したら、斉藤さんはもう二度と浮上できなくなるんですよ!」
赤字垂れ流しの最大要因だった株式情報SNSの納品は、この翌月にほぼ完了した。当時としては、きわめて高度な技術を駆使したサイトだった。だが、案件単体での赤字額は一億円を超え、さらに最大で一億円の損害賠償の可能性もある裁判、そして一〇〇〇万円を超す弁護士費用が発生した。ループスの屋台骨を揺るがす壮絶なプロジェクトだった。
僕たちは、事業売却に入札したもう一社、渋谷の上場企業に連絡し、現状を説明した。資金流出は止まらない。溜まり続けた未払金は一億円に近づいていた。もはや限界だった。新たな売却先を探す時間もない。 そんな窮状を見透かしたように、同社はループスSNS事業ではなく、アイキューブ事業がほしいと言ってきた。買収金額も三〇〇〇万円と大幅に減額された。到底納得いく金額ではなかったが、追い詰められた僕たちに他の選択肢は残されていなかった。
・今回は、受託プロジェクトの大きな赤字が最大の原因だった。受注管理やプロジェクト管理が甘かったのだ。僕自身の管理能力には明らかに限界があった。そもそも管理するのが嫌いなのだ。根っからの自由人で、人を疑うのも人に疑われるのもまっぴらな性分だ。失敗は、そんな僕自身の甘さに起因したものだ。 しかし、本当にそれだけなのか。失敗の原点は、もっと本質的なところにあるのではないだろうか。僕は自らの記憶をたどりはじめた。
僕は人を笑顔にしたい。いつだってそうだった。家族が笑顔の時、僕は安心して仕事に打ち込めた。社員が喜んでくれた時、僕は心の底から幸せだった。みんなが最高の笑顔を見せるのは、顧客と意気投合し、信頼できる仲間たちと最高の成果をあげた時だった。それが社会に貢献することにつながればなおさらだ。 僕は世界をよりよくしたい。それこそが創業のミッションであるべきだ。企業にとって利益や拡大よりも大切なものがある。それは人を幸せにすることだ。「なんとかする会社」に憧れ、自分自身が楽しんで暮らすことを夢見て創業した僕が、数多くの失敗を経て、ようやくたどり着いたこと。それは人を幸せにしたい、世界をよりよくしたいという、起業家が持つべき使命だった。 起業家の存在意義は、やみくもに会社を大きくすることではない。自分たちが生み出すプロダクトやサービスを通じて、人々の幸せの循環を生み出し、よりよい世の中を創ってゆくことだ。その社会的な価値を認めてくれる人がいてはじめて事業が社会に根をおろし、結果として持続的な成長ができるのだ。 僕が間違っていた。本来あるべき姿に戻ろう。これからは愚直なまでにそれを貫こう。起業家人生一七年目にして、ようやく僕は経営の本懐に覚醒したのだった。
「苦しい時こそ素直になることが何よりも大切だったな。反省し、心を開き、助けを請い、誠実に振る舞うこと。そうすることで、新しい自分が生まれてくるんだと思う」 「ああ、よくわかるよ。痛いほどにね。そうじゃない人もずいぶんと見てきたからなあ」
・そもそも失敗の原因は複合的だ。しかし、それを自らの過ちではなく、経営環境、幹部や社員、不運といった他責にする経営者は、人間不信の度を深め、孤独の闇に陥ってしまう。自分自身の弱点や失敗を客観的に見て、素直に変わろうと努力する人だけが、新しい自分、未見の我に出会い、新たな自分を創造できるのだろう。

日本人が不得意とされる「生産性」

著者はマッキンゼー出身だけあって、若干コンサルよりの発想ではあるが、一般企業でもほとんどが通用する「生産性」についての話。文章は平易ながら、たくさんの気づきがあって非常に勉強になりました。マネージャー職以上を目指すひと(もちろん経営者含む)には必読の一冊だと思います。

チーム内の人手に対して仕事が多すぎるとき、最も避けるべきは、安易にアルバイトや派遣社員を雇い、仕事をそれら外部要員に任せてしまうことです。 これは、投入労働力を増やすという意味では、残業をして仕事を終わらせるのと同じです。社員の残業量が規制されているから、もしくは、正社員が残業をすると人件費が高いから、社員以外の時間を投入しているだけです。 しかも外部要員に付加価値の低い仕事を任せてしまうと、その仕事のやり方を改善しよう(生産性を上げよう)というインセンティブが組織から消えてしまいます。そして次第に誰も、それらが本来どのくらいの時間をかけてもよい仕事なのか、考えなくなってしまうのです。

派遣社員を雇ったりIT投資をする前には必ず、 ・本当に残す価値のある仕事なのか? やめられないのか? ・やり方を抜本的に変えられないか? ・外注化やIT投資で、生産性はどれほど上がるのか? それは投資に見合うのか? などを確認するようルール化してしまうだけでも、無駄な仕事を減らすことに役立つことでしょう。

これは本当にそうですね。特に会社が急激に拡大していくと人手が足りないから派遣社員をというのはよくある話です。しかしそれは本当に社内でやるべきことなのか考える、そもそも前々から見越して計画的に採用すべき、ということですね。

これは実際の仕事でもまったく同じであり、研修の参加者はこのプログラムを通じて、マネージャーの役割とは、
 ・どれも正解でどれも不正解である複数の選択肢からどれかを選ぶこと
 ・選んだ選択肢に伴う問題をあらかじめ想定し、備えておくこと
だと学ぶわけです。 より端的にいえば、マネージャーの仕事とは、
 ・決断をすること、と
 ・リスクに備えておくこと

となります。 これを学んでおかないと、マネージャーになった後、決断すべきタイミングを迎えているのに延々と複数の選択肢のメリットとデメリットを分析し続ける「決められない管理職」になってしまいます。

マネージャーの能力というのは測りづらいのだけども、結果としてはものすごい差がつく。もちろんこういったマネージャーの役割を知ってもらうことも重要ですが、結局最後は結果で見ていくしかないのかなと思います。

<抜粋>
・あのとき「これからはみんな楽しく働ける、人にやさしい職場に変わります」などといった、耳には心地よいけれど誤ったセルフスクリーニングにつながる安易なメッセージを発信しなかったことが、このときの対応のポイントです。(中略)これにより同社は、「ユニクロの商品が大好き」「毎日ユニクロ商品を着ている」といった商品イメージへの好印象だけから応募してくる学生を減らし、それなりにプレッシャーのかかる労働環境ではあるが、成果を出せば若くても高く評価される職場で働きたい、という学生を惹きつけることに成功しました。
・仕事が忙しくなると、儲かっている企業はすぐに(非正規ワーカーを含む)人材を増やしますが、これも多くの場合、組織の生産性を下げてしまいます。急いで雇った新人の生産性は既存社員ほど高くないばかりか、社内にあふれる生産性の低い作業を彼らに押しつけてしまうことで、それら生産性の低い仕事がいつまでも温存されてしまうからです。
・そうではなく、上司は部下に「資料はよくできている。すばらしい。ところでこれは、いったい何時間かけて作ったんだ?」と問うべきなのです。 「徹夜しました」と言われたら、「徹夜!? じゃあ、おとといからやってるから全体で三〇時間くらいかけたのか? なるほど。今回の資料は本当にいい出来だから、次はこのレベルの資料が一五時間くらいでできるようになったら一人前だな。そうなったらすごいと思うよ」と褒めるべきなのです。 反対に、ごく短い時間で仕上げたと言われたら、「それだけの時間でこのレベルの資料を完成させられるなんてすばらしいな。どういうやり方で情報収集や分析をやっているのか、ぜひ次の会議でみんなに方法論を共有してくれ」と褒めればよいのです。
・生産性が向上したかどうかを評価するのは、紛れもなく成果に対する評価です。つまり生産性の伸びを評価基準とすることで、管理部門においても成果に基づく評価(量を評価する従来の成果主義ではなく、質を評価する成果主義)が可能になるのです。
研修プログラムにしろOJTにしろ、多くの企業は育成の主眼を平均的な社員に設定するため、トップパフォーマーの力がうまく引き出せていません。それでも目に見える部分では、トップパフォーマーの成果は一般社員の中のハイパフォーマーさえも上回っています。このため、誰も彼らの育成に問題が生じているとは気づかないのです。
「部下の指導をすることで学べることはたくさんある」とはよくいわれることで、私もそう思います。しかし、それよりはるかに多くのことを学べる機会が別にあるなら、トップパフォーマーにはそちらにチャレンジするよう促すべきです。
・人事考課において、今の自分は一年前の自分からどこがどれほど成長したのかを言語化させ、その成長レベルが十分かどうかという振り返りを行います。目標についても「一年後にはどういう点において、今よりどれほど成長したいか」という、具体的な目標を立てさせます。 もちろん、社内規定の評価においては「去年も今年もA判定」で構いません。しかしトップパフォーマーにはそういういった横並びの評価に加えて、「いかに去年の自分と今年の自分の違いを大きくするか=いかに成長幅を最大化するか」いう視点をもたせる必要があります。 これは、ボーナス査定や昇格判断のためではなく、成長支援のための人事考課です。トップパフォーマーの場合、一般的な評価にはあまり意味がありません。彼らにとっても重要なのは、さらなる成長支援のための特別な目標設定と振り返り(フィードバック)なのです。
多くの人は、A評価かB評価かという話ではなく、仕事に対する具体的で詳細なフィードバックを与えられると、極めて真摯にそれを受け止めます。自分の言動や仕事振りがポジティブに評価されていると知れば、たとえ報酬に反映されなくてもやる気につながるし、反対にネガティブなフィードバックを受けられれば、それが給与や役職に影響を与えないものであっても、重く受け止めます。
・このため「目の前の成果を上げるためには、部下の育成に時間を使うより自分が頑張るほうが早い」と考える人が出てきてしまうのですが、管理職がそんな発想のままでは、組織の生産性が上がることはありません。 反対に、部下のスキルアップが部門の成果を上げるための有効な手段だと認識されれば、「忙しくて部下の育成に手が回らない」のではなく、「忙しいから早く部下を育成しなければ!」へと意識を変えることができます(図表24)。仕事の成果は、自分や部下がより長い時間働くことで上げるものではなく、チームの生産性を高めることで実現するものなのです。
・チーム内の人手に対して仕事が多すぎるとき、最も避けるべきは、安易にアルバイトや派遣社員を雇い、仕事をそれら外部要員に任せてしまうことです。 これは、投入労働力を増やすという意味では、残業をして仕事を終わらせるのと同じです。社員の残業量が規制されているから、もしくは、正社員が残業をすると人件費が高いから、社員以外の時間を投入しているだけです。 しかも外部要員に付加価値の低い仕事を任せてしまうと、その仕事のやり方を改善しよう(生産性を上げよう)というインセンティブが組織から消えてしまいます。そして次第に誰も、それらが本来どのくらいの時間をかけてもよい仕事なのか、考えなくなってしまうのです。
・派遣社員を雇ったりIT投資をする前には必ず、 ・本当に残す価値のある仕事なのか? やめられないのか? ・やり方を抜本的に変えられないか? ・外注化やIT投資で、生産性はどれほど上がるのか? それは投資に見合うのか? などを確認するようルール化してしまうだけでも、無駄な仕事を減らすことに役立つことでしょう。
・一年に一度、仕事の閑散期に「部門内の仕事の洗い出しと、不要な仕事の廃止」を行うことを慣習化すれば、他にも多くのメリットが得られます。 ひとつは、部内の仕事の洗い出しを通して、各スタッフがどの仕事にどれくらいの時間をかけているかが把握できることです。管理職が「一時間くらいで終わっているはず」と思っていた仕事に部下は三時間もかけていた、ということはよくあり、指導機会を見逃さないという意味でも有益です。 また部下にとっても、「こんな仕事になんの意味があるの?」と疑問をもっていた仕事について、「その仕事は廃止できない。なぜならこういう価値があるからだ」と説明してもらえる貴重な機会となります。 面倒な仕事だと思っていても、その仕事に大きな意味があったのだとわかれば、今まで以上にやる気をもって取り組めるし、自分の仕事が後工程でどう使われるのか理解できると、より使いやすい形を考えようとするなど、自主的な生産性向上の取り組みも促進されます。
・これは実際の仕事でもまったく同じであり、研修の参加者はこのプログラムを通じて、マネージャーの役割とは、
 ・どれも正解でどれも不正解である複数の選択肢からどれかを選ぶこと
 ・選んだ選択肢に伴う問題をあらかじめ想定し、備えておくこと
だと学ぶわけです。 より端的にいえば、マネージャーの仕事とは、
 ・決断をすること、と
 ・リスクに備えておくこと
となります。 これを学んでおかないと、マネージャーになった後、決断すべきタイミングを迎えているのに延々と複数の選択肢のメリットとデメリットを分析し続ける「決められない管理職」になってしまいます。
・外資系企業の多くでは、こういった研修を新人だけでなく、マネージャーや部長にも、そして役員にも受けさせています。マッキンゼーの上級役員(パートナー)も、「顧客企業の経営トップとのコミュニケーション」をロールプレイング形式で学ぶグローバルトレーニングに定期的に参加します。 講師は何十年もコンサルタントを務めている各国のベテランコンサルタントですが、前述したように、ロールプレイング研修の学びは講師から得られるというよりは、ともに研修に参加する仲間から得られるものが大半です。
・そうはいっても、自分自身一度もロールプレイング研修を受けたことがない人事部や研修部のスタッフが、いきなり会社の制度としてそういった研修を企画するのは敷居が高いかもしれません。 そういうときは、自部門の新人向けのトレーニングから始めてみればよいと思います。自分はその相手役として研修に参加するだけでも、ロールプレイング研修の意義はよくわかります。 また、こういった「演じる」研修は最初は気恥ずかしく思えますが、何度かやっているとその効果の大きさが実感できるようになり、積極的に取り入れようという気持ちも高まります。
できあがったブランク資料は上司や顧客と共有し、「この資料のブランク部分に具体的な数字や情報が入れば、我が社は意思決定ができますよね?」と確認します。つまり、最初にブランク資料を作ることで意思決定への覚悟を問うことができ、後から「これだけの情報では意思決定はできない。もっと情報が必要だ」と、むやみに判断を引き延ばすことも不可能になるし、「意思決定をするかどうかはわからないが、とりあえず勉強したいので資料を集めてほしい」という生産性の低い仕事を減らす効果も期待できます。
・また、もし事前にブランク資料を見せられた上司や顧客から「これだけでは意思決定はできない」と言われた場合にも、どんな情報が足りないのかを口頭説明ではなくブランク資料の項目として提示してもらえるようになるため、何日も作業をした後で「欲しかったのはこういう資料ではなかった」というすれ違いが起こることもありません。 このようにブランク資料を使えば、資料作成だけでなく意思決定の生産性をも大幅に向上することができるのです。
・よくある「会議の議題一覧」と、「会議の達成目標」の違いは次のような感じです。 本日の会議の議題一覧
 1.来月の○○発売三周年記念イベントについて
 2.先月発売された○○の販売実績の報告
 3.来月実施予定の市場調査の方法について
本日の会議の達成目標
 1.来月の○○発売三周年記念イベントの、メインの出し物の素案出し
 2.先月発売の○○の販売目標未達の理由の共有と今後のてこ入れ策の決定
 3.来月の市場調査を○○リサーチ会社に発注すること、および、調査内容の詳細の最終確認
・ちなみに、大半の会議の達成目標は次の五つのどれかです。
 ① 決断すること
 ② 洗い出しすること(リストを作ること)
 ③ 情報共有すること
 ④ 合意すること=説得すること=納得してもらうこと
 ⑤ 段取りや役割分担など、ネクストステップを決めること
・それよりも、営業担当者と技術者など、異なる視点をもつ二者が議論のたたき台となるリストを作ってきて、会議ではその資料を見ながら、不足しているアイデアを追加していくほうが、圧倒的に生産性は高くなります。 こういった方法を「会議でアイデアの洗い出しを行う場合の標準プロセス」として統一してしまえば、会議の生産性は簡単に上げられます。誰かがひとりで行えば五分もかからない〝たたき台のリスト〟作りに、全員が雁首をそろえる会議時間を使うなど、あまりにも生産性が低いので「そういう会議のやり方は禁止です」と、研修で教えてしまえばよいのです。
「原則として資料の説明は禁止」というルールを作れば、会議の生産性は大幅に上昇します。
・会議体として結論を出すためには、まず、参加者個々人が自分の意見を決定し表明する必要があります。しかし中には、意思決定自体が不得意な人がいます。そういう人は意思決定が必要なタイミングを迎えても、「場合による」とか「一概には言えない」「もっと調べないとわからない」「情報が足りない(ので決められない)」などと、なんとか意思決定を逃れようとします。 こういう人には、意思決定の練習が必要です。「あいつは決断力がない」という言い方がありますが、「不確定な状況において決断する」のはビジネススキルのひとつなので、苦手なら練習をして身につければいいのです。
・個人としてポジションをとることに加え、会議では「組織としての意思決定」も必要です。結論が出せないまま終わってしまった会議については、「なぜ今日の会議では結論が出せなかったのか」を記録しておくだけでも、今後の会議の生産性を上げるヒントが得られます。 一番よくないのは、必要な結論が出なかったにもかかわらず、「今日はいい議論ができた」「多様な意見があることがわかった」などと言い、あたかも成果があったかのようにごまかしてしまうことです。決めるべきことが決められなかったのであれば、そのために使われた時間の生産性はゼロであった=無駄であった、という現実をきちんと見据えることが必要です。
・また、意思決定が必要なタイミングで「場合による」という答えを返してくる人には、「どういう〝場合〟なら、イエスという判断になるのか?」と、「場合による」の〝場合〟を明確化させます。
・たとえば、「顧客の反応がわからないから決められない」「販売すべきかどうかは顧客の反応次第」などという話になったとき、「では調査をしてから決めましょう」と意思決定を延期するのではなく、「調査の結果、顧客の四割は満足と回答、三割が機能には満足だが価格が高いと回答した」などと仮の情報を挙げてみて、「もし調査の結果がこうであったら、私たちは今、どういう意思決定ができるのか?」と確認しておくのです(図表34)。
・ベンチャー企業やオーナー企業の意思決定が速いのは、彼らが自分なりの意思決定のロジックをもっているからです。ロジックがあるから、部下に情報を集めさせればすぐに意思決定ができるのです。 「情報が足りないから今日の会議では決められない」という話になったときは、必ず「足りないのは本当に情報なのか? 意思決定のロジックは明確なのか?」という視点で確認をしましょう。「会議時間の短縮」に敏感な企業は増えていますが、本当は「意思決定の生産性」についてこそ、より意識的になるべきなのです。
・外資系企業やベンチャー企業のオフィスに、子ども向け施設のようにカラフルな部屋や、畳の部屋、観葉植物で埋め尽くされた部屋など、ユニークな会議室がつくられることがあるのも、通常のオフィス環境とは異なる雰囲気を生み出すことで、話し合いの生産性を高められると期待するからです。
・また、テーブルがあると資料に目を落として話を聞く人が増えますが、イスだけの会議室で小さなテーブルを脇に置くと、みんなお互いの目を見て話すようになります(図表36)。ディスカッションを多用する米国の高校や大学の教室で、小さな机が脇についたイスを使うのは、この効果を狙ってのことです。教科書を読んだりノートを書くことより、議論のほうが優先だと生徒に伝えたいのでしょう。
・まずは、カレンダー上に残る過去の会議を振り返りながら、各会議について、その成功度合いを%で評価します。五つの議案があり、すべてにおいて目標が達成されたなら一〇〇%の成功、三つしか決まらず、残りふたつは持ち越しになったなら六〇%といった具合です。
・時間の短縮だけでなく「どうしたらもっと活発な意見交換が行われるのか?」「どうすれば一定時間で意思決定が完了させられるのか?」といった方向からも、ぜひいろんな工夫を試してみてください。生産性とは、そういった試行錯誤を通して、少しずつ上げていくものなのです。
「労働時間が長すぎる → では労働時間を減らしましょう」というのもコインの裏返しです。そうではなく、「解くべき課題は生産性を上げることだ」と認識し、イノベーション(改革)や継続的なインプルーブメント(改善)を通して仕事の生産性を高めれば、結果として残業も労働時間も減少します。
・最近は、人工知能の進化によって、今ある職業の多くが消えていくという予測が世界各国で発表されています。人口が減らなければ、それらは大規模な失業問題に発展します。しかし幸か不幸か日本では、労働人口が急激に減っていくのです。
・急成長を続ける企業では長時間労働が常態化していることも多く、生産性への意識が低くなりがちです。また、投資家に高く評価されるとキャッシュフローが潤沢になり、人を雇うことで問題を解決しようという方向に流れがちということもあるでしょう。 しかし、同じように全員が遅くまで忙しく働いている会社でも、その実態はふたつに分かれます。ひとつは「生産性が低い人が仕事に忙殺され、忙しく働いている会社」、もうひとつは「生産性が高い人が長時間働いているハイパワーな会社」です。一見すると両社はどちらも「全員が長時間働いている忙しい企業」にみえますが、それぞれの企業が達成できるレベルには大きな差が生まれてしまうのです。

「ザ・会社改造」ミスミのケース

ミスミを創業社長から受け継いで、サブタイトルの通り340人からグローバルで1万人の企業に成長させた三枝氏が描くその軌跡。三枝氏がプロ経営者としてどのように会社を成長させていったかを、社外取締役時代に社長就任を打診されて戦略を練るところから始まって、様々な改革を相当具体的に書いているだけでなく、なぜそのような決断をしたのかなどを経営理論から説明もしており、全体として経営指南書になっているという極めて勉強になる一冊です。経営者は必読だと思いますが、すべてのひとにおすすめできます。

以下、抜粋コメントです。

何か異常を感じたとしても、それが本当に問題なのか、ただの思い過ごしなのかは咄嗟にはわからない。そういうときは、閉まった窓をもう一度開けてもらう。そして、しっかりなかを覗く。  それで何かを感知したら、現場に足を踏み入れる。ハンズオンで現物に触れる。問題の本質が何かを確かめる。周囲の部外者にも意見を聞く。問題がないとわかったら、サッと引き上げる。タッチ・アンド・ゴーで元に戻るのだ。優れた経営者の仕事は毎日、その動作の繰り返しである。

有能なリーダーは何か異常を見たとき、「どうもこれは本来の姿ではないな」と思い、頭のなかで警報が鳴る。そう思わない人は、異常だと思わず通り過ぎてしまう。

この経営スタイルはまさに今僕が目指しているものでした。うまくできることもあればそうでないときもありますが(どっちか分からないこともある)、しかし会社が拡大するにつれすべては見れないわけで自然にこのスタイルに落ち着くのだということが分かってある意味ホッとしました。

優れたリーダーはここまでの作業を要領よく行い、その結果、誰よりも先に次のセリフを言う。 「この問題って、要するに、こういうことじゃないの?」  このセリフを言う人は、リーダーシップを発揮している。リードとは「人より先を行く」という意味である。その人の説明は、重要な《因果律》だけを取り出しているので、「混沌」はかなり単純化されて「シンプル」になっている。それが核心を突いていれば、モヤモヤしていた霧が晴れて、皆が「なるほど、確かにそのとおりだ」と受け止める。  名探偵ポアロと同じく、優れた経営リーダーとは、この「謎解き」を正確かつ速く行う人である。毎分、毎時、毎日、毎月、毎年、これをきちんとやっている人が強いリーダーである。

組織内にそれをできる人がおらず、「混沌」のまま時間だけが過ぎ、皆が追い込まれて何となくやらなければならないことが見えてきてから「じゃあ、そうしよう」と言い出すなら、その人は後追いの「決定」をしているだけにすぎない。これでは、たとえ管理職であっても、リーダーの仕事をしているとはいえない。それに対し、優れたリーダーは、皆の機先を制して解決の方向を示す。まだ見えていないことが多い段階で「決定」というより「決断」を下すのである。

まさに状況をシンプルにする、誰も見えてないうちからイシューを提起して未然解決するのが美しい仕事であるということだと思います。特に難しいことはうまくいかないものです。

経営者の謎解き 26 乱暴な人事 乱暴な人事とは、潜在力と上昇志向が十分だと思われる社員に、現在の能力を超える挑戦の機会を与えることだ。本人のストレッチ限界に見合った《身の丈に合ったジャンプ》なら成功確率は高いが、ストレッチ限界を見誤って《身の丈に合わないジャンプ》をさせると破綻リスクが高まる。乱暴な人事は、経営者人材を最短距離で育てるために不可欠な手法だが、それには社内の嫉妬を伴う。乱暴な人事が成功するかどうかは、任命者がその人をどれほど我慢強く守れるかに依存する。

僕自身は結構意識的にやっているつもりなのですが、これからも乱暴な人事をやり続けられるか=僕以外のひとも乱暴な人事をできるか、がキーになってくるかなと思っています。

経営者の謎解き 27 ポジション矮小化 早期の抜擢や「乱暴な人事」を行うと、責任が上がったのに、下位ポジションの思考や行動をそのまま持ち込む者が多い。これを上位ポジションの「矮小化」と呼び、それはその組織の劣化を意味する。日本企業のサラリーマン化は、この現象の積み重ねによって進行した

いったん《ポジション矮小化》にはまってしまうと、上からきつい指導を受け続けない限り、そこから抜け出るのは容易なことではない。なぜなら、本人も周囲もその矮小化されたスタイルが当たり前だと思い込んでしまうからだ。

これは大企業のみではなくスタートアップでもありえる。ステージが変わったのに自分の仕事範囲を限定して考えてしまうケースで、本当にきちんと指摘しないと本人はまったく気づかない。これはこれによる損失が見えづらいのが問題で、本当はもっと成長できるケースは多いと思います。もちろんメルカリも逃してきた機会は非常に多いはず。。

会社のなかで昇進が早い人は、いまの自分の部署で「自分がここにいなくても大丈夫」という状態を早く作り出す。自分の後継者を早く育てたり、部署外から獲得したりする。逆に「自分がいないとこの部署は回らない」「自分はここで不可欠な存在」と思っている人の昇進は遅れる。なぜなら、「あの人をいま動かすと困る」と周囲が思うからだ。

これはまさにそうで、自分の代わりを見つけられないひとは多い。そして上記のポジション矮小化とリンクしていることが多い。今の仕事を他のひとができるようにできれば自分はもっと広義の仕事に移れるのに。

危機感を持ち、クールに問題に切り込もうとするトップは、現場から怖がられることはあっても、好かれることはほとんどない。それがトップの宿命だ。事業再生が必要な企業で「トップは人気者だが、他の役員やスタッフが社員から批判されている」という構図を見たことがあるが、それは病気の症状だ。

トップが自ら《ハンズオン》(現場主義)の経営スタイルをとらない限り、会社を改革したり、組織の危機感を高めたりすることはできない。トップが温かい人気者であり続けることなどないのである。本書各章の追い込まれた場面からも、読者はそうしたパターンが共通して起きていることを読み取れるだろう。

仲良しクラブになって結果が出ないことは結局全員が不幸になります。だから嫌がられても必要なことをやるしかない。もちろん間違うこともあってその場合は最悪なことになります。でも、そこから学んで自分で必死に考えて決断し結果を出していくしかない。

正直に書くと、「経営者人材の育成」という自分のカンバンに多少の迷いを感じることもあった。「いまは能力不足でも、育てるために面倒を見る」というやり方をやめ、人材の良し悪しの判断を早めて、こいつはダメだと思えばサッと入れ替えるようなやり方をとったほうが、この苦しさから抜け出る早道かもしれないと何度か思った。

これは健全な感情だと思います(が、言えるのはすごい)。しかしミスミが三枝氏退任後も順調に成長し続けていることを考え、かつ後継者育成が経営者としてのもっとも重要かつ困難な仕事であることを考えるならば逆に言えばこれ以外の方法はないのではないかとも思います。

納得のできる答え「超一流になるのは才能か努力か? 」

大抵のことは努力次第でなんとかなるというのを様々な研究結果から分かりやすく書いてあるのですが、なるほどと思う部分が多く、極めて勉強になる作品です。

数字を覚える研究、空軍のドッグファイト、バイオリン(グラッドウェルの有名な1万時間の話)や水泳の話、医療における習熟度の話、チェスなど、かなり具体的な話が多くストーリーとしても非常におもしろいです。

自らのコンフォート・ゾーンから飛び出すというのは、それまでできなかったことに挑戦するという意味だ。新しい挑戦で比較的簡単に結果が出ることもあり、その場合は努力を続けるだろう。しかしまったく歯が立たない、いつかできるようになるとも思えないこともあるだろう。そうした壁を乗り越える方法を見つけることが、実は目的のある練習の重要なポイントの一つなのだ。

結局のところ、コンフォート・ゾーンの外側で努力し続けることが重要なわけですが、これは本当に見に包まれる話で、自分自身も惰性になっている部分もあるなと多い、もっと海外に出るなど(プライベートにおいては水泳にコーチつけるなど)しないと反省しました。

