気候変動が人類に与えた影響「気候文明史」

人類の歴史に、気候がかなり密接に関わってきたことを明らかにしています。気候変動によって陸地が繋がってひとが移動できるようになった、という程度ではなく、国家の勃興と衰退などの多くが気候変動期と不思議と重なっています。もちろんそれだけですべてが説明できるとは著者は言っていないし、むしろ否定していますが、気候変動からみた文明史は非常に新鮮でおもしろかったです。

※原著は2010年で今のような温暖化への注目が集まっていない時期に書かれており、だからこそ温暖化や寒冷化で何が起こるのかが冷静に描かれているように思います

下記に抜粋で事例をあげておきます。

「恐竜は二億年近く地上で繁栄していたのに、なぜ知性を発達させなかったのか?」という問いかけがある。答えは知性を発達させる必要がなかったからだ。恐竜は知性を獲得せずとも生き延びることができた。人類が直面したような、生き延びるために知性を必要とする気候激変の連続という環境的な圧力は、中生代に存在しなかったの だ。

気候変動の連続が人間の進化を即した。

南米大陸の場合、家畜化できたのはラマとその近縁種のアルパカだけだった。両者の野生種は、高地の草原に棲息する動物である。家畜は荷物の運搬だけでなく、農業が不作の際の生きた食糧備蓄として貴重であり、南米大陸の先住民は生活圏を選ぶ際に家畜の都合を優先して高地に住みついた。現在の南米大陸の太平洋側での主要都市の多くが標高三〇〇〇メートル以上に位置する理由は、ここにある。

家畜によって居住地域まで規定される例。

こうした古気候研究から、エルニーニョ現象の発生頻度は温暖な時代に減少し、寒冷な時代に増加する傾向があるとの推測が成り立つ。エルニーニョ現象に注目が集まったのが一九七〇年代半ば以降であり、同じ時期に地球全体の気温が上昇したことで温暖化と結びつける発想が生まれたもので、過去一五〇〇年間の発生頻度を振り返ると実際には温暖化で増加するという相関関係はみられない。

実はエルニーニョ現象は温暖化とは相関がない。

ローマ人による地中海的な生活様式がヨーロッパ全土に広がったのは、紀元前二世紀から紀元四世紀にかけてである。この五〇〇年から六〇〇年間の温暖期に、今日に至る西欧社会の枠組みが形作られたといっても過言ではない。ローマは、気候の温暖化という恩恵を受けてパックス・ロマーナと称される大帝国を築き上げ、やがて寒冷期の到来とともに混乱していった。

ローマの勃興に温暖化という恩恵があり、寒冷化と共に混乱していった。

日本の政権が交代する推移をみると、中世温暖期には鎌倉幕府が築かれ、一方で気候が寒冷化する十四世紀以降には北関東を拠点としていた足利氏が幕府を京都へと移す。そして十六世紀後半から十七世紀前半の寒さが小休止した時代に江戸幕府が開かれ、再び厳寒期となる十八世紀後半以降に東日本の経済力が低下し、西日本の薩摩や長州による倒幕が果たされる。

日本も同様に気候変動と共に大きな政権交代が行われている。

新たな歴史解釈を提示する「危機と人類」

銃・病原菌・鉄』などで知られるジャレド・ダイアモンドの新作。様々な国がどのように危機を乗り越えていったのかを7つのケースをとりあげていて、非常に興味深く、おもしろかったです。

ただしそのおもしろさは物語(ストーリー)としてのおもしろさであることは否定はできません。例えば、日本も明治維新以降現代まで、取り上げられているのですが、確かに「危機」という観点から日本が追い込まれ、成し遂げてきたことを見るのは非常におもしろいのですが、一方で捕鯨や戦争責任においては重要な論点が欠けているなと思った部分もありました。また日本ではないですが、中国という大国の台頭、テクノロジー的観点についてももう少し解釈があるかなと。

とはいえ複雑な情勢の中で大国への対応は理想論では語れない点、国家が国家たりうるナショナリズムの重要性、地理的な条件や権力者の権力への固執など、すごく興味深く、新たな解釈を提示したという意味で非常に意味があると思います。

ますます不安定になっていく世界について、どう考えるべきかについて非常に参考になる一冊だと思います。

「中国全史」を描こうとする意欲作

中国の歴史のすべてを描こうとした意欲作。各時代の歴史については歴史小説も含めて読む機会もありましたが、全体を通して、かつ世界での立ち位置や世界との関係性を明らかにしながら書かれたものはなかったので大変勉強になりました。

世界と中国が思ったより影響し合っていたことが分かったし、農業や貿易の発展はともかくとして、温暖化や寒冷化みたいな気候変動も大きく影響しているのもすごく興味深かったです。また、中国というのが一つの国というよりは多種多様な民族による多民族国家であるということもよく分かりました。

いろんな意味で知らない「中国」がたくさん描かれていて、すごくエキサイティングかつ勉強になりました。読みやすいですし、オススメの一冊です。

自らを見つめ直す機会になる「残酷すぎる成功法則」

成功した人々がなぜ成功したのかをエビデンスベースで様々に検証しているのですが、結果として「残酷すぎる」真実が明らかになってしまうという恐ろしい本です。

カリフォルニア大心理学教授のディーン・キース・サイモントンによれば、「創造性に富んだ天才が性格検査を受けると、精神病質(サイコパシー)の数値が中間域を示す。つまり、創造的天才たちは通常の人よりサイコパス的な傾向を示すが、その度合いは精神障害者よりは軽度である。彼らは適度な変人度を持つようだ」という。

要するに、適度な変人度が必要なわけですが、

私たちは「最良」になろうとしてあまりに多くの時間を費やすが、多くの場合「最良」とはたんに世間並みということだ。卓越した人になるには、一風変わった人間になるべきだ。そのためには、世間一般の尺度に従っていてはいけない。世間は、自分たちが求めるものを必ずしも知らないからだ。むしろ、あなたなりの一番の個性こそが真の「最良」を意味する。

普通のひとは世間並みを目指しているから、その天才性が発揮できない、と。アインシュタインは、妻を解雇できない雇い人として扱い、モーツァルトは出産時に別室で作曲をしていたという事例も紹介されています。

ただやみくもに、例の一万時間の計画的な訓練に励んでも、明るい未来につながらない恐れがある。ハーバード教育学大学院教授のハワード・ガードナーは、ピカソ、フロイトといった、創造的な功績で名高い人びとについて調べた。  研究の結果わかったことは、創造的天才たちはその類まれな才能の維持に万全を期するために、何らかのファウスト的な契約に組み込まれていたことだ。一般的に、並はずれて創造的な人びとは、自分の使命の追求に没頭するあまり、ほかのすべて、とりわけ、個人としての円熟した人生の可能性を犠牲にしていた。

つまり、「個人としての円熟した人生の可能性を犠牲にして」いると。

僕も自分の凡人性にがっかりすることが多くて、それは「世間並み」を意識しすぎているからなんだろうなと思っています。それをなんとか変えようと努力をしていたこともあるのですが、本書にもありましたが、ひとの性質というのはなかなか変えられるものではないのので、最近はあまり意識せずに、自分の納得の行くようなスタイルを探すようにしています(「何言ってるの? 相当変わってるよ」という声は甘んじて受けます…)。

また、本書では最近よく言われるグリットについては、ときには、見切りをつけることこそ最善の選択であることも示しています。

見切りをつけることは、グリットの反対を意味するとはかぎらない。「戦略的放棄」というものもある。あなたがひとたび夢中になれることを見つけたら、二番目のものを諦めることは、利益をもたらす。一番のものにまわせる時間が増えるからだ。もっと時間があったら、もっとお金があったらと願うなら、これが解決法だ。とくにあなたが多忙な場合には、唯一の打開策だ。

