創造とは何か?を知る「ロスト・インタビュー スティーブ・ジョブズ 1995」

スティーブ・ジョブズの1995年のインタビュー。映画を観て、素晴らしかったので本(Kindle版)も購入してみました。

1995年というのはジョブズがアップルを追い出されて10年ほど、そしてこの翌年NeXTをアップルに売却し、アップルに返り咲きます。

ジョブズは自分の作った会社を追い出されることで、深い内省により成熟したのではないかなと思います。このインタビューでは創造すること、マイクロソフトやスカリー、インターネットの可能性(95年に)など様々なことについて深い洞察を語っています。それで、アップルに返り咲いた後、自らのそれまでの体験や才能を駆使できたのではないかと。

僕がもっとも感動した部分は以下です。

問題は、すばらしいアイデアとすばらしい製品の間には、とてつもない職人技の積み重ねが必要だということなんだ。それに、アイデアを発展させていく過程で、そのアイデアは変貌し、成長する。とりかかった時点で考えていたものと同じものができあがることなんて絶対にない。細部を詰めていくに従って多くのものを学ぶし、妥協しなければならない点も無数に出てくるからだ。電子にはできないことが必ずある。プラスチックにはできないこと、ガラスにはできないこと、工場やロボットにはできないことがね。こういったことすべてが絡んでくるから、製品を設計するというのは、5000のことを頭の中で考えるのと同じなんだ。そうしたコンセプトを一つにまとめて、それまでとは異なる新しいやり方で組み合わせたりして、自分がほしいものを生み出す。問題であれチャンスであれ、毎日何かしら新しいものが現れるたびに、全体をまた少し違った形で組み直すことになるわけだ。その過程がマジックなんだよ。

何かを創造しているときの躍動感を見事に表わしていると思います。

けっして一人で成し遂げるわけではない。人というのはシンボルが好きだから、私はある種のシンボルにされている。しかし、Macを作り上げたのは、まさにチームの努力なんだ。
(中略)
ソフトウェアの場合ーーかつてはハードウェアもそうだったけど、平均と最高の差は50対1、ひょっとしたら100対1かもしれない。人生でこれほど差がつくものはめったにないけれど、私は幸運にも、こういう世界に身を置くことができた。だから真に才能ある人材をみつけることによって、成功を築き上げることができたんだ。BクラスやCクラスの人材でよしとせずに、Aクラスの人材を本気で求めたんだ。
(中略)
真に優秀な人たちは自分たちが優秀だということを知っているから、その人たちのエゴを甘やかしてやる必要はほとんどない。いちばん大事なのは仕事だし、みんなそれをわかっている。肝心なのは仕事。
(中略)
真に優秀で頼りになる人たちにしてやれることのなかで、何が一番重要かというと、仕事の出来が満足のいくものではない時には、それを指摘してあげることだ。はっきり指摘し、その理由をきちんと説明して、彼らが軌道修正できるようにすることなんだ。 その際、自分たちの能力を疑っているんじゃないかと思わせないようにしながら、同時に、その特定の仕事に関しては、チームの目的に貢献していないとわからせるようにしなければならない。

しかもそれは一人で成し遂げられるものではなくて、Aクラスの人間を集めて、チームとなってぶつかり合いながらプロダクトを生み出していく。この過程こそが創造であることが表現されています。

(正しい方向かどうか、どうすれば分かるんです?)究極的には美意識の問題だね。美意識だ。人類がこれまでに生み出してきたもっとも優れたものに触れ、それをいま自分が進めていることに取り入れていけるかどうかだ。ピカソがこう言ってる。「優れた芸術家は真似る。偉大な芸術家は盗む」とね。私たちはすばらしいアイデアをいつも臆面もなく盗んできた。

アップルやグーグル、フェイスブックがすごいと思うのは、「そういうことだったのか」と後で正しい方向性だったことに気づくことがたくさんあるからです。僕は、それは何歩も先に行っている創造の過程では周りには見えていない正しい、というか、あるべき方向性が見えてくるからだと思っています。

上ではジョブズはそれを美意識だと言っていますが、原文は”It comes down to taste”です。tasteには美意識だけではなくて経験や好み、味わうの意味もあり、僕は先に行った自らの経験とそれまでの人類の生み出してきた優れたものを組み合わせて醸成することと解釈しました。

アップルやグーグル、フェイスブックの創業者も最初からすごかったわけではない。グーグルの創業者たちがGoogleを続けるか大学院に戻るか迷っていた話は有名です。自らを創造の場におくことで、徐々に正しい方向が分かるようになっていったというのが正解だと思います。