<抜粋>
・『ニューヨーク・タイムズ』で音楽批評を担当するアンソニー・トマシーニは、コルトーの時代と比べて音楽能力の水準は大幅に向上したため、今日コルトーが生きていたらおそらくジュリアード音楽院にも入学を許されないだろうと述べている(3)。
・目的のある練習で一番大切なのは、長期的な目標を達成するためにたくさんの小さなステップを積み重ねていくことである。
自らのコンフォート・ゾーンから飛び出すというのは、それまでできなかったことに挑戦するという意味だ。新しい挑戦で比較的簡単に結果が出ることもあり、その場合は努力を続けるだろう。しかしまったく歯が立たない、いつかできるようになるとも思えないこともあるだろう。そうした壁を乗り越える方法を見つけることが、実は目的のある練習の重要なポイントの一つなのだ。
・前章の最後に「限界的練習によって具体的に脳の何が変わるのか」という質問を挙げたが、その答えの一番重要な部分がこれだ。エキスパートと凡人を隔てる最大の要素は、エキスパートは長年にわたる練習によって脳の神経回路が変わり、きわめて精緻な心的イメージが形成されていることで、ずば抜けた記憶、パターン認識、問題解決などそれぞれの専門分野で圧倒的技能を発揮するのに必要な高度な能力が実現するのだ。
・診断医学の心的イメージが未熟な医学生は、症状を自分が知っている疾患と結びつけ、拙速な結論を出そうとする傾向がある。複数の選択肢を思いつくことができないのだ。若手医師の多くも同じ過ちを犯す。くだんの警官が耳の痛みを訴えて救急医療センターに駆けこんだとき、そこの医師が何らかの感染症であろうと判断し(たいていの患者はそれで正解だ)、片目に異常があるという一見関連性のなさそうな事実を気にかけなかったのはこのためだ。
・これまでにさまざまな分野で実施されてきた多くの研究の結果を見れば、練習に膨大な時間を費やさずに並外れた能力を身につけられる者は一人もいない、と言い切って間違いないだろう。私の知るかぎり、まっとうな科学者でこの結論に異を唱える者は一人もいない。音楽、ダンス、スポーツ、対戦ゲームなどパフォーマンスを客観的に測れる分野なら例外なく、トッププレーヤーは能力開発に膨大な時間を捧げてきた。
・フェンはまず「00」から「99」までの一〇〇個の数字に対して、記憶に残るイメージを作った。次に頭の中に「地図」を描いた。そこには実在するたくさんの場所があり、特定の順序で巡っていくことができた。古代ギリシャ以来、大量の情報を記憶しようとする人々が使っていた「記憶の宮殿」の現代版と言える(14)。フェンは数字が読み上げられるのを聞くと、数字を四つずつくくり、最初の二つと次の二つをペアにしてそれぞれ二ケタの数字ととらえ、対応するイメージに変換し、頭の中の地図上の適切な場所に置く。たとえばあるテストで「6389」と聞くと、バナナ(63)と僧侶(89)として符号化し、両者を一つの壺に入れた。そしてこのイメージを覚えるため「壺の中にバナナがあり、僧侶がバナナを割いている」と自分に言い聞かせた。すべての数字が読み上げられると、頭の中で地図の順路をまわり、どのイメージをどの場所に置いたかを思い出しながら、それぞれのイメージを対応する数字に置き換えていくのだ。
・研究では、多くの分野の「エキスパート」は、評価の低い同業者やときにはまったく訓練を受けていない素人と比べて安定的に優れた成果を出すとは限らないことが示されている。心理学者のロビン・ドーズは名著『House of Cards: Psychology and Psychotherapy Built on Myth(「ハウス・オブ・カーズ──まやかしが支える心理学と精神療法」、未邦訳)』で、精神科医や臨床心理士の資格を得ている人のセラピーの力量は、最小限の訓練しか受けていない素人とまったく変わらないことを示す研究を挙げている(18)。
同じように金融の「エキスパート」が選んだ株式銘柄のパフォーマンスは、新米アナリストの選択や場当たり的に選んだものと比べて少しも優れていないことを示す研究も多い(19)。さらにすでに指摘したとおり、何十年も経験のある一般診療医と数年しか経験のない医師を客観的指標で比較すると、前者の評価のほうが低いこともある。若手医師のほうがつい最近までメディカルスクールにいたので最新の医学知識を学んでいるうえに、学んだ内容を覚えている可能性が高いのが主な要因だ。大方の予想に反して、医師や看護師の仕事の多くでは経験を積むことが技能の向上につながらないのだ(20)。
・心理学に興味がある人なら、傑出した技能を持つ人をつかまえて、作業への取り組み方とその理由を尋ねてみるとおもしろいかもしれない。だが相手が自分の手法を語ってくれたとしても、彼らが秀でている理由のほんの一端しかうかがえないだろう。というのも、彼ら自身にもそれがわかっていないからだ。
ここで重要なポイントをまとめよう。エキスパートを見つけたら、優れたパフォーマンスの理由と言えそうな、他の人とは違う部分を探そう。おそらく優れたパフォーマンスとは無関係の違いもたくさん見つかるだろうが、少なくともそれが第一歩となる。
グラッドウェルはバイオリン科のトップクラスの学生たちが一八歳までに注ぎ込んだ練習時間(約七四〇〇時間)を挙げてもよかったはずだが、あえて二〇歳になるまでに蓄積した練習時間を選んだのは、それが区切りのよい数字だったからだ。しかも一八歳と二〇歳のどちらをとるにしても、学生たちはバイオリンの達人には程遠かった。とびきり優秀で、将来はその道のトップに立つ可能性が高いと思われていたが、私が研究した時点ではまだ到底その域には達していなかった。国際的なピアノコンクールで優勝するピアニストは、三〇歳前後であることが多い。ということはおそらくそれまでに二万から二万五〇〇〇時間の練習を積んでおり、一万時間というのはその半分に過ぎない。
・ただ、それでまったく構わない。というのも本当の戦いは、パイロットが空から降りてきたあと、海軍のいう「事後レポート」と呼ばれるセッションで行われるからだ(2)。このセッションでは教官が訓練生を容赦なく詰問する。飛んでいるとき何に気づいたか。そのときどんな行動をとったか。なぜその行動を選択したのか。どこで誤ったのか。他にどんな選択肢があったか。必要があれば教官は戦闘機同士が遭遇したときのフィルムやレーダー部隊が記録したデータを取り出し、ドッグファイトの最中に具体的に何が起きたか指摘する。そして詰問の途中あるいは終了後に、どこを変えればよいか、何に目を光らせるべきか、さまざまな状況でどんなことを考えるべきかといったアドバイスを与える。そして翌日、教官と訓練生は再び飛び立ち、また訓練を繰り返す。
・すると、次第に訓練生はそうした問いを自らに投げかけるようになる。そのほうが教官から言われるよりずっとましだからで、毎日前日のセッションで言われたことを頭に叩き込んで離陸する。徐々に教えられたことが身につき、あれこれ悩まず、自然に状況に反応できるようになり、レッドフォースとの戦績も次第に改善していく。訓練期間が終了すると、他のパイロットとは比較にならないほどドッグファイトの経験を積んだブルーフォースのパイロットは所属部隊に戻り、飛行隊の訓練担当官として学んできたことを周囲のパイロットに教える。
たとえばふつうの企業の会議では、一人が前に出てパワーポイントを使ったプレゼンをして、管理職や同僚は照明を落としたスペースで眠気と戦う、という構図が一般的だ。こうしたプレゼンは何らかの業務上の役割を果たしているはずだが、アートはやり方を見直すことで会議に集まった全員にとってのトレーニング・セッションとしても役立つと説く。こんなやり方はどうか。話し手はプレゼンの間、特定のスキルに意識を集中する。聞き手を引き込むようなストーリーを語ること、あるいはなるべくパワーポイントのスライドに頼らず臨機応変に話を進めるといったことで、プレゼンを通じてこの点を改善するよう努力する。一方、聞き手のほうは話し手のプレゼンを見ながらメモをとり、終了後はフィードバックを与える練習をする。これが一回限りの試みで終わると、話し手は有益なアドバイスを得られるかもしれないが、一度の練習による上達などたかが知れているので、どれだけ効果があったかはよくわからないだろう。しかし会社がこれをすべての社内会議で行うようルール化すれば、従業員はさまざまなスキルを着実に伸ばしていくことができる。
・医者としての活動年数が長いほど能力が高まるのであれば、治療の質も経験が豊富になるほど高まるはずである。しかし結果はまさにその逆だった。論考の対象となった六〇あまりの研究のほぼすべてにおいて、医師の技能は時間とともに劣化するか、良くても同じレベルにとどまっていた。年長の医師のほうがはるかに経験年数の少ない医師と比べて知識も乏しく、適切な治療の提供能力も低く、研究チームは年長の医師の患者はこのために不利益を被っている可能性が高いと結論づけている。経験を積むほど医師の能力が高まっているという結果が出たのは、六二本の研究のうちわずか二本だった。医師を対象に意思決定の正確さを調べた別の研究も、経験年数が増える恩恵はごくわずかであることを示している(23)。  特に意外ではないが、看護師についても状況はよく似ている。詳細な研究の結果、きわめて経験豊富な看護師でも平均してみると看護学校を出てほんの数年の看護師と治療の質はまったく変わらないことが示されている(24)。
・それではアマチュアのテニスプレーヤーがテニス雑誌を読んだりときどきユーチューブの動画を見てうまくなろうとするのと変わらない。それで何かを学んだ気になるかもしれないが、腕が上がることはほとんどない。しかもネット上のインタラクティブな継続医療教育では、医師や看護師が日々の診療現場で直面するような複雑な状況を再現するのはきわめて難しい。
よく言われるとおり、正しい問いが見つかれば、問題は半分解けたようなものだ。プロフェッショナルあるいはビジネスの世界で技能を高めるというテーマにおいて正しい問いは何かと言えば、それは「適切な知識をいかに教えるか」ではなく「適切な技能をいかに向上させるか」である。
・では、どうすれば優れた教師が見つかるのか。このプロセスには多少の試行錯誤がつきものだが、成功の確率を高められる方法はいくつかある。まず優れた教師は必ずしも世界トップクラスである必要はないが、その分野で成功を収めた人でなければならない。一般的に教師は、自分あるいはそれまでの教え子が到達したレベルまでしか指導することはできない。あなたがまだ完全な初心者なら、それなりに能力のある教師なら誰でも構わないが、数年練習を積んだらもっとレベルの高い教師が必要になる。
・コールは博士論文に、ある高校生ゴルファーが自らの練習への向き合い方がいつ、どのように変化したか語った言葉を引用している(10)。  二年生のときのある出来事はよく覚えている。コーチが練習場にいた僕のところにやってきて「ジャスティン、何をしているんだ?」と聞いてきた。僕はボールを打っていたので「試合に向けて練習しているんです」と答えた。すると先生は「いや、していない。しばらく君を見ていたが、単にボールを打っているだけだ。ルーチン(決まった所作)も何もやってないじゃないか」。そこで僕らは話し合い、練習のルーチンを決めた。僕が単にボールを打ったりパッティングをするのではなく、具体的目標に向けた意識的行動として本気で練習を始めたのはそれからだ。
・だがカリフォルニア大学バークレー校で選手として活躍していたとき、コーグリンはプールで過ごす何時間もの間、自分が大きな機会をムダにしていることにはたと気づいた。ぼんやり他のことを考えるのではなく、自分の技術に集中し、一つひとつのストロークをできるだけ完璧に近づけようとすればいいのだ。特に自らのストロークの心的イメージを磨きあげること、つまり「完璧な」ストロークをしたときの具体的な身体感覚がどんなものか突きとめることに集中すればいい。理想的なストロークの感覚がどのようなものかはっきりわかれば、疲れたりターンが近づいたりしたときにその理想から外れてしまったらそうとわかる。逸脱をできるだけ抑え、ストロークを理想に近い状態に維持するよう努めるのだ。  そう気づいてからコーグリンは意識して自分がやっていることに没頭するようになり、プールにいる時間をフォーム改善に使うようになった。
目的のある練習あるいは限界的練習の最大の特徴は、できないこと、すなわちコンフォート・ゾーンの外側で努力することであり、しかも自分が具体的にどうやっているか、どこが弱点なのか、どうすれば上達できるかに意識を集中しながら何度も何度も練習を繰り返すことだ。職場、学校、趣味など日常の生活の中ではなかなかこのような意識的反復訓練をする機会がないので、上達するには自分で機会を作らなければならない。
・ここでまた思い出すのがベンジャミン・フランクリンだ。若い頃のフランクリンは哲学、科学、発明、著述、芸術などありとあらゆる知的探求に関心があり、そのすべてにおいて自らの成長を促したいと考えた。そこで二一歳のとき、フィラデルフィアでもとびきり才気煥発な一一人を集めて、「ジャントー」という名の相互啓発クラブ(「秘密結社」の意味があり、のちに発展してアメリカ哲学協会となった)を作った(21)。メンバーは毎週金曜の晩に集まり、互いの知的探求を後押しした。それぞれが毎回倫理、政治、科学について興味深い話題を一つ、持ち寄ることになっていた。トピックは通常、質問の形態をとっており、「論争や勝利を求める気持ちなど抜きに、純粋に真実を探求する精神にのっとって」全員で議論した。議論を率直で協力的なものとするため、ジャントーの規則は他のメンバーに異を唱えたり、自らの意見を強硬に主張することを禁じていた。そして三カ月に一度、ジャントーのメンバーはそれぞれ好きなテーマについて論文を書いて会合の場で読み上げ、それをみなで議論するといったこともしていた。
・ただもっと肝心なことを言えば、モーツァルトが六歳や八歳で作曲していたというのは、ほぼ間違いなく誇張である。第一に、モーツァルトの初期の作品とされるものは実際にはレオポルトの筆跡で書かれている。息子の作品を清書しただけだというのが父の言い分だったが、どこまでがモーツァルトの作品でどこまでが父親のそれか、われわれに知る術はない(すでに指摘したとおりレオポルト自身も作曲家であり、しかも自分が思うような名声を得られなかったことにいつも不満を抱いていた)。
・スポーツの技能に確実に影響を与えることがわかっている遺伝的要素は、身長と体格の二つだけだ。
・サバン症候群の人の多くはコミュニケーションをとったり、それぞれの方法論について質問に答えたりするのが難しいため、彼らがどのように特異な能力を獲得しているか、正確なところはわからない。ただ私が一九八八年の論文(22)に書いたとおり、サバン症候群の能力に関するさまざまな研究は、それが基本的に後天的に獲得されたものであることを示している、すなわち彼らが他のエキスパートと同じような方法で傑出した能力を獲得したことを示唆している。
・こうしたデータをすべて分析した結果は、他の研究者が示したものと類似していた。子供のチェス能力を説明する最大の要因は練習量であり、練習時間が多いほどチェス能力を評価するさまざまな指標のスコアは良くなった。それより影響力は小さいが、もう一つ有意な要因だったのが知能で、IQが高いほどチェス能力は高くなった。意外なことに空間視覚能力は重要な要因ではなく、記憶力や情報処理速度のほうが影響があった。すべてのエビデンスを検討した結果、研究チームはこの年齢の子供の場合、生まれつきの知能(IQ)も影響はするものの、成功を左右する最大の要因は練習であると結論づけた。
・もちろんIQテストで測定される能力は初期段階には役に立つようで、最初のうちはIQが高い子供ほどチェスがうまい。だがビラリクらの研究では、チェスの競技会に参加する子供たち、すなわち真剣にチェスに取り組み、学校の親睦クラブで打つより上の段階に進んだ子供たちの間では、IQが低いほど練習量が多くなる傾向が見られた。その理由ははっきりとはわからないが、推測はできる。エリートプレーヤーは全員チェスに真剣に取り組んでおり、最初はIQの高い子供のほうが多少楽に能力を伸ばしていく。IQの低い子供たちは追いつくためにたくさん練習をする。たくさん練習する習慣を身につけた彼らはやがて、それほど頑張らなければならないプレッシャーを感じなかったIQの高い子供たちを追い抜いていくのだ。ここから学ぶべき教訓はこうだ。長期的に勝利するのは、知能など何らかの才能に恵まれて優位なスタートを切った者ではなく、より多く練習した者である。
・ただ最も大きな恩恵を享受できるのは、これからの世代だ。われわれが子供世代に与えられる一番大切な贈り物は、自分は何度でもやり直せるという自信、そしてそれを成し遂げるためのツールである。若者たちには絶対に手が届かないと思っていた能力を手に入れる経験を通じて、自分の能力は自らの意のままに伸ばすことができること、生まれつきの才能などという古臭い考えにとらわれる必要はないということを、身をもって学ばせる必要がある。そして好きな道で能力を伸ばしていけるように知識とサポートを与えよう。

なぜ名経営者になったのか「スティーブ・ジョブズ 無謀な男が真のリーダーになるまで」

スティーブ・ジョブズとアップルについては本当に様々な本が出版されていて、起業家としては世界一成功した企業の事例としていつも参考にしています。しかし、あまりにも激しい性格のスティーブ・ジョブズがアップル復帰後なぜ名経営者となったのかについてはよく分からないのが実情でした。本書は、ジョブズに比較的親しいジャーナリストがジョブズの知られざる側面を紹介して、その謎に迫っています。

結論としては、追放事件後にあった様々な出来事がジョブズを変えていったということのようです。特にピクサーの二大天才ラセターとキャットムルとの仕事ぶりとその後の成功を見てひとを信じられるようになった、というのが大きかったのかなと個人的には思いました。

スティーブは、ラセターとキャットムル、そして彼らの下で働く才能豊かな社員が魔法を編み上げていく様から多くのことを学び、人生が大きく変わった。映画制作を始めたあとを中心にピクサーでスティーブが吸収した経営手法こそ、1997年のアップル復帰後、彼が手腕を発揮できた源泉である。この時期、彼の交渉スタイルは、勇猛果敢で押しの強いところを失うことなく微妙な駆け引きが可能なものとなっていく。先頭に立ち、やる気を引きだす能力を失うことなく、チームワークとは小さなグループを鼓舞して行け行けにする以上の、もっと複雑なことだとわかりはじめたのもこの時期だ。彼一流の鼓舞力を失うことなく、忍耐力を身につけはじめたのもこの時期だ。

いずれにしても、僕自身も聖人君子からほど遠い性格なので、非常に見に包まされるものがあったし、ジョブズがあそこまで自己改革して結果を出し続けたというのは励みになりました。

<抜粋(上巻)>
スティーブの仕事人生について一番の疑問はこれだ――支離滅裂、軽挙妄動を地で行き、意固地なあまり創業した会社を追い出された男が、なぜ、優れたCEOとしてアップルを再生できたのか、文化を一新するほどの製品を次から次へと作れたのか、世界一の価値を持ち、世界中の人々に称賛される会社にアップルを変身させる製品、社会的にも経済的にも文化的にも異なる何十億もの人々の日常生活を一変させるような製品を作れたのか、だ。スティーブ本人は、このあたりにまったく興味がなかった。内省的ではあるが回顧的ではなく「過去をふり返ってなんになるんだ? これから起きるいいことを楽しみにするほうが僕はいいと思うな」という電子メールをもらったこともあるくらいだ。
人は少しずつしか成長しない。「大人」ならわかっているはずだが、我々は自分の才能および欠点とどう付き合っていくのか、人生を通じて悩み、学んでいくのだ。成長というのは終わりのないプロセスである。また、いくら成長しても、まったく違う人間になれるわけではない。スティーブの成長をつぶさに検討すれば、つまり、自分の強みを生かす能力を彼がどう強化したのか、また、その強みを妨げる自分の性格をどう押さえ込んだのかを検討すれば、いろいろと勉強になるはずだ。欠点はなくならなかったし、優れた別の気質に変化したわけでもない。ただ、自分をコントロールする術を学んだ。自分の才能に混じる毒気をコントロールし、人当たりの悪さをコントロールする術を学んだのだ。
・フェルナンデスもコトケも3年前のスティーブにとっては大事な人だったが、その状態が続かなかったと考えてしまうのだ。ふたりともいまなおアップルに大きな貢献をしているわけではない、つまり、スティーブの人生に大きな貢献をしているわけではない、優先すべきは、たったいま、アップルをよくしようとしている人々だ、というわけだ。
・アップルからは、当初、年俸30万ドルにアップル株式50万株(1800万ドル相当)のオプションが提示されたが、スカリーはこれを蹴っている。
マックの華々しいデビューにより、突然、超有名人の仲間入りをしたのもよくなかった。えらくなってしまったのだ。ミック・ジャガーやショーン・レノン、アンディ・ウォーホルなどにマックを届けたり、サンフランシスコのセントフランシス・ホテルに1000人も集め、エラ・フィッツジェラルドにも登場してもらって30歳の誕生日を祝ったりした。高圧的な態度で、コンピューター業界から疎まれたりもした。マック開発中も、これは自分が大事にしているマシンで、そのアプリケーションを開発させてもらえるのは大きな特権なんだというかのような態度をとり、大事なソフトウェア開発者のコミュニティーから反感を買っていたとビル・ゲイツも証言している。
・1984年の第2四半期、マックの売上が崖から転げ落ちた。アップルⅡは、アップルの売上の70%を占めていた。IBMのPCは市場シェアを拡大。年が明けても状況は改善しない。マックは販売目標に遠く及ばず、アップルⅢとLisaに続く大失敗になりそうな勢いだった。アップルⅡの後継およびIBMキラーとしてマックに期待していた取締役会も、ついに、CEOにもその重要製品の部門トップにも先行きが見えていないことに気づきはじめる。
スティーブは無能な抑圧者からようやく解放されたと思っていたが、実はこのとき、彼はさまざまなものに縛られていた。名声、ささいなところまで完璧にしないと気がすまない性格、軽はずみかつ専制的な経営スタイル、業界分析能力の欠如、焼けるような報復の欲望、そして、このような問題を見ようともしない性格などだ。自分中心で理想ばかりを追い求め、現実世界では避けられない浮き沈みにきちんと対処できないと、とにかく、まだ、子どもだったのだ。  アップルが成功したのは、タイミングがよかったことと多くの社員の貢献があったからでもあるのだが、自分のことしか考えないスティーブにはそれがわかっていなかった。自分がどれほど多くの問題を引きおこしていたのかもわかっていなかった。事業についても、本当はほとんどなにも学んでいないことがわかっていなかった。スティーブがアップルのCEOだったのは、会社設立からマイケル・スコットが来るまでの何カ月かだけだし、その間も名前だけのCEOでしかなかった。だから、会社のリーダーとはどうあるべきなのか、ほとんどわかっていなかった。頭はいいので、社員が推進するたくさんのプロジェクトやアイデアに優先順位をつけなければならないことは理解していたが、それを上手にやれるようになるには、また、自分の考えが必ず最良だという思いを抑えて優先順位をつけられるようになるには、長い年月が必要だった。競争相手がうじゃうじゃいる領域でどう会社を立ちあげればいいのかもわかっていなかった。そして、自分にこのような弱みがあることが、まったく、わかっていなかった。
・サンは、創業から年商10億ドルまでを最速で駆けぬけたメーカーとして米国実業界で知られている。4年しかかからなかったのだ。そして、年商10億ドルという節目をサンが迎えようとしていた年こそ、スティーブが新会社を立ちあげた年だった。
・いまふり返ってみると、このときのノセラは、ジョブズを含めてほとんどの人が見ようとしなかったことを指摘している。すなわち、1986年のスティーブ・ジョブズはあまりに卑しくあまりに自己中心的、そして、あまりに未熟で、一流CEOに必要とされるバランス感覚がまったくなかったという点だ。
・本当ならすごい話だ。だがその実体は、単なる自信過剰、自己欺瞞の塊にすぎない。アップルを立ちあげたとき、スティーブは、事業経営がわかっていると思っていなかった。だから、少なくともしばらくは、メンターや先輩を頼みにしていた。だが今回は、給与やエンジニアリングからマーケティングや製造まで、すべてがわかっているという前提で行動している。どんな瑣末なことまでも、今回は自分が正しくやってみせると思っているのだ。
・自分に対する世の中の見方を信じていたからという面もあるだろう。メディアや投資家は、彼を天才として扱っていた。ロス・ペローも、「50年分の事業経験を持つ33歳」とジョブズを持ち上げていた。これが大まちがいだとジョブズはまったくわからなかった。なにせ、ロナルド・レーガン大統領の商務長官マルコム・ボルドリッジも、ジョブズにアドバイスを求めてくるのだ。有力メディアも、コンピューターや技術だけでなく、さまざまなことについてスティーブがどう考えているのかを知ろうと記者を西海岸に派遣してくる(私自身、そういう仕事でスティーブに取材し、産業政策、ロシアとの競争、薬物戦争、パナマのマヌエル・ノリエガ将軍について自信たっぷりに語られる意見を拝聴したことがある)。
・「思わぬ反応が返ってきて、あわてていることもありました。『向こうはどうして怒ったんだ?』と尋ねられることも一度や二度でなくありました。つまり、相手を怒らせようとしていたわけではないんです。品性下劣ということではなく、単純にスキルがなかったということでしょう」
・ここまでの成功を収めれば、ゲイツ本人に対する世間の認識も変わっていく。1980年代、彼は、IBMやアップルに懇願する側からスタートした。一方、そのころのジョブズは、コンピューター業界の富を代表する人物で、創設した会社のIPOにより時価2億5600万ドルもの株式を資産として持っていた。マイクロソフトは1986年3月に株式を公開し、45%の株式を保有するゲイツの資産は3億5000万ドルとなった。そして、1991年に取材をしたころ、その資産は10億ドルを突破して世界一若いビリオネアとなっていた。一方、すごい新製品を求めて徘徊を続けたスティーブの銀行口座は、その数字をめっきり減らしていた。主導権はビルに移り、コンピューター業界でなにがしかの役割をスティーブ・ジョブズが果たす未来はだんだんと想像しにくくなっていたのだ。
ビル・ゲイツというのもいろいろと気むずかしい人物なのだが、そのあたりは忘れられているようだ。2000年にマイクロソフトのCEOを退いたあと、ゲイツは世界的な慈善家として知られるようになり、公衆衛生や教育といった大変に難しい問題をなんとか解決しようとする長老的人物、親切で思慮深く、それでいて明確な目的意識を持つ人物だと一般には思われている。
・スティーブは、ラセターとキャットムル、そして彼らの下で働く才能豊かな社員が魔法を編み上げていく様から多くのことを学び、人生が大きく変わった。映画制作を始めたあとを中心にピクサーでスティーブが吸収した経営手法こそ、1997年のアップル復帰後、彼が手腕を発揮できた源泉である。この時期、彼の交渉スタイルは、勇猛果敢で押しの強いところを失うことなく微妙な駆け引きが可能なものとなっていく。先頭に立ち、やる気を引きだす能力を失うことなく、チームワークとは小さなグループを鼓舞して行け行けにする以上の、もっと複雑なことだとわかりはじめたのもこの時期だ。彼一流の鼓舞力を失うことなく、忍耐力を身につけはじめたのもこの時期だ。
・スピンドラーが追い出され、アメリオに交代する1996年ごろ、アップルは、どこを取っても規律がめちゃくちゃで混乱の極みとなっていたし、売上は本当にまずい勢いで縮小しつつあった。成長が終わり、キャッシュ不足となった会社は、お金という血を流しはじめる。生産能力も在庫も、そしてもちろん人員も、必要以上にだぶついていたし、支えられないほどにだぶついていた。期待の持てる新製品がもうすぐ出てくるという話もなかったし、水平線の向こうにそういう製品があるという話もなかった。スピンドラーがストレスに苦しんだのも当然だし、彼が首になったのも当然だ。アメリオと古参のアップル取締役マイク・マークラが買収してくれるところを必死で探し、サン・マイクロシステムズや長い歴史を誇るAT&T、さらにはIBMにまで声をかけたのも当然だ。破産申請を考えたのも当然だ。優れた最高財務責任者を必要としていたのも当然だ。
・だが、ガセーは戦術をあやまる。絞れるだけ絞り取ろうと無理をしたのだ。アメリオからの提示額は1億ドルほどで、実績があまりない会社の買収額としては妥当な額だった。ガセーはこれを突っぱね、1億2000万ドルを要求する。
・スティーブにとってこれは赤子の手をひねるようなものだった。アメリオはCEOでいたいだけで、パーソナルコンピューターの販売などほとんどわかっていないとスティーブは見ていた。だから、全力でアメリオを魅了しようとした。12月2日、アメリオCEOとエレン・ハンコックCTOを前に切れのいいプレゼンテーションを展開し、契約をまとめるためならなんでもする用意がある、NeXTを選ぶのが賢明な判断だと信じていると訴えた。そして12月10日には、パロアルトのガーデンコート・ホテルでおこなわれたビーとの最終決戦で、アビーとふたり、アメリオが「くらくらするほどだった」と言うほどのプレゼンテーションをNeXTオペレーティングシステムについて展開した。
・その後の報道では見過ごされるのだが、実は、基調講演の最後で新たなスローガンがひそかに公開されていた。このときスティーブは、物事を別の視点から見ようとすること、そういう方法で自分の考えを検証することがとても大事だと何度もくり返し訴えた。つまり、「シンク・ディファレント」が大事だと訴えたのだ。このキャッチフレーズが広告に使われるのはもう数カ月あとのことになるが、このときすでに、スティーブは、アップル再生の檄としてこのコンセプトを採用していたのだ。付けくわえるなら、このときすでに、スティーブは、フルタイムでアップルの仕事をするつもりにもなっていた。
「僕はボブ・ディランを見ながら大きくなったんだけど、彼は立ち止まらないんだ。真のアーティストというのは、なにかを極めた人というのは、そのあと一生、そのことを続けられると思うものなんだ。そして、すごく成功しているとほかの人には見られるかもしれないけど、自分が心から満足できることはないものなんだ。アーティストというのは、その瞬間、自分自身を理解するんだと思う。失敗を恐れずトライしつづけるなら、アーティストでいられる。ディランもピカソも、失敗を恐れずトライする人たちだ」