僕自身は昔から自らの基礎的な身体・頭脳能力の低さから、「戦略的放棄」を意図的に行ってきました。20代は多動なところもあったのですが、それはこの「戦略的放棄」を早く行うためのひとつの手段だったような気がします。最近は、エンジェル投資など結構好きでそこそこ得意と思わるものも止めているし、今は英語学習のために遅くまで飲むこともしてません。

あのピーター・ドラッカーからもらった返事にいたっては、次のようなものだった。 「おこがましく、無作法と受け取られないことを願いたいが、ここで生産性を向上させる秘訣の一つを申しあげたい……それは、こうした招待状すべてを捨てる大きなゴミ箱を持つことです」  チクセントミハイはこのような返事がくることを予期すべきだったかもしれない。ドラッカーに調査への参加が依頼された理由は、同氏が効率的にものごとをこなすという面での世界的権威だったからだ。

苦手なのが断ることなのですが、ドラッガーもこう言っているし、バフェットも「成功した人と大成功した人の違いは何かと言えば、大成功した人は、ほとんどすべてのことに『ノー』と言うことだ」と言ったそうですから、私もメルカリのミッションの実現のために心を鬼にしようと思います。

他にもハッとするような事実がたくさん紹介されていて非常におもしろいだけでなく、自分を見つめ直すよい機会になるのではと思います。

より世界を知る「FACTFULNESS(ファクトフルネス)」

世の中、特に先進国のひとびとは、自分はよくこの世界を知っていると思っているが、実は知らない、ということを事実(ファクト)の積み重ねで説明しています。著者ハンス・ロスリングはスウェーデンの医師、公衆衛生学者で豊富な経験があるだけでなく、TEDトークなどでも有名で本書もすごく分かりやすく読みやすい作品になっています。

確かに世界が誤解されているというのはすごくあると思います。僕も様々な書籍やネットの情報や世界一周などする過程で徐々に分かってきた部分が大きかったなと思っていて、それは今のビジネスにも繋がっています。本書を読みながら改めて思い返す部分多かったので、書評というよりはメルカリへの繋がりを抜粋コメントしていきたいと思います。

ナイジェリアと中国のレベル2家庭では調理方法がほとんど同じだったことを思い出してほしい。あの中国の写真だけを見た人は、「なるほど、中国ではこうやってお湯を沸かすんだな。鉄瓶を火にくべるのか。それが中国の文化なんだ」と思うだろう。だが違う。世界中のレベル2の人たちはみんな、同じような方法で湯を沸かしている。つまり、所得の問題なのだ。それに、中国でもそれ以外の国でも、違うやり方で湯を沸かす人たちがいる。それは文化の違いではなく所得の違いによるものだ。  人の行動の理由を、国や文化や宗教のせいにする人がいたら、疑ってかかったほうがいい。同じ集団の中に違う行動の例はあるだろうか? あるいは違う集団でも同じ行動があるだろうか? 考えてみよう。

僕も世界一周で感じたことのひとつが世の中一物一価なんだなということです。例えば、ホテル。新興国であろうがよいホテルは数万するし、お湯が出れば1,000円を下回ることはない。モノも歯ブラシは安いが質は悪く、日本と同じクオリティの高い歯ブラシは売っていない。恐らく高い歯ブラシがあれば同じ値段になります。同じようなものは同じ価格になっている。そしてどんな価格帯のものが多く求められるかはその社会の所得水準による、というのは大きな気付きでした。

時を重ねるごとに少しずつ、世界は良くなっている。何もかもが毎年改善するわけではないし、課題は山積みだ。だが、人類が大いなる進歩を遂げたのは間違いない。これが、「事実に基づく世界の見方」だ。

また、世界はどんどん良くなっているということも一つの大きなうれしい気付きでした。この本にあるように貧しい国は貧しいままだと僕も思っていましたが、全然そんなことはなく、みんな豊かになろうとがんばっていて、実際所得や生活水準もあがってきていました。

 「地球温暖化を引き起こしているのはインドや中国やそのほかの所得レベルの上がっている国だ。その国の人たちはがまんして貧しい暮らしを続けるべきだ」という考え方は、西洋では驚くほどあたりまえになっている。バンクーバーの大学でグローバルトレンドについて講演したとき、弁の立つ学生が声に絶望をにじませてこう言った。「あの人たちがあのまま生活してたら、地球が持ちません。あの人たちに発展を続けさせてたらダメなんです。あの人たちの国の排気ガスで地球が死んでしまいます」。まるで、西洋人がリモコンひとつでほかの国の数十億人の生活を操作できるかのように話しているのを聞いて、わたしはいつもあきれてしまう。周りを見回したが、ほかの学生たちはあたりまえのように聞いていた。みんなあの学生に賛成していたのだ。  人間によって大気に蓄積されてきた二酸化炭素の大部分は、現在レベル4にいる国々がこの 50 年間に放出してきたものだ。カナダのひとりあたり二酸化炭素排出量は、いまでも中国の2倍にのぼるし、インドと比べると8倍にものぼる。世界を金持ち順に並べて、いちばん上の 10 億人が毎年どれほどの化石燃料を燃やしているかをご存じだろうか? 全体の半分以上だ。次に金持ちな 10 億人が残りの半分を燃やし、その次の 10 億人が残りの半分を燃やし……と続いていく。いちばん貧しい 10 億人は、全体のたった1%しか使っていない。

そして、問題意識のひとつがこういった新興国が豊かになるために、リソースやエネルギーの観点から、先進国がこのままの生活をすることはできないということでした。

帰国した2012年末スマートフォンの急激な普及をみてこれは全世界のひとがスマートフォンを持つ時代が来ると確信できたし、スマホ向けのC2Cサービスがいくつか始まっていたのをみて、こういったC2Cサービスがもっと求められるようになるし、それはむしろ全世界でこそ必要とされるだろうと思いました。そうしてメルカリを創りはじめたのでした。

現実的に考えてみようじゃないか。いまも洗濯物を手で洗っている世界中の 50 億人は、何を望んでいるのだろう? 彼らがどんなことをしてでも手に入れたいと思っているものは何だろう? 彼らが「経済成長を控えます」なんて自分から言い出すのを期待するのは、ばかばかしいほど非現実的だとわかるはずだ。洗濯機、照明、まともな下水道設備、食べ物を保存できる冷蔵庫、目の悪い人にはメガネ、糖尿病ならインシュリン、家族との旅行のための交通手段を、わたしたちと同じように彼らが欲しがるのはあたりまえだ。  そうしたものをすべて手放して、ジーンズやシーツを手洗いする覚悟が、あなたにはあるのだろうか? あなたにそれができないのなら、どうして彼らに不便でもがまんしろなんて言えるのだろう? 犯人を捜し出して責任を押し付けても仕方がない。とてつもなく深刻な地球温暖化のリスクから地球を守りたい? だったら必要なのは、現実的な計画だ。110億人全員が望んだ生活を送れるような新しいテクノロジーを開発することに、力を注ぐべきなのだ。みんながわたしたちと同じレベル4の生活を送り、全員がいまより快適に暮らせるようなスマートな解決策を見出さなければならない。

特に先進国のひとびとはもっとリソースを大切に使っていく必要があって、新興国はひとっ飛びにそういった世の中になっていくと思います。

メルカリはまだUSすら成功できたと言えない状況ですが、海外にこだわっているのもその先の他の先進国だけでなく、新興国こそこういったC2Cサービスが必要とされていて、そのための第一歩だと考えているからです。