自分ももっとひたすらもの作りをしなければいけない、と改めて思いました。

素晴らしい作品なので、映画、書籍どちらでもいいのでより多くの方に観て/読んでいただきたいです。

P.S.ギズモードで映画の一部が公開されています。

<抜粋>
・ビジネスの経験を通して気づいたのは、「どうしてこんなやり方をするんだ?」と訊くと、「そういうふうにやるものと決まっているんだ」という答えが必ず返ってくるということ。どうしてそうするのか、その理由を知っている人間は誰もいない。誰もビジネスについて深い思索を巡らせていないんだ。それがわかったよ。
・そんなわけで、ビジネスにおいては多くのものが、私にしてみれば言い伝えにすぎない。どうしてそういうやり方をするかといえば、昨日も、その前もそうしていたからというわけだ。つまり、どんどん質問して、いろんなことを考えて、一生懸命働こうという気があれば、ビジネスはそれほど時間をかけずに学べるんだ。世界一難しいことではない。
アメリカ人は全員コンピュータのプログラミングを学ぶべきだと思うね。なぜなら、コンピュータ言語を学ぶことによって、考え方を学べるからだ。
(お金持ちになったことを問われて)でも、あの当時の私にとっては、いちばん大切なものではなかった。 いちばん大事なのは会社であり、人であり、私たちが作っていた製品であり、その製品を使って人々が何をできるようになるかということだったから、お金のことはあまり考えなかったよ。きみも知ってのとおり、私は一度も株を売らなかった。長期的に見れば、会社は絶対に成功すると確信していたんだ。
・市場を独占していれば、それ以上の成功なんてありえない。だから会社をさらに成功させるのは営業やマーケティング部門の人間であり、結局、彼らが会社の舵を取ることになって、製造部門の人間は意思決定のプロセスから弾き出されてしまうんだ。そして企業は優れた製品を作ることの意味を忘れる。市場を独占するまでに会社を押し上げてくれた、製品に対する感性や先進的な製品を生み出す才能が、製品の良し悪しという概念がない経営陣によって無下にされてしまうんだ。
優れたアイデアを優れた製品にするのに必要な職人芸という概念が彼らにはないし、たいていの場合、顧客をほんとうに助けたいという真摯な思いに欠けている。これがゼロックスで起きたことだよ。
・大きくなり始めると、誰もが最初の成功を再現したいと思う。そして、成功したのはプロセスに何か魔法が潜んでいると考える人間が多い。だから全社的にプロセスを統一しようとするんだ。 ほどなくして、プロセスこそがコンテンツだと、みんな勘違いするようになる。これこそIBMが転落した究極の原因だよ。
私はこれまでのキャリアのなかで、もっとも優れた人材はコンテンツを理解できる人間だということ、同時に彼らはうんざりするほど扱いにくい人間だということを知ったよ。わかるだろう。それでも大目に見て受け入れるしかない。彼らはコンテンツに関してはきわめて優秀だからだ。だからこそ、優れた製品ができあがるんだ。プロセスじゃない。コンテツなんだ。
・その病とは、すばらしいアイデアが仕事の9割を占めていて、そのアイデアをスタッフに示せば、スタッフは当然作業にとりかかってアイデアが実現すると考えてしまうこと。
・問題は、すばらしいアイデアとすばらしい製品の間には、とてつもない職人技の積み重ねが必要だということなんだ。それに、アイデアを発展させていく過程で、そのアイデアは変貌し、成長する。とりかかった時点で考えていたものと同じものができあがることなんて絶対にない。細部を詰めていくに従って多くのものを学ぶし、妥協しなければならない点も無数に出てくるからだ。電子にはできないことが必ずある。プラスチックにはできないこと、ガラスにはできないこと、工場やロボットにはできないことがね。こういったことすべてが絡んでくるから、製品を設計するというのは、5000のことを頭の中で考えるのと同じなんだ。そうしたコンセプトを一つにまとめて、それまでとは異なる新しいやり方で組み合わせたりして、自分がほしいものを生み出す。問題であれチャンスであれ、毎日何かしら新しいものが現れるたびに、全体をまた少し違った形で組み直すことになるわけだ。その過程がマジックなんだよ。
・けっして一人で成し遂げるわけではない。人というのはシンボルが好きだから、私はある種のシンボルにされている。しかし、Macを作り上げたのは、まさにチームの努力なんだ。初期のアップルで私が目の当たりにしたことについて、当時はどう説明すればいいのかわからなくてずっと考え続けてきた。
・でもソフトウェアの場合ーーかつてはハードウェアもそうだったけど、平均と最高の差は50対1、ひょっとしたら100対1かもしれない。人生でこれほど差がつくものはめったにないけれど、私は幸運にも、こういう世界に身を置くことができた。だから真に才能ある人材をみつけることによって、成功を築き上げることができたんだ。BクラスやCクラスの人材でよしとせずに、Aクラスの人材を本気で求めたんだ。
十分な数のAクラスの人材を集めると、たとえば苦労してAクラスの人材を5人集めると、その5人は一緒に働くのがすごく楽しくなる。なぜなら、そんなチャンスはそれまではなかったからだ。そしてその5人は、もはやBクラスやCクラスの人間とは働きたくないと思う。だから彼らは自主的にAクラスの人間ばかりを雇うことになり、こうした精鋭部隊が作られてAクラスの人材がどんどん増えていく。 Macのチームはそんなふうだったんだ。みんなAクラスだったんだよ。ずば抜けて優秀な連中だった。
・Macチームにいた連中に話を聞けば、あんなにハードに働いたのは始めてだったと言うだろう。あれは人生でもっとも幸せな時間だったと話す者もいるだろう。それでも全員が、人生でめったにないほど密度が濃くて大切な経験だったと、口を揃えると思うね。
・真に優秀な人たちは自分たちが優秀だということを知っているから、その人たちのエゴを甘やかしてやる必要はほとんどない。いちばん大事なのは仕事だし、みんなそれをわかっている。肝心なのは仕事。
・真に優秀で頼りになる人たちにしてやれることのなかで、何が一番重要かというと、仕事の出来が満足のいくものではない時には、それを指摘してあげることだ。はっきり指摘し、その理由をきちんと説明して、彼らが軌道修正できるようにすることなんだ。 その際、自分たちの能力を疑っているんじゃないかと思わせないようにしながら、同時に、その特定の仕事に関しては、チームの目的に貢献していないとわからせるようにしなければならない。
・ジョン(・スカリー)のビジョンは、アップルのCEOに留まること。そのためにはどんなことだってしただろう。1985年の初期、アップルは麻痺状態にあり、会社全体を指揮していく能力は当時の私にはなかったと思う。私は30歳だったし、20億ドルの企業を経営できるだけの経験はなかった。残念ながら、ジョンにもね。私の仕事はないと、はっきり言われたよ。きわめて悲劇的だった。
・唯一の問題は、マイクロソフトが美意識に欠けていることだ。完全に欠けている。細かい点を言っているわけではないんだよ。大きな視点で見てだ。マイクロソフトが独自のアイデアを生み出さず、製品にはほとんど文化がないという意味でだ。
・私はマイクロソフトが成功したことが悲しいわけではないんだ。彼らが成功したのはかまわない。大半が彼ら自身の努力の結果なんだしね。私が気に入らないのは、マイクロソフトが作っている製品が三流品だという事実なんだ。マイクロソフトの製品には魂がない。人にひらめきを与えるスピリットがない。実に凡庸だと思う。 悲しいことに、顧客のほとんどもまた、そのような魂をあまり持ち合わせていない。人類が着実に向上するためには、最高のものを手に入れて、それを広めることだ。そうすれば、より良いものに触れてみんなが成長し、眼識を養えるようになる。マイクロソフトはいうなればマクドナルド。私にはそれが悲しいんだよ。マイクロソフトが勝ったからではなく、マイクロソフトの製品が洞察力や創造力を示してくれないことが悲しいんだ。
・ソフトウェアとコンピュータの世界ではいま、ワクワクすることが二つ起きている。一つはオブジェクトだが、もう一つはウェブだ。ウェブはとても刺激的だよ。私たちが抱いてきた夢の多くがこれによって実現するからね。コンピュータが計算中心の装置に留まるのではなく、究極的にはコミュニケーションのための装置へと変化するんだ。ウェブによって、ついにこの変化が起きている。 それに加えて刺激的のあのは、ウェブはマイクロソフトが所有するわけではないから、革新的なアイデアがどんどん生まれていることだ。だから、ウェブは社会に多大な影響を与えるだろうと思う。
・将来、人類の歴史を振り返った時、人類が発明してきたあらゆるもののなかで、コンピュータがもしトップでなかったとしても、トップにきわめて近いところに位置づけられることになると心から確信している。人類の発明品のなかでこれほどすごいものはないし、シリコンバレーという最高の場所に、この発明が登場した絶好の時期に存在している自分は、なんて幸運なんだろうと思うよ。
・知ってのとおり、軌道を定めてロケットを打ち上げる際に、最初に方向をほんのすこし変えるだけで数マイルも飛ぶと、その方向には劇的な違いが生まれるんだ。 私たちはいま、その軌道設定の初期段階にいると感じるんだ。正しい方向へほんの少し動かしてやれば、進んでいくにつれてどんどんよくなっていくだろう。
・(正しい方向かどうか、どうすれば分かるんです?)究極的には美意識の問題だね。美意識だ。人類がこれまでに生み出してきたもっとも優れたものに触れ、それをいま自分が進めていることに取り入れていけるかどうかだ。ピカソがこう言ってる。「優れた芸術家は真似る。偉大な芸術家は盗む」とね。私たちはすばらしいアイデアをいつも臆面もなく盗んできた。
・マッキントッシュがすごい製品になった理由の一つは、マッキントッシュを作ったチームのメンバーが音楽や詩、芸術、動物学、歴史学の知識を持ち合わせていると同時に、世界有数のコンピュータ科学者でもあったことだ。
・それと同じものが、銀行員ではなくて詩人になりたいという願いを、人に抱かせるんだ。すばらしいことだと思うし、同じ精神を製品に注ぎ込んで製造し、人々に与えれば、手にした人はその精神を感じとれるだろう。