<抜粋(下巻)>
・直接的な効果がふたつあった。まず、アップル社員に誇りが戻りはじめたこと。クパチーノ・キャンパスのあちこちにビルボード広告が置かれ、ポスターが貼られる。スティーブがナレーターを務めたバージョンのビデオが折々社内に流されたし、1998年のエミー賞最優秀広告賞を獲得したあとには50ページの記念小冊子が全社員に配られた。
・彼からは、そういうすごい仕事をだれがしているのかを知られたくない、知られると他社に引き抜かれるから、などと返ってきたりする。これが本心のはずはない。シリコンバレーは狭い世界で、テクノロジー系の才能は株式市場もかくやと思うほど詳しくチェックされているからだ。本当のところは、製品や会社について、自分と同じくらい上手に語れる人はいないと思っていたからだろう。スティーブは常にすばらしい演技者であり、取材も演技だと考えていた。当意即妙な受け答えも得意で、自分なら、どのような場合にも広報のチャンスを最大限生かせると思っていた。
「会社というもの、信じられないほどの力を持つこの抽象的概念は、人類史上最高クラスの発明だよ。それでも、僕にとっては製品のほうが大事だ。おもしろくて頭がよくてクリエイティブな人々と一緒に働くこと、そうやってすばらしいものを生みだすことが大事なんだ。お金のためじゃない。だから、会社というのは、次なるすごいもの以上のなにかを生みだせる人々が集まったものなんだ。人材だよ。能力だよ。文化だよ。ものの見方だよ。次なるものを一緒に作る方法だよ。そのまた次なるものを、さらにそのまた次なるものを一緒に作る方法だよ」
・スティーブは、オペレーティングシステムのルック&フィールにこだわり抜いた。月曜午後のOSX会議では、鍵をかけた会議室で、対応中のものについて、一つひとつ、最新の状況をアビーが直接、実演によって示していたとスレイドは言う。 「OSXについては、くり返しくり返しチェックしました。ピクセルごとに、機能ごとに、スクリーンごとに、です。ジニーエフェクトはこんな感じでいいのか? ドックアイコンはどのくらいまで拡大するのがいいのか? 書体は? ダイヤルがこんなふうになっているのはなぜなのか? 毎週、こういうルック&フィールの一つひとつについて、スティーブの承認をもらうのです」
・スティーブのこういう面はなかなか見られないし、彼もこういう面をふれ回ろうとしない。世の中に広がるスティーブ像はどこまでも突きすすむ自己中の天才で、自分が成功するためにはどんな人も物も犠牲にすることをいとわない人間というものであり、であれば当然だが、他人を思いやる心などなくて、いい父親にもなれなければいい友人にもなれないはずだと思われている。私が知るスティーブは、そんなステレオタイプとは似ても似つかない人物だ。
ノーと言うこと。ソフトウェア機能にノーと言う、新規プロジェクトにノーと言う、新規雇用にノーと言う、無駄な会議にノーと言う、メディアからの問い合わせにノーと言う、さらには、将来的な収益予測の精度を高めたいというウォールストリートの欲望にもノーと言う。本質的でないと思われることやじゃまになると思われること、すべてにノーと言うのだ。このようにノーと言いつづければ、彼も含む社員全員が本当に重要なことに傾注できる。極限まで切りつめた4象限戦略に立脚した結果、くり返しくり返しノーと言う組織が生まれた。その組織がイエスと言うのは、全力で新規プロジェクトに突きすすむ用意ができたときだ。
これをキューは次のように表現している。 「スティーブのもとで仕事をすると、不可能を可能にできると学べるんです。くり返し、くり返し。これがいいんですよ」
・使ってみればすばらしいとわかる。iPodの発表会では、初めての試みとして、集まったジャーナリスト全員に製品が配られた。その後書かれた記事では、アップルが売り込もうともしなかった機能が絶賛されていた。その最右翼となったのが、興味を持つ人は少ないとスティーブが予想していたランダム再生機能である。
・スティーブは、商品を並べるのに使う空間がとても少ないのはなぜか、客は店内をどういう風に流れるのかなどと、不幸な店員をつかまえて質問攻めにする。また、店のインテリアを観察し、木材とアーチと階段、さらには、自然光と人工光がどういう具合に交錯し、客が法外な金額を使おうという気になる雰囲気を醸しだしているのかをチェックする。スティーブにとってこのような店は、自分にできていないことを実現しているところなのだ。つまり、ライフスタイル製品を美しくも教育的な形で展示することで、べらぼうな利益率で販売する、だ。こういう店では、商品の示し方も値段に含まれている。サーキットシティやコンプUSAの荒涼とした通路に退屈な販売員では、こういう売り方などできるはずがない。
・緻密に組み上げた基調講演の最後にスティーブがよく言っていたように、2003年には「最後にもうひとつ」があった。夏の終わりに腎臓結石の処置をしたあと、スティーブは、結石が残っていないことを超音波で確認してもらうために病院を訪れた。そして、超音波の影に気づいた泌尿器科医にもう一度来診するように言われたが、生まれてから49年間、病気らしい病気をせずに来ていたこともあり、医師の指示を無視してしまう。結局、あまりにうるさく来いと言われたので、そんな必要はないのにとぶつぶつ言いながら10月に診察を受けた。衝撃の結果となった。膵臓にがんらしき腫瘍があるというのだ。普通なら余命数カ月という場所だ。翌日、膵島細胞神経内分泌腫瘍と呼ばれる腫瘍で進行が遅く、治療できる可能性が高いことが判明する。一安心とスティーブもローリーンも胸をなで下ろしたが、この2日間は感情の乱高下で大変だった。
・アップルには正式な研究開発部門というものがない。スティーブは、どこか別の場所に先端研究をまとめ、なによりも重視している製品開発に携わる人々から見えないようにしてしまうのが嫌いだからだ。だから研究プロジェクトは会社のそこここで進められる。スティーブの承認を受けていないものも多いし、それどころかスティーブが知らないものも多い。そのプロジェクトや技術が有望だと側近のだれかが判断して初めてスティーブに知らされるのだ。そうするとスティーブがチェックし、集めた情報が彼の頭脳という学習機械に入力される。そこで話が終わってなにも起きないこともある。
・似たような技術について5種類ものプロジェクトが乱立するのは、アップルの場合、特に珍しいことではない。アップルにおける開発は、ある日「iPadあれ」とスティーブが宣言し、その意思を実現するため会社全体が全精力を傾けるという形で進められるのではない。そうではなくて、あちこちで常に可能性がぶくぶくと泡立っているのがアップルであり、その可能性を整理し、なにかまったく新しいものへとつなげる道筋を思い描くことがスティーブの仕事なのだ。
・だが、手術以上に有望な方法はみつからなかった。彼の「調査」は何カ月も続き、スティーブと近しく、がんについても知っている人々はじりじりするし、担当医は、がん細胞をすべて切除できる可能性がなくなりそうだと気が気ではなくなっていた。2004年夏、スティーブはついにあきらめ、スタンフォード大学メディカルセンターに入院。そして、7月31日土曜日、ほぼ終日を手術台の上で過ごす。外科医が彼の体を開き、腫瘍を切除したのだ。
スティーブのような病気にかかると、ゆっくり仕事に体を慣らしていく人や、「死ぬまでにやりたいことリスト」をこなすほうに走る人が多い。スティーブは、それまで以上に仕事に集中した。
・アップルを首にならなければ、まずまちがいなく、このいずれも起きなかったはずです。すごく苦い薬でしたが、でも、必要な薬だったのでしょう。人生というのは、ときどき、頭をレンガでがつんと殴ってくるものです。そういうとき、信念を、こだわりを捨てないでください。私が前に進みつづけられたのは、していたことが大好きだったからだと思います。みなさんも、愛していると言えるほどのものをみつけてください。これは、愛する人をみつけるのと同じくらい大切です。仕事というのは人生のかなりの部分を占めるものであり、そこで本当の満足を得るためには、すばらしい仕事だと信じることをするしか方法がありません。そして、すばらしい仕事をするためには、自分の仕事を大好きになるしか方法がありません。まだみつけられていない人は探しつづけてください。妥協しないこと。心がからむものはそういうものですが、みつかれば必ずわかります。そして、すばらしい関係とはそういうものですが、年を経るごとにもっともっとすばらしくなっていきます。だから、みつかるまで探しつづけてください。妥協しないでください。
・第2幕では、くり返し、くり返し、思いもよらないものからアップルの次なるすごいものが生まれてきた。iMacは、スティーブが打ち切ったeMateのデザインから生まれた。iPodとiTunesは、動画編集ソフトウェアにスティーブが筋違いの興味を抱いたから生まれた。スティーブが祝辞を述べたころ、アップルでは電話の開発が進められていたが、これは、一見するとなんの関係もない5チームがスティーブの後ろ盾を得て好きに研究を進め、その結果、スティーブとしては一番開発したかった製品、すなわちタブレットはあきらめたほうがいいという結論を出さざるをえなくなったからだ。
・こうしてスティーブが他社と話を始めたころ、アイズナーは社内で支持を失いつつあった。2003年秋にはウォルト・ディズニーのおいにあたるロイ・ディズニーが取締役を辞任。アイズナーに追い出されたようなもので、ロイは、辞任直前にCEOを鋭く批判するレターを公開している。
・ただ、実際にやってみると、通信料金の分配は双方にとってあまりありがたくないものだった。だから1年後、契約を変更し、AT&Tからアップルに支払う端末代金を卸売価格(小売価格より200ドルほど安い)ではなく小売価格とした。会計規則により、AT&Tから受けとった端末代金は2年間に分散できるので、アップルにとっては収益ストリームの平準化ができるし、支出の増減を和らげることもできる。AT&Tにしてみれば、それで懐に手を突っこまれなくなるのであれば文句はない。どちらにとっても、このほうがすっきりする――なお、アップルにとってはこの形のほうが有利だというのが、大方のテレコム分野アナリストの見方である。
2007年1月のマックワールドから8年間で、iPhoneは5億台以上も売れた。販売台数、生みだしたドル換算利益、世界中で販売するキャリアの数、作られたアプリの数など、どういう基準で判断しても、これほど成功し、これほど儲かったデジタル家電製品はない。
・「彼のこういう側面はまったく知られていません。アイザックソンの本なんてひどいものですよ。あちこちに書かれていることの焼き直しで、彼の人柄や個性のごく一部にしか光があたっていない。あれでは、自負心ばかりが強く、わがままで強欲な男という印象にしかなりません。ぜんぜん人間が描けていないんです。あそこに登場する人物とだったら、あれほど長い時間、一緒に働きたいなんて思うわけがありません。人生は短いのですから
・「スティーブは、みんなにアップルのことを愛してほしいと願っていました。アップルのために仕事をするだけではなく、心からアップルを愛してほしいと。そして、アップルとはどういう会社なのか、どういう価値を持つのかを深く理解してほしいと。そういうことを壁に書いたりポスターにしたりはしなくなりましたが、でも、みんなに理解してほしいと思っていたのです。大きな目的のために仕事をしてほしいと」
・この製品をスティーブが自分で紹介できるかどうかは疑問だったが、2011年3月2日、彼はiPad2紹介の舞台に立ち、広告と同じ思いを込めた言葉を述べた。 「アップルのDNAには、技術だけでは不十分だと刻まれている。我々の心をふるわせるような成果をもたらすのは人間性と結びついた技術だと、我々は信じている」

四面楚歌からの成功「野茂英雄 日米の野球をどう変えたか」

野茂英雄氏のメジャー挑戦を中心に比較文化論まで踏み込んでおり、非常に興味深いです。野茂氏がメジャーで成功した後の熱狂はなんとなく覚えてるのですが、その前の雰囲気はよく知らなかったので、こんな困難な状況で挑戦し、成功したのかと思い尊敬の念を新たにしました。

その後二、三週間、批判と侮蔑的な言葉が、野茂に激しく降り注いだ。誰もが彼に背を向けた。スポーツ紙、球界首脳陣、ファングループ、王、長嶋、星野仙一などの重鎮さえもが、彼を非難した。日本の球界ばかりでなく日本社会でもっとも強い力を持つ読売のオーナー渡邉恒雄は、野茂と野村を「ワル」と決めつけた。実父さえ、この移籍に反対した。 「近鉄の人たちを、こんな形で困らせることはないだろう。そんなに行きたければ、もっといい方法を探せ」
(中略)
「これよりいい方法なんかないさ」と野茂。「チャレンジしないまま残りの人生を後悔して過ごしたくない。メジャーリーグでぼくの力がどこまで通用するのか、試してみたいんだ」
(中略)
大変な勇気を要する行動だった。重圧がひどくなるにつれ、エージェントの野村でさえ、自分たちの行為に疑問を持ち始めた――本当に正しい選択だったのだろうか、と。  しかし野茂本人は揺るがなかった。一度として。 「心配ないですよ」と野茂。「ぼくらは正しいことをしているんですから」

私もなんとか世界でと思いやっているわけですが、相当に厳しいチャレンジであり、途方に暮れることも少なくありません。しかし、これを乗り越えなければ成功はないわけで、ダメだったら違った方法でといった感じで一進一退しながらやってます。もっと厳しい四面楚歌の中でここまでの成功を収めた先人がいることに勇気をもらいました。

<抜粋>
野茂のアメリカ進出物語は、はるか故郷を離れ〝野良犬〟からスタートした一人のマイノリティが、死に物狂いで働いて成功を勝ち取った、アメリカン・ドリームそのものだという気がする。アメリカという国は、そんな理念のもとに建国されたのだ。  野茂はさらに人種や民族の壁を打ち破り、日本人のアメリカ社会進出を促し、アメリカ人の前で日本人が胸を張れるよう手助けをした。その点で、彼は現代史における社会的な重要人物になったといえよう。
・奇妙なフォームと、うなぎのぼりの奪三振数のせいで、野茂は遠征先でも大人気。彼がアメリカ全土で観客を惹きつけたために、メジャーリーグ全体の観客数も、以前の活況を取り戻した。前年のメジャーリーグは、選手たちによるストライキとロックアウトのせいで、一九九四年のシーズン後半の三分の一がキャンセルを強いられ、プレーオフ、ワールドシリーズも中止という、前代未聞の事態になっていたのだ。
近鉄を去る決断をした直後に、どれほど笑いものにされたかを思い出したに違いない。これ以上近づくなという野茂の警告を、NHKのスタッフがうっかり忘れて近づいたとき、野茂はその後三年間もNHKの取材を拒否した。野茂がボイコットしたマスコミは、他にも枚挙にいとまがない。短時間のインタビューに法外な金を要求し、インタビューの中で、日本のシステムを「奴隷野球」と罵倒してみせた。
アメリカの議会議員の一部が、州議会の議事堂の芝生で日本車を叩き壊したこともある。しかしメジャーリーグのファンが野茂に夢中になったおかげで、両国間のとげとげしい関係は氷解したといっても過言ではない。『タイム』や『スポーツ・イラストレイテッド』の表紙を飾り、テレビのドキュメンタリー番組にも何度か取り上げられた。『ニューヨーク・タイムズ』紙は、日本国内のムードが確かに変わった、と指摘。その有力紙はこう書いた。 〈野茂がメジャーリーグ入りしたせいで、日本の鎖国癖は消えつつある〉
・野球のグローバル化にも少なからず貢献した。日本野球に詳しいメジャーリーグの重鎮はこう語る。 「野茂には勇気がある。現行のシステムに反旗を翻すほど勇気のある日本人選手は、私の知る限り野茂しかいない。彼が行動を起こさなかったら、たぶん今ごろメジャーリーグに日本人選手は一人もいなかっただろう。伊良部が先陣を切っていたら、どうなったと思う?」
王はこう語る。 「本当はメジャーリーグで腕試しをしたかった。しかし、たとえ読売にアメリカ行きを許されたとしても、ファンは絶対に許してくれなかったでしょう。当時はそういう風潮でしたから」
・野茂はオフシーズンに近鉄首脳陣との契約交渉に臨んだ。当時の彼のサラリーは一億四〇〇〇万円だったが、二〇億円の六年契約を申し出た。そして野茂の予想通り、フロントはこれを却下――そんな法外な契約金をとるには若すぎるし、今年の成績はひどかった。おまけに肩を壊しているではないか、と。  野茂は、はい、わかりました、と答えた。日本野球からの任意引退を表明したのは、その直後だ。
・その後二、三週間、批判と侮蔑的な言葉が、野茂に激しく降り注いだ。誰もが彼に背を向けた。スポーツ紙、球界首脳陣、ファングループ、王、長嶋、星野仙一などの重鎮さえもが、彼を非難した。日本の球界ばかりでなく日本社会でもっとも強い力を持つ読売のオーナー渡邉恒雄は、野茂と野村を「ワル」と決めつけた。実父さえ、この移籍に反対した。 「近鉄の人たちを、こんな形で困らせることはないだろう。そんなに行きたければ、もっといい方法を探せ」
・「これよりいい方法なんかないさ」と野茂。「チャレンジしないまま残りの人生を後悔して過ごしたくない。メジャーリーグでぼくの力がどこまで通用するのか、試してみたいんだ」
・大変な勇気を要する行動だった。重圧がひどくなるにつれ、エージェントの野村でさえ、自分たちの行為に疑問を持ち始めた――本当に正しい選択だったのだろうか、と。  しかし野茂本人は揺るがなかった。一度として。 「心配ないですよ」と野茂。「ぼくらは正しいことをしているんですから」
・『ニューヨーク・タイムズ』紙は野茂を、〈野球に本当の興味を起こさせる新鮮な息吹〉と評した。『タイム』や『スポーツ・イラストレイテッド』の表紙を飾ったばかりではない。スポーツ専用チャンネルESPNは野茂の特集を組んだ。まもなく野茂を「メジャーリーグの救世主」と呼ぶ声も出始める。まさにそのとおりだった。
日本の社会事情を研究しているアメリカ人レポーターに言わせれば、野茂がこれほど短期間に悪人からヒーローに変わってしまうことが、どうしても理解できない。野茂の通訳、マイケル奥村は、このおかしな現象を、次のように解説した。 「日本では誰も、先陣を切って波風を立てる役をやりたがらない。しかし、誰かが殻を破って成功すれば、みんな我も我もと追随する。開拓者になるのはとても難しいんだ」
・アメリカの考え方とは正反対だ。アメリカでは誰もが先頭に立ちたがるし、波風を立てるのは国民的娯楽である。  日本で野茂報道が増えれば増えるほど、彼の投球を一目見ようと太平洋を渡る日本人ツーリストの数も激増した。その数があまりにも多いので、ドジャースタジアム関係者は、和食レストランを開設して対処したほどだ。どちらを向いても、日本のマスコミだらけ。カメラクルーが駐車場のそこかしこをうろついた。グラウンドキーパーにインタビューを試みる日本人レポーター。アメリカ人ファンにインタビューする日本人レポーター。アメリカ人レポーターにインタビューする日本人レポーター。偉大なる野茂英雄を、アメリカ人がどう思っているのかを知りたがった。
・相手の機嫌を損なうのが苦手な吉井は、読売の要求に従おうとした。その矢先、心変わりのきっかけとなる電話が鳴った。野茂英雄からだ。野茂は人生でもっとも重要なことを言った。 「自分の気持ちに正直になった方がいいですよ。吉井さん、もしも日本に残って、ジャイアンツやほかのチームと契約したら、一生後悔しますよ。立ち止まって、自分が何をやっているのか考えるんです。自分自身をよく見つめるんです」
・ただで球場を使用できるようになったメジャーリーグ球団は、その余剰金を、選手不足の解決にあてることができた。日本や韓国、ラテンアメリカなど、ほかの国から選手を獲得する資金として活用したのだ。二〇〇〇年までには、メジャーリーガーの四分の一以上、そしてマイナーリーガーの四〇%以上が、外国籍となっていた。
・球団担当重役を見れば、このシステムがよくわかる。彼らは本社から短期間だけ派遣され、ほとんど野球を知らないケースが多い。二〇〇七年にオリックス・バファローズ球団社長に就任した人物は、うちのチームで名前を知っている選手はベテランスターの清原和博ぐらいだ、とレポーターに白状した。  メジャーリーグ球団が独立採算制をとっているアメリカでは、こんなことは考えられない。GMはチームを改善する方法を、寝ずに考える。日本では一球団が、ファームに三五人から四〇人程度の選手しか抱えていないが、アメリカではどのメジャー球団も、数層にわたるファームシステムに一五〇人以上の選手を抱えていて、GMは全員の名前を把握している。アメリカではチームの改善方法はないものかと、つねに頭をひねっているが、日本ではチームそのものを、単なる親会社の製品のPR手段としか考えていない。  こんな発想では、日本のプロ野球が赤字の海に溺れるのも無理はない。
・特筆すべきは、日本プロ野球が比較的不利な状況でプレーしなければならなかった事実だ。メジャーリーグでは、納税者が建てた新しい数百万ドルの〝レトロ〟な球場でプレーできるというありがたい契約が普通だが、日本プロ野球の場合は、独自の球場を持つケースがほとんどなく、アメリカではごく当たり前のさまざまな特権なしに、莫大な賃貸料を払って球場を借りなければならない。ボルチモア・オリオールズは、壮大なカムデン・ヤーズを無料で使っているし、シカゴ・ホワイトソックスはセルラーフィールドを年間たったの一ドルで借りている。  それにひきかえ福岡ソフトバンクホークスは、九州の福岡ドーム(福岡Yahoo! JAPANドームと名前を変えた)に、コンサートなど野球以外のイベントに使う独占権を含めて、年間五〇億円ほどの賃料を払っている。読売ジャイアンツは、ホーム球場の東京ドームの賃料として、1試合につき二五〇〇万円を支払わなければならない。日本ハムは、辺鄙な北海道の札幌ドームの賃貸料として、1試合に六三〇万円支払っている(埼玉西武ライオンズは独自のスタジアムを持っているが、それでも赤字はまぬかれない)。
広島から楽天に移籍したブラウンは、わずか1シーズンで解雇された。春季キャンプでアメリカ方式を採用したことが、ひんしゅくを買ったらしい。コントロールを良くするために投げ込みをして体で覚えさせる伝統的な日本方式ではなく、投球数を減らして肩の消耗を抑えるという方針だったという。後釜として、日本プロ野球界で指折りの封建的な監督、星野仙一が就任した。星野は「死ぬまで練習」や「愛の鞭」などを基本理念とする監督で、ときには選手を殴ることもいとわない。
・しかし二〇〇六年、日本も春季キャンプの妨げになるとして最初は参加を渋っていた第一回WBCで日本代表チームが優勝すると、日本とアメリカの均衡は破れた。周囲をあっといわせた優勝のあと、日本人のあいだで、日本野球はアメリカ野球にけっして劣らない、という声が盛んに聞かれるようになってきた。トレイ・ヒルマンもその意見に賛成だ。 「日本野球を見下すのをやめて、選手たちを正当に評価すべきだよ。日本のプロ野球は今やメジャーリーグ並みだ」
日本プロ野球の首脳たちは、システムを変える必要性を感じている。マーケティングや商品開発の方法を学ばなければならない。かなり本腰を入れて、金儲けの方法を研究すべきだし、自活の方法を学ばなければならない。  そうはいっても、彼らからは改革への熱意があまり感じられないし、一部の連中は、アメリカ方式を真似るのだけは嫌だ、と駄々をこねている。しかし、一九九二年以降、メジャーリーグの収入が五〇億ドル跳ね上がったことを考えれば、メジャーの経験が手ごろな手本になることは確かだ。  収入の三分の一は、チケット代だ。ぜいたくなスイート席を備えた〝レトロ〟な新スタジアムが、この二十年間で二〇も建った。しかも建設費は各市が負担し、メジャーリーグ球団はごくわずかの使用料、もしくは無料で使用を許可されている。  しかし残りの収入は、放映権の中央集権化、巧みな商品化とライセンス契約、さらにはメジャーリーグの驚異的なインターネットサイト、MLB.comの立ち上げによる収益だ。このサイトは二〇〇〇年に開設され、あらゆる試合をライブで中継するだけでなく、テープで収録したハイライトシーン、昔の名試合、ドキュメンタリー、トークショーなどを見ることができる。その収入は驚異的で、世界中の視聴者から、年間なんと五億ドルが転がり込んでくる。これに匹敵するものは、日本にはない。
・野茂はどうか。一九九五年にナ・リーグの新人王に輝き、一年目にナ・リーグのオールスター先発投手となり、二人目の日本人メジャーリーガーになり、メジャーリーグでホームランを放った初の日本人となり、両リーグでノーヒッターを達成したメジャーリーグ史上四人目の選手となった。さらに、一九九四年の選手会ストライキのあと、ファンが失っていた野球への興味と情熱を、野茂は単独で取り戻してみせた。もっとも重要な貢献は、後輩の日本人選手にとって、開拓者となったことだ。この重要性はあなどれない。
アメリカで初めて野茂のピッチングコーチになったデイブ・ウォレスによれば、 「彼は先陣を切った。なにもかも失い、得るものはなにもなかった。ほかの連中のために、お膳だてをしてやったのさ。今、みんながその恩恵をこうむっている。日本人選手はずっと恩に着るだろうな」
・「野茂英雄は野球殿堂に絶対入れるべきだと思う。両リーグでのノーヒッター達成、さまざまな賞の獲得、奪三振王――いずれも素晴らしいが、なにより、イチロー、松井秀喜、松坂大輔など、後進の日本人選手のために扉を開けたという業績だけで、殿堂入りに値するね。  メジャーリーグでプレーした最初の日本人というわけではないが、アメリカで成功したのは野茂が初めてだ。パイオニアになるためには、成功しなければならないが、彼はみごとに成功して、後進に道を切り開いた。日本のプロ野球関係者の中には、野茂は失敗する、いや、失敗すればいい、と思っていた人間が大勢いた。そんな中で、彼は選手生命をかけた。背水の陣となった以上、アメリカで成功しないわけにはいかなかった。そして、ちゃんと成功してみせた。
・ぼくにとって野茂の最高の思い出は、デンバーで達成したノーヒッターだな。彼にとってなにもかも逆風だった。高度はかなりあるし、空気は薄いし、ナ・リーグでもっとも手ごわい打撃陣だし、天候は悪いし、雨のせいで試合開始がかなり遅れていた。あんな状況でノーヒッターを成し遂げるのはとても難しいのに、やってのけた。何度もプロ根性を引き合いに出すけど、あれはメジャーリーグで培ったものではない。すでに日本で身に付けていたものだよ。アメリカに来て世界一の打者と対決したがっていた。で、それを実現し、成功した。しかもこんなに多くの後進のために扉を開けたんだ。どう考えても殿堂入りする人間だよ」  ――ピーター・オマリー(ロサンジェルス・ドジャース元オーナー)
・第一に、野茂の言語能力について。これは言いがかりというものだ。メジャーリーグを目指す大半の日本人選手と同様、野茂は移民ではない。彼は毎年ワーキング・ビザでアメリカに行っているが、野球をするためであって、文化に融合するためではない。アメリカの市民権どころか、グリーン・カードさえ要求していない。だいいち彼の場合、仕事をするのに英語はさほど必要ないのだ。彼はスポーツマンであり、外交官ではないのだから、住む気もないのにアメリカ社会への同化を求められる筋合いはない。

イトマン事件の裏側「住友銀行秘史」

主にイトマン事件の話について、当時住友銀行員であった國重氏(その後、楽天の副社長を勤めている)が詳細なメモを元にイトマン社内や住友銀行の内部抗争を再現したドキュメンタリー。

正直今までいくつかの書籍を読んでも、いろいろな経緯があるとはいえ銀行内にも気づいている人がいる中で、なぜイトマンにそれだけの融資がされて、そのお金が消えるにいたったのかがぴんと来なかったのですが、本書を読んでなるほどなと思いました。

イトマンは伊藤寿永光氏のゴルフ場案件などに融資をする見返りに、その融資金の一部を伊藤氏側から企画料などの名目でイトマンに入金させていた。河村社長はこの仕組みを利用することで決算利益を計上することができ、伊藤氏はイトマンから融資金を引き出せるという意味で両者にとって都合のいいスキームであった。

例えば、こんなスキームなど。本当によく考えるなと思う話がたくさんあって非常に興味深かったです。

正直、本書に書いてあることがどこまでが本当なのか、というかある側面では本当だとは思うのですが、イトマン事件について書かれたものはすごくいろんな立場があって、よく分からないところもあります。が、すごく歴史的に意味がある作品だと思います。