僕自身も世の中をより知ることが、ビジネスの着眼点になったし、よりよい世界を作ることの第一歩になると思うので、本書で本当の世界を知ることにはすごく意味があるはずです。そして、それだけでなく実際に行ってみるのもよいのではと思ってます。

チンパンジークイズ、ぜひトライしてみてください。

シリコンバレーの日常「サルたちの狂宴」

著者は、ゴールドマン・サックスからスタートアップに転職し、その後スタートアップ(Y Combinator参加)をTwitterに売却し、Facebookで広告プロダクトを作っていた方なのですが、とにかくプライベートから仕事のことまでぶっちゃけすぎてて非常におもしろかったです。

シリコンバレーのイケてないスタートアップの内情から、起業の仲間集め・プロダクト開発・投資(エンジェルからVC)・売却(アクハイア)、Facebookの社内政治・文化(恋愛含む)・IPO・広告プロダクト、そして成功と失敗についての講釈の誤りなどなど、身も蓋もない話がすごいスピード感で描かれています。

著者はまったく鼻持ちならない人間なのですが、最後まで読み終えるとなんとなく愛着が出てくるし、言ってることは身も蓋もないだけで本質をついているところも多く、実際のところすごく人間らしいだけなのかもしれないとも思えてきます。

少なくともこれだけのリアルをぶっちゃけてくれるのは本当に世の中にとって意味があることであるのは間違いないです。スタートアップに関わる人は必読です。

最後に引用されていて大変共感した言葉を紹介しておきます。

スピードが肝心 すべてコントロールできているように思えるときは、出すべきスピードを出していないだけだ。 ――マリオ・アンドレッティ、F1ドライバー

最近5年間のこと「メルカリ 希代のスタートアップ、野心と焦りと挑戦の5年間」

日経奥平さんにメルカリのことを書いていただきました。私も何度かインタビューしてもらいましたし、関係者への膨大かつ綿密な取材を元に描かれています。

読んでいると、その時々のギリギリな感覚、その中で辛かったり、悔しかったり、うれしかったり(こっちは稀)を克明に思い出しました。それもわずか5年強くらいの出来事なのがまったく信じられない思いです。

個人的には、私の物語というわけではなく、関わってくれている方々の群像劇になっているのがすごくうれしかったです。私も知らないことがたくさんありましたし(忘れていることも、、、)、そうやってみんなでメルカリを創ってきたのだなと、改めて関わってくれている方々への感謝しかありません。

赤裸々に描かれていておもしろいかと思いますので、ぜひどうぞ。

ホモ・サピエンスの行く末「ホモ・デウス」

イスラエル人歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの新作。前作「サピエンス全史」は人類の歴史のすべてを描こうとした意欲作でしたが、「ホモ・デウス」は、サピエンス(人類)がデウス(神)になるときなにが起こるのかという、今後の人類の行く末を描こうとしており、哲学とテクノロジーが合体したようなさらなる意欲作となっています。

前半は「サピエンス全史」とかぶる部分もあるのですが、後半はテクノロジーの進歩によって、ひとの判断をアルゴリズム(AIのような)に委ねるようになり、また圧倒的な豊かさによりもはや何もしなくてよい世の中になった時、何が起こるか、というような壮大なテーマに挑んでいます。

実際は荒削りな部分も多く、また自分としても消化できてない部分が多いのですが、最近ひとと話していると本書の話になることが多く、様々な議論を呼ぶ非常に興味深い作品であることは間違いないです。

以下抜粋コメントでいきます

やがてテクノロジーが途方もない豊かさをもたらし、そうした無用の大衆がたとえまったく努力をしなくても、おそらく食べ物や支援を受けられるようになるだろう。だが、彼らには何をやらせて満足させておけばいいのか? 人は何かする必要がある。することがないと、頭がおかしくなる。彼らは一日中、何をすればいいのか? 薬物とコンピューターゲームというのが一つの答えかもしれない。必要とされない人々は、3Dのバーチャルリアリティの世界でしだいに多くの時間を費やすようになるかもしれない。その世界は外の単調な現実の世界よりもよほど刺激的で、そこでははるかに強い感情を持って物事にかかわれるだろう。とはいえ、そのような展開は、人間の人生と経験は神聖であるという自由主義の信念に致命的な一撃を見舞うことになる。夢の国で人工的な経験を貪って日々を送る無用の怠け者たちの、どこがそれほど神聖だというのか?

人類は薬物とコンピューターゲームに明け暮れると。しかし本当にありえそう。現実はクソゲーでがんばっても成功するとは限らないが、ゲームはそうではない。しかし個人的には現実の方がゼロサムでなく再現性がないからこそのおもしろさがあるのではと思う。

当然ながら、グーグルはいつも正しい判断を下すとはかぎらない。なにしろ、万事はただの確率だからだ。だが、もしグーグルが正しい判断を十分積み重ねていけば、人々はしだいにグーグルに権限を与えるようになるだろう。時がたつにつれ、データベースが充実し、統計が精度を増し、アルゴリズムが向上し、決定がなおさら的確になる。グーグルのシステムはけっして私を完璧に知ることはないし、絶対確実にはならない。だが、そうなる必要はない。自由主義は、システムが私自身よりも私のことをよく知るようになった日に崩壊する。たいていの人は自分のことをあまりよく知らないのだから、本人よりもシステムのほうがその人のことをよく知るのは、見かけほど難しくはない。

たいていの人は自分のことをあまりよく知らないってのはほんとそうで、確かに自分よりもグーグルやフェイスブックが自分のことを知りつつあるというのは納得感がある。ティッピング・ポイントに到達した時に何が起こるかは非常に興味深い。

ヨーロッパの帝国主義の全盛期には、征服者や商人は、色のついたガラス玉と引き換えに、島や国をまるごと手に入れた。二一世紀には、おそらく個人データこそが、人間が依然として提供できる最も貴重な資源であり、私たちはそれを電子メールのサービスや面白おかしいネコの動画と引き換えに、巨大なテクノロジー企業に差し出しているのだ。

これからは、データの時代に突入する

自由主義に対する第三の脅威は、一部の人は絶対不可欠でしかも解読不能のままであり続けるものの、彼らが、アップグレードされた人間の、少数の特権エリート階級となることだ。これらの超人たちは、前代未聞の能力と空前の創造性を享受する。彼らはその能力と創造性のおかげで、世の中の最も重要な決定の多くを下し続けることができる。彼らは社会を支配するシステムのために不可欠な仕事を行なうが、システムは彼らを理解することも管理することもできない。ところが、ほとんどの人はアップグレードされず、その結果、コンピューターアルゴリズムと新しい超人たちの両方に支配される劣等カーストとなる。

そうなりつつある世界で、超人=価値を生み出せる人間というのはどういうひとたちだろうか?

したがって、より大胆なテクノ宗教は、人間至上主義の 臍の緒 をすぱっと切断しようとする。そういうテクノ宗教は、何であれ人間のような存在の欲望や経験を中心に回ったりはしない世界を予見している。あらゆる意味と権威の源泉として、欲望と経験に何が取って代わりうるのか? 二〇一六年の時点では、歴史の待合室でこの任務の採用面接を待っている候補が一つある。その候補とは、情報だ。最も興味深い新興宗教はデータ至上主義で、この宗教は神も人間も崇めることはなく、データを崇拝する。

しかし欲望がなくなるということはないのでは。それこそ神の手みたいな話で実際は人間は合理的な判断をしていないし、したくもない、のではないだろうか?