題名通りの自伝「中卒の組立工、NYの億万長者になる」

その名の通り中卒の組立工が、NYの億万長者になるまでを語った自伝。ちなみに、水村美苗『本格小説』に出てくる東太郎という人物のモデルだそうです。

著者は中卒ながらオリンパスに入社し、英語を死ぬ気で覚えて、ニューヨークに赴任。それから独立して成功し、億万長者になっていきます。しかし、自慢めいたものはまったくなくて、とにかく苦労しながら歯を食いしばって自らの道を切り開いていくのを読みながら、だからこそ成功できたんだなぁと思いました。

本当にまだ戦後間もない時期で、オリンパスという当時はまだ小さな会社が自らの製品でもって、アメリカ市場を切り開いていくのに感動も覚えたし、その後、著者がアメリカで何社も医療機器の企業を設立し、上場やM&Aを成功させていくのは、まさにこれから自分たちがインターネットの分野でやっていくことだとも思いました。

すでにこんなにすばらしい事例があることに勇気づけられる一冊です。おすすめ。

<抜粋>
・(NYから妻へ)私は時間を見つけては毎日必ず手紙を書くようにした。これはものの喩えではない。私はニューヨークについたその日から、文字通り1日も欠かさず手紙を出し続けていた。
・(オリンパスのセールスレップを辞めるにあたり)言い方を換えれば、人間というものは本当に追い詰められない限り、思い切った決断を下すことができない。その意味で「チャンスの神様」は、逆境に陥った時にこそ顔を覗かせ始めるのである。ましてや自分は裸一貫、中卒入社からここまで這い上がってきた。既に退社も経験しているし、恐れるものなどなにもない。チャンスの神様の前髪をつかめるかどうかは、勇気を持って前に進めるかどうかっだけだった。
・当時のアメリカでは、ひどい人種差別がまかり通っていた。スーパーで列に並んでいても、レジの女性は「はい、後ろの人」と言って白人を優先する。
・人とのつきあいは半分ギャンブルでもある。 仕事にせよプライベートにせよ100%確実な判断はないし、これはと見込んだ相手に裏切られたり、肩透かしを喰わされたりすることは往々にしてある。 しかしよく言われるように、一人の人間ができることには限界があるのも事実だ。
・私とベルは、各方面から1300万ドルもの出資金を募り、「ハート・テクノロジー」という名の会社が発足することになった。(中略)やがて会社が上場されると株価はぐんぐんと上昇。私とベルは適当なタイミングで持ち株を売却し、バーサフレックス社に関わった時以上に、大きな利益を稼ぎ出すことに成功した。
・私は「バイオセンス」という会社の企業サポートではかなりの資産を築くことができた。これは不整脈の部位を特定する装置を製造・販売するために作られた企業で、私は会社の立ち上げにあたって25万ドルを出資していた。 後にバイオセンス社は「ジョンソン&ジョンソン」社に合併吸収される。(中略)私は3500万ドルもの利益を手にした。
・また淑に元気になってもらうためには、自分が健康でいなければならない。ビジネスの世界で鎬を削っていれば、当然のようにストレスはたまる。これまでは食事の前にスコッチを呷り、食事の際にはワインを1本あけるような生活をしてきたが、淑のサポート役に回ったのを機に一切の酒を断った。
・誰かを批判してやろうというような気持ちは毛頭ない。むしろ自分の人生を振り返れば振り返るほど、私が関わった企業や出会った方々への感謝の気持ちがふつふつと湧き上がってくる。 オリンパス社とは不幸な形で二度も袂を分かつことになったが、もともとアメリカに渡る機会を与えてくれたのはオリンパス社であったし、私を内視鏡の世界に導いてくれたのもオリンパス社である。またガストロカメラや内視鏡の開発を通し、世界中の数多くの人たちの命を救ったという功績は、我々日本人が後世に長く語り継いでいかなければならない。