それだけでなく、スピード感があって抜群におもしろかったです。

<抜粋>
・創業家一族の持っていた株式の評価額は約400億円。ただし、バブル当時、儲け話には必ずと言っていいほど跋扈していた闇の勢力が手を伸ばそうとしていたこともあり、カネはイトマン系列の金融子会社イトマンファイナンスが出すが、保有は稲波山実業旧知の佐藤茂氏という人物に依頼することになった。  佐藤氏は旧川崎財閥の資産管理会社・川崎定徳の社長を長く務め、政界、財界、そして闇の世界に豊富な人脈を持つ「フィクサー」として高名だった。  もちろん佐藤氏に対しては、行内でも本当に信頼に足る人物なのか、途中で気が変わって株を他行などに売ってしまうことはないのかとの不安があった。株価によっては彼は大儲けすることだってできたからだが、結論から言えば、佐藤氏は住友銀行を裏切ることはなかった。佐藤氏はのちのイトマン事件でも大いに暗躍してくれることになる。
・私がカネの行き先を調べようと動いていたところ、40億円はある信用金庫の八重洲画廊の口座に入金されたとわかった。そこで大蔵省関東財務局の金融課長と話をして、信用金庫の預金の出入りを調べてもらっていた。もちろんそんなことは簡単にできるわけもなく、私のMOF担としての経験と人脈があったからこそではある。  口座の出入りはどうなっていたか。  なんてことはない。実は40億円はすべて、借り入れの返済と大口定期の運用に使われていた。要するに、真部氏は40億円を単に自分の金繰りのために使っていたのだ。当時はこれが政界に渡ったと言われ、東京地検が捜査までしたが、結局は尻尾を摑めなかったのも当然である。  最終的に1993年3月末、八重洲画廊は100億円の負債を抱えて倒産する。事件のころにはすでに金繰りが大変だったのかもしれない。
・こうして、1986年10月、住友銀行は平和相銀と合併した。  磯田会長は最後まで私のことを、「あの坊や」と呼んでいたらしい。松下室長によれば、磯田会長は「あの坊やを取締役にする」と言っていたようだ。私からすると笑止千万であり、磯田会長の取り立てがなくても、実力で取締役になれると思っていた。
・しかし、一番効果があったのは、支店長自らの営業だった。私が外回りをするのにあたり、前もって、部下に「今度の支店長は本社の企画畑を歩いてきたエースで、将来の頭取候補ナンバーワン」と言わせて回った。まあ、実際そういう評価もあったわけだが……。
・銀行員の人生というのは、まず一番の目標は支店長になること。支店長になった次は、取締役になること。それから、経営会議メンバーである常務から上になること。そして最後は頭取になることだ。
そしてこの1990年3月20日から記述を始めることにしたのだ。  それから2年あまり、スーツの内ポケットに入る、はがき半分ほどの大きさの縦長の手帳にメモを取り続けた。小さな字で記したメモは、最終的に手帳8冊分にもなった。ここから始まる話も、この手帳に残るメモの記述がもとになっている。
・さらに、先述したように河村社長はイトマンを使って住銀に平和相互銀行合併という大きな果実をもたらし、磯田会長からの絶対的な信頼を得るようになっていた。「天皇」である磯田会長の庇護を受ける河村社長に意見をできる人間はだんだんと減り、メーンバンクの住友銀行でも口を出しづらい河村ワンマン体制が構築されていた。しかし、それは同時に、人知れずイトマン内部に問題が吹きだまっていく過程でもあった。
伊藤寿永光氏は結婚式場チェーン平安閣の総帥を名乗っていたが、実体は協和綜合開発研究所なる自らの会社を中心にして地上げなどを手掛ける不動産のプロ。しかし、このころには資金繰りに窮しており、新たな金主を必要としていた。そこで、不動産事業を立て直したいと頭を抱えていた河村社長に「プロ」を自任して巧みに近づき、イトマンを喰い物にしようとしていた。
許永中氏は在日韓国人の実業家。大阪政界のフィクサーとして知られた野村周史に師事したことから、野村永中と名乗ることもあった。関西財界ではすでに株の仕手戦などに名前が浮上する有名人ながら、その実体がうかがえない怪人物として知られていたという。そんな許氏も河村社長の弱みに付け込み、同じくイトマンに喰い込もうとしていた。  のちに「イトマン事件」と呼ばれるようになる一連の出来事はイトマンのみならず、メーンバンクである住友銀行をも大きく吞み込んでいく。
・当然、池田氏へ多額を貸し付けていた債権者たちは債権回収に奔走し、それと並行するように雅叙園観光の経営権は池田氏から、許永中氏、そして伊藤寿永光氏に移っていく。  しかし、伊藤寿永光氏もまた乱発手形の処理に手こずり、資金繰りが追い詰められていく。そこで伊藤寿永光氏が接近したのがイトマンだった。雅叙園観光を舞台にした再開発計画をイトマン側に提示し、今度はイトマンが金づるとして利用されるようになっていくのだ。  その根拠となっているのは、ホテルが隣接する土地を買収して再開発し、新たな結婚式場やホテルなどの一大施設をつくるという計画だった。  ところが、後でわかったことだが、ホテルの建っている土地は、もともと目黒雅叙園を所有していた一族と大蔵省が所有しており、まったく売却の可能性はなかった。つまり、架空の計画に巨額の投資マネーが動いていたのだ。目黒雅叙園と雅叙園観光はまったく別の会社なのに、名前が似ているというだけで信用したのがあだになったようだ。何ともお粗末だが。
・ここで注意してほしいのは、河村社長と磯田会長の3月22日の会話だ(前出参照)。  河村社長はそこではっきりと「(伊藤氏の)バックにヤクザはなし」と語っているのだ。しかし、その裏ではこんな脅しまがいのことも平気で口にしていたのだった。河村社長は伊藤寿永光氏が闇の勢力と結びついていることを知りながら、それでも伊藤氏をそばに置いていたことになる。
河村・伊藤寿永光両氏に近い側と、そうではない勢力で、猛烈な綱引きが行われていた。そこに住銀内の人事もからんで、すさまじい権力争いの様相を呈していたのだ。  大上常務が前者に属していたのは一目瞭然。そして、伊藤寿永光氏と麻雀をしていたという西副頭取も。  支店長会議の後は、いつものメンバーで、東京・御茶ノ水にある行きつけのレストラン「ビストロ備前」で打ち上げだったのだが、磯田会長、西副頭取、秋津裕哉専務、塚田史城常務の4人は途中から浅草の料亭「花谷」へ麻雀に行ってしまった。  これは、西副頭取が秋津専務をアンチ玉井として、そして塚田常務をアンチ松下として引き入れようとしていた動きの一環だった。懸命に陣取り合戦が行われていたのだ。
・これはイトマン事件の深層に迫る重要情報だった。  というのも、ピサは西武百貨店系列の高級宝飾品店で、磯田会長の長女、黒川園子氏が嘱託社員として勤めていたからだ。そこで伊藤寿永光氏や稲川会の石井進会長が大量に絵を買っているというのは結論から言うとまさにこのとおりで、磯田会長のトーンが和らいでしまったのにはこの娘の事情があったわけだ。
・いろいろな情報が飛び交い、常に誰かと誰かが秘密裏に接触していた。誰もが自分のこと、自分の処遇とポストしか考えていないように見えることがあった。  自分だけは、そうならないようにしよう、この銀行を救うことを一番に考え、使命と大局観を見失わないようにしよう。私は自分にそう言い聞かせていた。
・通常、記者は自分だけの特ダネを狙うものなのだが、今回の場合はすでにその次元を超えていた。報じることによって銀行を、そして社会を動かそうとしていたのだ。そのためには一大キャンペーンを張らなくてはならず、他のマスコミも動員する必要があった。だから、私も読売新聞などとも接触を始めていたのだ。  私と心中してもよい──。重い言葉だった。大塚記者も本気だった。一世一代の大勝負だった。  しかし、このころには社内の目が厳しく光り始めていた。
のちにイトマン事件が明るみに出ると、この内部告発文書はさまざまに出回ることになる。しかし、これを誰が出したのか、誰が書いたのか、当時もいまも「犯人」はずっと特定されずにきた。気付いていた人もいたのかもしれないが、それは私であった。 「Letter」を出していること自体は、大塚記者も知っていた。が、それを私が自ら書いていたことは知らせていない。大塚記者は、私がイトマン内部の誰かに書かせていると思っていただろう。
・経堂のマンションとは、磯田会長が私有していたマンションだ。磯田会長は大阪府豊中市に豪邸を持っており、東京では住友銀行の用意した豪華社宅に住んでいた。そして経堂のマンションは誰かに貸していたのだが、それが誰なのか。何か匂う。  私はそう感じて調べていたのだった。
・しかし、私と大塚記者はこうした抵抗があればあるほど、ますます深い信頼関係で結ばれていった。真剣勝負だった。特ダネとか、自分の手柄を超えて、日本の経済・社会を何とかして救わなければ、ここで自分たちがやらなければ日本は本当におかしくなる。そんな危機感に私たちは突き動かされていた。
・佐藤正忠氏は、雑誌『経済界』を創刊、主幹を務めていた。のちに、河村社長から2億円もらってイトマンのちょうちん記事を書いたと自ら明らかにしている。
私にはイトマンにもディープスロート(内部告発者)がいた。その存在は非常に役に立った。「Letter」には、イトマンの封筒と便箋が必須だった。それを入手できたからだ。
今に至るまで誰一人として自分が書いていたと明かしたこともなければ、紙や封筒にも自分の指紋を残さないよう、扱うときには必ず手袋をし、最後に念を入れて、ふき取ることも忘れなかった。絶対に、ばれてはいけないと決意していた。攻めるなら、大きな戦略と細心の注意がなければ。  こういう細部の詰めにもこだわるところが、銀行員としては相当型破りの私が順調に出世していった理由かもしれない。私は基本的に「攻め」のタイプだが、メガバンクとは「守り」の組織である。そして徹底した減点主義。1回でもバツがつくともうおしまいだ。  そのなかで出世コースを昇っていけたのは、調子よく見えて、意外に細かいところまで気を付けていた、それが理由かもしれない。
・河村社長、伊藤寿永光、西副頭取のマッチポンプはひどいもの。磯田会長もうすうす気づいていると思う。先般も、磯田会長の女のことが週刊誌に出ると騒いだ。河村社長、伊藤寿永光、西副頭取がもみ消したことになっている。ところが、磯田会長は心配になって、巽頭取にももみ消しに行けと言った。巽頭取が行ったら、相手は「?」だった。まったくでたらめの話をでっち上げて消したふりをして、磯田会長の信頼を得る完全なマッチポンプ。  巽頭取はいろいろざっくばらんに話をしてくれた。 佐藤「関東のヤクザの間の常識では、野村永中と伊藤寿永光はもうイトマンをしゃぶりつくした。これ以上、カネが出ないとなると今度は住銀にやってくる。イトマンや河村社長が方々に約束した(と称する)事項の履行を求めて住銀に来る。そのとき、磯田会長が伊藤寿永光たちに深入りしていることは致命的に弱い。住銀にヤクザが来たときは自分の力で何とかする。心配しないでよいと巽頭取には言っておいた」
・私はかなり危惧していた。伊藤寿永光氏にあの調子でやられたら、住銀の連中はころりとだまされてしまうかもしれない。伊藤氏からしたら、住銀のエリートなど甘ちゃんばかり、赤子の手をひねるようなものだろう。それでは調査をしたが、「問題ありませんでした」ということになり、逆効果になりかねなかった。
・磯田会長の娘の園子氏、そしてその夫の黒川洋氏が重要なキーを握っているのは明らかだった。園子氏が勤める高級宝飾店ピサからイトマンは何百億円もの絵画を購入していたし、黒川氏の会社ジャパンスコープが住友グループのあらゆるところに喰い込んでいた。  これは周囲の人間たちが磯田会長のことをおもんぱかって、みなが勝手に黒川氏への厚遇を進めていった面が大きい。その結果、黒川氏の意図するしないにかかわらず、黒川氏がある種権力の結節点となってしまっていた。こうして権力は周囲から腐っていく。
・イトマンは伊藤寿永光氏のゴルフ場案件などに融資をする見返りに、その融資金の一部を伊藤氏側から企画料などの名目でイトマンに入金させていた。河村社長はこの仕組みを利用することで決算利益を計上することができ、伊藤氏はイトマンから融資金を引き出せるという意味で両者にとって都合のいいスキームであった。
・花月会とは、浅草橋の料亭「花月」でやっていた会合だ。東京国税と東京地検の幹部を招いて定期的に住銀が接待をしていた。だが、このころ、東京地検特捜部がコーリンの件で動いているという情報も伝わってきており、いかにも微妙なタイミングだった。
・仕事は部下がやってくれるから、皆時間はあるのだ。それをいかに使うか。私は銀行を変えたいと思って情報を集め、工作をする。少し格好つけて言えば、自分の信念があり、正義を貫こうとしていた。他の人たちは自分の拠って立つもの、一貫した筋がない。変幻自在、いかに出世をするかに腐心をして、人ごとに言うことを変えるようにする。そこに気を配って時間を使う。  私は、自分に絶対の自信があった。自惚れかもしれないが、能力があるのだと思っていた。だからそれを貫きたかった。  もちろん、自分がこれだけ陰で動いていることがばれれば、私のサラリーマン生活は終わる。それでも、私はおかしなことをおかしいと言わない連中への憤懣が強くあった。黙っていられなかったし、じっとしていられなかった。ばれて会社から排除されれば、それもまた一つの生き方である。  だから、誰に命じられるでもなく、誰に言うでもなく、私は一人で動いていた。  住友銀行のため、愛社精神というよりも自負心、プライドの問題だった。
・早くと願っていたことであり、遅すぎると焦り、地団駄を踏んでいた私だった。そのために、彼を苦しませ、傷つけたであろうことにまで手を染めた。だが、いざそのときが来てみると、なぜだろう、苦かった。  それほどまでに、権力の頂点にあった人物を引き摺りおろすのは重いことだった。  今の住友は十字架を背負っている。その原因となった人物は責任を取るべきなのだ。頭では理解している。だが……。  自ら手を下したことが実現した今、喜びや達成感というよりも、苦さがこみあげ、そして穴がぽっかり空いたような寂莫感はその後もあった。
・今回、西副頭取は辞表を出していない。恭順の意を表すのとはちょっと違う。生き残りを考えているようだ。西副頭取いわく「私(西)も玉井も一緒に辞めるべきだ」と。  9月16日の日経は玉井副頭取のリークだ。許せない。磯田会長を守ることは住友を守ることだ。結果として磯田会長をめちゃくちゃにしたことは玉井副頭取の責任だ。  いつからか西副頭取は後ろにひっこんで磯田会長が前面に出た。磯田会長のスキャンダル、私は知らなかった。
・かあっと、いろいろなものが一気にこみあげてきた。しかし、言葉にすることはできなかった。怒り、悔しさ、絶望、あきらめ、悲しさ……。  だからこの組織はダメになってしまったのではないか。こんなふうになってしまったのではないか。それなのに、この期に及んで、なぜ……。こんなことでは永久に変われない。おかしい、許せない、信じられない……。  頭取以下、テーブルを囲んでいる重役たちは誰も何も言わなかった。なぜ、何も言わないのだ。みんな住銀とイトマンを改革すると誓ったはずだろう。  私は立ち上がった。 「僕は……不愉快です」  やっとの思いでそれだけ言うと、踵を返してスイートルームを出て、エレベーターホールへと向かった。
・大阪銀行の本店営業部副部長という人が立ち上がった。 「それじゃあ玉井さん、そう一筆書いてくれますか」  玉井副頭取がそちらに向き直った。まっすぐ彼のほうを向いて言った。 「何を言っているんですか」  しんとした会議室に彼の声が響き渡った。 「逃げも隠れもしない。天下の住友銀行の副頭取の玉井が、みなさんの前で言っているんです。それにもかかわらず書いたものがいるんですか」  沈黙がその場を支配する。誰も、反論できなかった。
・巽頭取の見通しがいかに甘いものだったか、いかにまやかしの和解だったか。ここから河村社長を辞めさせるために、さんざん苦労することになる。  玉井副頭取と河村社長の会話にしても、言うまでもなく、これは心の通った本音の会話ではない。お互いに適当なことを言って相手の心を探り合っているのだ。  もし本音を言い出したら、玉井副頭取は「あなたが全部悪いんです」と言っただろうし、それに対して河村社長も怒り出す。だから、心の底ではお互いにバカにし合いながら表面上は取り繕い、いかにも和解したような話をしているのだ。
・終わった。目的は達成した。  だが、そこに高揚感はまったくなかった。  前日にはあった。いよいよ明日だ、行くのだ、成功させるのだ、絶対、と意気があがり、緊張感があり、力がみなぎっていた。  しかし、いざ目的を達成したときに、そこにはやり遂げたという充実感はなぜかなかった。  いや、達成したとは思っているのだが、後味が悪かったのだ。  一度は一緒に働き、同じ目的に向かった人の首を無理やりに切った。  確かに、それを目指していたのだが……。  私たちは皆、疲れ切っていた。
・喰い物にされようとしているのは、イトマン、住銀や富士銀行などだけではなかった。しかし、ある意味で伊藤寿永光氏や許永中氏の幅の広さ、あれもこれも、という貪欲さに感動すら覚えそうになるときがある。飽くなき欲望の追求。カネのためならば何でもする。
・当時は、総会と言えばヤクザが仕切るのが当たり前のことになっていた。イトマンの総会は、佐藤茂氏などの関東系の人々が扱っていたという。それが、伊藤寿永光氏が介入してきたことで東京から別の総会屋にうつった。それで、I氏がメンツをつぶされたと怒ったらしい。  しかし、伊藤氏の裏にもヤクザがおり、面倒になるのは避けたいということで、N氏は手を引いたというのだ。
だが、あるとき、知り合いの講談社の編集者と話していてイトマン事件の話題になり、私が何気なく手帳の存在を口にしたことがあった。今から20年近くも前のことだ。  その編集者はずっとそれを覚えていて、折に触れ、「手帳を公開する気になったらいつでも言ってください」と声を掛け続けてくれた。そのたびに私は「迷惑が掛かる人がいるかもしれないから」と口を濁してきたのだが、彼の「イトマン事件の記録はあなただけのものではなく、日本の経済史の一場面として、絶対に残しておくべきです」という言葉は私の中に残り続けた。  イトマン事件から、はや四半世紀が過ぎた。本書の登場人物の中にもお亡くなりになった方が少なくないし、住友銀行も三井住友銀行として生まれ変わった。今なら、さほど迷惑を掛けることもないだろう。幸い私はまだビジネスの現場で生きているが、70歳になったのを機に、あの事件を語れる人間の一人として記録を残しておくのも、自分に与えられた役割の一つではないかと考えるようになった。

政治家の決断の様子を知る「総理」

元TBS記者山口敬之氏が退職後に、安倍総理の周りの話を赤裸々に語っています。とにかくものすごい食い込み方で、全然知られていない一国の総理の決断の様子や他の政治家や官僚とのコミュニケーションがどのように行われているかがよく分かって非常におもしろかったです。記者の範疇を超えているのではないかと思わなくもないですが(それも原因のひとつとなり異動・退職している模様)、非常に価値がありかつ勉強になる作品であるのは間違いないです。

<抜粋>
本書を執筆する第一の目的は、私が至近距離で目撃してきた安倍晋三と安倍政権のキーマン達の発言と行動を詳らかにし、読者に「宰相とはどんな仕事か」「安倍晋三とはどんな人物か」「安倍政権はどのように運営されているのか」を広く知っていただくことにある。それが、「宰相にはどのような人物がふさわしいのか」「ポスト安倍に誰を選ぶべきか」を考える一助になればと思う。
・麻生は平素、同僚や後輩の政治家に敬語は使わず、親しみを込めて砕けたべらんめぇ口調で話す。しかし安倍が総理・総裁になった瞬間、麻生は安倍にきちんとした敬語を使うようになった。首相という孤独な仕事に携わる安倍への、麻生流の敬意の表現だった。
・「太郎、日本の歴史には小村寿太郎という人と、松岡洋右という人がいる。日露戦争後ポーツマス条約を締結して帰国した小村寿太郎に対しては、(戦勝国として十分な賠償を得られなかったとして)民衆から怒号が浴びせられ石が投げつけられた。一方、国際連盟を脱退して帰国した松岡洋右に対して当時のマスコミは『わが代表、堂々と退場す』と称揚し、帰国時には英雄として扱われたんだ」
・爾来葛西、与謝野、安倍の3人は、年に1~2回、政策課題を一つ選んで3人で合宿を行うようになった。テーマは憲法、財政、外交と多岐に及んだが、どのテーマにおいても、「誇り高き日本」をつくり上げていくことが議論の中心に据えられた。永田町では「勉強会」と名のつく会合は数知れないが、政策を徹底的に勉強し、とことん議論するために合宿までする真の勉強会を、私はほかに知らない。このストイックな勉強会が、若き安倍晋三の国家像や世界観を磨き、政治家としての芯を太くしたと言う関係者は少なくない。
最悪の形で総理を辞任した安倍は、正に政治家として地獄に堕ちた。安倍が経験したのは二つの地獄である。一つは、「総理の座を投げ出した敗残者」としての外部からの酷評。そしてもう一つは、「自信の喪失」という内面の崩壊である。
・「お前、石川の取材したことあるか? しっかりした考えを持った、爽やかな若者だよ。奴もいろいろあって大変だろう。俺は石川の人格攻撃をする気にはなれないんだよ」  落選の危機に瀕した選挙で、熾烈な攻撃を仕掛けてくる相手候補を褒める中川という人物に、私は半ば驚き、半ば呆れた。
なかでも、現在の安倍政権を支える大黒柱といえば菅義偉官房長官。これに異論を唱える人はいないだろう。安倍の菅への信頼は絶対的だ。安倍は政権が取り組む重要な案件のほとんどに菅を関与させ、具体的かつ強大な権限を与えている。そして与えられた権限をフル活用して菅が取り組んでいるのが官邸主導の政策立案であり、その骨格をなすのが霞が関をコントロールするための「人事術」である。菅は慣例にとらわれず、時に予想もつかない人事を断行することで官僚達をグリップしている。
・案の定、麻生と菅が面会した直後、当時の香川俊介財務事務次官が天下りの人事案を麻生のもとに持ってきた。麻生から連絡を受けた菅がこれを突っぱね、生え抜きの柳正憲を社長に据える人事案を財務省に提示した。これに対して財務省側は「大変恐縮ですが、柳さんでは能力的に務まりません」と言ってのけたという。しかし麻生と連携した菅は予定通り柳を社長に据えた。以来、柳氏率いる政投銀は、金融危機発生時の中小企業の資金繰りを支援するスキームを構築して地方創生を下支えするなど、安倍政権の様々な経済政策に関して積極的な役割を果たしている。
メディアはえてして、政権内部の人間関係が円満な時には「なれ合い」と批判し、意見の食い違いが見られる時は「不協和音」「閣内不一致」と攻撃する。果断な決断をした際には「独裁者」、協調を優先すれば「優柔不断」、党や役所の自主性を尊重した場合は「丸投げ」と攻撃する。要するに、為政者が「何を」「どう」やろうとも、メディア側はそれを批判する形容詞を用意しているのである。
・財務省は平素から、主要紙の経済部記者や経済評論家と頻繁に接触し、意見交換と称して情報提供を行っている。記者サイドは財務省のラインに沿った記事を書くことで、情報を一手に握る財務省幹部の「覚え」がめでたくなりその後の仕事がやりやすくなる。こうして財務省の立場を補強する言論が巷に出回りやすくなっているのである。財務省にとって経済系メディアのコントロールは、世論を誘導する重要なツールである。
しかし、安倍は即座に答えた。 「いや、やはり今は、俺はまだ麻生さんと直接会わない方がいい。中身の話をするのは、数字が出てからだ。麻生さんの現段階での考えを聞いてきてよ」  意見が食い違っているからこそ一回の直接会談ですべてを決めたい。安倍の勝負勘であり、麻生に対するマナーでもあった。  私は腹を括ってこう言った。 「わかりました。ただ、噓をつくのは嫌なので、今まで安倍さんと一緒だったことは、麻生さんに伝えますよ」 「そうそう、それでいいんだよ。麻生さんは、俺に伝わるつもりで山ちゃんにしゃべるよ」
・・オバマ大統領が他国の首脳と個人的な信頼関係を築くケースは極めて稀である。 ・史上最悪といわれる米ロ関係は、首脳会談を行うたびに互いの不信感がつのり、もはや修復は難しい。 ・イスラエルのネタニヤフ首相、「Special Allies(特別な関係)」と表現されるイギリスのキャメロン首相など、同盟関係を維持してきた国々の首脳との関係も、ギクシャクしている。  さらに興味深いのがオバマの学生時代のエピソードだ。当時交際していた女性から「I love you」と言われた時、オバマはしばらく沈黙した後、「Thank you」と答えたという。オバマの性格分析をしたアメリカのプロファイラーは二つの点に注目した。
・日本国民はここ10年余り、耳触りのいい政策をぶち上げる政治家に裏切られ続けた。反原発、反安保だけではない。「ガソリン値下げ隊」「最低でも県外」「消費税増税反対」。2009年の政権交代前夜から、民主党政権時代に受けた国民の落胆は、耳触りのいい政策そのものへの懐疑心へと変質した。日本の有権者は、たび重なる失望から学習したのだ。少なくとも、有権者はここ数年で、政治家がぶち上げる政策の中身もさることながら、その政策への思いや本気度など、政治家の信念の有無を値踏みするようになったといえる。そして国民の静かな、しかし重要な意識変化によって、永田町の力学も大きく変わりつつあるのだ。
・東京大学名誉教授で政治学者の北岡伸一は、2015年11月に訪米した際、昨今の国民意識の変化について、次のように語っていた。 「安倍は自らの祖父・岸信介以来滅多に見られなくなった『媚びない政治』を再興しようとしているのではないか。これは安倍独りの力で達成されるものではない。これまで裏切りを続けてきた、『媚びる政治家』への国民の本質的な嫌悪が安倍への静かな追い風となっていることは間違いない」
・貯金の使い方には人生観が映される。宰相も同じである。そして世界情勢は経済・安全保障の両面において不透明さを増している。だからこそ平成の日本のリーダーは、阿ることなく自身の信じる具体的な国家像を示すことが求められている。日本をどういう国にしたいのか、そのために何を是正し何を強化するのか。近隣諸国とどう付き合うのか。明確な国家像があって初めて、貯金の使い道が決まってくる。たとえ不人気法案であっても、全体の国家像のなかで辻褄が合えば、国民の納得を得やすくなる。

圧倒的に面白いストーリーが盛りだくさん「ORIGINALS」

オリジナルなことをして圧倒的な成果を出すにはどうしたらよいか? 様々な事例から描かれています。「たくさんのアイデアを出す」「先延ばしにする」「タイミングが重要」などなど。ただまぁ後付の議論であるのは否めません。著名人の知らなかった話もたくさんあり、ストーリーとして非常におもしろいです。

本書で知った驚きの事実をいくつかピックアップしました。

アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンは小麦と製粉の事業、漁業の運営、そして馬の生産に専念しており、革命活動に乗り出したのはアダムズの任命で植民地軍総司令官になってからだ。「私は、もてる権限のかぎりをつくし、何としてでもこの任務を避けようとした」とワシントンは書き記している。

かのミケランジェロは、システィーナ礼拝堂の天井のフレスコ画を描くようローマ法王に依頼されたものの、その仕事にまったく興味がわかなかった。自分は画家ではなく彫刻家だと認識しており、どうしようもなく苦痛でフィレンツェへと逃亡したほどだ。ローマ法王に強く要求されてようやくフレスコ画に着手したころには、すでに二年が経過していた。

その一〇〇年ほど前、ヘンリー・フォードはトーマス・エジソンの下でチーフ・エンジニアを務めるかたわら、自動車帝国を築きはじめた。エンジニアの職のおかげで生活の安定を維持することができ、斬新な発明を試すことができた。フォードはキャブレターの製造に成功してから二年間、その特許を取得してから一年間、エジソンの下で引き続き働いていた。

シェイクスピアを考えてみよう。  彼の作品のうち、私たちが慣れ親しんでいるのはほんの少数で、じつは二〇年間に三七の戯曲と一五四の短い詩を書いているという事実はあまり知られていない。サイモントンはシェイクスピアの戯曲のうち、現在、どの作品がどのくらいの頻度で上演されているか、そしてどの作品が専門家や批評家に幅広く称賛を受けているかを評価し、作品の人気度を検証した。  シェイクスピアは、もっとも人気の高い五つの戯曲のうちの三つ──『マクベス』『リア王』『オセロ』──を描いた五年のうちに、比較的平凡な作品『アテネのタイモン』と『終わりよければすべてよし』も書いている。  この二作品はいずれもシェイクスピアの戯曲のなかでは最低ランクとされており、できがよくない散文体、不完全なプロット、おもしろみのない登場人物などが批判されてきた。

キング牧師があの重要な演説を行なってから半世紀が過ぎたが、私たちの記憶には四つの単語がしっかりと刻まれている──「I have a dream(私には夢がある)」だ。  人類の歴史上のさまざまな名言のうち、このフレーズはもっとも有名なものの一つである。しかし驚くべきことに、この「夢」のアイデアは、実際の原稿にはまったく記載されていなかったのだ。ジョーンズの作成した草稿にも、キング牧師自身の最終原稿にも。

しかしここで待ったをかけるのは、心理学者のジョアン・グルーセックが行なった次のような実験だ。  まず、ビー玉を分け合いながら子どもたちを遊ばせた。その後、数人を無作為に選び、その行ないを褒める。 「ビー玉をあの子にあげたでしょう。きみはいいことをしたね。とても素晴らしいことだ。人の役に立つ行ないができたね」  次に、その他の子どもたちに対しては、その子の人柄を褒めた。 「きみはいつでも、ほかの人を助けたいと思っているんだね。きみは本当に素晴らしい子で、人の役に立てる子だね」  人柄を褒められた子どもは、その後もさらに気前よく振る舞ったのだった。  二週間後、「人の役に立てる子だ」と褒められた子どものうちの四五パーセントが、入院している子どもを元気づけるために図工の材料を寄付したが、「役に立つ行ないができた」と褒められた子どものうちでは一〇パーセントに留まった。  人柄を褒められると、それを自分のアイデンティティの一部としてとり込むのである。自分は単に道徳的な行動をとったのだととらえるのではなく、自分は本来、道徳心の高い人間なのだという、より統合的な自己概念が形成されていくのだ。