一九世紀と二〇世紀には、産業革命がゆっくりと進展したので、政治家と有権者はつねに一歩先行し、テクノロジーのたどる道筋を統制し、操作することができた。ところが、政治の動きが蒸気機関の時代からあまり変わっていないのに対して、テクノロジーはギアをファーストからトップに切り替えた。今やテクノロジーの革命は政治のプロセスよりも速く進むので、議員も有権者もそれを制御できなくなっている。

民主主義がうまく機能していないのではという疑念はテクノロジーの進化が早いからだと。

私たちは、情報の自由と、昔ながらの自由主義の理想である表現の自由を混同してはならない。表現の自由は人間に与えられ、人間が好きなことを考えて言葉にする権利を保護した。これには、口を閉ざして自分の考えを人に言わない権利も含まれていた。それに対して、情報の自由は人間に与えられるのではない。 情報 に与えられるのだ。しかもこの新しい価値は、人間に与えられている従来の表現の自由を侵害するかもしれない。人間がデータを所有したりデータの移動を制限したりする権利よりも、情報が自由に拡がる権利を優先するからだ。

情報の権利の話。「人間がデータを所有したりデータの移動を制限したりする権利よりも、情報が自由に拡がる権利を優先」こんな世の中が来るのかもしれない。今のところGDPRなどみてると逆だが。

ところが二一世紀の今、もはや感情は世界で最高のアルゴリズムではない。私たちはかつてない演算能力と巨大なデータベースを利用する優れたアルゴリズムを開発している。グーグルとフェイスブックのアルゴリズムは、あなたがどのように感じているかを正確に知っているだけでなく、あなたに関して、あなたには思いもよらない他の無数の事柄も知っている。したがって、あなたは自分の感情に耳を傾けるのをやめて、代わりにこうした外部のアルゴリズムに耳を傾け始めるべきだ。一人ひとりが誰に投票するかだけでなく、ある人が民主党の候補者に投票し、別の人が共和党の候補者に投票するときに、その根底にある神経学的な理由もアルゴリズムが知っているのなら、民主的な選挙をすることにどんな意味があるのだろうか? 人間至上主義が「汝の感情に耳を傾けよ!」と命じたのに対して、データ至上主義は今や「アルゴリズムに耳を傾けよ!」と命令する。  あなたが、誰と結婚するべきかや、どんなキャリアを積むべきかや、戦争を始める

合理的な選択をするだけなら本当にこれでいいと思うのだが、そもそも欲望自体はどうするのか。しかしその欲望自体もAIの方が分かるのかもしれない。ただ最後の最後まで結局AIには限界がある気はしている。ひとの気分はいつでも代わりうるし、まったくそれは合理的ではないから

1 科学は一つの包括的な教義に 収斂 しつつある。それは、生き物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理であるという教義だ。  
2 知能は意識から分離しつつある。  
3 意識を持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが間もなく、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになるかもしれない。  

この三つの動きは、次の三つの重要な問いを提起する。本書を読み終わった後もずっと、それがみなさんの頭に残り続けることを願っている。

1 生き物は本当にアルゴリズムにすぎないのか? そして、生命は本当にデータ処理にすぎないのか?  
2 知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?  
3 意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?

意識の方が価値があるというよりは、結局のところ人間は意識でしか無いということなのかなと。なので意識のことをAIが分かるようになったと言っても、結局最後の最後では意識が合理的な判断をしないで欲望に流されることになる。しかしそれすらもアルゴリズムは予想するのかもしれない。ただ複雑性的な考え方では予測できないのではないだろうか。と考えたら、アルゴリズムではないと言える気がする。今僕がこの文章を書いているということは僕の意識がしっかりと認識している。AIにはその目的すら分からない。何を目指しているのか分からないというか欲望のないAIというのはどこに向かうのだろうか。生存本能だけ? しかしAIは永遠に生存している。人間は死ぬ。だからこそ欲望があるのかもしれない。限らえた時間の中で自分なりのやりたいことをやりつくそうとして死んでいく。だからこそ人生に価値がある。AIはずっと存在する。終わりがないということは欲望も持たない。子孫を残したいとも思わないように。この辺りはおもしろいテーマだなと。

エイベックス松浦氏の頭を覗く「破壊者」

エイベックス株式会社代表取締役会長CEO松浦勝人氏の「GOETHE[ゲーテ]」の連載をまとめたエッセー集。2009年からはじまって2018年5月まで、時々のトレンドへの言及もあり、すごくおもしろい。例えば、アーティストのCD中心のビジネスからマネジメント・ビジネスへの移行、EDM、定額制音楽配信などはかなり昔から言及して手を打ってきているのが見て取れます。

また、会社への想いや、仕事のやり方、お金について、若さについてなどなど、松浦氏の(その時々の)思考がぶっちゃけられていて、頭の中を覗き込んでいるような不思議な感覚になります。個人的には、共感する部分も多く、大変勉強にもなりました。

起業家なら分野は違っても読んでおくべき一冊かと思います。

「エンジェル投資家」の実情を知る

シリコンバレーで成功したエンジェル投資家として有名なジェイソン・カラカニス氏が、エンジェル投資とは何なのか、どうやってやるのか、その周辺のエコシステム(主にシリコンバレーの)についてなどを書いてるのですが、あまり表に出てきてない情報が多く非常に貴重な一冊になってます。

私もエンジェル投資は30件くらいやってきているのですが(ここ数年はやっていません)、本書に書いてあることはかなり実情に近いことがあるのは間違いがないです。押さえなければいけないポイントも網羅されていると思いますし、エンジェル投資をやってみたいという方には必読かと思います。

一方で、起業に絶対に成功する方法などないように、投資も同様です。本書は筆者のスタイルが強い部分もあるので、すべてを参考にしたり真似したりする必要はまったくなく、むしろこれを参考に自分なりのスタイルを確立できたひとこそ、エンジェル投資で成功できるのだと思います。

また、本書はエンジェル投資についてですが、上場株や不動産など他の投資をする方にも(投資という意味では同一の)こういう世界があるんだなということを知るためにもすごく役に立つかなと思います。

日本インターネット・メディアの歴史「ソーシャルメディア四半世紀」

東京経済大学教授の佐々木裕一氏が日本の各インターネット・メディアやその周辺ビジネスがどのように誕生し、成長し、そして衰退していったのかを追っています。もはや個人的には日本インターネット・メディアの歴史書といっても良いのではないかと思われる大作です。

豊富なインタビューを元にしており、ある時点でどういう意図でどういった判断がありどういう結果が出たのかなど詳細に書かれています。私も継続的にインタビューしていただいてまして、映画生活、フォト蔵、まちつく!、メルカリも取り上げていただいているのですが、他サービスがどういう状態だったのかは知らないことも多く、ものすごい興味深かったし、勉強になりました。

2000年、2005年、2010年、2015年、そして現在といったように時代背景も丁寧に書かれていて、その時代をまさにプレイヤーとしてもがき続けてきた一員として、懐かしさと同時に苦しい思いも蘇えりました。