中卒の組立工、NYの億万長者になる。

マッキンゼーの飽くなき優秀な人材獲得法から学ぶ「採用基準」

マッキンゼー日本で初の人事採用マネージャーとなり長年勤めた著者が、マッキンゼーがどのような人を(自社にとって)優秀と定義付け、どんな方法で採用をしており、かつそれはなぜなのかを書いています。

さすが世界最高峰のコンサルティング会社だけあって、極めてロジカルかつ洗練された「採用基準」で非常に勉強になりました(特に今、採用に力を入れていることもあり)。

いくつか特に考えさせられたところをあげます。

なによりも面接担当者が知りたいのは、「その候補者がどれほど考えることが好きか」、そして「どんな考え方をする人なのか」という点です。考えることが好きな人なら、どんな課題についても熱心に考えようとするでしょう。「考えることが楽しくて楽しくて」という人でないと、毎日何時間も考える仕事に就くのは不可能です。

僕は初めて知りましたが、コンサルティング会社では一部にケース面接という手段が取られており、さまざまなケースにどのように対応するか答えさせるそうです。それは回答を求めているわけではなく、どれだけ「考えるのが好きか」を見るためで、それこそがマッキンゼーにおける優秀な人材の定義の一つだと言います。しかしこれは今のうちのような考え抜くことが必要なネットベンチャーにも当てはまることであり、これから気をつけて見て行こうと思いました。

どんな分野にせよ、既存のやり方を変えるには、強力なリーダーシップが必要とされます。現実に問題を解決するのは、問題解決スキルではなくリーダーシップなのです。(中略)自分の言動を変えるのは自分一人でできるけれど、自分以外の人の言動は、リーダーシップなくしては変えられないのです。

一般に言われるリーダーは組織にひとりでよいのではなく、すべてのひとがリーダーシップを持つ組織の方が成果を出せると言います。ここで言うリーダーとは「チームの使命を達成するために、必要なことをやる人」であり「リーダーとは和を尊ぶ人ではなく、成果を出してくれる人だ」。

僕も成果を出せるようになると急に求心力が高まるという経験をしています。それは自分の問題解決スキルが向上したからだと思っていたのですが、実はそうではなく自分なりのリーダーシップの取り方が分かるようになり、周りのひとの力を引き出し、組織としての成果が出せるようになったからだったんだなととても腑に落ちました(こう書くと非常に傲慢に聞こえるかもしれませんが、僕は自分のリーダーシップにはまったく満足がいってません。昔に比べればよくなったかなという程度でどうやったらもっとよくなるかと反省の毎日です)。

そして、そうやってチームの成果になりふり構わず貢献できるリーダーシップを持った人ばかりの組織というのは非常に強い。うちは手前味噌ながら、素晴らしいリーダーたちによる組織になっていると思います。しかし、それでもまだ貪欲に強力なリーダーシップを持つ人材を求めていこうと改めて思いました。

日本では、管理職以外は個人の成果に基づいてしか評価を受けていないのではないでしょうか。グループの成果を問われるのは管理職だけです。マッキンゼーにおいて、新人からパートナーまで、ほぼすべての評価が「チームの成果はどのようなものか」+「あなた個人は、その成果にどう貢献したのか」という形で成果が問われるのとは対照的です。

前の会社(ウノウ)では四半期ごとにレビューをしていて、チームワークはかなり重要視していたのですが、それは結局のところチームの成果とその成果への貢献を聞きたかったのだなと思いました。この辺りの仕組みは社内でもうまく取り入れて行きたいところです。