<抜粋>
・インターネットエクスプローラーやサファリという「ありもの(標準仕様)」を、そのまま使った顧客サービス係は、仕事に対しても同じ方法をとっていた。  つまり、営業の電話ではマニュアルどおりに会話を進め、苦情に対しても決まった手順で対応していた。会社側から提示された業務内容を固定したものととらえるため、仕事に不満を感じると欠勤するようになり、ついには離職する。  自発的にファイアフォックスまたはクロームにブラウザを変更した従業員は、仕事に対するアプローチが異なっていた。商品を売ったり顧客の疑問点に対応したりする新しい方法をつねに探し、気に入らない状況があればそれを修正していた。  自発的に環境を改善していくのだから、離職する理由などないに等しい。自分の好みの職をつくり出せるのだから。けれども、こういう人たちは例外である。
・じつのところ、神童と呼ばれた人が大人になって世界を変えることはまれだ。心理学者の研究によると、歴史上もっとも優れ、多大な影響をおよぼしている人たちは、子ども時代にはさして才能に恵まれていたわけではない。
・ではなぜ、天才児は才能にも野心にもあふれているのに、世界を進歩させるようなことを成し遂げられないのかというと、「オリジナルであること」、つまり独自のことや独創的なことを率先して行なう術を学んでいないからだ。
研究によると、創造性のもっとも高い子どもたちはむしろ、教師に好まれないことがわかっている。  ある研究では小学校の教師に、お気に入りの児童と気に入らない児童をあげてもらい、リストに示されている特徴に照らして、両グループの児童を評価してもらった。その結果、もっとも気に入らないと評価された児童は、まわりに同調せずに自分独自のルールをつくる子たちであった。
・アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンは小麦と製粉の事業、漁業の運営、そして馬の生産に専念しており、革命活動に乗り出したのはアダムズの任命で植民地軍総司令官になってからだ。「私は、もてる権限のかぎりをつくし、何としてでもこの任務を避けようとした」とワシントンは書き記している。
・それから二世紀近く経過したころ、キング牧師は公民権運動を主導することに不安を抱いていた。彼の夢は、牧師になり大学の学長になることだった。
・キング牧師はのちにこう思い起こしている。「事態があまりにも早く進み、じっくりと考える時間がなかった。その時間があったなら、指名を断った可能性があっただろう」  そのわずか三週間前に、キング牧師と妻は仕事について話し合っていたところだったのだ。「(妻とは)これ以上、コミュニティの重大な責務を引き受けるべきでないということで合意していた。私はそのとき論文を書き終えたばかりで、教会の活動にもっと身を入れる必要があったのだ」
・かのミケランジェロは、システィーナ礼拝堂の天井のフレスコ画を描くようローマ法王に依頼されたものの、その仕事にまったく興味がわかなかった。自分は画家ではなく彫刻家だと認識しており、どうしようもなく苦痛でフィレンツェへと逃亡したほどだ。ローマ法王に強く要求されてようやくフレスコ画に着手したころには、すでに二年が経過していた。
・また、ニコラウス・コペルニクスは、地球が太陽を回っているという独自の発見を発表しようとしなかったため、天文学は何十年ものあいだ停滞する結果となった。彼は自分の発見が笑いものになるのを恐れ、二二年ものあいだ沈黙を貫き、友人にしか話さなかった。  やがてある枢機卿がコペルニクスの研究のことを知り、発表を働きかける手紙を書き送った。それでもコペルニクスはそこから四年間も行動を起こさずにいた。彼の最高傑作が日の目を見たのは、ある若き数学者がみずから本にまとめて出版してからだ。
・真剣さがなく、入れ込みようが足りないんじゃないか?  全力投球せずに無難なところを狙いすぎて、失敗する運命にあるのでは?  だが実際は、そういう姿勢で臨んだからこそ成功したのだ。
リスクを嫌い、アイデアの実現可能性に疑問をもっている人が起こした会社のほうが、存続する可能性が高い。そして、大胆なギャンブラーが起こした会社のほうがずっともろいのである。
・その一〇〇年ほど前、ヘンリー・フォードはトーマス・エジソンの下でチーフ・エンジニアを務めるかたわら、自動車帝国を築きはじめた。エンジニアの職のおかげで生活の安定を維持することができ、斬新な発明を試すことができた。フォードはキャブレターの製造に成功してから二年間、その特許を取得してから一年間、エジソンの下で引き続き働いていた。
・グーグルやその他多くの優れたベンチャー企業への投資で成功を収めた伝説の投資家、ジョン・ドーアは、この事業に八〇〇〇万ドル(約八〇億円)を投入した。史上最短期間で一〇億ドル(約一〇〇〇億円)の売上げを達成する企業になるだろうという予測のもと、「インターネットよりも重要なものとなる」未来が拓けているという。
・だが実際は、オリジナリティを阻む最大の障害はアイデアの「創出」ではない──アイデアの「選定」なのだ。
・しかし、受け手の好みを知ったあとでさえ、心理学でいわれるところの「確証バイアス」──自分のアイデアの長所ばかりに目を向けすぎて、限界や欠点に関しては無視したり過小評価したりしてしまう──に陥りやすい。
・また、ピカソはファシズムに抗議してかの有名な『ゲルニカ』を描いたが、それに際して七九もの習作を描いている。『ゲルニカ』に描かれているイメージの多くは、初期のデッサンにもとづいていた。
サイモントンの研究によると、ある分野における天才的な創作者は、同じ分野にとり組む他の人たちよりも、とくに創作の質が優れているわけではない、という。  ただ、大量に創作すると、多様な作品が生まれ、オリジナリティの高いものができる確率が高くなるのだ。
・シェイクスピアを考えてみよう。  彼の作品のうち、私たちが慣れ親しんでいるのはほんの少数で、じつは二〇年間に三七の戯曲と一五四の短い詩を書いているという事実はあまり知られていない。サイモントンはシェイクスピアの戯曲のうち、現在、どの作品がどのくらいの頻度で上演されているか、そしてどの作品が専門家や批評家に幅広く称賛を受けているかを評価し、作品の人気度を検証した。  シェイクスピアは、もっとも人気の高い五つの戯曲のうちの三つ──『マクベス』『リア王』『オセロ』──を描いた五年のうちに、比較的平凡な作品『アテネのタイモン』と『終わりよければすべてよし』も書いている。  この二作品はいずれもシェイクスピアの戯曲のなかでは最低ランクとされており、できがよくない散文体、不完全なプロット、おもしろみのない登場人物などが批判されてきた。
・多くの人が斬新なものに到達できないのは、アイデアをちょっとしか出しておらず、その少数のアイデアを完璧に磨き上げることにとらわれているからだ。
・ネット上のおもしろいコンテンツを集めたウェブサイト『アップワーシー』では、猿がご褒美にキュウリを与えられる場合とブドウを与えられる場合の反応を収めた動画をアップする際、二人のスタッフが異なるキャプションをつけた。 「『猿の惑星』を覚えてる? けっこうリアルかも」というキャプションがつけられたものは八〇〇〇人の視聴者を獲得した。  ところが別のキャプションでは視聴者はその五九倍となり、五〇万近くもの人が同じ映像に引きつけられたのだ──「二頭の猿がもらった不公平な給料。さて、どうする」。  アップワーシーでは、ヒットを生むためには、最低でも二五のキャプションのアイデアを出すという決まりを設けている。
・ライス大学教授のエリック・デインは、専門知識と経験が深まるほど、世界の見方がある一定の状態に固定されてしまうとしている。
・先のバーグのサーカスの調査からは、同業者の評価に関心を抱くのは、同業者の判断が、いちばん信ぴょう性が高いからでもあることが示唆されている。
可能性のあるアイデアを選べるようになりたいのなら、相手がそれまでに「成功してきたかどうか」を見るべきではない。「どのように成功してきたのか」をたどってみる必要がある。 「ケーメンのことを調べてみると、優れた医療装置をいくつか発明したことがある信頼できる創業者であり、過去、彼と一緒に製品をつくった人たちは今も彼とともに仕事をしていることがわかりました」と、リーは語る。 「けれども、実際に製品を一からつくるとなると、日常的な業務運営や、製品の費用対効果を高めることが重要だったのです」
どちらを書くにも同等の能力が必要とされる。しかし、批判的なトーンの書評家のほうが、称賛したトーンの書評家よりも、知性を一四パーセント高く評価され、文学的な専門性は一六パーセント高く評価されたのだ。  楽しむだけなら素人でもできるが、批評するのはプロでないとできないと、多くの人は思うものなのだ。この例では、いくつかの表現を肯定的なものから否定的なものに変えただけである。
・「悲観的なことをいう人は、頭がよく見識があるように見られる」と、アマビールは書き記している。「一方で、肯定的な発言をする人は、世間知らずの楽天家だと見なされる」
・異議を唱える勇気を見せたおかげで、デュビンスキーは昇進した。  こういったケースはデュビンスキーだけではない。一九八一年から、マッキントッシュのチームは、ジョブズに挑戦した人のなかから毎年一人を選んで表彰していた──そしてジョブズはそういった人たち全員を昇進させ、アップルの主要な部門を任せていたのだ。
・オリジナルな人になるためには、いちばん最初に行動しなくてはならないわけではない。大成功を収めている人たちは、スケジュールどおりに到着しているわけではない。パーティには少しばかり遅れて着くぐらいが、格好がつくのだ。
・彼女は常識とは正反対の、ある考えを聞かせてくれた。 「先延ばしにするという行為が、オリジナリティにつながるのではないか」というのだ。先延ばしにするということは、やらねばならない課題を意図的に遅らせているということだ。その課題のことを考えてはいるかもしれないが、実際に進めたり終わらせたりするのをあと回しにし、別のあまり重要でないことをしている。 「課題を先延ばしにするというのは、ある一つのアイデアを決めてしまうのではなく、あれこれ考える時間をとっているのだと思う。その結果、より幅広くオリジナルなアイデアを考えられるし、最終的によりよいものを選べる」と、彼女はいう。
先延ばしは「生産性の敵」かもしれないが、「創造性の源」にはなる。  現代のわれわれは、産業革命とプロテスタントの労働倫理がもたらした、効率性への異常なほどのこだわりにとらわれているが、そのずっと前は、先延ばしすることのメリットが文明のなかで認められていたのだ。  古代エジプトでは、「先延ばし」を意味する二つの異なる動詞があった。一つは「怠惰」、もう一つは「好機を待つこと」を表わす言葉だった。
・「天才は、最小限しか仕事をしないときにこそ、もっとも多くを成し遂げることがある。そういうときに天才は、発明を考え出し、頭のなかで完璧なアイデアを形づくっているからだ」
・キング牧師があの重要な演説を行なってから半世紀が過ぎたが、私たちの記憶には四つの単語がしっかりと刻まれている──「I have a dream(私には夢がある)」だ。  人類の歴史上のさまざまな名言のうち、このフレーズはもっとも有名なものの一つである。しかし驚くべきことに、この「夢」のアイデアは、実際の原稿にはまったく記載されていなかったのだ。ジョーンズの作成した草稿にも、キング牧師自身の最終原稿にも。
・もっとも重要な要因は、アイデアのユニークさでもなければ、チームの能力や実行性でもなく、ビジネスモデルの質でも調達資金量でもなかった。 「いちばんの要因はタイミングです」とグロスはいう。 「成功と失敗を分けたのは、四二パーセントの場合でタイミングでした」
・オリジナルであるには、先発者である必要はない。オリジナルであるというのは、ほかとは異なる、ほかよりも優れているという意味である。
・三〇〇〇以上のベンチャー企業を調べたある研究によると、およそ四分の三の企業が、時期尚早に規模拡大を試みて失敗している。その規模を支える市場の需要がまだ存在しない段階で、投資に踏み切ってしまっているのだ。
・グループ①は、曲の流れているあいだ、それぞれ歌詞を黙読する。  グループ②は、流れている国歌を一緒になって大きな声で歌う。  グループ③は、全員が歌うのだが、一緒に歌うのではなく一人ひとりが曲を違うテンポで聞いて歌う。
・しかし、実際には影響が見られたのだ。一緒になって歌ったグループ②は、かなり高い確率でお金を山分けしていた。互いを似ていると感じ、一体感を覚えたと報告した被験者が、その他二つのグループの被験者よりも多かった。  じつは、同じ価値観をもつグループと協力をするとき、〝手段〟が共通していることが重要なのである。
・一方で、『九九パーセントの人々』という名称には、誰もが参加でき、好きな方法で運動を行なえるという意味合いが含まれている。ネーミングを節度あるものにし、幅広いやり方をとり入れていたなら、多数派の市民の支持を得ることも可能だったかもしれない。
・ダフィーのチームの説明によると、「態度が一貫しない人とのつき合いは、感情的なエネルギーを消耗し、うまく対処するための方策がより多く必要となる」とのことである。
・明らかに害になる関係を断ち切り、両価的な関係をなんとか維持しようとするのが私たちの本能だ。だが、本能とは反対のこと、つまり「フレネミー」を切り捨て、敵を味方にするようにしたほうがいいという証拠がある。  現状を打破しようというときに、人は敵を無視することがよくある。  変化に抵抗している人がいたとしたら、その人に時間を費やすことはムダだ。その代わり、すでに協力してくれている人とのつながりを強めることに力を入れたほうがいい、と思うのであろう。  だが、ずっと私たちに協力的だった人たちは、最高の味方にはならない。最高の味方になるのは、はじめは反対していたが、しだいに味方になってくれた人たちだ。
数十年間にわたって、ヨーロッパの一〇カ国以上の四〇〇〇人以上を追跡したところ、社会に出る際、第一子はあと生まれの子に比べて初任給が一四パーセントも高いことがわかった。高学歴のおかげで、より高い給料を稼ぐことができるのだ。  しかし、キャリアのスタート地点に見られるこのような有利な面も、三〇歳になるまでにはかすんでしまう。  あと生まれの子は給料が増えるのが早いからだ。あと生まれの子は、給料のよりよい仕事への転職をいとわないし、転職のタイミングも早く、回数も多い。
・しかしここで待ったをかけるのは、心理学者のジョアン・グルーセックが行なった次のような実験だ。  まず、ビー玉を分け合いながら子どもたちを遊ばせた。その後、数人を無作為に選び、その行ないを褒める。 「ビー玉をあの子にあげたでしょう。きみはいいことをしたね。とても素晴らしいことだ。人の役に立つ行ないができたね」  次に、その他の子どもたちに対しては、その子の人柄を褒めた。 「きみはいつでも、ほかの人を助けたいと思っているんだね。きみは本当に素晴らしい子で、人の役に立てる子だね」  人柄を褒められた子どもは、その後もさらに気前よく振る舞ったのだった。  二週間後、「人の役に立てる子だ」と褒められた子どものうちの四五パーセントが、入院している子どもを元気づけるために図工の材料を寄付したが、「役に立つ行ないができた」と褒められた子どものうちでは一〇パーセントに留まった。  人柄を褒められると、それを自分のアイデンティティの一部としてとり込むのである。自分は単に道徳的な行動をとったのだととらえるのではなく、自分は本来、道徳心の高い人間なのだという、より統合的な自己概念が形成されていくのだ。
・不正という一つの独立した行為であると、「一つぐらいズルをしても、まあ、どうにかなるかな?」という「結果の論理」で判断される。  ところが、〝根っからのズルい人間〟ということだと、自意識が呼び起こされ、「私はどういう人間だろう?」「私はどういう人間になりたいのだろう?」という「妥当性の論理」が作用する。  こうした事実が明らかになったことから、ブライアンは親や教育従事者、指導者、政策立案者に、人格を示す表現や言葉をうまくとり入れるべきだと提案している。  たとえば、「飲んだら乗るな」よりも「酔っ払い運転手になるな」としたほうがよい。
・グループが問題を解決し、かしこい判断を下すには、独自のアイデアや相反する視点が必要なため、メンバー同士があまり仲よくなりすぎないよう気を配らねばならない。
・業種に関係なく、主に三つの組織モデルがあがった。  ①「専門型」、②「スター型」、③「献身型」だ。  ①の専門型モデルでは、特定のスキルをもつ従業員の雇用を重要視した。創業者たちは、ジャバスクリプトやC言語でプログラムできるエンジニアや、たんぱく質の合成に関する深い知識をもった科学者を重用した。  ②のスター型モデルでは、有能な人材を迎えたり秀でた人材を引き抜いたりすることを重視し、現在のスキルでなく将来の可能性に焦点があてられていた。スター人材は、現在は特定分野に関する専門知識がなく荒削りであっても、知識を吸収できるだけの地頭のよさがあることが求められる。  ③の献身型の雇用方法は異なっていた。スキルも将来性も大事ではあるが、企業文化に溶け込むことを絶対条件としていたのだ。企業の価値観や基準と足並みをそろえることが最優先だった。  ③の経営者は、モチベーションに対しても一風変わったアプローチをとっていた。 「専門型」と「スター型」をめざす創業者は、従業員にむずかしい業務を与えたり、自主性を重視したりするのに対し、献身型モデルの創業者は、従業員間もしくは従業員と組織間を強い絆でつなぐことに注力していたのだ。 「家族」や「愛」という言葉で組織の人間関係を表現し、従業員は、組織の使命に熱い情熱を注ぐ傾向があった。
・献身型モデルの企業の失敗率はゼロだった──倒産した会社は一つもなかったのである。ほかのモデルを使った企業の未来は、そう明るくなかった。  スター型モデルの失敗率は高く、専門型モデルにおいては、三倍以上の失敗率だった。  一方で、献身型モデルの企業は、株式上場する確率も高く、株式公開時の株価は、スター型の三倍以上、そして専門型の四倍以上の値段がついた。  多くのベンチャー企業では、創業者に代わり新たなCEOを迎えたため、バロンのチームは、新CEOにも組織モデルに関するインタビューを行なった。  創業者のモデルは、次の世代のCEOが独自のモデルを導入したあとも、脈々と引き継がれていた──現行のCEOのモデルより重要か、少なくとも同等に重要なものであると認識されていた。
組織が成熟すると、献身型の企業文化にはどんな問題が生じるのだろうか? 「献身型の企業では、多彩な人材を引きつけて維持すること、あるいはそういった多彩な人材を融合させることがよりむずかしくなる」と、先述の社会学者バロンはいう。  それを裏づけるデータもある。組織は時間の経過とともに均質になる傾向があることを、心理学者のベンジャミン・シュナイダーが発見している。似たような人々を引きつけ、選び、互いを知る場を設け、同じ人材を維持し続けるなかで、多様な考えや価値観が薄れていくのだ。
・従業員が共通の目標や価値観でつながっていれば、予測可能な環境では効率的に仕事ができる。だがコンピュータ、宇宙産業、航空業界といった変化の激しい環境下では、強い企業文化のメリットは消えてしまう。  市場が動的になると、強い企業文化をもつ大企業は孤立してしまうのだ。
・企業戦略の研究者であるマイケル・マクドナルドとジェームズ・ウェストファルの研究では、会社の業績が低迷すればするほど、CEOたちは「同じような視点」をもつ友人や同僚からのアドバイスを求める傾向があった。  本来ならば逆のことをしなくてはならないのだが、異論を突きつけられることの心地悪さよりも、認められ、傷をなめあう心地よさを好んでしまう。
・そして強い文化による影響力は、その組織がどういう価値観や基準をもっているかに左右される。強い文化をつくり上げるためには、コアになる価値観の一つとして「多様性」を掲げなくてはならない。 「意見の相違を歓迎すること」──これが、ブリッジウォーターの強い文化と、単なるカルト集団とを分けるものだ。
同社では採用の際、ある人材が会社の文化に適応できるかどうかを、会社の文化にどれだけ近いかではなく、文化にどれだけ貢献できそうかで判断する。  ダリオが求めるのは、自主的な考え方ができ、企業文化を豊かにする人材だ。異論を唱えることに対する責任を従業員にとらせることで、全従業員の意思決定の方法を根本的に変えた。  カルト集団では、中枢を占める価値観は「教理」である。  ブリッジウォーターでは、従業員は社のルールにどんどん意見するよう求められる。  研修中の従業員は、ことあるごとに「あなたはこのルールに賛成しますか?」と聞かれる。
・文化人類学者のマーガレット・ミードの言葉を借りると、「思慮深い少人数の市民が世界を変えることはできないなどと、けっして思ってはいけない。むしろ、世界を変えてきたのは少人数グループだけ」なのだ。  自分が一人ではないと感じるには、支持する人が大勢でなくてもよい。
・ハーバード大学教授のジョン・コッターは、大規模な変革を考えている一〇〇以上の企業を調べた。それによると、まず企業が冒す失敗は、切迫感を植えつけられないことだという。  調査対象となった五〇パーセント以上の管理職が、会社は変わらねばならないのであり、それも「今すぐに」ということを、従業員に十分に説得できていなかった。 「重役たちは、従業員を安全圏から抜け出させることがどれほどむずかしいかを十分に理解していない」とコッターは記している。「切迫感がなければ、従業員は……必要な犠牲を払おうとしない。それどころか、現状にしがみついて抵抗するだけだ」
・大手製薬会社「メルク」社のCEOケネス・フレージャーは、イノベーションと変革を進めるために、重役たちにある提案をした──メルクを倒産させるようなアイデアを出してほしい、と。  それから二時間というもの、重役たちはアイデアを出し合った。メルクの競合他社になったつもりで、メルクの薬や未参入の市場を脅かすような薬のアイデアを考え、大いに盛り上がった。次に視点を自社に戻し、こういった競合他社に対して自社を守る方法を考えることが課題になった。  この「会社をつぶす」エクササイズは効果抜群だ。まず利益に焦点をあてて考えたのちに、損失の観点で問題を再構成することができるからだ。  単に画期的な新薬をつくろうと話し合っているとき、管理職たちはとくにリスクを冒そうとはしなかった。  しかし視点を変え、競合他社がこちらをつぶしかねないと考えたときには、イノベーションを進めないことがリスクだと気づいたのだ。イノベーションの切迫性は明らかだった。  変化を計画する人はたいていの場合、みんなの無関心にテコ入れするために、刺激的なビジョンを示そうとする。ビジョンを伝えることも重要だが、最初に伝えてもあまり意味がない。  他者に働きかけ、思い切った行動に出てもらうには、現状の何に問題があるのかをまず示す必要がある。安全圏から出てもらうためには、現況に対する不満やいら立ち、怒りを認識させ、確実な損失を示さなくてはならない。
・コミュニケーションの専門家で、優れたプレゼンテーションを研究してきたナンシー・デュアルテによると、もっとも素晴らしいプレゼンターはまず「今はこのような状況です」という現状を示す。そのうえで、「どうなりうるかを示して現状と比較」し、「その違いをできるかぎり大きく見せる」ということだ。
戦略の本質をひと言でいえば、「競合他社との違いをつくる」、これに尽きる。あっさりいってしまえば、競争戦略とは「他社と違ったよいことをする」ということだ。他社と同じでは完全競争に近づいてしまい、遅かれ早かれ儲からなくなる。だから違いをつくる。納得だ。と同時に、その「違ったこと」は成果(長期利益)を出すうえで「よいこと」でなくてはならない。これも当たり前のように納得がいく。  ところが二つ合わせるとどうも納得がいかない。「違ったこと」と「よいこと」はどうにも折り合いが悪いのである。「他社と違ったよいことをしろ」といった瞬間にジレンマに突きあたる。
・この点で本書が素晴らしいのは、ごく「ふつうの人々」を前提にしているということにある。オリジナリティの実現にはリスクをとらなければならない。しかし、信念とやる気に満ちた、徹底的にリスクを冒す奇才でなければならないというわけではない。むしろそうした人はオリジナリティを実現しにくい面があり、オリジナルな人たちは、われわれが漠然とイメージするよりもずっとふつうの人だ、と著者は強調する。  著者の立論は人間の本性にきわめて忠実である。
・だから「夢に日付を入れろ」という人はあまり信用できない。無理を通せば道理が引っ込む。自然な川の流れに逆らおうとすると、心身の調子が悪くなったり、挙げ句の果てに周囲の人に迷惑をかけたりすることになりかねない。

ホンダのポリシー「松明(たいまつ)は自分の手で」

ホンダ創業者のひとり藤沢武夫氏によるエッセーですが、とりとめのないように見えてひとつひとつが非常に勉強になります。

特にホンダは稀に見る後継者をうまく育てた会社だと思いますが、どのように権限委譲をしていったのかという役員室構想の話は今後役に立ちそうです。

役員室構想ですが、これをつくるまでは、重役は大部長制のようなもので、経理部長、営業部長、製作所長等々を兼務する重役なので、担当以外には知識もないし、また興味がないんです。口を出すのを遠慮もする。したがって、重役会議は自分の部門についての現況報告が多い。  企業の未来への道──これは大変むずかしい問題ですし、一口ではいえませんが──企業全体を把握した上での第三者的大局観といったものの必要は、一年に一度、あるいは二年に一度あるかどうかですが、企業はそれによって大きく展開するものだと思うのです。しかしそれを一人の人間に求めるのは、なかなかむずかしいことですから、大勢の重役の集団思考でこれをつくろうと考えて、役員室制度を構想したわけです。  重役になるくらいの人は、何かのエキスパートです。そういう人の担当部門をなくし部下を管理するわずらわしさから離れてもらって、一人だけの力で一部屋の役員室へ集まってもらう。日常毎日の話題は経験のないことでも、重役になるくらいの人は、担当者が気がつかないことを見つける力を持っているものです。また、共通の話題が厚くなれば、専門的な事柄もわかってもらえるから、話しやすくなり、誤解の出ようも少ない。

いや、重役は何もしないんだよ。俺もそれでやっていた。何もない空の中から、どうあるべきかをさがすのが重役で、日常業務を片づけるのは部長の仕事だ。所長であり重役であるというのは対外的な面子から、交渉のときもまずいだろうということでそうなっているだけで、重要な問題ではない。だから、役員は全部こっちへきて、何もないところから、どうあるべきかをさがすことをやってほしい」といったのです。

経営についても

今度のドル・ショック(注:昭和四十六年)に対しても、それによって転換すべきかを会社全体で考えればよいわけで、そのための集団思考を十二分に発揮できる体制は、いまや完全に整ったわけです。もはや本田なり私が決めるのではなく、下からのアイデア、上からのアイデア、いろいろなものをこね回し、集団思考でやっていける体制は完了したのです。  私は現在、企業に利益があるとかないとかよりも、その仕組みができたこと、そして全体のレベルを上げるべきだという社長の考え方がその中に織り込まれてあること、これが何よりも大切だと考えています。

企業には社是があり、経営の基本方針が決定されている。私は、経営とは、それにそっているか、どうかを見守っていることだと思っている。(中略)企業がスムーズに展開されて障害がなく、これからも同じように阻害さるべき要素を、未然に探究しておくことが、私は、経営だと思っている。

としており、非常に納得感がありました。

<抜粋>
とにかく、きのう入った人間が今日はもう親方ヅラしていたりね。権限の委譲なんて、もう日常のことですよ。というと体裁いいんだが、まあ、権限の取りっこをしているようなもんです。  給料もアンバランスだし、仕事もアンバランス。しかし、そのうちにも徐々に秩序というものはできてくるんですね。そうして、伸びるものは伸びる。いまの河島社長、川島副社長、白井、西田の両専務を始め、幹部連中はみんな、そんな中から頭角をあらわしてきたんですよ。創業期の熱気といいますか、そんなものがむんむんしていたんです。本田は、ナッパ服着込んで工場や研究所に毎日のように出向いていましたね。
私は、企業というものはリズミカルであり、美的なものでなければならないとつねづね思っている。企業に芸術がなければ、それは企業にならない。というのは、みんなの心に訴えるものは、新しい詩であり、音楽であり、絵であり、芸術的なものである。企業の中に、それがなければ、人は無味乾燥になってしまう。だから、そのリズミカルなもの、あるいは美しさといったことで、人の心を感動させるものが、ちょくちょくなければいけないと思ってますね。
・急激に膨張した会社だから、中途入社の人が多くて、その人たちは以前の経験、習慣で仕事をするんですね。思い思いの書類を使っていたし、ソロバンを持っているんですよ。私はソロバン嫌いだから、「そんなの使わないですむ方法ないの」って聞いたもんです。
・そこで、五月に金融引き締めが発表になると同時に、すぐ値下げを断行したんです。さらに、七月の第二回引き締めのときに、もう一回やれといってさらに値下げしました。  この二回にわたる値下げで、ドリームの価格は十五万円台になった。これには、みんなびっくりしちまったですね。その結果、ホンダは国内二輪車市場を八〇%くらい取ってしまって、シェアは絶対のものになったわけです。この時点で、ホンダのオートバイは、品質的にも、価格的にも、本格的に世界に通用する国際商品としての条件が調ったといえますね。外注工場も含めて、数量効果がまだ十分に出せた時代でした。
苦労しても、パイプは自分でつくらなければいけません。いっぺんつくってしまえば、それは自分のもの。ところが、他人のパイプにちょっと入れさせてもらうよ、といっても、いっぱいになれば、たちまち弾き出されてしまいますからね。
・市場調査では、アメリカよりも欧州が有望ということでしたね。当時、アメリカは二輪車の売れない国で、一年に六万台くらいの消費しかない。オートバイを乗りまわすのは、ブラック・ジャケットの暴れ者といった状態ですよ。一方、欧州は、有力なメーカーもあるし、年間三百万台もの二輪車が売れていたんです。  けれども、私は「欧州はだめだ。アメリカに行け」と主張したんです。アメリカこそホンダの夢を実現できる主戦場だというのが、私のかねての考えで、ですから、本格的な進出が可能になるまでは、サンプル輸入の注文があっても一台も出さずに、満を持していたんです。というのは、世界の消費経済はアメリカから起こっている。アメリカに需要を起こすことができれば、その商品は将来がある。アメリカでだめな商品は、国際商品にはなりえないという信念を、私は持っていたんです。
川島は、東南アジアにまず出るべきだという考えでしたね。地理的に見ても、ヨーロッパの有力メーカーと対抗でき、需要拡大も容易なのは東南アジアだというわけです。とにかくアメリカは、四輪自動車の市場として成熟しているし、現地の生活を見れば東南アジアの先行有望と見るのは、ある意味では当然だったでしょうね。  けれども、市場の規模は格段の差があるし、波及効果を考えれば、なんとしてもアメリカ市場の開拓が先決だという、私の考えは変わりませんでした。東南アジアで売れれば、当面短期的な効果は大きいけれども、世界商品として伸びていくという形にはとうていなりえないと見ていたわけです。
昭和三十四年の五月ごろでしたか、川島を呼んで、「おまえ、アメリカへ行け。俺の切り札はおまえしかいないよ。おまえが行ってだめなら、社長に頼んで、オートバイじゃない他の商売してもらうよ」といって、強引にアメリカへやっちまったんです。私は本当に、アメリカでだめなら、オートバイ企業の将来なんて先が知れていると思っていたものですからね。しかし、国内販売で十分経験を積んでいるとはいうものの、ほとんど未知のアメリカ市場に独自な販売網をつくり上げろというんですから、川島もあんまり嬉しそうな顔ではありませんでした。でも、この物好きは出かけましたがね。そして、この男がまたどでかいことをやりあげたわけですが……。
・ところで、これは何も営業に限らないが、私は陰へ呼んでこそこそ叱ることは、絶対やりません。なぜなら、人間なんてものは、叱られるようなこと、教えなければいけないことは、みんな同じなんですよ。だから、まとめて、全部の人に教えちまう。それには馬鹿でっかい声で派手にやるに限ります。このやり方は私自身の勉強にもなる。うっかりした叱り方じゃあ、皆に軽蔑されますからね。
・そこで私は、「私の記録」というものを書こうではないか、と提案したんです。だれしも定年で退職するときには、なにがしかの退職金を受け取ります。しかし、退職金がその人間の仕事を語っているわけではない。どんな仕事をし、どんな成果をあげたかがわかるわけではありません。だから、考えたことは記録で残す。それを同僚も見、班長も課長も見て、公認のものにする。そうすれば、たとえば転職する場合でも、エキスパート要員として認められるし、退職するときも、息子や孫に自分の仕事の歴史を知ってもらうこともできるわけですね。  各職場で「私の記録」が書かれるようになりました。これは望ましい副産物も生みました。現場ではしばしば、口の達者な者が無口の者の仕事を横取りしてしまうようなことがありますけれども、「私の記録」が書かれるようになってから、うまく立ち回って、聞きかじりでうまいことをいって成功するといった輩が、影をひそめたんです。
・ところで役員室構想ですが、これをつくるまでは、重役は大部長制のようなもので、経理部長、営業部長、製作所長等々を兼務する重役なので、担当以外には知識もないし、また興味がないんです。口を出すのを遠慮もする。したがって、重役会議は自分の部門についての現況報告が多い。  企業の未来への道──これは大変むずかしい問題ですし、一口ではいえませんが──企業全体を把握した上での第三者的大局観といったものの必要は、一年に一度、あるいは二年に一度あるかどうかですが、企業はそれによって大きく展開するものだと思うのです。しかしそれを一人の人間に求めるのは、なかなかむずかしいことですから、大勢の重役の集団思考でこれをつくろうと考えて、役員室制度を構想したわけです。  重役になるくらいの人は、何かのエキスパートです。そういう人の担当部門をなくし部下を管理するわずらわしさから離れてもらって、一人だけの力で一部屋の役員室へ集まってもらう。日常毎日の話題は経験のないことでも、重役になるくらいの人は、担当者が気がつかないことを見つける力を持っているものです。また、共通の話題が厚くなれば、専門的な事柄もわかってもらえるから、話しやすくなり、誤解の出ようも少ない。
・「いや、重役は何もしないんだよ。俺もそれでやっていた。何もない空の中から、どうあるべきかをさがすのが重役で、日常業務を片づけるのは部長の仕事だ。所長であり重役であるというのは対外的な面子から、交渉のときもまずいだろうということでそうなっているだけで、重要な問題ではない。だから、役員は全部こっちへきて、何もないところから、どうあるべきかをさがすことをやってほしい」といったのです。
・そうしたら、「俺は長いこと工場にいたんだから、本社にきてもしようがない」とか、やれいままでは経理をいじってたとか、資材部長だった、営業部長だったと、いろんなことをいうわけです。確かにそれまでは手足も大勢いたのが、全然なくなって秘書室といっても、大勢の重役に女性二人くらいしかつけてもらえない生活になり、たいへんご不満だったようです。
・今度のドル・ショック(注:昭和四十六年)に対しても、それによって転換すべきかを会社全体で考えればよいわけで、そのための集団思考を十二分に発揮できる体制は、いまや完全に整ったわけです。もはや本田なり私が決めるのではなく、下からのアイデア、上からのアイデア、いろいろなものをこね回し、集団思考でやっていける体制は完了したのです。  私は現在、企業に利益があるとかないとかよりも、その仕組みができたこと、そして全体のレベルを上げるべきだという社長の考え方がその中に織り込まれてあること、これが何よりも大切だと考えています。
・企業には社是があり、経営の基本方針が決定されている。私は、経営とは、それにそっているか、どうかを見守っていることだと思っている。
・企業がスムーズに展開されて障害がなく、これからも同じように阻害さるべき要素を、未然に探究しておくことが、私は、経営だと思っている。
・大企業になっては、経営というものは厳しいものであり、個人の趣味、興味というものとは関連がなくなってきている。  端的にいって、私には大きすぎるように思われる。将来のことを考えるとき、経営を会社全体の姿でやっていかれるようにしたいと思っている。  だから、今までもそうであったけれど、私は幹部の研修会には必ず出席して「ものの見方、考えの起点、具体的発展」という点を強調している。そのような基盤ができ上がれば、経営は次の時代を背負う人にとって、しごくやりやすくなると確信しているからだ。最近はその研修会も以前から比べれば、心が浮き浮きするような素晴らしい論理の展開を見せてもらえるときが多くなった。“速度を早めてくれ”と念ずるばかりだ。しかし、私は会社の皆さんに話をする壇の上に立ったときに、温かく見守ってくれるのを感じ、経営者の一人としての喜びを味わわせてもらっている。  それなら、経営というものが私の人生にとって、やはり最高のものだということになる。
・よそから引っこ抜かれるような人材が、本田技研の中から続出すれば、本田技研のこの思想というものが、日本中に広がっていって、もっと素晴らしい日本になると思う。
三日間くらい寝不足続きに考えても間違いのない結論が出せるようでなければ、経営者とはいえない。平常のときには問題ないが、経営者の決断場の異常事態発生のとき、年齢からくる粘りのない体での“判断の間違い”が企業を破滅させた例を多く知っている。  五十で死んだ信長には未来は画けるが、年を重ねた秀吉にはそれがない。創立二十五周年に退こう、と考えていた。