これからどんなインターネット・ビジネスをする上でもこの歴史を知っているのと、知らないのでは大きな差が出ると思います。そういった意味で、この業界のひとは必読かと。

※本書はインタビュー協力したため献本いただいてますが、Kindleで購入し読んでいます

ローマへと続く「ギリシア人の物語」

「ローマ人の物語」の塩野七生氏がギリシア勃興の歴史を全三巻で描いています。一巻づつレビューしていきます

■ギリシア人の物語I 民主政のはじまり

なぜなら、古代のアテネの「デモクラシー」は、「国政の行方を市民(デモス)の手にゆだねた」のではなく、「国政の行方はエリートたちが考えて提案し、市民(デモス)にはその賛否をゆだねた」からである。  クレイステネスは、自らが属す特権階級をぶっ壊したのではない。それどころか、温存を謀ったのだ。ただしそれは、当時のアテネ社会の中での力の移行を考慮したうえでのことであり、ゆえに特権階級のマイナスの部分はきっぱりと切り捨てて、ではあったのだが。  アテネの民主政は、高邁なイデオロギーから生れたのではない。必要性から生れた、冷徹な選択の結果である。このように考える人が率いていた時代のアテネで、民主主義は力を持ち、機能したのだった。

アテネにおける民主主義の誕生と、対抗軸としてのスパルタの成り立ち。そして、ペルシアとの攻防。特に、マラトンの戦い、サラミスの海戦でのギリシア側勝利をダイナミックに描いています。こういった歴史をみると、本当にひとりの人の判断が歴史を変えることがあり得るということを改めて感じさせられます。一方で、繰り返し出てくる大衆の愚かしさも。。

■ギリシア人の物語II 民主政の成熟と崩壊

ペルシアとの戦いに勝利したギリシアが繁栄を謳歌するところから始まります。アテネではペリクレスという天才政治家が現れ「デロス同盟」や民主政を確固たるものとしていきます。一方で、スパルタとの長期にわたるペロポネソス戦争に突入していきます。紆余曲折あった後、アテネの敗北に終わるわけですが、この辺りの戦局(場所も)の移り変わりがすごく興味深い。何が重要かということすら、刻一刻とダイナミックに変化する好例かと思いました。また一度の敗退が決定的にすべてを変えてしまう残酷さも。

■ギリシア人の物語III 新しき力

アテネ敗北後の世界のカオスぶりが、ソクラテスの自死事件なども含めて、描かれています。しかし、その後、マケドニアにフィリッポス、次いでその息子であるアレクサンドロス(いわゆるアレキサンダー大王)が登場し、一転ギリシア文明が、ペルシアを征服する側にまわります。

常に劣勢かつ相手の選んだ戦場で戦いながら連戦連勝なのはまさに天才。ローマの英雄ユリウス・カエサルは40を過ぎてから頭角を表しますが、アレクサンドロスは20歳で即位してから無敗でペルシア帝国を滅すまでする。

また戦争だけでなく、占領した地域の統治も滞りなく行っている。でなければ広大なペルシアを滅ぼしながら、インドまで行けるはずがありません。

アリストテレスが家庭教師だったり、フィリッポスの帝王学を一心に受けて育ったとは言え、どうやったら経験がほとんどない中でほぼノーミスで直実な打ち手をしながら、東征をやりとげることができたのか、本当に不思議です。

著者もなぜ後継者を指名しなかったのかというところで、

 「決定的な何か」とは、言い換えれば洞察力である。これを辞書は、見通す力であり見抜く力、と説明している。イタリアでは、この種の能力に欠ける人を、自分の鼻の先までしか見る力がない人、という。だから、洞察力のある人とは、その先まで見る力がある人、のことである。  だが、洞察力とは、自分の頭で考える力がなくてはホンモノにはならない。  私には、アレクサンドロスは配下の将たちに、考える時間を与えなかったのではないか、とさえ思えるのである。

と述べています。天才すぎたが故に部下が育たなかったというのが唯一の難点だったのかもしれません。ただ彼が生きた時代は、紀元前330年前後のほとんどギリシアとペルシアくらいしか文明がなかった(東洋除く)時点でまとめられる力量を持った人材がいなかったとして責められるのかというと疑問は残ります。

その後帝国は数十年かけて瓦解しましたが、それでもヘレニズム文化は残り、その後のローマ帝国などに繋がっていきました。まさに歴史を変えるとはこういうことなんだろうなと。

ビジネスモデルの最前線「プラットフォーム革命」

Apple、Facebook、Google、Alibaba、Tencent、Airbnb、Uberなどなど近年大成功するインターネット・カンパニーはプラットフォームであることが多い。本書は、そういったプラットフォーム・ビジネスとは何なのか、どうやって作るのか、失敗するのか、拡張するのか、などを豊富な事例を紹介しながら、理論にまでしようという意欲作です。

メルカリもプラットフォーム・ビジネスなわけですが、いまどういった立ち位置にいるのか、どうやって改善していくべきなのか、どういった場合に脅威が生じるのか、どうやって拡張していくべきなのか、などを考えるのにすごく参考になりました。

正直理論的なものは荒削りと感じたのですが、それでも整理されていてすごく勉強になりましたし、インターネット・ビジネスをするなら必読だと思います。

最後に、プラットフォームは作るのが一番大変なわけですが、最初に重要なことは

「重要なのは、あれこれ付け加えることじゃない。そぎ落とすことだ」
──マーク・ザッカーバーグ、フェイスブック創業者・CEO

最強の目標管理フレームワーク「OKR」

OKR(Objectives and Key Results)はGoogleはじめシリコンバレーで主流の目標管理フレームワークで、メルカリでも割りと初期から取り入れています。僕自身もZyngaではじめて経験したのですが、著者のクリスティーナ・ウォドキー氏もZyngaで学んだと言及してます。

途中物語になっていたりして、サクサク読めるのですが、概念を理解するのに非常に有益だと思います。

本書でも繰り返し言及されていますが、OKRがよいのは重要なことにフォーカスできるようになることだと思っています。特にスタートアップでは、日々緊急だったり重要そうな出来事が起こったりして、誘惑が山ほどあります。OKRでは、重要なことをObjectiveで定義すること、それを達成するとはどういう意味かということをKR(Key Results)で明確に数値化することで、全員の意識をフォーカスさせられるのが非常にすばらしいと思います。KRにプライオリティをつけることで判断を迷わなくてもよくなるし、何をやらないかを決めることが容易になります。

とはいえ、OKRの設定と運用はすごく難しいです。適切に設定してきちんと運用しないと推進力にならない。メルカリでもいろいろな失敗をしてきました。本書を読んで、Objective設定をもっと重視した方がよいなど気付かされることもたくさんあったので、うまく取り入れていこうと思います。

勇気がもらえる「問題児 三木谷浩史の育ち方」

楽天創業者の三木谷さんを生まれから追ったドキュメンタリー。最近日本で兆クラスの企業を一から作り上げた例はほとんどなく、新経連などでの影響力も考えると稀有な起業家です。綿密な取材により、プライベートまでかなり踏み込んで書かれていて、どのように三木谷さんが育ち、なぜ楽天が成功してきたかが描かれています。

本書読むと、三木谷さんが明確な意見を持ち、自信を持って事業を推進してきていることがよく分かります。楽天市場にしても野球にしても必ず成功すると考えて始めています。一方で、TBSのようにうまく行かなかったケースもあるわけですが、それでも前向きに考えています。

全般的に礼賛な部分もあるのですが、それでもこの「楽天さ」によりやりたいことをどんどんやっていく姿は、すごく勇気づけられたし、もっと自由にやっていいんだなと改めて思いました。日本の起業家にはオススメの一冊です。

※私は1999年に楽天内定者として半年ほど働かせていただき、社会人としての基礎は楽天で学びましたし、まだ数十人のスタートアップだった当時の雰囲気を自社でも生み出せているかをひとつのベンチマークにしています