P.S.コウゾウに興味ある方(特にエンジニアの方)はぜひ採用ページをご覧ください。

<抜粋>
・なによりも面接担当者が知りたいのは、「その候補者がどれほど考えることが好きか」、そして「どんな考え方をする人なのか」という点です。考えることが好きな人なら、どんな課題についても熱心に考えようとするでしょう。「考えることが楽しくて楽しくて」という人でないと、毎日何時間も考える仕事に就くのは不可能です。
・ケース面接の対策をほとんどせずに受けにくるような人は、たいてい自信過剰です。彼らは「マッキンゼーが自分を落とすなんてあり得ない」と考えています。「どうやったらマッキンゼーに選んでもらえるか」などとは考えていません。なかには「マッキンゼーが、はたして自分が選ぶべき価値のある企業かどうか見にきました」といった態度の人さえいます。
・たかだか数時間の議論で疲れてしまうような軟な思考体力では実用に耐えません。現実の仕事では、高い緊張感の中で何時間も議論を続け、体力的に消耗する飛行機移動を繰り返し、時には十分な睡眠時間を確保することもままならない中で、それでも明晰な思考や判断が可能になるだけの体力が必要なのです。
・採用面接において重要なことは、思考スキルの高い人と低い人を見分けることではなく、「ものすごくよく考えてきた人と、あまり考えてきていない人」を見分けることです。思考力の高い人とは、考えることが好きで(=思考意欲が高く)、かつ、粘り強く考える思考体力があるため、結果として「いくらでも考え続けることができる人」のことを言うのです。そして、そういう人は過去においても、ものすごくいろんなことを深く考えてきています。
・(マッキンゼーの採用基準)(1)リーダーシップがあること (2)地頭がいいこと (3)英語ができること の三つです。 このうち、日本の”優秀な人”がもっているのは(2)だけであり、残りのふたつは絶望的に欠けています。
・どんな分野にせよ、既存のやり方を変えるには、強力なリーダーシップが必要とされます。現実に問題を解決するのは、問題解決スキルではなくリーダーシップなのです。
・自分の言動を変えるのは自分一人でできるけれど、自分以外の人の言動は、リーダーシップなくしては変えられないのです。
・本来のリーダーとは、それとは180度異なり、「チームの使命を達成するために、必要なことをやる人」です。
・私には、自らリーダーシップを発揮して、彼らから寄せられるアドバイスのうちどれを採用し、どれを採用しないか、自分で決めることが求められていたのです。もちろん採用しないと決めた意見に対しては、後から「なぜあの意見を取り入れなかったのか?」と問われるでしょう。しかし、その問いにきちんと返答することができれば、それでよいのです。私に求められているのは、「自分で決め、その結果に伴うリスクを引き受け、その決断の理由をきちんと説明する」ことであって、上司の指示をすべて聞き入れることではなかったのです。
・特に深刻な問題は、学生の頃には自由かつ大胆に思考できていた人が、保守的な大企業で最初の職業訓練を受け、仕事のスピードや成果へのこだわり、ヒエラルキーにとらわれずに自己主張することや、柔軟にゼロから思考する姿勢を失ってしまう場合があることです。
・リーダーとはどんな人なのか、定義として言葉では明確にできなくても、日本人もそのことはよくわかっています。「リーダーとは和を尊ぶ人ではなく、成果を出してくれる人だ」と、実はみんな、理解しているんです。
・大海で自分が乗る救命ボートを選ぶ際は、命さえ助けてくれるなら、漕ぎ手の性格が強引で人当たりが悪くても、無口で自分とは合わない性格であっても、私たちはそんなことを気にはしないはずです。 そうではなく、「救助が得られるまで、乗客を無事に生かしてくれる、導いてくれる」という成果が達成できる人かどうか、という点のみを基準に漕ぎ手を選ぶでしょう。海の上を漂流して助けを待つ間には、数多くの状況判断や、乗員の統率が必要になります。時には厳しい判断やリスクをとった決断もできる、真のリーダーを選ばないと命が助かりません。
こういった大きな成果がかかっている時、いざという時に選ばれるリーダーとは、成果目標のない時に選ばれる「あいつはいい奴」とか「いつも一生懸命で好感がもてる人」、「一緒にいると楽しい人」、「すべてを完璧に処理してくれるよくできた人」などとはまったく違う概念なのです。
・伝記では偉業が称えられるリーダーでも、その人の身近で働いた人にとっては、「極めて独善的な人だった」という場合もよくあります。だからこそ、時代的・空間的に自分から離れた場所にいるリーダーは尊敬や称賛もできるけれど、自分と同じ場所・時代に生きているリーダーは必ずしも好ましい存在ではない、という現象が起こるのです。 この構造も、「リーダーは成果を出すことにこだわる」という原則から説明できます。時代的・空間的に遠いところにいる人からみれば、リーダーが出した成果だけが目に入ります。その成果を出すために、リーダーの周りで苦労した人や、嫌な思いをした名も無き人の情報は伝わりません。成果だけを見れば、リーダーは称賛の対象です。
どこで働く人も、自分の成長スピードが鈍ってきたと感じたら、できるだけ早く働く環境を変えることです。もちろんそれは転職できある必要はなく、社内での異動や、働き方、責任分野の変更でも十分です。「ここ数年、成長が止まってしまっている」と自分自身で感じ始めてから数年もの間、同じ環境に甘んじてしまった後に転職活動をしても、よい結果を得るのは難しいということを、よく理解しておきましょう。
・先頭を走るということは、自らの最終的な勝利を犠牲にせざるを得ないほど大変なことなのです。反対に言えば、人の後をついていく、誰かの背中を見ながら走ることは、相対的に非常に楽なことなのです。
・それぞれの人は異なる感受性や思考回路をもっているのですから、新たな情報に触れたり、思考にふけるたび、ほかの人とは異なるアウトプットが生成されます。それが積み重なると、同じゴールを見ているはずだったのに、いつのまにか少しずつ違った場所を目指しているということが起こります。 だからリーダーのポジションにある人は、何度も繰り返して粘り強く同じことを語り続ける必要があります(全員がリーダーの意識をもっていれば、全員が自分の考えを積極的に声にするでしょう)。わかってくれているはずの人も、その多くが、わかった気になっているだけであったり、わかったような顔をしているだけだったりします。伝わっているかどうかも確認せず、「伝わっているはず」という前提をおくのは、怠慢以外のなにものでもありません。
・たとえば新人コンサルタントが調査分析を行い、マネージャーやパートナーも出席する会議で説明するとしましょう。通常の企業では、これは「下の人がつくった資料を上司に報告し、上司がチェックする」会議です。しかし自分が中心の組織図が示すのは、資料をつくった本人が、自分自身の結論(顧客企業への提案内容)をよりよいものにするために、上司や他のメンバーからのインプットを獲得し、利用するための場として会議を活用する、というコンセプトです。
・日本人はよく「アメリカは個人主義、日本は組織力」などと言いますが、これはむしろ反対です。日本では、高校、大学、大学院の進学は、ほぼ100%個人の成果によって決まりますが、アメリカの学校の大半は、入学時に提出させる資料において、過去のチーム体験、チームで出した成果、そのチームの中で自分が果たした役割や発揮したリーダーシップについて、詳細に問うてきます。 働き始めてからの人事評価も同じです。日本では、管理職以外は個人の成果に基づいてしか評価を受けていないのではないでしょうか。グループの成果を問われるのは管理職だけです。マッキンゼーにおいて、新人からパートナーまで、ほぼすべての評価が「チームの成果はどのようなものか」+「あなた個人は、その成果にどう貢献したのか」という形で成果が問われるのとは対照的です。
・マッキンゼーに入社した人を見ていると、数年も働くいつにほぼ全員が、リーダーとして、もっと力をつけたいと考えるようになります。リーダーシップをとることが責務でも負担なことでもなく、できるようになりたいこと、やりたいこと、さらには、楽しいこと、ワクワクできること、として認識されるようになるのです。(中略)最初に人がその意義を理解するのは、「リーダーシップにより、自分が気になっていた問題が解決できる」と実感した時です。