今後の参考になる「お金の流れでわかる世界の歴史」

「徴税がうまくいっている間は富み栄えるが、やがて役人たちが腐敗していくと国家財政が傾く」とまで言い切る元国税調査官が世界の歴史をお金の流れ、特に税金から解説している。かなり幅広いトピックを取り上げながらも、軽いわけではなく本質的な部分をうまく解説しており、勉強になりました。

またひとというのは常にお金に振り回されてきたのだなぁと思ったのと、今の半分くらいという税率はやはり異常だなと。シンガポールなんかが極めて低い税率でもやれていけてるわけなので、大国家ができない理由もなさそう。そのうち落ち着いていくのでしょうね、何十年かかかるか分かりませんが。

<抜粋>
・本書では、世界史上の様々な国が富み栄え、やがて衰えていく様子を経済面から見ていくのだが、国の栄枯盛衰には一定のパターンがある。徴税がうまくいっている間は富み栄えるが、やがて役人たちが腐敗していくと国家財政が傾く。それを立て直すために重税を課し、領民の不満が渦巻くようになる。
・ローマは、征服した土地を一旦、ローマの領土に組み込み、被征服地住民たちに貸し出すという形で、税が課せられた。ローマには各地から税として、貴金属や収穫物などが集まり、それだけで国を維持できるようになったのである。  中でも、スペインから送られてくる金、銀は、ローマの国庫を潤した。紀元前206年から紀元前197年までの10年間だけで、金約1・8トン、銀約60トンがスペインからローマに献納されたのだ。このスペインの金銀のおかげで、ローマは貨幣制度を整えることができた。
重い鉄銭は持ち歩くのが大変であり、高額取引には不便でもあった。  そのうち鉄銭を預かる「交子舗」という金融業者が現れた。 「交子舗」というのは、鉄銭を客から預かり、預かり証を発行するのである。客はその預かり証を「交子舗」に持っていけば、いつでも鉄銭を受け取ることができる。
・イスラム帝国は、占領地から撤退するときには、税の還付まで行っている。  636年、イスラム帝国はパレスチナをほぼ占領し、ユダヤ教徒、キリスト教徒から人頭税を徴収していた。が、ローマ帝国がこの地を奪還するために大軍を派遣し、イスラム帝国軍は撤退を余儀なくされた。その際、イスラム帝国軍は、パレスチナの領民に対し、「わが軍は、諸君の安全に責任を持てなくなったので、保護の代償である人頭税を還付する」として、すでに納められた人頭税の全額が還付されたのである。  当然、この地のユダヤ教徒、キリスト教徒は感激し、攻め込んでくる旧主君のローマ軍に敵意を抱いた。  イスラム帝国が急激に勢力を伸ばした背景には、こういう温かい税務行政があるのだ。
・西欧諸国が危険を顧みず、大航海に乗り出したのは、地中海をオスマン・トルコに支配されているため、オスマン・トルコを避けて、アジアと交易できるルートを開拓しようとしたのが、そもそもの始まりなのである。
・アメリカに渡ったスペイン人たちは、「キリスト教布教」を隠れ蓑にして、収奪と殺戮を繰り返した。ポトシ銀山の開発でも、多くのインディオたちが奴隷労働を強いられたのである。  その結果、1492年からの200年間で、インディオの人口の90%が死滅したという。
・マグナカルタというのは、1215年、時のイギリス国王ジョン王が、国民に対して、「国王が勝手に税金を決めてはならない」「国民は法によらずして罰せられたり、財産を侵されたりしてはならない」というような約束をしたものである。  ジョン王というのは、戦争好きな王で、フランスとたびたび戦争をし、しかも負けてばかりいた。それで、度重なる戦費徴収に業を煮やしたイギリスの市民や貴族たちが、国王に廃位を求めた。ジョン王は、それに対して「もう二度と勝手な税徴収はしません」と国民に約束したというわけである。
・これを機に、ヘンリー8世は、イギリス国教会をローマ教会から離脱させた。そして、1534年、「国王至上法」により自分がイギリス国教会の最高位者であると宣言した。  これにより、ヘンリー8世はイギリスのキリスト教会の財産をすべて手中にすることができた。「十分の一税」も、自分の金庫に納めさせるようにしたのだ。
・16世紀半ば、イギリス海峡には約400隻の海賊船が横行していたという。その海賊船は、イギリス人だけではなく、フランス人のものも多数あった。またスペインも、ユダヤ人の商船などを襲い、積み荷の略奪を頻繁に行っていた。  イギリスの場合、それを国家プロジェクトとして行ったということなのである。
・ナポレオンは軍事的には天才だと言われているが、財政面ではまったくの素人だったのだ。
・蒸気船「シャーロット・ダンダス」は、フォース・クライド運河において「逆風」の中を70トンの荷船2隻を曳いて、19・5マイル運航した。帆船では逆風の中で真っすぐ進行することはできないので、船の歴史における快挙だったといえる。「シャーロット・ダンダス」は3~4カ月の間、故障もせずに荷船の曳船として活躍したという。しかしその後、運河会社や船頭たちの抗議で、運航を中止させられた。いつの世も、新しいものに対する風当たりは強いのだ。
・1692年、イギリスで国債に関する法律が制定された。  厳密な意味での「国債」は、これが最初だとされている。  これまでも、国王が借金をすることは多々あったが、国債という正式な債券を発行したのは、これが世界で初めてだったのだ。  そして、その2年後、イングランド銀行が設立された。  イングランド銀行というのは、イギリスの中央銀行である。イギリスの国債を引き受ける代わりに、通貨発行権を得るという仕組みになっていた。具体的に言えば、政府は8%の利率で国債を発行し、イングランド銀行がそれを引き受ける。イングランド銀行は通貨を発行し、それを民間業者に貸し付けるのだ。
・19世紀のアメリカ大陸には、植民地経営に行き詰まっていた地域がたくさんあった。  アメリカはそれらを片っ端から買い漁ったわけである。  1803年、独立から20年後、アメリカはフランスからルイジアナを購入した。214万平方キロメートル、1500万ドルである。これで、アメリカの面積は約2倍になったのである。  そして1819年には、スペインからフロリダを購入した。
・このようなロスチャイルド家の犠牲について、陰謀論者が言及することはない。もし、このような犠牲を払うことをも想定した巨大な陰謀を彼らが企んでいたというのなら、筆者は抗弁するすべを持たないが。
・ドイツは、ヨーロッパの中では「後れてきた列強」という存在だった。  19世紀後半までドイツは、いくつかの州に分かれていたので、国家的な規模での発展は後れていた。ドイツの中の一つプロイセンが、普仏戦争でフランスを破り、ドイツの中心的地位を確立、1871年にようやく統一されたのだ。  日本の明治維新が1868年なので、ドイツと日本はほぼ同じころに統一国家として国際デビューしていることになる。  そして1888年に即位したヴィルヘルム2世が、帝国主義を積極的に推進し、ドイツはアメリカとともに、世界の工業生産をリードしていくことになる。  1870年の時点で、世界の工業生産のシェアは、イギリス32%に対しドイツ13%だった。しかし1910年にはイギリス15%に対してドイツは16%と逆転している。フランスにいたっては、6%に過ぎない。  ドイツは第一次大戦前から、ヨーロッパ大陸で最大の工業国になっていたのだ。
・イギリスは実は石炭によって栄えていた国である。イギリスは世界有数の石炭産出国であり、17世紀後半には世界の石炭産出量の85%を占めていたこともある。  南ウェールズ産の石炭は、燃えてもあまり煙が出ない「無煙炭」と呼ばれ、軍艦には欠かせない燃料だった。そのため、世界中の国がイギリスから石炭を購入していたのだ。石炭はイギリスに多くの富をもたらすとともに、戦争の際には戦略物資として重要な外交カードにもなった。  しかしその座が石油に取って代わられたために、大英帝国も、国際的地位が低下することになるのだ。
・前述したようにドイツは、第一次大戦の敗戦で、国土の13・5%、人口の10%を失った。植民地もすべて委任統治という名目で連合国諸国に分捕られた。  もちろん、植民地の没収、国土の割譲は、ドイツの国力を大きく削ぐことになった。しかも、多額の賠償金を課せられたのである。  ドイツとしては、賠償金を払わなければならないのなら、植民地と、旧国土を返してほしいという気持ちがずっとあったのだ。
このミュンヘン会議で、ヒトラーが「これ以上の領土は求めない」という確約をし、英仏はズデーテン地方のドイツ割譲を認めた。  このとき、世界中の人々が、「世界大戦が回避された」として歓喜した。英仏の代表や、ヒトラーは「世界に平和をもたらした」として、賞賛されたのだ。イギリス代表のチェンバレン首相などは、帰国したときには凱旋将軍のようにイギリス国民に迎えられた。  このとき、なぜヒトラーが賞賛されたかというと、ドイツの周辺には、まだ回復していない旧領土や、ドイツ系住民が居住する地域が多々あったからだ。「ヒトラーはそれを放棄した」として、世界中から評価されたのである。  そして、ヒトラーがノーベル平和賞候補に挙がったのも、これが主な理由なのだ。
・東アジア全体を日本が支配することになれば、アメリカは大きな市場、資源を失ってしまうことになる。また日本が、東アジア全体を支配することで石油などの重要な資源を獲得すれば、アメリカへの依存度が弱まってしまう。そうなれば、日本はアメリカの言うことをまったく聞かなくなるだろう。
戦争というものは、単にどちらが降伏したかで勝敗を問えるものではない。どちらが多くのものを得たかを分析する必要がある。
そもそも、東南アジア地域が、簡単に日本軍の手に落ちたのは、欧米諸国の植民地政策に対する現地の反発があったからなのだ。  第二次大戦後、東南アジアの各地で、独立戦争の火の手があがる。
・第二次世界大戦というのは、日独英米のいずれの国も、多くのものを失った戦いである。「自由主義対全体主義の戦い」ではなく、「帝国主義経済崩壊への戦い」だったのだ。  が、この戦争で多くのものを得た勢力があった。  それは、ソ連を中心とした共産主義勢力である。
(注:共産主義について)必要だと思った仕事も、事前に、計画と予算を組んでいなければ、実行に移すことはできない。また不必要だと思われる仕事でも、計画が組んであれば、必ず実行しなければならない。現場の創意工夫がまったく反映されないシステムなのである。

「シャープ崩壊」までのドキュメンタリー

シャープ崩壊までを日経が丁寧に追ったドキュメンタリー。

様々なタイミングで正しい決断、つまり提携(資本)、撤退や人事が行われなかったが故にズルズルと悪い状況に陥っていく様が描かれています。結局のところまとめると液晶で大成功したがゆえの自己イメージの増幅による崩壊ということなのかなと。

液晶工場への投資は確かに多かったかもしれないが、それで成功してきた歴史があるのだから個人的には責められない。ただ過剰投資が分かってからも、甘い見込みや先代社長や部門への配慮から提携も進まず最後は屈辱的な条件を飲まざるを得ないところまで行ってしまったのはなんとも擁護しがたい。

本書は一貫して会社側に厳しい視点で、いわば一方的な見方ではあると思いますが、いろいろと学ぶべきものがありました。いずれにしても勝てば官軍負ければ賊軍、経営は結果が全て、ですね。

<抜粋>
・だが、シャープの多くの社員たちは片山に憎悪の視線を投げかける。「会社を傾かせたのに反省がない片山さんだけは許せない」
「片山さんはものすごく頭がよくて、先見性がありました。一切残業はしないので、夕方6時ぐらいに帰ります。ところが翌日になると、自動車向け液晶の駆動回路ですばらしいアイデアとかが出ている。
・シャープにはもともと、取引先よりも社内の都合を優先する傾向があった。「中小企業で規模も大きくなかったから、取引は内需が中心で、長く本格的な外販をしてこなかった。営業が弱く、外との付き合いがうまくなかった」と片山の側近だった社員は話す。社内事情を最優先とする〝内向き志向〟がはびこり、商談中でも「上司から呼び出しがあったので」と席を立つのも半ば常識だったという。
・時計の針をいったん1年前の2010年に戻す。堺工場の稼働率が悪化するとすぐ、片山は液晶事業のてこ入れに向けて新たな一歩を踏み出した。10兆円規模の売上高を持つ、電子機器の受託製造サービス(EMS)の世界最大手、台湾の鴻海精密工業との連携だ。  しかし、この交渉で片山は鴻海の董事長(会長)、郭台銘(テリー・ゴウ)に振り回され続けた。鴻海への警戒を強めた町田は、片山の経営能力に次第に疑問を抱くようになっていった。
・過去に結んだシリコン調達契約をすべて洗い直したところ、調達額の合計は3000億円弱。シリコンの市価は、ピークだった08年のリーマン・ショック前に比べて20分の1以下にまで下落していた。割高な原料調達契約を結んでいたことが、国内トップシェアでありながら太陽電池事業の赤字が続いていた大きな要因だったのだ。  この違約金支払いが表面化するまで「トップは太陽電池事業の赤字の本質をつかみ切れていなかったから、抜本対策も打てなかった」(中堅幹部)といわれる。
・売上高20兆円の世界最大の電機メーカー、サムスン。瀕死のシャープに手を差し伸べるという名目のもと、〝はした金〟に過ぎない100億円でここまで要求を飲ませた。逆にいえば、シャープは100億円欲しさにサムスンに全面的にかしずいたともいえる。
・「危機になったのは自業自得だ」「下請けいじめしていた罰が当たったんだよ」──。高橋が本社に戻ってきて、取引先や部下から聞く声は、同情や激励というより、「上から目線」で多くの取引先を敵に回していた実態だった。  高橋自身、親しい同僚役員に「シャープの評判は最悪や。本当に潰れるかもしれない」と吐露したこともある。「高橋さん、あなただから信用して話しますけど、シャープがこういうことになって『ざまあみろ』と思っている人は多いですよ」。取引先や関係者から直接、何度も耳打ちされた。
・下請け企業に対し執拗に部品の値下げを迫り、横柄な態度で接するシャープの悪評は、地元の関西地域ではよく知られていた。取引先を「おまえ」呼ばわりし、怒鳴り散らすのは当たり前。シャープとだけは二度と取引しないという下請けも少なくない。パナソニックに吸収された三洋電機の経営危機とは違い、地元ではシャープに対する同情論はほとんど広がっていなかった。
・交渉に携わったシャープ関係者はこう指摘する。 「最後は時間切れで交渉が終了した。高橋の意思は最後までよく分からなかったが、それが高橋の戦略かもしれない。少なくとも複写機という収益事業を切り売りしなかったことで、高橋さんへの社内の求心力が高まったことだけは間違いない」
・「(第3代社長の)さんは約束を破ると怒るけど、失敗したことには文句を言わない。だから、さんのころまでは自由だったのです。町田さんは文句を言うやつは許さないから、雰囲気が変わっていった。液晶テレビで成功したために勘違いしたのか、『(会社として)一流意識を持つように』などと言い出しました。これでは以前のように冒険はできません」
・佐伯は全社で100人に過ぎない技術者のうち、浅田ら20人を研究所へ移し、半導体や計算機などの開発に没頭させた。浅田がリーダーとして担当したのが電卓だ。電卓の開発では、大阪大学の工学部の教授に顧問になってもらった。
・「シャープは天理や三重に液晶工場を建てたことで、液晶の生産能力が増えすぎて、自分たちで使わざるを得なくなりました。液晶ビューカムのようなヒットが生まれたのは事実です。しかし冷蔵庫に液晶を付けるなど、あらゆる商品に液晶を搭載するという戦略には明らかに無理がありました。液晶をさばききれなかったから無理やり商品側に押しつける。それでは売れる商品にはなりません」。目のつけどころがシャープさという強さが消えていったのである。
・高橋の側近の幹部はこう分析する。 「高橋さんは液晶のことが分からなかった。特に、14年秋以降、液晶がみるみる悪くなっていたところをトップとして把握できなかった。それは高橋さんの責任だと思います。自分に近い人間を亀山に送りましたが、その人も液晶は素人だったんです。結局、液晶を統括する専務の方志(教和)さんの情報を信じすぎたんですよ。液晶が一番の不安であれば、自分で亀山に乗り込めばいいんですけど、そうしなかった。『大丈夫、大丈夫、まだまだ挽回できる』と方志さんもそう思ったし、高橋さんもああいう性格だから厳しく追及しなかった。いや、できなかった。当事者意識がなかったんですよ。誰も。それで危機が再燃するんですから自業自得です」
・金融機関幹部は当時の流れを振り返ってこう話す。「主力2行が恐れていたのはシャープが開き直ることだった。万が一、民事再生法など法的整理の道を選ばれれば、銀行にとっては大きな痛手になる。多額の債務の回収ができず、責任が問われるからだ。だから、扱いやすい高橋さんには残っていただくのが都合よかった。神輿は軽い方がいい」。高橋にとっても自らの首がつながる提案ゆえ、断る理由などなかった。

貴重な銀行頭取の回顧録「ザ・ラストバンカー」

三井住友銀行元頭取、日本郵政公社の民営化も総裁として務めた西川氏による回顧録。銀行トップが自らの言葉で、世の中を騒がせた事件を言及しているのは非常に珍しい。また内容も新たな視点がたくさんあり大変おもしろいです。

一方で、イトマン事件や磯田さんを退任させた件などでは何かを意図的に言及していない感じもあり、やはりひとつのモノの見方だと考える必要もありそうです。

とはいっても、個人的には非常に明確なポリシーのもとの仕事をされている仕事人と思い好感を持ちました。

<抜粋>
・実際に国は「道路運送車両の保安基準」を改正して、一九六九(昭和四四)年四月一日以降に国内で生産された普通乗用車、一〇月一日以降に生産された軽自動車の運転席にシートベルトの設置を義務付けた。それとともにタカタにはシートベルトの発注が大量に押し寄せた。落下傘のひもからの見事な業態転換だった。シートベルトはその後、運転席だけでなく全座席設置が義務化されたし、エアバッグも義務化されているから、今では当時と比べものにならない優良企業に成長している。二代目の社長さんの手腕が大きかった。会社の良し悪しはやはり経営者で決まると再認識させられた。
・当時の安宅産業の負債総額は一兆円あり、もし安宅産業が倒れれば、一九七五(昭和五〇)年八月に戦後最大の負債総額で倒産したばかりの興人の五倍にも達する超大型倒産になってしまう。三万五〇〇〇社もある取引先の連鎖倒産、主力銀行の住友銀行はじめ二三〇行ある取引銀行の債権焦げ付き、関連会社を含めると二万人もの従業員の失業にもつながりかねない。しかも、これを放置して十大商社の一角が破綻し外銀が損失を受けたとなれば、日本の総合商社というビジネスそのものに対する国際的信用が地に落ち、総合商社に多額の融資をしている日本の銀行の国際的信用をも失う。信用不安がとめどもなく連鎖し、一九二七(昭和二)年の昭和金融恐慌の再現となるばかりか、海外でのビジネスに壊滅的な打撃を与え、日本経済は焦土と化してしまうかもしれない──。  そういった認識だったから、一一月四日には伊部恭之助頭取が極秘に日本銀行に森永貞一郎総裁を訪ねて会談し、「安宅アメリカの破綻は万難排して食い止める」と発言している。安宅破綻によってとくに地方銀行が痛撃を受け、バタバタ倒産することは、日銀も絶対に阻止したかった。
安宅を破綻させてはならない。対応を誤ったら日本経済はおしまいだ。私たちは文字通り日本経済を救う使命感を持って、この問題に取り組んだのだ。
・その頃の融資第三部には、八〇人から九〇人もの職員が在籍していた。皆、組織図の上では私の部下ということになっていたが、そのほとんどが私より年上で、私より年下の職員は一〇人そこそこしかいなかった。どうしてそんなことになっていたかというと、以上に述べてきたような安宅の関係会社に社長として派遣される支店長や副支店長経験者などの優秀なベテランが、ここに在籍した上で出向していったからである。  安宅地所、安宅木材、安宅建材、日本ハードボード工業、三精輸送機といった関係会社の社長は皆ベテラン支店長だった人が社長として就任した。こうした資本関係がある会社以外でも経営支援して再建しなければいけない会社がたくさんあって、銀行中から人材を集めた。現役職員だけでなく住友銀行OBの人たちにも社長になってもらった。だから部長といっても部の中で私は若造のほうで、給料は三〇番目以下だったと思う。
・事実としては、まず佐藤社長が河村社長とは関係なく平和相銀の株を買い取り、その資金をイトマンファイナンスから融資された。この返済をするためには平和相銀株をどこかに売らなければならない。そこで住友銀行がその株式を買い取ったわけである。前もって平和相銀株取得の下相談が佐藤社長と河村社長との間にあったのかもしれないが、私は知らなかったし、頭取の小松さんも、副頭取のさんもそのことは何も知らされていなかった。下相談があったかどうかはともかく、イトマンの資金で佐藤社長を抱き込み、小宮山家の株を取得した時点で三和との争奪戦は実質的に住友銀行の勝利に終わったのである。  ちなみにこのとき、当時大蔵大臣だった竹下登氏の秘書、青木伊平氏の紹介で、平和相銀株を買い戻そうと焦っていた伊坂氏に対して真部俊生八重洲画廊社長が「金蒔絵時代行列という金屛風を四〇億円で購入すれば株買い戻しの取引が可能になる」と持ちかけ、伊坂氏は自らが経営していたコンサルタント会社に購入代金四一億円を融資し金屛風を購入したにもかかわらず株の買い戻しができなかったのが、後に言う「金屛風事件」である。
・とにかく、私からすれば平和相銀は、数だけは一〇三店と多くてもボロ店舗ばかりで、住友銀行は余計な苦労を抱え込むばかりに見えた。しかし磯田さんは「一〇〇年経ってもこれは手に入らない」とよく言っていた。たしかにこのとき支店を手に入れた東京の西新橋や飯田橋では、当時はそう簡単に新規出店などできない。店舗行政の制約を突破して住友銀行を日本のトップバンクにしようとする強い執念が磯田さんを突き動かし、それが住友銀行全体を動かした。磯田さんはどちらかというと言葉数の少ない人だったが、こうと決めて発言したら絶対譲らないバイタリティがあったし、周囲にはそれをサポートする側用人のような役員が大勢いた。
・私はこのとき常務企画部長の任に就いていたが、だんだんわかってきた事態の中でも特に困ったことだと思ったのは、こうした絵画取引に磯田さんの長女である磯田園子さんが勤務していたセゾングループの宝飾販売会社でピサという会社が間に入っていたことだ。  今まで私を含めて誰も住友銀行関係者は語ってこなかったことがある。この機会にあえて申し上げよう。イトマン事件は磯田さんが長女の園子さんをことのほか可愛がったために泥沼化したのだと私は思う。私は磯田園子さんと直接話した機会はなかったのだが、磯田さんの溺愛ぶりを示す、こんなことを耳にしたことがあった。後に結婚することになるアパレル会社社長の黒川洋氏と磯田園子さんがロサンゼルスに駆け落ちした。それを認めるわけにいかず困っていた磯田さんは、秘書を派遣して二人を連れ戻させたのだ。磯田さんの秘書は園子さんに振り回されて、本当に苦労したようだ。  そういう磯田さんに、父親として娘の事業を後押ししたい気持ちがなかったわけがない。磯田さんが溺愛していることを知って、イトマンの河村社長も伊藤常務も彼女の面倒をよく見ていたようだ。
しかも、マスコミが騒ぎ立てたことによって、伊藤寿永光氏や許永中氏との関連が取り沙汰されて、住友銀行は闇の紳士たちと関係が深いダーティーな銀行だという、実態とはかけ離れたイメージが定着し始めていた。私たちがどんなにそれを否定して、正論を吐いても、トップが磯田さんである限り、誰一人耳を貸してはくれない。磯田さんの個人的な問題のせいで住友銀行全体が危うくなることなど、私は絶対に許せないと思った。
・これに追い打ちをかけるように、この頃、雑誌の記事に磯田さんが出た。そこで当時の大蔵大臣だった橋本龍太郎さんのことを青二才呼ばわりしていたのだ。私は目の前が真っ暗になるような衝撃を受けた。傍若無人にも程がある。「天皇」と持ち上げられ、周囲を自分におもねる人ばかりで固め、状況を冷静に見ることができなくなっていないか。よりによってこんなタイミングで、こんな馬鹿なことをしでかすトップを戴いていることが恥ずかしかった。
そういう心配があったので、全員の意見を集約する形で磯田会長退任要望書をまとめた。印鑑をもっている人は印鑑で、もっていない人は朱肉に指をつけて全員が押印した。昔で言うなら血判状である。  その中には磯田さんの秘書を務めた人物もいたし、それぞれ万感の思いが去来していたにちがいない。しかし全員異論はなかった。欠席した人には電話で伝えた。銀行のために今なすべきことは何か、皆一致していた。
・こうして一九八六(昭和六一)年四月から九一(平成三)年一一月までの、四七歳から五三歳にわたる私の企画部長時代は、就任してすぐに安宅を処理した関係で平和相互の始末をつけさせられ、さらに銀行全体に影響していた問題としてイトマン事件でも奔走させられた。だから私には楽しい思い出というものが本当にない。しかしこれらを通じて、あいつは問題処理に強い、厄介事は西川に任せておけという評価が定着してしまったようだ。
これはもうトップ交渉しかないと思った私はイギリスに向かい、イングランド銀行のロイド・ジョージ総裁を訪ねた。総裁とは旧知の間柄だった。私の顔を見るなり「よくおいでになりました。話は聞いています。FSAには私のほうから電話しておきますよ」と言ってくれ、非常に話が早い。しばらく旧交を温めたあと、その足でFSAを訪問すると、大変丁重に迎えてくれる。こちらがSMBCは何も変わっていない事情を説明すると、納得してすぐに認可をおろしてくれた。
私がスピードにこだわったのは競争優位要因になるのはもちろんだが、スピードを軸に業務や身の回りを点検したり検証したりすると、思い切ったプロセス改革が必要であることがわかり、そのためには改善などという穏やかなものではなく、従来に比べて二分の一、三分の一にするぐらいの革新的な取り組みが必要であることがわかるからなのだ。
・そんな話をして私は、「決断を下すに当たって、八〇パーセントの検討で踏み出す勇気を持ってほしい」と訴えている。 「私の経験から言っても、八〇パーセントの自信があれば、ほとんどの判断は正しいものになる。失敗を恐れてはならない。何もスピードを上げたために起きた失敗に限らない。前向きにチャレンジして結果として失敗した場合、その責任は問わない。減点主義の人事を廃していく。何も行動を起こさない者こそ、私は責任を問う」
・だから私は、百日作戦を指示した後に、「リストラに関する留意点」という話をした。つまり、私が訴えているのは、一円や二円を削るにはどうしたらよいかというつましい話ではなく、固定観念に囚われない大胆な事業の検証作業を進めるのが真意だということだった。一円や二円の削減は、その結果として浮かび上がってくるものなのだ。
・その後の百日作戦は、実に徹底したものだった。これに成功したことが、旧住友と旧さくらの壁をなくし、新生の三井住友銀行としての一体感を醸成できたのは間違いない。言葉を換えれば、百日作戦により私たちはスタートダッシュができ、早い段階で新銀行の経営を軌道に乗せることができたのである。  百日作戦では、とにかく見直せるものはすべて見直した。私自身、「聖域はない。あらゆる手だてを総動員して最大限に努力しろ」と発破をかけ続けた。支店では、一般職だけでなく給与の高い総合職も人員の削減対象になったし、ムダなコピーはするなというケチケチ作戦も当然のごとく行った。この結果、二〇〇二(平成一四)年三月期には人件費や店舗維持費用などの物件費を中心とした経費は前年よりも三〇〇億円減り、六七〇一億円となった。さらに業務粗利益に占める経費の割合(経費率=OHR)は、前年の四六・六パーセントから三六・二パーセントにまで低下した。当時、ライバル他行の経費率は五〇パーセント前後であったから、私たちの取り組みは驚異的なものだった。
・その象徴のような存在が経団連だろう。経団連というと、日本企業のトップが集まって日本経済の行方を見据えていると思っている人がいるかもしれないが、実際は組織としてかなり硬直した部分があり、官僚ならぬ民僚まで存在している。彼ら民僚は経済人ではなく、経団連という組織のために動いているのだ。経団連の会長になるには、そういった民僚と戦えるだけの資質と多数のスタッフが必要となる。そんなにしてまで会長になったところで、いま経団連に日本経済を引っ張る力がどれほどあるだろうか。経団連はもはや無用の長物だと私は思っている。
・郵貯に預け入れられた国民の資金は、二〇〇〇(平成一二)年までは大蔵省(当時)の資金運用部に全額を預託する義務があった。預託期間は七年間で、金利は一〇年物国債の利回りに〇・二パーセント程度が上乗せされた。民営化された日本郵政では、運用ノウハウの確立と運用担当者の育成に苦労させられることになるのだが、いきさつを振り返れば、それも至極当然のことなのだった。郵貯は、市中よりも有利な金利で自動的に〝運用〟でき、資金を集めることだけに専念していればよかったのである。言うまでもなく、預託された資金は財政投融資などの資金となり、これがまた特殊法人のずさんな経営を生む一因にもなっていた。
郵政福祉は、給与天引きの資金を運用していたと書いたが、そもそもこの団体は、特定郵便局の局舎を約一五〇〇ほど所有し、公社が家賃を支払う形になっていた。賃料は結構高く、利回りにすると約一〇パーセントで回っていた。しかも財団法人は公益法人なので、税金がかからない。その団体が、局舎を郵政に貸し出して賃料を得、それを運用して職員の退職金に上乗せするという構造は、どう考えてもおかしい。
・結局、二〇〇九(平成二一)年五月には日本郵政の指名委員会が私の社長続投を決め、逆に六月には鳩山大臣が一連の〝郵政騒動〟の責任を取らされるような形で総務相を辞任した。この鳩山大臣の辞任をきっかけとして麻生内閣の支持率が下がり始めるのだが、そのことについて私が書き残すことはない。

一気通貫で知る「昭和史 1926-1945」

戦前と戦中については教科書で習って以来細切れにしか把握できてなかったので、すごく一気通貫に世の中はどういう雰囲気で、どういう政治や生活があって戦争に向かっていき、そして敗戦したのかがすごく理解できてよかったです。

といっても内容は難しくなく、特に雰囲気については著者の子どもの頃の感覚も書かれていて分かりやすかったです。

結局のところ、ずっと際どい道を渡っていたがそれがうまく行き続けることで、世間的にも後退は許されなくなってしまい、サンクコストが大きくなりすぎてしまったのでしょうね。直前で満州権益くらいまでギブアップすればなんとかなったかもしれませんが、そんなことは世間が許さなかったと。

いずれにしても何もかもゼロ、というかマイナスになったことで、誰もがひとの足の引っ張り合いをするヒマもなかったことで戦後の高度経済成長があったと。今、日本はいろいろな問題が蓄積されていますが、これを自己改革できるのでしょうか。