UberとAirbnbの成り立ち「UPSTARTS」

最近生まれたUberとAirbnbという数兆クラスのメガベンチャーの歴史に迫ったドキュメンタリー。広範囲な取材により若干拡散気味ではあるが、それも含めてまだ歴史が固まっていない今ではすごく意味があると思います。

本書では、投資を見送ったベンチャーキャピタリストや参画を見送ったり辞めたひとびとへの大量のインタビュー、カウチサーフィン、ウィムドゥ(ヨーロッパ版Airbnb)やヘイロー、ディディ、リフト、サイドカーなどの内情や関係性、各国やUS州の政府との激しいロビイングの推移などが、ライブに描かれています。結局Uber CEOのカラニックは退任という結論になったわけですが、現在進行系のものも多い。

これだけ急激に成長するとなると、本当にあらゆるところで軋みが産まれるものですね。それらひとつひとつに向き合って真摯に対応していかなければならないのがスタートアップの宿命なのかなと。逆に言えば、それだけ世の中に求められているとも言えます。ともかく起業家としては非常に勉強になる必読本です。

幅広い知識で迫る「貨幣の「新」世界史」

元JPモルガンのアナリストでアリババのIPOなども担当した著者が、様々なアプローチでお金の本質について迫った本。幅広い知識で、お金の起源からビットコインのような最新の事例まで迫っており非常に勉強になりました。一方で、お金が、ここ2年で仮想通貨の普及も含めて、ものすごい勢いで再定義されつつあると感じており、また最新の見解を聞いてみたいと思わせました。

以下、抜粋コメントで

広い視野を持つためには広い定義が欠かせない。そこで私は、お金は価値のシンボルだという定義にたどり着いた。シンボルとは何かほかのものの象徴であり、抽象的な形で表現される。一方、価値とは何かの重要性や値打ちを意味する。このふたつをまとめれば、お金は何か価値のあるものや大切なものの象徴ということになる。

お金に関してカーツワイルは、その普遍性を確信してつぎのように述べる。「たとえばアメリカ政府とアルカイダのように、一部の事柄に関して見解が大きく異なっていても、お金を尊重する気持ちはどちらも変わらない。お金という難解で仮想的な複合概念に対する尊敬の念が、ここまで普遍的であることには驚かされる(98)」。誰もがお金を利用し尊重している現実を考慮すれば、大きな変化が生じたときには人類に甚大な影響がおよぶだろう。

確かにこの普遍性は非常に興味深いし、「お金は何か価値のあるものや大切なものの象徴」という定義もおもしろい。

現代のポートフォリオ理論は理に適っているような印象を受ける。しかし意外にもマーコウィッツ自身、自分の退職後に備えた投資の方法については簡単に決めかねている。   私はアセットクラス〔投資対象となる資産の種類や分類〕の過去の共分散を算定してから、有効フロンティア〔ポートフォリオ期待収益の分散において、期待収益を最大にあげられる個別資産の組み合わせの集合〕を引き出すべきだった。ところが、自分の関与しないところで株価が上昇したと言っては狼狽し、逆に自分が深く関与しているところで株価が下落したと言っては絶望に打ちひしがれる場面を思い浮かべた。将来悔やむような展開を最小限に抑えることが、頭から離れなかった。そこで、資産を債券と株式と半分ずつに分けて投資することにした(18)。  現代のポートフォリオ理論の発明家は、自分の発明品を使わなかった。合理的だとされる行動を理解していながら、一見すると不合理な行動を選んでしまった(19)。ノーベル賞を受賞するほどの経済学者がこのような行動をとるのは、人間が合理的だという前提に問題があることの証拠ではないか。日本では、東京の高級住宅街の四四六人の住民を対象に調査が行なわれた。住民は合理的に自己利益を追求するものと予想されたが、ホモ・エコノミクスの行動モデルに忠実だったのは僅か三一人、全体の七パーセントにすぎなかった(20)。「経済学者のモデルはまったく当てにならない。人間的な要素の大切さをすっかり忘れている」と、数量ファイナンスの専門家であり教育者であるポール・ウィルモットは語る(21)。

現代ポートフォリオ理論の考案者のひとりであるマーコウィッツすら、老後の投資に現代ポートフォリオ理論を使わなかったという事実。経済は合理的なひとの行動の集合であるという前提が崩れているのは明らかなのだが。

何世紀ものあいだ経済学者は、物々交換がお金の前身だと主張してきた。しかし実際には、ほかの金融商品が広く普及していた。債務である。

金属主義者と表券主義者のあいだでは、お金の起源についての考え方が異なり、たとえばアダム・スミスとアルフレッド・ミッチェルイネスの見解にも違いが見られる。金属主義者は、物々交換に代わってお金が登場したという前提に立っている。そしてお金は個人の取引から生まれたもので、市場が創り出したものを国家は勝手に神聖化したと見なす。一方、表券主義者は、債務や信用供与の制度がお金よりも先行していたと主張する。古代メソポタミアで利子付きの融資が行なわれていた証拠は残っているが、これはリディア王国で紀元前六三〇年頃に硬貨が登場したよりも何千年も古い。金属主義と表券主義というふたつの学説は、言うなれば断層線で区別されているように大きく異なるが、同様に、金属を介する取引と信用取引も、市場と国家も、ハードとソフトも大きく異なる。

物々交換はなく表券主義であることは定説になりつつあるが、金属主義にはまだ根強い指示もあります。

アメリカは途方もない特権を持ち続けたい。世界の準備通貨としてのドルの地位を守り抜くため、あるいは、それが無理でもせめてシェアの低下を遅らせるため、大勢の人たちが解決策を提案している。そのひとつが、ドルの量を減らして質を高めることで、金本位制の復活も考えられる。しかし、お金を創造することには誰もが抗えない魅力が備わっており、それは歴史によっても証明されている。

いまでは中央銀行が船の舵を握っている。今日、貨幣の世界では様々な機関が密接に関わり合いながら錬金術を駆使しているが、その網の目状のシステムは中央銀行によって統括されている。ドルが銀行家に操られるべきでないと信じていたヘンリー・フォードは、一九二二年に発表した自伝にこう書いている。「[通貨]制度は人びとの生活を左右するが、その制度が主導者である銀行家にどれだけの権限を付与しているか理解したら、[人びとは]これをどう評価するだろうか。実に深刻な問題だ(134)」。現代の通貨制度の仕組みについては正しい理解が必要だ。この制度は非常に複雑だが、ソフトマネーに付き物の悪魔との取引が確実に存在している。

個人的には、仮想通貨がこの歯止めになるのではないかと期待してます。

しかし、ビットコインが通貨として永続的な力を持つのか、あるいはほかの代替通貨のように消滅するのか、現時点では判断できない。価格変動はすでに経験している。二〇一三年には二〇ドルから二六六ドル、そして一三〇ドルへと僅か数カ月の間に揺れ動いた。ノーベル経済学賞を受賞した経済学者ポール・クルーグマンはこの不安定性に注目し、ビットコインは価値貯蔵手段としての信頼性に欠け、貨幣の本来あるべき姿からはかけ離れていると指摘している(38)。

現在の10,000ドルを超えている状況をみても、価値貯蔵手段としての信頼性を欠くというのだろうか?