採用基準

良質な起業ストーリー「GILT(ギルト)」

NY発のフラッシュセールサイト「GILT(ギルト)」を運営するGilt Groupeの創業物語。素晴らしいチームがものすごいスピードでスタートアップを立ち上げ、成功していく様子を丁寧に追った良質なドキュメンタリーです。

一方で、一見完璧そうな経営メンバーであっても、数々の失敗をし、しかしそれからすばやく学び、激務や激しいストレスにさらされ一時休養する姿なども描かれていて、起業家として共感を覚えました。

外からはうまく行ってるように見えても、日々何かしらが足りなくて、焦りながら、とにかく自分たちにできることをできる限りの猛スピードでやっていくしかないというスタートアップの現実が見事に描かれていると思います。

後、個人的にやろうとしているのがコマース分野ということもあって非常に勉強になりました。これくらいのスピード感でやっていきたいものです。

<抜粋>
・ウェブサイトで男性消費者を惹きつけるためには、ブランディングとサイトのデザインははっきりと男性を意識したものにしなくてはならない、そのためには名称も男性的であるべきだ、とアレクシスは信じていた。
・「どの名前が一番好きか?」と「それぞれの名前からどんなことを連想するか?」の二つの質問を出した。また回答者には候補サイト名が書いてあるページを見ないで記憶に残った名前をつづってもらい(あとで名前をどれくらい覚えているか、また正確につづれるかを確かめるため)、一番好きなものから順位をつけてもらった。
・私たちはさんざん話し合った結果、ギルト・グループで紹介する服(ファッション業界では既製服と呼ぶ)はすべて、モデルに着せて撮影する、と決めた。直感でそのほうがいいと決め、やめたほうがいい合理的理由を無視した。それがどれほどたいへんなことか、わかっていなかった。
・投資家の力を借りることを先延ばしにして、自分の力で収益を100万ドルから300万ドルに上げる、もしくはせめて収支がとんとんになるまで持っていこうと四苦八苦しているうちに行き詰まった起業家を、私たちは数多く見てきた。
・私たちは、ギルトを知った顧客が友人たちにどんどん話したくなるはずだ、と期待していた。なぜなら、人に教えることでいわゆる「利他的報酬」が生じるからだ。利他的報酬とはこの場合、友人にバーゲン情報を教えるという利他的で新設な行動が、教えた人にももたらす満足感を指す。
・友達の誕生日ディナーやブランチに招待されると、私たちは紙に印刷したギルト・グループの招待状をひと束抱えていった。また誰に宛てたメールでも、必ず会員登録サイトへのURLを張り、招待メールを周囲の人たちに担送してほしいと依頼した。
・こういった会員たちと直接交流した後、さらに購買額が伸びることに再び私たちは気づいた。お気に入りのデザイナーの商品を買いまくるファッショニスタから、私たちの成功に個人的に関心を持っている「友人」へと変わることで、顧客の購買行動にも変化が見られる。
・マイクとフォンは、技術開発部門での志望者に1時間の筆記試験を受けさせる(試験内容は、Gilt.com/techに掲載されていた)。面接をより効率よく進めるためだ。志望者はオフィスに面接に来る前に試験を終えておく。筆記試験の目的は、仕事のスピード、経験と技術スキルを判断するためだが、「思わず『え、何これ? この試験で何が見たいんだかさっぱりわからない』とポロリと本音をもらす人がいる。試験をするのは、スキルよりむしろそういうところで人柄を見るほうが大きいかもしれない」とマイクは言う。
・「そのためには、業界で評価の高い会議のスポンサーになり、そこで講演することが必要だった:とマイクは説明する。ギルトの技術部門は「ギルト・テクノロジー」というブログまで開設し、エンジニアとして働いているギルトの従業員の質の高さを示し、取り組んでいる仕事がどれだけやりがいがあるかを紹介している。マイクは言う。「そうやってアピールするうちに、ギルトで働きたいと言ってくる人のタイプが変わってきた。私たちがやっている仕事に興味がある、一緒にその仕事をしたい、と言う人が増えたんだよ。ギルトで働く人たちがかっこよく見えて、自分も仲間入りしたいと思うようになった」
・「最高のエンジニアは職探しなんかしない。人生で1回も採用面接に行ったことない人が大半なんだ」
・自分たちが採用した人たちが、創業チームと似たようなタイプばかりであることを私たちは発見した。おっと、これは問題だ。これでは組織としてバランスが悪くなる。その上、アレクシス、マイクとアレクサンドラ、そしてケビンはマイヤーズブリッグスの性格テストで、全員同じタイプと診断された。
・ブランドパートナー以外の第三者との取引は、ブランドから書類で同意書をもらえたときだけにする。たしかにこの決断によって、私たちのような急成長企業はもっとむずかしい立場に追い込まれるだろう。しかし、この決断を悔やんだことは一度もない。
・CEOになってからも、アレクシスは好んで10センチヒールを履き、女らしい服装を貫いた。だが、彼女は伝統的に男性的とされてきた特徴も持っている。それが彼女のリーダーシップのスタイルをユニークなものにしている。
・アレクシスはみんなから好かれなくても気にしない。人に嫌われても決断を通す勇気は、真のリーダーにとって重要な資質だ、と彼女は信じている。アレクシスが事業の成功のためなら、どれほど反対が多くても自分の意見をタフに押し通す姿に、アレクサンドラはいまだに感嘆する。
・ギルトのチームを築いていく中で、自分が決めた採用のミスも躊躇なく認めた。たとえスキルがある人でも、企業文化に合わない(もっと悪いことに、周囲に悪影響を及ぼしかねない)と見ると、チームから「取り除いた」。急成長を遂げる会社にあることだが、ギルトも採用に関してよくミスを犯した。
・いい意味で、私たち全員が驚いた発見がある。それは、面と向かって率直に意見を言っても、案外人は平気なのだ、ということだ。そして人は誰もが、真剣に他人の話に耳を傾けるのだ、ということも発見した。たとえ「自分を変えろ」という手厳しい意見を言われても、人には真摯に受け止める用意がある。
・アレクシスが悩んでいることは、アレクサンドラでさえほとんど気づかなかった。従業員に自分が抱えているストレスを見せないように彼女は気を配っていた。リーダーの態度はチームにもろに影響する。リーダーが他人を批判的に見る傾向があったり、仲間に過剰な競争意識を持ったりすると、社員も同じように振る舞うようになる。アレクシスは、リーダーとしての最高の資質は、冷静さ以上に首尾一貫していることだと信じている。
・(スーザン・リンからのトップに立つ人へのアドバイス)怒りを感じたときには絶対に人と話さない 「大きく深呼吸して、むずかしい話ができる準備が整うまで気持ちを落ちつけなさい」とスーザンはアドバイスする。「『明日お話しましょう』と言って、話をいったん打ち切ること。そして準備する。誰かと厳しい話をしなくてはならないとわかったら、私は必ずメモを用意することにしている」
・(続)「私はこれまでの人生で、いったい何回、『とんでもないことをしでかしてしまった。もう終わりだ』と思ったかわからない。でも、一生懸命働き、かなり能力もある人が下す決断は、いいことが悪いほうを上回るもの。1回のミスが致命的になることはない。そう思うようになってからは、失敗を悔やんで眠れない夜はなくなった」。失敗から立ち直るためには、いさぎよく失敗を認め、どうすれば取り戻せるかをすばやく説明し、そして行動することだ、とスーザンは言う。
・ミッキーはいきなり受話器をつかみ、内線で社内に呼びかけた。J・クルーのオフィス中に聞こえる車内放送で、ミッキーがそんなふうにしょっちゅう呼びかけているのはあきらかだった。(中略)「ヘイ、今、俺はギルトとかいう会社の人と話をしているんだが、何か知っているか? そうだ、ギルト・グループだ。聞いたことがあるやつは俺まで電話しろ」
・ギルトのニュースは数時間のうちに数百万の日本人に伝えられ、5万2000人が会員登録した。記者会見の模様はその夜と翌朝の5つのニュース番組で取り上げられ、新聞6紙が報じた。