<抜粋>
・ではこの〝魔法の杖〟を考え出したのは誰か。この概念で政治を動かせると思いついたのは、北一輝*4だと言われています。この半分宗教家ともいえる天才哲学者が統帥権干犯問題を考えつき、犬養さんや鳩山さんら野党に教え込んだ、それにまた海軍の強硬派がとびついた。そこで妙な大喧嘩がはじまった。しかも、国際的な条約が結ばれたあとで、それが暴発して日本を揺すぶったのです。考えてみると、まことに理不尽な話でした。そして多くの優秀な海軍軍人が現役を去っていきました。
元老の西園寺さんは、天皇の御意見番として、昭和前期の内閣総理大臣をほとんど一人で決めたといってもいいと思います。何かあって内閣が倒壊し、次は誰かという時には、西園寺さんが住む静岡県興津の駅前旅館に新聞記者らが殺到するほど権威があり、いわゆる「興津詣で」でこの旅館が大いに繁昌したという逸話も残っています。
・斎藤内閣は「挙国一致内閣」といいまして、もう政党などにかまっておられず、国のためを思う人たちを集めて内閣を組織しました。これ以後もそうなります。つまり五・一五事件の結果として、日本の政党内閣は息の根を止められた。さらに、軍人の暴力が政治や言論の上に君臨しはじめる、一種の「恐怖時代」がここに明瞭にはじまるのです。
『落日燃ゆ』*4で非常に持ち上げたためたいへん立派な人と広田さんは思われているのですが、二・二六事件後の新しい体制を整えるという一番大事なところで広田内閣がやったことは全部、とんでもないことばかりです。スタートから、「政治が悪いから事件が起きた。政治を革新せよ」という軍部の要求を受け入れて、「従来の秕政を一新」という方針に同調して組閣しました。秕政とは悪い政治という意味です。これでは軍部独走の道を開くことと同じなんですね。
日本の第23師団約二万人のうち約七〇パーセントが死傷して師団が消滅してしまったほどの大戦争が起きていることを、どうも昭和天皇は知らなかったようなんですね。考えてみるとずいぶんおかしなことなのですが、そう考えるより解釈のしようがない。
・ポーランドにとってはひどい話ですが、ひどいといえば日本にとってもそうです。これまで見てきましたように、対ソ連の有利な戦略を練るためにドイツと軍事同盟を結ぼうかと盛んに議論している最中に、ヒトラーとスターリンが手を結んだとなると、日本は何のために七十数回も五相会議をやっているんだかわからなくなります。世界の裏側で首脳たちが何を考え、どんなやりとりをし、何が起こりつつあるかをまったく知らないまま、日本は一所懸命議論をしていたわけです。アホーもいいところです。
・かつて米内光政・山本五十六・井上成美トリオが猛反対し、当時の海軍中堅クラスも陸軍と戦争をする覚悟で反対した三国同盟を、一年たつかたたないうちに海軍が事実上賛成してしまったのはどうしてか。これが昭和史の大問題なのです。この同盟を結ぶことは、完全にイギリスはもちろんのこと、それを応援しているアメリカをも敵であると明示することになる、非常に大事な決定だったのです。ここをこれからちょっと詳しくみていきます。
・「内乱では国は滅びない。戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に賭けるとは、主客顛倒もはなはだしい」
・その時、松岡のほうから、二人で「電撃外交」をやって全世界をあっと驚かせようじゃないか、と言い出したという話も残っています。いや、スターリンからともいわれていますが、いずれにせよスターリンがいかなる政戦略を頭に描いていたのか、話がトントンと妙に進んであっという間に四月十三日午後二時、その日のうちに世界じゅうの誰もが予想していなかった日ソ中立条約が調印されてしまったのです。
・八月八日にはじまって、十二月三十一日、天皇陛下が「このような情勢では大晦日も正月もない」と急きょ、御前会議を開いてガダルカナル島撤退を決めるまで約五カ月間の戦闘で、海軍は艦艇(戦艦含む)二十四隻、計十三万四百八十三トンが沈みました。アメリカも二十四隻、計十二万六千二百四十トンが沈むほど、全力をあげてぶつかり合ったのです。一方、日本の飛行機は八百九十三機が撃墜され、搭乗員二千三百六十二人が戦死しました。これは非常に大きなことで、ここで日本のベテラン飛行機乗りの大半が戦死し、あるいは傷つき、以後、あまり熟練していない人たちが飛行機に乗るようになりました。陸軍が投入した兵力三万三千六百人のうち、戦死約八千二百人、戦病死約一万一千人、そのほとんどが栄養失調による餓死なんです。哀れというほかはない。 一方アメリカは、作戦参加の陸軍および海兵隊計六万人のうち、戦死千五百九十八人、戦傷四千七百九人で、戦病死者はなし。ペニシリンがすでに発明されていましたから、たいていの傷病はどんどん治ったのです。
・河辺も牟田口も、飢えてどんどん死んでゆく兵隊、その死体が山のようになっていくことを知っていました。置き捨てられた死体をネズミが食い、目の玉をかじる、負傷兵の上をイギリス・インド連合軍の戦車がばく進してゆくことも知っていながら、作戦中止を言わなかったのです。河辺の戦後の回想があります。 「この作戦には私の視野以外さらに大きな性格があった。この作戦には日本とインド両国の運命がかかっていた。チャンドラ・ボースと心中するのだと、予は自分自身にいい聞かせた」
・つまりチャーチルは「俺は知らない」とはっきり言ってるんですね。トルーマンの記憶が正しいのか、チャーチルの記述が本当なのか、あるいはチャーチルが自分の責任を回避して全責任をトルーマンにあずけているのかは疑問なわけです。
・午前十時三十分に会議がはじまり、鈴木首相はいきなり言いました。 「広島の原爆といい、ソ連の参戦といい、これ以上の戦争継続は不可能であると思います。ポツダム宣言を受諾し、戦争を終結させるほかはない。ついては各員のご意見をうけたまわりたい」 こうしてはっきり「戦争を終結させなくてはならない」と首相が軍部の前で明言したのです。会議は重い沈黙で誰もしゃべらなくなってしまいました。まあ、原爆にしろソ連参戦にしろ、考えてもみないような鉄槌を二つも頭からくらったのですから、ほとんどの人がどうしていいかわからない状態だったのでしょう。
・また日本の要求をイギリス、ソ連、中国に知らせると、イギリスと中国は比較的早く返事がきて、どちらかといえばこれ以上の流血の惨事より条件をのんだほうがいいのでは、という意見でした。ただソ連はなかなか結論が出ず、またアメリカ内部の議論も長引き、ようやく日本時間の八月十二日の夜、連合軍側からの回答が決まります。そこでサンフランシスコ放送を通して日本に伝えました。それは実にあいまいで、何にも答えないような回答でした。
・わたしは、明治天皇が三国干渉の時の苦しいお心持をしのび、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う。これからは日本は平和な国として再建するのであるが、これは難しいことであり、また時も長くかかることと思うが、国民が心を合わせ、協力一致して努力すれば、かならずできると思う。私も国民とともに努力する。
・今日まで戦場にあって、戦死し、あるいは、内地にいて非命にたおれた者やその遺族のことを思えば、悲嘆に堪えないし、戦傷を負い、戦災を蒙り、家業を失った者の今後の生活については、私は心配に堪えない。この際、私のできることはなんでもする。国民は今何も知らないでいるのだから定めて動揺すると思うが、私が国民に呼びかけることがよければいつでもマイクの前に立つ。陸海軍将兵はとくに動揺も大きく、陸海軍大臣は、その心持をなだめるのに、相当困難を感ずるであろうが、必要があれば、私はどこへでも出かけて親しく説きさとしてもよい。内閣では、至急に終戦に関する詔書を用意してほしい」
第一に国民的熱狂をつくってはいけない。その国民的熱狂に流されてしまってはいけない。ひとことで言えば、時の勢いに駆り立てられてはいけないということです。
・「読んでいいですか」と聞くと「いい」と言うので読みますと、先ほど少し申しました須見元連隊長からでした。 文面を全部記憶しているわけではないので大意だけ申しますと、「私は司馬さんという人を信じて何でもお話したが、あなたは私を大いに失望させる人であった。したがって、今までお話したことは全部なかったことにしてくれ。私の話は全部聞かなかったことにしてくれ」という趣旨でした。 その理由は、「あなたは『文藝春秋』誌上で、瀬島龍三大本営元参謀と実に仲良く話している。瀬島さんのような、国を誤った最大の責任者の一人とそんなに仲良く話しておられるあなたには、もう信用はおけない。昭和史のさまざまなことをきちんと読めば、瀬島さんに代表されるような参謀本部の人が何をしたかは明瞭である。そういう人たちと、まるで親友のごとく話しているのは許せない」といったことでした。この手紙を読んで、あ、これでは司馬さんはノモンハンを書けないなと思いました。

奇跡の経営者「ソニー 盛田昭夫」

ソニー創業者盛田昭夫にフォーカスしながらもソニーの奇跡的な成長をかなり具体的に描いており非常に勉強になりました。

「ソニーはわれわれが知る唯一の連続破壊者である。ソニーは一九五〇年から一九八二年の間、途切れることなく一二回にわたって破壊的な成長事業を生み出した。……しかしほとんどの企業にとって、破壊は多くても一度きりのできごとなのである」。アップルの場合でも、AppleⅡ、Macintosh、iPod、iPhone、iPad、これにiTunesを加えても、破壊的イノベーションといえるほどのものは、せいぜい六つだ。

ソニーは2000年くらいまではまさに奇跡的に破壊的イノベーションを連続して起こし続けており、とにかく何をやってもうまくいっていた。ベータマックスはVHSとの競争に敗れたとしているが、7年で2000億の売上を作っており、その後のベーカムやイメージセンサーに繋がっているし、その反省を踏まえて8ミリ、CD、DVD、ブルーレイの規格を抑えたことを考えれば、ベータマックスですら失敗とは言えない。

本書を読むとまさに盛田昭夫氏の奇跡的な経営判断を目にすることができます。ではその経営はどのように生まれてきたのか。

「アメリカに右へならえして、アメリカ経営学を導入するのが、解決の道だろうか。私はそうは思わない。……鵜呑みにするのは、かえって危険である。日本とアメリカでは会社の成立する社会的基盤が、根本的に違っているからだ。かといって漫然と現状を見過ごすことは、もっと大きな間違いだ。アメリカから取り入れるもの、学ぶべきものは堂々と学び、かつ日本の歴史的土壌を見きわめ、そこに足をつけたままで、現実的に不合理を是正してゆくべきなのである。社員を〝無難なサラリーマン〟から〝意欲あるビジネスマン〟へとレベル・アップすることに努めなければならない」

まさにアメリカに切り込みながらも郷に入れば郷に従えではなく、あらゆることを考えぬいて独自のソニーの経営を作ってきたのだということが分かります。

これに対して、盛田はこう切り返したという。「何を言っているんだ。映画会社ひとつ経営できなくて、それでもソニーなのか。それじゃ、普通の日本の会社と同じじゃないか。俺は映画会社を経営できないような、マネージャーを育てた覚えはない」

まさにひとの限界を取っ払い企業を成長させてきた。

久夛良木は、最後にこう結んだ。「ソニーには、すごい人たちが五人や一〇人じゃなくて、数百人規模でいて、ここまでのソニーを引っ張って、何度も何度も革新をもたらしたのだ、とわかった。すごい人材を惹き付け、結集し本気にさせたら、何でも出来るぞと思った」

だからこそ数百人単位ですごい人たちがいる企業になったのだと思います。

「経営首脳の不思議なところは、ミスをしてもその時にはだれにも気付かれず何年もそのままでいられる点である。それは経営というものが一種の詐欺まがいの仕事にもなりかねないことを意味する。……私の考えでは、経営者の手腕は、その人がいかに大勢の人間を組織し、そこからいかに個々人の最高の能力を引き出し、それを調和のとれた一つの力に結集し得るかで計られるべきだと思う。これこそ経営というものだ。例え何であろうとも、今日の黒字が明日の赤字にもなるような方法で今日のバランスシートの収支をつくろっていては、真の経営とは言いがたい。私は最近、わが社の幹部にこんなことを言った。『社員の目にうつるあなた方の姿が、高い所で一人で綱渡りする軽業師のような個人プレーであっては困る。そうではなく、大勢の人びとがあなた方に喜んでついてきて、共に会社のために働く気になる——そういう人間であってほしい』

僕自身もメルカリ流の経営を生み出していきたいと思いました。

出井は取締役時代には、久夛良木の「夢」だったプレイステーションに強硬に反対しているし、社長になってからも土井利忠(元・上席常務)が開発した犬型ロボット「AIBO」に反対を表明、会長兼CEOになると〇四年にはロボットの開発中止を指令している。

本書は出井氏以降の経営に批判的で、辛辣になぜダメかを書いてます。例えば、今になってIoTやAIの時代が来ているのに、当時「AIBO」事業を中止してしまった、など。しかしそれは結果にすぎず、何を言われようがすごい結果を出せば、今のスティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグのように評価されるわけです。

経営はすべて結果で判断される。僕もとにかく結果を出すことに注力するのみです。

「小説 盛田昭夫学校」と合わせて読むとよいと思います。

<抜粋>
・来世紀にソニーがリーダーだというためには、何をやらなければならないか。もう一つ先に何をやるか。謙虚に考える必要がある。私は非常に心配になっております。ここで皆さんに本当に目をいっぱいに開いてですね、来世紀に何をやるかと、真剣に考えていただきたい。
・「ソニーはわれわれが知る唯一の連続破壊者である。ソニーは一九五〇年から一九八二年の間、途切れることなく一二回にわたって破壊的な成長事業を生み出した。……しかしほとんどの企業にとって、破壊は多くても一度きりのできごとなのである」。アップルの場合でも、AppleⅡ、Macintosh、iPod、iPhone、iPad、これにiTunesを加えても、破壊的イノベーションといえるほどのものは、せいぜい六つだ。
・四六年には新円への切り替えが実施されたため、市販品を扱わないと新円がすぐに入手できないという事態に迫られた。そこで、お櫃に電熱線を張った電気釜(物にならず)や、綿の間に電熱線をはさんだ電気ざぶとんを、急場しのぎでつくった。東通工の名前をつけるのは「サスガに気がひけて」(井深)、(熱するにかけて)「銀座ネッスル商会」名で発売すると「ものすごく売れ」(盛田)、新円かせぎに貢献した。
・ソニーは、その後もベータマックス訴訟に代表される大きな裁判に、何度も巻き込まれていくが、そのたびに盛田は自ら陣頭に立って闘いを主導する。すなわち、法務戦略は「最高幹部が扱う」重要な仕事であることを自覚した最初の日本企業でもあった。
・ソニーの半導体開発で活躍した川名喜之(元・中央研究所副所長)はこう指摘している。 「井深が『なに、うちの連中ならきっとやるだろう』と言っていたことが事実となった。翻ってTI(テキサス・インスツルメンツ)でもベル研究所でも、このような開発はできなかった。ベル研究所ではゲルマニウム中のリンの拡散係数はアンチモンと同じになっていた(筆者注:だからできないと思い込んだ)。塚本はそれを知っていたが、あえて実験してみて、実際は大きく違っていることを発見したのであった。それ以外に改善策が思いつかなかったからでもある。……岩間は一人責任を負ってこの仕事を進めた。そして、やり遂げた塚本を評価した」 ソニーはこの技術の特許を出願せずに「一切秘密にした」。それほど画期的なイノベーションだった。
・この電話で井深を口説いた盛田は、グールドとの三度目の会見で注文を断った。憮然とする彼に、盛田は宣言する。「五〇年前、あなたの会社のブランドは、世間に知られていなかったでしょう。いまわが社は、新製品とともに五〇年後に向けて第一歩を踏み出そうとしているところです。たぶん、五〇年後にはあなたの会社に負けないくらい、SONYのブランドを有名にしてみせます」。そう大見得を切った。
・始まりはいつも、つましく困難なものだった。ソニー・アメリカのイタリア系社員による逸話がある。ニューヨークに事務所を設けた五七年九月頃だと思われるが、「雨がそぼ降る夕方に、シャッターを必死で叩いている東洋人の青年に気づいた。事務所には誰もいなかったので、駆け寄って声を掛けたら、英語も通じない日本人で、それがミスター・モリタだった」という。
後年、アメリカ人を感動させる英語の名スピーチを連発し、世界に通用するコミュニケーション力を持つに至るが、それは相手にいかに伝えるかを常に研究し、学びと練習を繰り返した成果である。そうしたスピーチのいくつかを収録した本が発売され、いまあらためて映像と音声で見聞きできるようになった。流暢な英語でなくても、聴衆を冒頭の「つかみ」で一挙に惹きつけ、簡潔なセンテンスで明確なメッセージを、聞き手のハートに打ち込むさまがよくわかる。
「人が育つのは、やっぱり新しいことを苦労してやっているときで、ソニーの成長期において、盛田さんはそういうのを意識的につくってきた。盛田流の経営の本質は、みんながチャレンジできるものをつくっていったことにあるんじゃないか。前に人がいないところを走るのは、実に大変で苦しい。だけど、そこから会得するものが違う。命令されてやるのではなく、自分で考えて自分で行動することの大事さを、彼は身をもって示していた」
・「日本人は、ともすると現地の日本人に相談や案内をしてもらう。そうしていつの間にか〝日本人の道〟に引き込まれ、アメリカにいる普通の日本人の生活態度になってしまう。香川さんは、私にそれとはまったく違う〝道〟を教えてくれた。アメリカ人に接し交渉する態度にしても、卑屈になりがちな日本人ではなく、堂々と対等にわたりあってゆくべきだと、何度も忠告してくれた。……米国の業者に出入りする日本の輸出業者は、まったく哀れなほど卑屈に、値下げばかりをして、売り込みを図るという時代だった。
・『お言葉ではありますが、あなたと私がすべての問題についてそっくり同じ考えを持っているなら、私たち二人が同じ会社にいて、給料をもらっている必要はありません。この会社がリスクを最小限に押さえて、どうにか間違わないですんでいるのは、あなたと私の意見が違っているからではないでしょうか。どうぞお怒りにならず私の考えを検討してみてください。私と意見が違うからと言ってお辞めになるというのでは、会社はどうなってもよいというのでしょうか』 これは、日本の会社にはない発想だったのだろう。田島氏は最初、驚かれた。もちろん氏は会社を辞められなかった。しかし、この種の論争は、わが社では目新しいことではなかった」
・樋口:「やっとかなければ次のステップへ行かないんです。それをやったからソニーは伸びたんです。世間並みのことをしていたんではソニーなんてありませんよ」
「アメリカ人の生活がどんなものかをほんとうに理解し、この巨大なアメリカ市場で成功しようと思うなら、アメリカに会社を設立するだけでは不十分である。家族共々アメリカに引っ越して、実際にアメリカの生活を経験しなければだめだと考えるようになった。……家族で住めば、旅行者にはとうてい望めないほどアメリカ国民を理解することができるだろう」
・彼女は、盛田にとって一緒に闘う戦友だった。盛田の著書によれば、ニューヨーク滞在中だけでアパートに接待した客は四〇〇人余りにのぼった。それだけではない。お抱え運転手に早変わりして、空港までの送り迎えや、技師を乗せてアンテナの感度テストで郊外を走り回ったりもした。三〇歳台の彼女は、盛田のアパートの一室で他社のテレビを調べたりテストしたりしていた日本人のエンジニアや、駐在社員たちとほぼ同世代だった。 「皆んなハングリーで、アメリカを知り、アメリカ人を知り、彼らのなかに入って、ソニーを知ってもらい、製品を買ってもらうのに必死でした」——それが、「世界のソニー」の原点だった。
・当の盛田は、六四年八月一日には、二年間の予定だったアメリカ駐在を、半年分を残して急遽切り上げ帰国した。七月三一日に盛田の父・久左ヱ門(ソニー相談役でもあった)が死去したからである。急な帰国は、盛田家の家業の相続問題もあったが、ソニーの経営が厳しい綱渡りを強いられていたことが大きい。
・そこで井深は、行き詰まった開発をリセットして再出発するために、社長自らプロジェクト・マネージャーとして陣頭指揮に乗り出した。六六年秋のことだった。松下幸之助が、家電不況の危機に営業本部長に就任し、販売体制をリセットするため陣頭指揮をはじめた姿と重なる。
・「人生は見たり、聞いたり、試したりの三つの知恵でまとまっているが、その中で一番大切なのは試したりであると僕は思う。ところが世の中の技術屋というもの、見たり、聞いたりが多くて、試したりがほとんどない。僕は見たり聞いたりするが、それ以上に試すことをやっている。その代わり失敗も多い。失敗と成功はうらはらになっている。みんな失敗をいとうもんだから、成功のチャンスも少ない」
・そして、六八年四月一五日、二年前にオープンしたばかりの銀座ソニービル八階で、トリニトロンの製品発表会が行われた。その席上、井深はめずらしく「世界のカラーテレビ界に革命をもたらす」、とスティーブ・ジョブズのような発言をしている。 井深は、後述するようにこの記者会見の席上で爆弾発言を行い、独自のイノベーションの方法論にもつながっていく。そして、「必要な資金はすべて私が考えます」と見得を切り、ソニービルに巨額投資をしながら、この開発を支えた盛田の闘いもまた、イノベーティブなものとなる。
・井深はトリニトロンの発表の場で、こんなことも語っている。「スジがよかったので総力あげてかかりました。既成品のまねをしていれば間違いはないのでしょうが、それではよりすばらしいものは何もできません。見きわめて踏み切る——ともかくこれがウチの信条です」(『日本経済新聞』一九六八年四月一六日付)。
・こうした「フレキシブルPERT法」の基本姿勢を、唐澤は井深の言葉をもとに五つにまとめている。 ①時間は競争優位に立つ唯一の条件である ②おカネは無限にあると考えよ ③人も人材も無限にあると考えよ ④制限条件に頼って発想するな。制限条件は挑戦の対象としてモデルを作れ ⑤前例は常に打破すべきであり、従うことは恥
・盛田はさらなる増枠を考えていたようだ。心配した社長室の佐野が、「これではTOB(株式公開買い付け)の標的になります」と意見すると、盛田は「井深さんや私を超える経営者が現れるのなら、どうぞと言いたいくらいだ」と一笑に付したという。
・これはシャインに直接インタビューし、周到な取材でアメリカ経営の実際を描いたジャーナリストの加納明弘が、本人から聴き出した言葉だ。そして、次の発言が興味深い。「私は問題を常にシャイン流、つまりアメリカ式に処理した。なぜならば、私に投資した日本人は、アメリカ式マネジメントをソニーアメリカに持ち込むことを期待して、私を社長にしたのだし、私はその期待に応えたのだ」(『ソニー新時代』プレジデント社より)。
・何かが変わろうとしていた。盛田がソニーの第三代目社長に正式に就任したのは、そんな七一年六月二九日のことだった。 この時期、ソニーの業績は絶好調だった。世界初の一三型トリニトロン・カラーテレビKV‐1310が発売されたのは六八年一〇月末(この一機種だけで一七万台出荷)。トリニトロンの前と後で、収益は大きく変化した。 六八年度(一〇月期決算)の売上高は七一二億円、営業利益八四億円だったが、以後は毎年二ケタの増収増益で、七一年度には売上高一九四七億円、営業利益二六二億円に達した。三年でそれぞれ二・七倍と三・一倍の急伸ぶりである。当時、「(世の中の)減産も不況も、松下も無関係」(吉井陛常務)といった「荒い鼻息」や、「ソニーはドルショックや円切り上げ不況の圏外にある企業」といった報道も、なされたほどだった。
「私どもトップの仕事の一番大事なことは、いいことを聞いて喜ぶことではない。マネジメントの最大の要諦は、トラブルシューター(問題解決人)であることだ。問題を解決するのが、私どもの仕事だ。だから、失敗はかくさずレポートしていただきたい。それは、会社に周知させ同じ失敗を繰り返さないためだ。何度も申し上げるが、私どもの仕事はトラブルシューティングである」
・これが、新社長が社内に向けて発した第一声だった。夢やスローガンをぶち上げるのではなく、〝外〟(世界)と〝内〟(社内)の変化を見つめ、やがて大きな問題となる内外二つの変化に向き合っている。それは、もう一度、ソニーを「白紙にもどして」再出発する=DNAを「ON」にすることをも意味していた。
・「アメリカに右へならえして、アメリカ経営学を導入するのが、解決の道だろうか。私はそうは思わない。……鵜呑みにするのは、かえって危険である。日本とアメリカでは会社の成立する社会的基盤が、根本的に違っているからだ。かといって漫然と現状を見過ごすことは、もっと大きな間違いだ。アメリカから取り入れるもの、学ぶべきものは堂々と学び、かつ日本の歴史的土壌を見きわめ、そこに足をつけたままで、現実的に不合理を是正してゆくべきなのである。社員を〝無難なサラリーマン〟から〝意欲あるビジネスマン〟へとレベル・アップすることに努めなければならない」
・「『出るクイ』を求む!」と「英語でタンカのきれる日本人を求む」である。盛田のフィロソフィーと言動から生まれたが、いずれも『朝日新聞』朝刊に掲載された。出るクイが打たれる日本で、「『出るクイ』を求む!」のコピー本文は、こう呼び掛けている。 「積極的に何かをやろうとする人は『やりすぎる』と叩かれたり、足をひっぱられたりする風潮があります。……いいアイデアを育てる人はなかなかいません。反対に、ダメだダメだとリクツをつけて、それをこわす人はたくさんいます。しかし、私たちはソニーをつくったときから、逆にそういう〝出るクイ〟を集めてやってきました。ソニーがつねに他に先駆けて個性的な新製品を出し、わずかここ十年間に『SONY』を世界でもっとも有名なブランドの一つにすることができたのも、ひとつにはそのように強烈な個性をもった社員を集めその人たちの創造性を促進してきたからだと思います。ウデと意欲に燃えながら、組織のカベに頭を打ちつけている有能な人材が、われわれの戦列に参加してくださることを望みます」 一方、「英語でタンカのきれる日本人」は、タイトルコピーの手書き文字が、当時としては極めて斬新である。これは新設された国際貿易課が募集したもので、「『生きた英語』を話せる方」「技術を愛する方」という条件がついている。
・それは権限と責任をないがしろにしたやり方だ。相互の信頼を欠いた命令からは、進歩はおろか、責任感の生まれる余地もない。〝誰々の命令〟が、マネジメントの方便であってはならない。一般社員の皆さんも、つまらぬ遠慮などせずに疑問点の解明を行い、納得したうえで仕事を受けるようにしてほしい。疑問を残したまま、命令だからやるといった、いいかげんな態度は個人的にマイナスであるばかりか、会社にとっても大きな損失である。〝厳しい環境下〟のソニーには、積極的で前向きな姿勢と、信頼を基軸に据えた相互の意思疎通が必要なのだ」
井深・盛田のファウンダー二人が、社長・副社長として二枚看板を背負っていた時代に、うまく機能していた経営のメカニズムは、井深が第一線を退いたことで、社長の盛田の双肩にすべての重荷がかかってきた。技術畑の岩間和夫専務を急遽、ソニー・アメリカの社長にし(現地での生産と販売を学ばせる)、翌七二年には役員たちを次々昇格させ、CBS・ソニーの社長をしていた大賀を呼び戻し(一挙に常務にした)、経営者育成を急いだが、成熟にはもう少し時間を要した。そこに石油ショックが襲ってきた。おそらく七三年後半の盛田には、ビデオ戦略をじっくり構築する余裕は持てなかったはずだ。
破竹の快進撃を続けてきたソニーの成功神話が、初めて大きく頓挫したのが「ベータマックス」を巡る闘いだった。この戦闘の局面は、大きく三つに分けられる。 一つは、「VHS」との間で繰り広げられた世界の産業史にも残るVTR規格戦争である。二つ目は、ハリウッドのメジャー(大手映画会社)から著作権侵害で訴えられ、アメリカの連邦最高裁まで争われた、これもまた歴史に残る大事件。三つ目は、規格戦争で敗れた後、いかに撤退作戦を行い、次の成功へ向けて展開するかという未来のための闘い、である。 七一年に五〇歳で社長となった盛田にとって、井深の後を継いだプレッシャーのなかで大きな試金石となったのが、これら三つの闘いだ。そこには、彼自身の「ミスジャッジ」が招いた失敗もあったが、現実を直視し失敗を克服する過程で、経営者としての凄みが浮かび上がってくる。
・「ソニーはテクノロジーの進歩によって、世の中にない製品をつくって、マーケットを創造してきた。テクノロジーが新しい市場をつくり、ライフスタイルを変え、新しいカルチャーを生み出したと言える。しかし、肝心のテクノロジーの進歩が、古びた法律によって阻害されるようなことがあったら、ソニーという会社はこの世に存在できない。 だから、われわれは徹底的に闘わなければいけない。この訴訟は、科学技術というシビリゼーション(文明)に対する挑戦だと、私は理解している。最終的には、法律まで変えなくてはいけないと思っている。ただ、今は現在の法律で裁かれるのだから、その法律のなかで勝つか負けるか、やってみようじゃないか」
アメリカの民衆を味方につけることによって、(それが人の生活の豊かさを阻害するものである限り)法律そのものまで変えようという発想をもった日本人の経営者は、盛田が最初で、おそらく最後だろう。
・そこまで考えていたものを、もう一度、カセットサイズやドラム径(ベータは七五ミリ)を練り直し、基本規格を二時間に設計し直すことは、「取引コスト」の観点から見て、「合理的」ではなかった。取引コストとは、人間同士の取引に伴い、駆け引きで発生する心理的な負荷や手間暇といった目に見えないコストのことである(菊澤研宗『なぜ「改革」は合理的に失敗するのか』に詳しい)。
・訴訟以降は、前述の通りシャインはベータ販促に熱心ではなく、日本人駐在員の目には「ユニバーサルとの訴訟に敗れた際に、損害が増えることを懸念して販売を抑制している」としか見えなかった。ついに盛田は七七年七月に、シャインを会長に退かせ、実質解任した(シャインは七八年に退社、八〇年に大手レコード会社ポリグラムの社長に就任)。七〇年代にアメリカ型経営の限界を、反面教師として学んだ。 盛田は同じ著書で、「それはわれわれのドル箱になるはずであった」と本音も漏らしていて、ベータ販売の初速に弾みがつかなかったことが、よほど悔しかったに違いない。
・「世の中には、衰退する会社、倒産する会社があります。なぜそうなったか、をよく見ますと、競争相手によって倒された例は余りありません。会社の内部の問題が原因で、いわば〝自家中毒〟で衰退してきているのが実情です。ソニーが外部から批判を受け、昔の評価を落としてきたのは、競争相手のせいではなく、われわれ自身に原因がある。自らの行動によって招いた結果であると反省しなければいけない」
問題が誰にも見えるようになった段階で、経営陣が慌てて手を打つようでは、経営者失格である。井深や盛田は、そのことを誰よりもよくわかっていた(創業期に前田多門、田島道治、万代順四郎といった錚々たる長老たちが、若い二人を厳しく鍛えたことも功を奏している)。禊の一〇年近く前、七五年一月に幹部社員を集めた席で、二人はソニーが置かれた事態を看破して、こう訴えている。 井深(当時、会長):「わがソニーは、いつも日本経済のトップを切って成長してきました。初期のころは、ソニー独特のものを切り拓き、そこにソニーの生命があり、特長がありました。それが大きな世帯となり、大きな数字に接するようになると、これを縮めることは、破壊的な打撃をこうむらない限り、不可能だという〝弱さ〟を持つようになってきました」
・このことは、今から四〇年ほど前に「コーポレートガバナンス(企業統治)」を、日本で最初に導入したことも意味していた。しかも、エレクトロニクス企業であるソニーの実情にふさわしくアレンジしている。統治を担うメンバーの構成比を、社内七割、社外三割とし、さらにエレクトロニクスの技術系が常にメジャーを占めるように設定してある(音響技術に明るい大賀を技術系とすれば、「経営会議」も六人のうち五人が技術系だ)。
・ちなみに、二〇一六年三月現在のソニー取締役一二人の構成をみると、社内三人、社外九人とソニーを知らない社外取締役が七五%を占めている。一方、社内取締役も平井一夫CEOをはじめ技術系はゼロである。エレクトロニクス技術への深い知識と理解を持つ人間がいない現状では、主力事業の統治に関して、その識見を的確に発揮する体制とは言い難い。経営機構の改革にも着手する必要があるだろう。
「盛田さんは、お前考えろとか、誰かに考えさせろ、とか決して言わない。自分自身が考えるんです。それこそ脳みそが汗かくくらいに。僕らエンジニアはそういうものに非常に敏感で、すぐに分かるんです。あっ、この人は自分で考えているな。そうきたか、だったら、こういう提案はどうか。こっちも負けないように、必死に勉強して考えるようになる。凄い刺激とモチベーションになったのです」 上から目線で命令を下したり、ニンジンをぶら下げて走らせたりすることはしない。大きな目的とそのプロセスでの目標を明確にして、相手の波長に合わせて動機づける〝コミュニケーター〟であった。だからこそ、みんなが本気になって、衆知を集め、一体となって仕事に邁進することができたのだ。独裁者や凡庸な経営者は、そんな面倒なことはしない。 盛田は七六年五月の創立三〇周年にあたって、「次の三〇年をどう生き抜いていくか」、創立記念日と同じ五月七日に生まれた若手社員を集めた座談会で、こんなことを語っている。
・八二年度の売上は、前年対比で音響機器とテレビが減収、それをビデオの伸びが補って、増収になったが営業利益は二四%減。八三年度は、音響、テレビ、ビデオの三本柱が軒並み前年割れで、創業来初の減収(八%減)、営業利益も半減以下となった。この時、ベータの売上は一九九二億円と七%のマイナスであった。VHS全体の生産金額が一兆五一四〇億円で一八%のプラスだった(八三年度)ことを勘案すれば、ソニー経営陣の焦燥感は相当なものがあったに違いない。
・「独創性(オリジナリティ)とは起源(オリジン)に戻ることである」。これはスペインの偉大な建築家アントニ・ガウディの言葉だが、八二年にソニーは「創立の頃の雰囲気を、もう一度吹き込む」(盛田)ことで、「新しいソニーに」生まれ変わろうとしていた。この年の九月二七日、盛田は東京・高輪のホテルパシフィックに、部課長と関連会社首脳を含めた一七〇〇名を集めて「部課長大会同」を行っている。
・「新しいことを勇気をもって試みるという創立の頃の雰囲気を、もう一度吹き込みたい。……ソニーは、皆さんの努力で、世界に先駆けて、いろんな製品を出し成長してきました。同時に競争相手に、大きなビジネスを与えてきたことも事実です。全部を自分のものにする必要はありませんが、ソニーの努力と技術で生み出した製品の価値判断を誤ったことがあるのではないか。これは、トップはもとより、担当事業部、担当者がその本当の意味が判らなかったのではないか。われわれがせっかく、造りだした製品の価値を、われわれが認識して最大限に利用することが必要です」、とまず大きな反省を行っている。
・八〇年代のソニーの再生戦略は、次の三つにまとめられる。 ①ノンコンシューマー市場が一番伸びると捉えて、ここに乗り出す。 ②キーコンポーネントとキーデバイスを、最重要戦略と位置づける。 ③新しい時代に即応した新しい考え方を取り入れ、多角化にも躊躇しない。
この映画会社の買収は、ソニーを揺るがす軋轢や問題を生んだ。だが盛田の真意は、古い概念では捉えきれない、新しい思考回路をソニーのなかに取り入れることだった(後段で詳しく述べる)。八〇年代のソニーは、テクノロジーと時代の才能を一挙に解き放ち、可能性の王国を築こうと挑戦していた。
・そんなやりとりの間に、「あいつら会長まで担ぎ出して、こんな半端な商品を売らせようとしている」という声が、営業部門で高まっていた。国内営業は八〇〇万円をかけて市場調査を依頼。結果は、「音楽は再生できるが録音はできない。ヘッドホン以外では聴けない。そういう商品は誰も買わない」というものだった。提出された調査資料に、盛田は激怒したという。 「ソニーにとって、市場はサーベイ(調査)の対象じゃないんだ。クリエイト(創造)する対象なのだ。全く新しい商品を出すということは、新しい文化をつくるということなんだ」。大曽根はこの言葉が今でも忘れられない。
・ところが、「ウォークマンなんて英語じゃない」とソニー・アメリカでは「サウンドアバウト」、誇り高い英国では独自の「ストーアウェイ」、密航者(ストーアウェイ)なんて嫌だとスウェーデンでは「フリースタイル」、と同一商品が四つの名前で(いずれも商標登録)発売されてしまった。 しかし、「英語じゃないウォークマン」のインパクトが強く、外人の指名買いも多いことを確認したうえで、八〇年四月の全米のソニー・コンベンションの会場で「今後は、世界中すべてウォークマンに統一する」、と盛田は宣言している。現在販売中の商品の名前を変えるという、前代未聞の決定を、CEO権限で実施したのだ。
・「だまされてはいけない」、「我々には長年築いてきたLPレコードというビジネスがある。すでに多額の投資もしてきた。ユーザーも満足しているんだ。なぜ、それを捨てなければならないのか」、「(CDは)需要に結びつくのか、わからない」、「ソニーとフィリップスを儲けさせるだけではないか」。 会場は、罵声と抗議でたちまち「反(アンチ)CD」で固まった。「誰一人として賛成の声はなく、我々の片方の親会社であるCBS(ソニーは米CBSと折半出資でCBS・ソニーレコードを六八年に日本で設立していた)でさえ、アンチ側に加わっている。私たちは、反対の大合唱のなかを皆に蹴飛ばされるように、石もて追われた。這々の体で会場を逃れ、アテネの港町のレストランで、失意の余り呆然としていたことを、私は鮮明に覚えていますよ」
あのとき盛田が、社内外の大反対を押し切って金融に進出していなければ、今日ソニーは持ちこたえていなかったのではないだろうか。もし多角化の支えがなければ、消滅の危機に直面していたに違いない。
・この広告を掲載前の版下段階で、最初に見た人物がいる。後にソニー・ミュージックの社長になる丸山茂雄である。当時、読売広告社に勤めていた関係で、仕事先の製版所で「変わった版下だなぁ」と目をとめ、心惹かれて応募。第一期生八〇人の一人として入社している。
・これに対して、盛田はこう切り返したという。「何を言っているんだ。映画会社ひとつ経営できなくて、それでもソニーなのか。それじゃ、普通の日本の会社と同じじゃないか。俺は映画会社を経営できないような、マネージャーを育てた覚えはない」
・「日本人と付き合えば、日本人の考えていることしか判らない。あなたが本当にアメリカで仕事をしたいなら、アメリカ人が何を考えているか。いい物を高く売りたいなら、アメリカの白人が何を感じ、どう考えているか、をまず知らなくてはいけない」。そう言われたのだ。
田宮(前出)は、社用機ファルコンで全米各地を一緒に飛び回った体験を語る。 「アメリカに来るたびに盛田さんが先頭に立って、各州の知事を説得し、個別に落としていくのです。オレゴン、フロリダ、インディアナ、ユタ、コロラド、カリフォルニア……。州によって条件や対応がそれぞれ異なる。そこを踏まえたうえで、駆け引きをやりながら撃破していくのです。それは凄いものでした」
・八四年のオレゴン州から撤廃がはじまり、頑強だったカリフォルニア州議会も八八年には改正新法を発効させ、九一年のアラスカ州を最後に、ユニタリータックスは実質的に姿を消した。 ファルコンで、アメリカ大陸を飛び回っていた頃、田宮は盛田に「会長、あなたはドン・キホーテみたいですね」と声を掛けると、「何を言っているか。ドン・キホーテというのは風車に突っ込んでいくだけじゃないか。俺は違うよ」と笑みを浮かべて応えたという。「勇気だけではなく、現実に物事を動かしていく算段があるんだと」、その表情は語っていた。
・盛田と親しい経営コンサルタントの大前研一は、倒れる直前二カ月ほどのスケジュール表を見て「気絶しそうになった」と後になって打ち明けている(後述)。
・マイケルが届けた自作の「ヒーリングテープ」は、静かな優しい声で次のように呼び掛けている。 「ミスター盛田、ミスター盛田、マイケル・ジャクソンです。どうか良くなってください。早く良くなってください。あなたは僕たちを導いてくれる存在です。先生であり、リーダーです。僕たちの世界そのものです。あなたはたくさんのことを教えてくれました。あなたはとても強い人です。私はあなたを信じています。『一日一日、何としても良くなるんだ。私はどんどん良くなっている』。この言葉を深い意識の中で繰り返してください。愛しています、ミスター盛田。世界中の人があなたを愛し、必要としています。一番必要としているのはこの僕です……」 二六分間のテープは、朝起きる前と夜就寝の前に毎日必ず掛けられた。マイケルの言葉は、日本の一人の経営者が世界から敬愛され回復を祈られたことを象徴していた。また、そこにマイケルなりの事情があったにせよ、敬意と優しい真情が込められていた
・「プレイステーションの父」と呼ばれた久夛良木健は、一介のエンジニアだったが、井深と盛田が形づくったソニーの「破壊的成長エンジン」のプラットフォームをテコに、五年で五〇〇〇億円、一三年目には一兆円の売上を、ゼロから創りあげることに成功した。
・久夛良木は、最後にこう結んだ。「ソニーには、すごい人たちが五人や一〇人じゃなくて、数百人規模でいて、ここまでのソニーを引っ張って、何度も何度も革新をもたらしたのだ、とわかった。すごい人材を惹き付け、結集し本気にさせたら、何でも出来るぞと思った」
・大賀の右腕として総合企画本部を取り仕切り、九〇年には副社長となり、周囲からも社長候補と目されていた岩城賢が、九四年にソニー生命社長に転出すると、奇妙な文書が流布した。 「新聞を見て驚きました。なぜ出て行くのがMではないのですか」という出だしではじまるセクハラ・スキャンダルの告発文だった。決めつけの著しい文章で、内容の質は高くなかったが、事実関係は精査されないまま、「飛ぶ鳥を落とす勢い」だったM副社長に社長の目はなくなった。一三年間にわたる大賀社長の長期政権のせいか、ハリウッドの乱脈ぶりが影を落としたのか、社内政治も蠢いたのか。ソニーの美点だった箍や篤実さが緩みだしていた。 副社長二人が候補リストから消え、悩んだ末に、大賀は出井を一四人抜きで抜擢した。
・出井は取締役時代には、久夛良木の「夢」だったプレイステーションに強硬に反対しているし、社長になってからも土井利忠(元・上席常務)が開発した犬型ロボット「AIBO」に反対を表明、会長兼CEOになると〇四年にはロボットの開発中止を指令している。
・「ファウンダー世代の空気を完全に払拭」するとは、アナログ時代の技術や発想からの決別を意味しているのだろうが、むしろ大賀に「消去法」と言われたことへの反発が滲んでいる。本来、デジタル・ネットワークに舵を切るならば、真っ正面から社内に訴え、ソニー・スピリットをテコに、自らのクビを賭けて渾身のエネルギーを注がなければならなかった。出井は優れたアナリストだったのだから、優秀な経営実務家とタッグを組んで、井深と盛田のように心底から信頼しあい・協調できていれば、日本発のネットワーク革命が実現できたかもしれない。
・盛田は、「経営首脳の不思議なところは、ミスをしてもその時にはだれにも気付かれず何年もそのままでいられる点である。それは経営というものが一種の詐欺まがいの仕事にもなりかねないことを意味する」、と全経営者が自戒しなければならない言葉を吐いている。
・それが〇四年頃には微妙に変わっていた。アメリカの高級誌『ニューヨーカー』の記者ケン・オーレッタが、出井CEOに「アイポッドに脅威を感じるか?」と尋ねると、「出井はまるでジャケットについた糸くずでも払うかのように否定した。——ソニーやデルはものづくりを知っている。アップルは知らない。一〜二年のうちに、アップルは音楽産業から手を引くはずだ、と」。
・久夛良木が「凄い人たちが数百人規模でいて、何度も何度も革新をもたらした」と言い、安藤が「自由闊達の風土に凄い人たちが群雄割拠していた」と語ったように、ソニーには人材や才能の〝菌糸〟が張り巡らされていて、エネルギーが充満していた。
「経営首脳の不思議なところは、ミスをしてもその時にはだれにも気付かれず何年もそのままでいられる点である。それは経営というものが一種の詐欺まがいの仕事にもなりかねないことを意味する。……私の考えでは、経営者の手腕は、その人がいかに大勢の人間を組織し、そこからいかに個々人の最高の能力を引き出し、それを調和のとれた一つの力に結集し得るかで計られるべきだと思う。これこそ経営というものだ。例え何であろうとも、今日の黒字が明日の赤字にもなるような方法で今日のバランスシートの収支をつくろっていては、真の経営とは言いがたい。私は最近、わが社の幹部にこんなことを言った。『社員の目にうつるあなた方の姿が、高い所で一人で綱渡りする軽業師のような個人プレーであっては困る。そうではなく、大勢の人びとがあなた方に喜んでついてきて、共に会社のために働く気になる——そういう人間であってほしい』」