人類学者のデイヴィッド・グレーバーは、ピタゴラス、ブッダ、孔子など影響力の大きな宗教指導者が、紀元前六世紀に硬貨が発明された地域──ギリシア、インド、中国──に暮らしていた事実を指摘する(15)。そして、お金も永続的な宗教も、どちらも紀元前八〇〇年から紀元六〇〇年にかけて誕生したのは、決して偶然ではないという。市場の重要性が高まるにつれ、組織的な宗教が広がったのではないかと考えている。たとえば、イエス・キリストの初期の弟子たちの多くは貧しかったので、物質的な富に関して逆説的かつ解放的な見識を素直に受け入れたのかもしれない。

お金により富が可視化されたことで、金持ちではないひとを紡ぐある種の幻想が必要になったのではと考えています。大多数がギリギリの生活をしなければならなかったがその心理的な安定、支配者層にとってはそこから来る社会的な安定という意味で利害が一致したのかなと。今は生産性の向上から話が違ってきています。

複雑な人物「江副浩正」

リクルート創業者江副浩正氏の人生を元リクルート社員が追ったすばらしいノンフィクションです。

極めて複雑な人物で、リクルートという未だに成長し続けるすばらしい企業を作った一方で、家族や社会(例えば、野村證券や稲盛和夫氏)への確執もすごかったらしい。若い頃のエピソードはどれもエキサイティングで江副氏の天才性が垣間見れて非常に勉強になりおもしろかったし、後半のもがき続ける姿はもの悲しくもありましたが、ものすごいパッションを感じました。

優れた起業家としての評価も確立していたのだから、それで満足して作品としてのリクルートという会社を残せばよかったのでは、とも思ったのですが、実際は遅くはなくリクルート事件による強制退場があったために、リクルートという会社が解き放たれたのかもしれません。

以下、抜粋コメント形式でいきます。

ここずっと考えてきたことを、江副は初めて口に出して言った。 「広告だけの本」  ぼんやり考えてきたことが、言葉にしたことで実像となった。とたんに反対の声が次々に上がった。 「広告だけの本をだれが買う?」 「いや、売らないんだ。無料で配る」 「なにそれ」 「無茶だよ、そんなの」  反対が多いということは、それだけ関心があるということだ。 「得意先からの広告費で、すべてをまかなう」 「できるわけないよ」 「できるさ。出版経費、配送費をすべて足してわれわれの利益を乗せて、それを広告掲載社数で割れば、一社当たりの広告費がでてくる」 「いいね、広告だけの本なんて、どこを探してもないものな」

最初の頃のエピソードでは、江副氏が極めてすぐれたアイデアマンであることが分かる。もうダメだというシチュエーションを何度も乗り越えてきている。

手描きで制作している「リクルートブック」の地図も、いつかコンピュータ処理ができる時代が来る。そうすれば、一度作った情報は効率よく再利用でき、制作原価が一段と下がる。いま携わる、自分たちのすべての情報をコンピュータのもとに集約できれば、日本で一番進んだ情報産業になれる。そう信じていたのだ。IBMのセールスエンジニアが言う。 「それなら、最新の事務処理能力をもつのはIBM1130となります」 「わかりました。十台入れましょう」  リクルート創業七年目。売上高四億二千万円。利益二千四百万円、社員数八十人の会社が、まだ日本にコンピュータが全部で三百台しかないという時代に、その利益をすべて吐き出しても、最新機器を十台も導入するという。位田とセールスエンジニアは驚くしかない。

導入を決めたはいいが、社内にコンピュータの専門家は一人もいない。江副自身が東大の芝の研究室に出向き、情報理論の講義を直接受けた。その難解さをかみしめながらも江副は、コンピュータの本質を直感でつかみ取っていた。 「わが社はどんな産業に属するか? という問いには『情報産業である』と答えることができます。また電子計算機をいいかえて、情報処理機器とよぶこともできるでしょう。これからのわが社にとって、電子計算機はなくてはならないものになるはずです」(「週刊リクルート」六八年二二五号)

リクルートを情報ビジネスだと認識していたからこそコンピュータビジネスにも乗り出した。

「とらばーゆ」は女性の熱い支持を受け、発売翌日にほぼ完売。新聞は一面で「女性の転職時代の到来」と大々的に報じた。結婚すれば寿退社して女性は家に籠もるものという社会通念は、この年を境に、日本から徐々に崩れていく。「とらばーゆ」の創刊は、戦前戦後に築かれてきた日本の社会構造を変える、一つの要因となったのである。 「住宅情報」に次ぐ「とらばーゆ」の成功で、江副はますます時代を演出し、時代と並走する経営者として注目を集めるようになった。

土地臨調、税調特別委と国の要職にかかわってみると、いち早くさまざまな土地や金融情報が手に入ることがわかった。それで、コスモスやFFの仕事は先手、先手が打てた。サービス精神あふれる江副のことだけに、マスコミが与えた「民間のあばれ馬」にふさわしい態度も多々取ることになった。

成功に次ぐ成功、そして国の要職にかかわるようになり、この辺りから変わっていったらしい。

しかし不動産やノンバンク事業に傾斜し、ニューメディア事業で疾走する江副のなりふり構わないワンマンぶりに対して、社内ではひそかにこう言い交わされ始めていた。 「江副二号」  敬愛の念を込めて「江副さん」と言っていた社員たちが、絶対君主のようにふるまう江副にとまどい、その変容ぶりを嘆くかのようにそう呼んだのである。「住宅情報」を開発したころの江副が「江副一号」だとすると、いまの江副は「江副二号」だというわけだ。 「江副一号」が徐々に「江副二号」に変容していった契機は、父、良之の死にあったといえるだろう。かつて「リクルートのマネジャーに贈る十章」の最後に書いた言葉は、父にたたき込まれた「謙虚であれ、己を殺して公につくせ」という葉隠精神からきていたといっていい。

内なる父からの解放と重なるように、経団連、経済同友会入りを果たした江副の口から、一つの言葉がたびたびこぼれるようになっていった。 「リクルートは実業ではない。実業をしたい」  その言葉を江副から聞くたびに、江副が掲げた「誰もしていないことをする主義」を信じ、新たなサービスを開発することにまい進してきた多くのリクルート社員はとまどった。ならば、いまやっている、かつて誰もしたことのなかった仕事は、虚業だったということか。

絶対君主化していったと。

取締役会は江副の独壇場になった。江副の成功体験に引きずられ、誰も反対意見を言い出せないまま、取締役会は江副の思い通りに動いていった。そしてリクルートは「誰もしていないことをする主義」からはほど遠い、デジタル回線、コンピュータレンタルの下請け事業、そして不動産業へと急激に傾斜していく。  次々と新規事業を開設していった「江副一号」。それとは対照的に、「江副二号」は何一つ新しい事業を開発し、軌道に乗せられずに、リクルート王国の国王として君臨した。

しかし、後半に手掛けた事業はほぼすべて失敗した。そして、リクルートを辞めてからも失敗し続け資産を失い続ける。

同時期、同じように「江副の黒い芽」を警告する財界人がいた。  リクルート調べ大学生人気企業ランキングで技術系トップの座に就くことをNECの関本忠弘社長は長年めざしていた。そしてようやくその座を射止め、喜んだ関本は江副を築地の吉兆に招待する。お互い囲碁好きのふたりは、食後和気あいあいと碁を打ち別れた。  翌朝、リクルートのNEC担当営業部長が、相手方の人事部長に呼ばれた。 「うちの関本が昨夜の江副さんに危惧をいだいたとのこと、老婆心ですがお伝えします」  何が起きたのだろう。営業部長は青ざめながら聞いた。 「江副さんは吉兆のなじみらしく、出された料理を、僕はこれが嫌いだからほかのものにしてよと代えさせた。あの席は自分の招待した席だから非常に気分を害された。ちょっと傲慢になっていないか、これじゃ先行きが危ないよと、関本から私に、朝一番の電話でした」