GILT(ギルト)――ITとファッションで世界を変える私たちの起業ストーリー

才能vs努力に真正面から取り組む「非才!」

傑出した成功はどこからくるのか、に取り組んだ力作。取り組んだというより才能を否定し、成功するには、正しい気構えで目的性を持って対象に辛抱強く取り組むこと「のみ」が必要である、と豊富な事例をもとに繰り返し主張しています。

著者自身が卓球の元イギリスチャンピョンであり、その体験から環境や優れたコーチがすべてであり、才能は関係なかったと言います。また、子ども3人をすべて世界チャンピョンに育てた事例なども紹介され、確かに才能よりも努力の方が重要であるというのは確からしさを持っていると思いました。

本書には様々な事例がでてきますが、しかしそれで才能がまったく関係ないのかと言われると、そこまでの説得材料はないというのが本書の感想です。

さらに言えば、ダンカン・ワッツは「偶然の科学」で、成功の予測不可能性の実証を示しており、これによれば、傑出したものが成功するのではなく、成功したからこそより傑出していると世界から捉えられます。努力で成功確率をあげることはできるが、成功するかどうかは時の運に相当部分が左右されます。

と考えていくと、努力のみが成功の必要十分条件だという著者の主張はかなり危ういと思わざるをえません。

しかし、現実には、才能も運もコントロールできないわけなので、正しく努力する他ないわけです。だからこそ自分が好きで寝食忘れて取り組める対象を探すのが大切だと思うし、成功には努力だけでは必要十分でないと分かっていてもやり続けるしかない

アーセン・ベンゲルはこう語っている。「できるかぎりのパフォーマンスをするには、論理的な正当化をはるかにこえる強さで信じることを自分に教えてやらなければならない。この非合理的な楽観能力を欠く一流選手はいない。そして合理的な疑いを心から取り払う能力なしに、最大限の力を発揮できたスポーツマンもいないのだ」。

この言葉は非常に正しいし、そうありたいと思います。

しかし、それではすべてのひとが自らを信じ切って最高のパフォーマンスを発揮して、成功をおさめることができるかといえば、それはあり得ない。成功するには才能も努力も運も必要で、本来あり得ないほどすごいことであり、だからこそ尊い、これが一般的な見方であるし、真実であると思います。

どうも著者は自らが非合理的に信じ、努力し続け、かつ結果を出すことに成功した傑出した卓球プレイヤーであったからこそ、だれでもできると考えて(信じて)しまっているのではないかなと思いました。一流選手としての経験が、眼を曇らせているのではないかと。

全体としてはおもしろい事例もたくさんあり、視点としては非常に勉強になるのですが、個人的にはダンカン・ワッツや「ブラック・スワン」のタレブのような身も蓋もない世界観の方が好きだし、真実を捉えてると思います。