鮮やかに描かれた「日本を揺るがせた怪物たち」

田原総一朗氏が日本を揺るがせた怪物たちに自身の関わった経験からその人物像を鮮やかに描いています。人物は死んで伝説化しているひともいれば、まだ生きているひともいますが、いずれも歴史を動かした政治家や起業家、文化人などの大人物となっています。

もちろん田原氏との関わりからの印象に引っ張られている部分もあると思いますが、そのやりとりは非常に鮮明ですごく刺激的です。それぞれ普通ではない独特の哲学を持っているのですが、だからこそ世の中へインパクトを出せたのだろうなと思いました。

<抜粋>
・「風見鶏だ」と言われたら「そんなことはない」と否定するか怒るかだと思った。怒らせて、そこから先の発言を引き出そうと思っていた。それなのに、ムッとした表情も見せずに「偉大な政治家は風見鶏だ」と開き直る。ここがいかにも中曽根なのだ。
・政治評論家で大平のブレーンであった伊藤昌哉は、 「中曽根内閣のオーナーは田中角栄。中曽根は雇われマダム」  と言っていたのである。  それが、中曽根内閣は五年も続いた。国鉄、電電公社、専売公社の民営化を実現し、レーガンほか各国首脳と緊密な関係を結んだ。サミットでも中曽根の行動は話題になり、これまでの首相にない存在感を示した。売上税の導入に失敗して支持率が急降下するが、やがて人気を取りもどし、一九八七年(昭和六二年)には、竹下登を後継総裁に指名して退陣した。
「あなたが首相になったことはいいけれども、人間としては大いに問題がある」  すると、小泉の返答はこうだった。 「田原さん、確かにその通りだ。人間としては問題がある」  そして、こう続けた。 「しかし、権力とはそういうものだ」
・「だから田原さん、こう言っておいてくれ。『小泉は人の言うことを一切聞くつもりがないようだ』とね」
「いくつも話すと、もっとも不快な部分だけを記者たちが拡大して取り上げる。一つのことしか言わなければ、どのメディアもそれを報じるしかないからいいのです」
・本田は昭和三年二二歳で最初の結婚をするのだが、こんな調子で仕事に遊びにと家庭を顧みることがなかったせいか、七年で離婚になった。一九三五年(昭和一〇年)に、生涯の伴侶となる磯部さちと再婚している。
・本田がイギリスに行って実際のコースを一ヵ月かけて視察する間、日本では、藤沢が手形の決済日を綱渡りで乗り切り、倒産を回避していた。  羽田空港で出迎えた藤沢の笑顔を見たとき、本田は人目もはばからず涙をこぼした。本田が見た世界トップクラスのレーシングエンジンは、想定した倍以上のパワーで走っていた。ホンダと世界の力の差に打ちのめされていたのだ。  このとき、本田はそれまで分散していた技術部門を統合して、本田技術研究所として独立させた。これは藤沢の発想だった。資金不足と外務省がレース遠征への許可を渋ったこともあり、本田レーシングチームが再びマン島TTレースに参戦したのは、一九五九年(昭和三四年)になってからのことだった。
本田技研が急成長を遂げた一九五〇年代から六〇年代にかけて、日本におけるオートバイのイメージは決していいものではなかった。 「いまだに自動車に乗る人は良い人で、オートバイに乗るのは悪い人間だ、という固定観念がある。人間は、自分がやらないもの、得意になれないものに対して悪口をたたく、エゴのかたまりだ。おまわりさんがオートバイに乗る若者をはじめから暴走族と決めてかかっているし、ジャーナリストも自分では乗らないから、オートバイは悪いものと記事を書く。しかし、道路を走る権利、乗る権利は平等に与えられ、好きか嫌いかはその人の自由なんですよ」 と、本田は言い、日本人の持ちがちな個性的なものに対する偏見や反発と戦い続けてきた。
・かつて一〇〇人以上の部下を抱える技術部長が、大勢の前で二発殴られたことがあると言っていた。その理由は、ボルト一本の設計が間違っていたというもので、殴られた部長は、本田をにらみ返した。 「たかがボルト一本でこんな扱いを受けるのなら、こんな会社、いつでもやめてやる」 と、まさにその言葉を叫ぼうとしたとき、息を吞んだ。目の前の本田が、ぶるぶると手を震わせ、三角になった目にいっぱい涙を浮かべていたからである。大勢の社員の前で、涙を浮かべて真剣に怒る本田を見て、部長の怒りは逆に消え去った。
・本田技研工業には、今でも社長室や役員専用の個室はない。創業当時は、普通の会社のように社長室も役員室もあったのだ。しかし、本田がいつも語っていた「社長は役割に過ぎない。人間としては平等だ」という考えに基づき、一九六四年に全廃された。
・「うちが五〇年かかって築き上げたブランドを使わずに、無名のソニーブランドで売るのは馬鹿げた話だ」 とあきれ返った。それに対して、盛田は次のように答えた。 「五〇年前には、あなたの会社のブランドも現在のソニーと同様に無名だったに違いない。わが社は今五〇年の第一歩を踏み出すのです。五〇年後には現在のあなたの会社同様に、有名にしてみせます」
・一九五八年一二月、稲盛は仲間を引き連れて松風工業を退社し、翌年四月に京セラの前身である京都セラミックが発足した。当時の社員数は、社長以下二七名ほど。見通しなど何もなかった。本人や仲間たちはもちろん、前年に結婚したばかりの妻の朝子までが新会社は一年もたたずにつぶれるに違いないと思い込んでいたらしい。  ところが一年たって、京セラの社員数は、役員を除いて六〇人あまりになっていた。倍増である。一年間の売り上げは二六二七万六〇〇〇円、利益は一八六万九〇〇〇円。倒産もせずなんと黒字になったのだ。
「アメリカで売れると世界中で売れる」、この図式は現在もそうで、だからこそ、世界の企業がシリコンバレーを意識する。京セラも、日本国内のマーケットに足場を作るための戦いが、一挙に京セラを世界マーケットに押し上げたのだ。
・野坂は反原発を貫いたが、大島は原発絶対反対ではなかった。ただ、原発は非常に危険なエネルギーであって、事故が起きる可能性がある。そして、起きたら大変なのだということを当初からしきりに言っていた。  そう言うと、原発推進派は、 「チェルノブイリの原発事故は、ロシアなんていう国だから起きたのだ。日本ではあんな事故は起きない」 と熱弁していたのだが、結局二〇一一年には大変な事故が起きてしまった。あの討論のときの「そうは言っても人間というのはミスをする。想定外の問題で事故が起きる可能性があるのだ」という大島の言葉は正しかった。
さっそく立ち読みを始めてあっという間に読んでしまい、しばし呆然とした。『太陽の季節』は、石原が弟の石原裕次郎から聞いた話をモデルに書いたものなのだが、当時の青春を正面から描いた作品で、ものすごいリアリティがあった。  それに引き換え、私が書いていたのは、まるで私小説の作家たちの文章を模写するかのようなものだった。恋愛もセックスもろくに経験もないのに、ただそのまね事を書いていたのだ。「これは駄目だ。まったくかなわない」と、そこで意欲の半分が崩れ去った。  その後間もなく、やはり本屋の店先で「芥川賞大江健三郎『飼育』」という短冊を見つけた。すぐに読んで、その翻訳調で非常に鮮烈な文体に圧倒された。これで、作家への夢は完全に挫折したのである。
・インタビュアーが、相手とけんかするというのは言語道断である。もうこれで石原との関係は終わりだなと思っていたら、数日経って、石原事務所から電話がかかってきた。 「先日の田原さんとの話を、うちの後援会誌に全文載せたいのですが」  という。石原がとてもおもしろがっているというのだ。こちらは、かなりぼろくそに言ったのだから、思いもよらない話だった。そこから、石原と話をするようになっていった。
・彼の発言は「歯に衣着せぬ」と言われ、いつも問題になった。しかしどれだけ失言で物議を醸しても、本人はなんとも思っていない。だから謝罪も撤回もしない。これは、石原が政治家ではなく、作家としてしゃべっているからだ。  作家というのは、世の中に波風を立てることが仕事である。著作が「旋風を巻き起こした」とされるのは、作家としては間違いなく褒め言葉になる。石原が言いたいことを言うときは、わざわざ世の中に波風を立てる、あるいは波乱を起こすために発言しているのだ。

ひとをたくさん育てる「スーパーボス」

本書では突出した有能な人をたくさん育てる上司のことをスーパーボスと呼んでおり、それはどういうひとたちでどういったマネジメントをするひとたちなのかを描いています。

正直、何を持って「育てた」というのかは定性的なものもあり、本書もストーリーが描かれているにすぎないとも言えます。が、一定の納得感はあり、その中で自分に合った手法を見つけスーパーボスを目指していくというのがよい本書の読み方だと思います。

個人的にも、会社が急激に大きくなり、かつ拠点が増えて外国人社員も増えていく中で、いかに任せていくかは重要なテーマになっています。いろいろ問題もないわけではないですが、最終的には信頼感さえあればなんとかなるかなと思ってます。これは僕と誰かというだけではなく、社員同士も同じで。

とはいえそれがもっとも難しいことのうちのひとつでもあるのですが。

以下、おもしろかったところを抜粋コメントします。

スーパーボスは有能な求職者をビジネスチャンスと考えるので、「うちには合わない」という理由で採用を見送ることはなく、試しに使ってみるのが普通だ。そして期待どおりの働きをしなければ、単純に異動させるか解雇する。人員配置を考えなおさなければならないからといって、スーパーボスに迷いはまったくない。  部下を積極的に試そうとするので、通常の企業なら敬遠するほど人員を頻繁に入れ替える。

入れ替えるかどうかは別にして、この「試しに使ってみる」というのはすごく実感としてあります。結構ビビってしまうことが多いので。

才能があって賢いのではなく、人並み外れた才能があって驚くほど賢い人材。普通のリーダーではなく、変化の推進者。成功の可能性が高いタイプではなく、成功の定義そのものを変えてしまうような人材である。

実績というよりはこういうひとを探してきて、常にいいところを活かすようにしようとしてます。逆に言えば、ひとをうまく活用できないひとは多い気がする。僕は逆にひとが期待以上の成果を出せないのは自分のせいだと考えます。

雇うべき「ダイヤモンドの原石」と次の大きなビジネスチャンスを常に探すのと同様、新たな難しい課題に取り組む能力と意志がある従業員がいないか注意を払っているのである。

まさにこれすごく重要で、実際どのひとがどんな能力や意思があるのかを把握するのは常に注意してないと非常に難しいです。それが大体分かっていれば最善の打ち手を打っていくことができます。ただ現実には目の前に最善手があるのに気づかないケースがすごく多いと思ってます。

有能な人材は脇役に甘んじないので、上司が新しいチャンスを常に用意できるくらい成長しつづけられなければ、いずれ去っていく 。

そして最終的には自分自身や会社が成長し続けないとそういった人材を引き止めていくことはできません。

<抜粋>
・一般的に言って、規模と事業範囲で抜きん出ている業界大手には才能の養成でいくつかアドバンテージがある。特に重要なのは、評判がいいという理由だけで有能な人材が多く集まってくる点だが、スーパーボスなら規模や事業範囲や評判に頼らなくても、あらゆる組織を「才能の磁石」と呼べるほど魅力的にできる。全従業員の才能を引き出すために、やる気とインスピレーションとチャンスを与え、親身になって指導し、イノベーションを起こすといったことを、権威のある最大手と同じか、より高いレベルで行なうからだ。
・部下を指導する立場なら、スーパーボスをロールモデルにすることで自分も有能な人材を見つけ、オールスターのチームをつくり育てることができる。超一流の従業員を絶えず獲得したいと考えている取締役なら、組織にいるスーパーボスを探して重用し、まわりに見習わせるようにするとよい。社会人になって間もない場合は、スーパーボスのもとで働くチャンスを逃さないようにしよう。投資家なら、スーパーボスの事業から目を離さないようにしたい 。
・このタイプが「栄誉ある」上司になれる秘密は、勝利のためには最高の人材とチームが必要だと理解していることにある。自分の名声と栄光のことを第一に考えるエゴイストではあっても、部下の成功がそこにいたる助けになると知っているのだ。だから勝つにはどうすればいいかを教え、勝利の味を覚えさせ、これまで以上の能力を発揮するよう叱咤する。部下個人の成長にはまったく興味がないが、驚くべきことに利己的な関心だけで一流の人材を育ててしまう。
スーパーボスは革新的で先見の明があり、競争心が旺盛だ。ひたむきで想像力がたくましく、裏表がない。まわりに親切な養育者タイプもいれば、オフィスにラクダが入ってきても動じない面白いこと好きもいるが、例外なく自分のビジネスに完全にコミットし、成功の助けになる人材と真剣に向き合う。また、その言動は部下の心に強く刻まれる。
・特別な才能に対するスーパーボスの執着は、普通では想像もつかないほど強い。ほとんどの企業の経営陣、特に人材担当者は、才能があって賢くてリーダーの素質があり全般的に優秀な人材を求めていると口をそろえる。しかし、スーパーボスが求めるのはこんなレベルではない。才能があって賢いのではなく、人並み外れた才能があって驚くほど賢い人材。普通のリーダーではなく、変化の推進者。成功の可能性が高いタイプではなく、成功の定義そのものを変えてしまうような人材である。
・ラリー・エリソンは、就職希望者に「あなたは知り合いの誰よりも賢いですか?」と聞くよう採用担当者に指示していた。答えが「イエス」なら、先の面接に進める可能性が高くなる。「ノー」であれば、「では誰がいちばん賢いですか?」と聞かれる。その希望者は選考過程から外され、採用担当者は名前が挙がった人物にコンタクトしたという(13)。
スーパーボスはそれぞれの分野できわめて有能だと自覚し、安心しきっている。その地位は虚栄の上に成り立っているわけではないからだ。スーパーボスは自己意識が強いので、どれほどレベルの高い能力を見せられてもぐらつくことがない。そればかりか、新人からの挑戦を楽しみさえする。その挑戦が優れた洞察に裏づけられている場合は特にそうで、自分の理解が深まり、能力が上がり、よりよい解決策が浮かぶきっかけになれば、ありがたいと考える。
・スーパーボスは有能な求職者をビジネスチャンスと考えるので、「うちには合わない」という理由で採用を見送ることはなく、試しに使ってみるのが普通だ。そして期待どおりの働きをしなければ、単純に異動させるか解雇する。人員配置を考えなおさなければならないからといって、スーパーボスに迷いはまったくない。  部下を積極的に試そうとするので、通常の企業なら敬遠するほど人員を頻繁に入れ替える。
・スーパーボスが全力を出そうとしないときは一瞬もない。つまり、部下にとって心配すべきはスーパーボスからの要求がなくなったときなのだ。
部下から新しいアイデアを絶えず引き出し、その過程でビジネスを成功に近づけられるのは、こうしたぶれないビジョンと変化への柔軟性を両立するという、一見すると不可能なスタンスなのだ。
・スーパーボスはまず、普通よりも知性に恵まれていて「何かある」と思わせる有能な人材を雇うことから始める。次に、ビジョンで感化し、やる気を引き出し、限界まで駆りたててレベルアップする自信をつけさせ、その才能を解放させる。しかし、それでは不十分の場合は、決定的な一押しをする。部下に向かって「よし、これからは何もかもを見直さないといけない。世界を変えてこい!」と喝を入れるのだ。
・ひとつ目は、スーパーボスがチャンスを見つける鋭い目を持っていることだ。雇うべき「ダイヤモンドの原石」と次の大きなビジネスチャンスを常に探すのと同様、新たな難しい課題に取り組む能力と意志がある従業員がいないか注意を払っているのである。
・徹底した権限委譲とマイクロマネジメントを両立するなんてことが、どうしてできるのか? 一見すると相いれないふたつの行動を同時に取り入れるすばらしい能力が人間にはあるものだ。つまり、部下を信じていないせいで権限委譲におよび腰なマイクロマネジャーと、真剣さや能力がないせいで仕事を丸投げするフリーライダーに代わる、第3の道をスーパーボスは発見したのである。これを 「関与型権限委譲 」と呼ぶことにしよう。
スーパーボスは口出しせずに監督・統制する巧みなスキルを持っているという。最初に絶対的なビジョンを示してゴールを明確にしたら、あとは一歩下がってなりゆきを見守るのだ。
・普通のボスと違って、スーパーボスは大きな自信があるので他人を常に支配する必要がない。同じく自意識の強い人間が近くにいるのを楽しめるし、若手を育てて強い自意識を持たせてやろうとさえする。
・人材の選択肢は2つある。自然の限界に達するまで育てていつまでも雇うか、上司を追い越そうとする次世代の逸材を養成して手助けをするかだ。有能な人材は脇役に甘んじないので、上司が新しいチャンスを常に用意できるくらい成長しつづけられなければ、いずれ去っていく 。
・私は自分のことを考えてみた。キャリアを通じて何を成し遂げようとしているのだろうか? 車椅子生活になったとき、列をつくって挨拶に来てくれる人がいるだろうか?

※本書は献本いただいたのですがKindleで購入して読みました