数々の警告はあった。自信から来る傲慢さがそれを助長させたのだろうか。

会長辞任翌日の夜、赤坂の料亭で会食をする中江を電話でつかまえ、江副は念を押した。 「本当に、撃ち方、止めにしてもらえるのですね。ならば、編集長お一人とだけ会いましょう」  江副は約束した場所に単独で赴いた。  江副が『リクルート事件・江副浩正の真実』で記すところによれば、そこで待ち受けていたのは六人の記者だった。彼らが繰り出す執拗な質問攻めに、江副は錯乱した。 「アエラ」七月二十三日号には、事件報道以来、初めてマスコミの前に姿を現した江副の顔写真が大きく載っていた。  痩せ細った体を紺の背広に包み、眉間に皺をよせ、顔をゆがませる江副浩正の顔写真。  それは「撃ち方、止め」どころか「撃ち方、始め」になり、炎はますます勢いを増した。  眠れず、食欲もなく、汗だけが限りなく流れる日々に、江副の心身は急激に疲弊していく。七月二十六日、毎年人間ドックを受診してきた半蔵門病院に、倒れるように担ぎ込まれた。

逮捕から、百十三日目の六月六日、江副は、NTT、労働省(現・厚生労働省)、文部省(現・文部科学省)、政界四ルートの供述書のすべてに署名して保釈金二億円を払い、大勢のカメラマンが取り囲むなか小菅拘置所を出た。  そのニュースを見た精神科医の井上博士は、すぐに半蔵門病院に駆けつけた。  ベッドに横たわる江副は、逮捕前よりも症状が重く、拘禁反応からくる深い鬱状態が顕著だった。井上はルジオミール、ワイパックスといった抗鬱剤を投与し、体ではなく心が目覚めるまで江副が眠られるよう、睡眠薬のネルボン、ベンザリンなどを処方する。しかし深く内向し、激しい鬱状態に落ち込んだ江副は、自死願望にとりつかれ、何度も病室の開かぬ窓に体当たりを繰り返した。秘書のだれかが交代で四六時中看病しなければならない状態が長く続いた。  このままでは本当に虫けら百二十六番になってしまう。この混沌とした意識の毎日から抜け出すのだ。まず自分を信じてついてきてくれた社員たちへ、いまの気持ちを正直に伝えよう。「リクルートの社員への手紙」を書くことで自分を取り戻すのだ。

マスコミと取り調べにより人格を破壊された。

一度新聞で報じられ活字になった事実は、いつか受け入れざるを得ない既定事項となっていく。社員は憤りをもちつつも、「江副、株売却」の事実を早急に受け入れ、自ら生き残る道を模索しだした。  しかし、江副だけは、まだリクルートは自分を必要としていると信じた。  この混乱する事態にもかかわらず、なぜだれも相談に来ない。江副の心のなかに、大きな寂寥感と喪失感が満ちる。「待ち」ができない江副は、中内と交わした「経営は位田尚隆以下現経営陣に一任す」の一条を忘れたように、中内のもとに次々とファクスで手紙を送り続けた。 「今回のことは中内㓛様に新しいリクルートを再構築していただきたい、との思いから発したものですが、リクルートの現執行部には、私がダイエーにリクルートを売る行為であるとの批判もあり、社長の位田も執行部の一部にあるダイエーと対峙していきたいとの声に対してじっと止まったままでございます(もともと待ちの経営者です)。この局面にどう対応していいのかがよく見えないのが今の位田執行部の現状ですので、中内様の思いでお進め頂くのがよろしいかと存じます」

ダイエーへの株式売却後の経営陣とのすれ違いが悲しい。

今治から帰ったころから、江副の認知症は急速に進行した。スペースデザインの決算が悪いと次々に社長を解任、ついには自ら社長に就き、落ち続ける業績にヒステリックな声をあげた。株はますます投機的になり、資産運用の意識は欠落した。破たん株にしか手を出さないのである。安比高原も今年中に倒産する、芋を植えて飢えをしのがなくてはと、芝生を剥がし芋畑の開墾を始める始末だ。迫りくる食糧危機には米の確保が大切と、江副は突然、三千万円分の米を契約し、保管場所もなく周りを困惑させた。幼少期に体験した食糧難が、強迫観念となって江副に襲いかかり、江副の混乱に拍車をかけているかのようだった。

リクルート事件がなかったらどうなっていただろうか。

ビットコインの歴史と今後の展望「アフター・ビットコイン」

ビットコインやブロックチェーン周りの最近の動きと今後の展望が整理されてまとめてあり非常に勉強になりました。特に金融業界がなぜブロックチェーンでこれだけの実証実験を行っていて、何に期待しているのかはすごく勉強になりました。その中で中央銀行が仮想通貨を出す意義などもかなりクリアになりました。この流れにメルカリがどう乗っていくか、無視はできないので中長期的に取り組んで行こうと改めて思いました。

これからの世界「量子コンピュータが人工知能を加速する」

量子コンピュータ周りの歴史から原理、現状が幅広く書かれており非常に勉強になりました。

長年、研究が続けられていた量子コンピュータが「量子ゲート方式」と呼ばれるのに対して、ここ数年で突然商用化された量子コンピュータは「量子アニーリング方式」と呼ばれている

これがカナダのD-Waveのことなのですが、そもそも量子アニーリングの理論は本書の筆者でもある西森氏らが東京工業大学で提案したものであったらしい。

量子アニーリングについては、ハード面では北米がはるかに進んでいる。カナダのD‐Waveに加え、グーグル、そしてアメリカ政府のIARPAが、さらなる高性能化に向けて、すでに壮大なレースを繰り広げている。日本が同じような路線で量子アニーリングマシンを今から開発しても、蜃気楼のように目標が遠ざかっていく、長く険しい道になるだろう。度肝を抜くような発想をもとに、まったく違うことをやるしかない。

北米でD‐Waveマシンを使い始めている企業は、4、5年後あるいはそれ以上の時間スケールで圧倒的な優位性を確保するために、基本ソフトやアプリケーションを含めた基盤技術を自ら開発して独占しようとしているのである。すぐに役に立てようとは思ってないし、すぐには役立たないことは先刻承知である。グーグルにいたっては、検索や広告などの自社製品の品質改良と環境負担の軽減(つまりコスト削減)を目指して、量子コンピュータをハードウェアのレベルから自社開発しようとしているのである。このような中長期にわたる大胆な投資をするダイナミズムを、かつてのように日本企業に取り戻してほしいと願っている。

しかし現状は量子アニーリングマシンでは北米で圧倒的に差をつけられつつあると。しかし日本企業にもやりようはあるという。

量子アニーリングと機械学習の最先端同士が結びつくためには、量子ビット数の向上のみならず、機械学習の分野で発展したアルゴリズムとの親和性も求められる。現在の機械学習の研究では、D‐Waveマシンなど、量子アニーリングとの親和性を意識した研究は少ない。ここにフロンティアが隠されている。日本は「ものづくり」を得意としてきたが、単によりよいハードウェアを作るための技術競争の面では、一部を除いて行き詰まりを見せている。それが社会を覆う停滞感の一因にもなっている。突破口のヒントは、ソフトとハード双方を踏まえた多角的視点、基礎と応用の融合、分野の垣根を超えた交流、過去の慣習からの決別などにあるだろう。停滞感のある今こそチャンスだという逆転の発想が、新たな日本を生み出すのだ。

「量子アニーリング+機械学習」または「ハード+ソフト」ならキャッチアップできるのではという方向性は自分もすごく思っているところで、この辺りで何かしていきたいなと思ってます。