そして、自分としてはその非情な世界の中でもがくことをやっていきたいと思ってます。

<抜粋>
・スポーツの世界は実力主義だと思いたがる人が多いーー成功するのは才能と努力のおかげだと。でも、じつは全然そんなことはない。
・20歳になるまでに、最高のバイオリニストたちは平均一万時間の練習を積んでいた。これは良いバイオリニストたちより2000時間も多く、音楽教師になりたいバイオリニストたちより6000時間も多い。この差は統計的に有意どころか、すさまじいちがいだ。最高の演奏家たちは、最高の演奏家になるための作業に、何千時間もよけいに費やしていたわけだ。 だが、それだけではない。エリクソンはまた、このパターンに例外はないことを発見した。辛抱強い練習なしにエリート集団に入れた生徒は一人もいなかったし、死ぬほど練習してトップ集団に入れなかった生徒もまったくなし。最高の生徒とそのほかの生徒を分かつ要因は、目的性のある練習だけなのだ。
・しばしばそれは、ものの二、三週間ほど、あるいは二、三か月ほど、あまり身を入れずにやってみた結果にもとづいた発言だったりする。科学の示すところでは、傑出性の域に突入するには何千時間もの練習が必要なのだ。
・不思議なことに、トップクラスの意思決定者たちーー医療でも消火活動でも軍指揮官等々でもーーは、予想外の要因にもとづいて意思決定をしているわけではなかった。彼らはそもそも選択などしていないようだった。そのときの状況をちょっと考えて、代替案などいっさい検討せず、パッと決断してしまうのだ。自分がじっさいにおこなった行動をどういう理由でとったのか、説明すらできない人もいた。
・一流スポーツ分野を見てまわって、トレーニング法のはてしないかのように見受けられるトレーニング法の多様さに圧倒されるのは簡単だ。だが一皮むけば、すべての成功しているシステムには一つの共通点があることに気づかされる。目的性訓練の原理を制度化しているのだ。最大の卓球王国である中国にはマルチボール・トレーニングがあるし、もっとも成功しているサッカー王国ブラジルにはフットサルがある。
だが念入りな研究の結果、創造的なイノベーションは一貫したパターンをたどることがわかった。傑出性と同じで、目的性訓練の苦難から生まれるのだ。エキスパートは、自分の選んだ分野にとても長いことひたっているために、創造的なエネルギーが充満するとでも言ったらいいだろうか。べつの言い方をすれば、ひらめきの瞬間は晴天の霹靂ではなく、専門分野に深く没頭したあとに湧きおこった高潮なのだ。
・創造性の10年ルールは人間のあらゆる取り組みにおいて見受けられる。131人の詩人を対象としたカーネギーメロン大学のジョン・ヘイズの研究によると、全体の80パーセントが、もっとも創造的な作品の執筆に取りかかる前に10年以上の持続的な準備を要していた。著名な科学者たちを徹底的に研究したアリゾナ大学の心理学者アン・ローは、科学的創造性とは「勤勉な取り組みによる機能」であると結論づけている。
・やはり創造性のひらめき理論の見本とされることの多い芸術家、ミケランジェロが述べているとおりだ。「これほど熟達するまでにどれほど熱心に取り組まなければならなかったか、人びとが知ったなら、さほどすばらしいとは思ってくれまい」。
・十三世紀には、数学を習得するには30〜40年かかると考えられていた。現在ではほぼすべての学生が解析学を習得している。だが、それは人類がかしこくなかったからではない。数学の手法と教育が洗練されたからだ。
・ジャクソンと同じ誕生日の学生たちの動機水準は少々上がったり、はね上がったりしたどころではない。激増したのだ。誕生日が同じ学生たちは、そうでない学生たちに比べて65パーセントも長く解けない難問に取り組み続けた。
マイケル・ジョーダンがこう言うコマーシャルだ。「9000回以上シュートをミスした。300回くらい負けた。勝利を決めるシュートをまかされて、26回はずした」。 このメッセージに困惑した人は多かったが、ジョーダンーー成長の気がまえの生きた証拠ーーにとっては、深みのある断固とした事実だ。史上最高のバスケットボールプレーヤーになるには、失敗を受け入れなければならない。「精神的なタフさと佑樹は、身体的な強みをはるかにまさる」と、ジョーダン。「ぼくはずっとそう言ってきたし、そう信じてきたよ」。
・ポロティエリーは努力をほめ、けっして才能をほめない。機会があるたび練習がもつ変化の力に賛辞をおくり、プレイが途切れるたびに苦労が肝要であることを説く。そして生徒の失敗を良いとも悪いともみなさず、ただ向上の機会ととらえる。「それでいい」と、フォアハンドを大きめに打ってしまった生徒に彼は言った。「いい方向に向かってる。失敗じゃない。そうやって返すんだ」
・エンロンの戦略には二つの異なる理由から不備があった。一つはマッキンゼーが積極的に推奨したまちがった前提をもとにしていたこと。つまり、才能が知識よりも重要だという発想だ。これはでたらめだ。第一章で見たように、複雑性を特徴とするあらゆる状況ーースポーツだろうとビジネスだろうとなんだろうとーーでは、うまい意思決定を推進してくれるのは、生得的な能力ではなく、豊富な経験でしか構築できない知識なのだ。 だがエンロンの戦略は、さらにたちの悪い欠陥をもっていた。エンロンの中心的哲学は生産性をそこなっただけでなかった。とても特殊な文化をつくりあげることにつながった。個人の発達より才能をたたえる文化。学習は能力をつくり変えられるとする考え方をあざける文化だ。固定した気がまえを推奨し、育て、最終的には定着させた文化である。
・アーセン・ベンゲルはこう語っている。「できるかぎりのパフォーマンスをするには、論理的な正当化をはるかにこえる強さで信じることを自分に教えてやらなければならない。この非合理的な楽観能力を欠く一流選手はいない。そして合理的な疑いを心から取り払う能力なしに、最大限の力を発揮できたスポーツマンもいないのだ」。
・顕在記憶システムから潜在記憶システムへの遷移には、大きな利点が二つある。第一に、熟練者は、複雑なわざを構成する各部分を滑らかな一つのかたまりにまとめあげられる(中略)。これは意識的にやるのは不可能だ。意識が処理しなければならない関連し合った変数が多すぎるからだ。そして第二に、そちらに気を取られずに済むために、技能のより高度な側面、つまり作戦や戦術に集中させてくれる点だ。
・問題は注意が足りないことではなく、注意しすぎることにあった。意識的な監視が潜在的システムの滑らかなはたらきを台なしにしていたのだ。異なる運動反応の順序づけとタイミングが、初心者並みにばらばらになっていた。事実上ふたたび新米になってしまったのだ。
・(外国語を聞く時)聞こえてくるのは支離滅裂で理解できないノイズの洪水で、切れ目も構造もわからない。視力を回復したばかりの人間が顔を見ようと試みるのは、ちょうどこんなものだ。友人を見つめていても、見えるのは混乱ともやだけ。なぜなら、意味のある知覚を生み出すトップダウン知識が欠けているからだ。 ここで重要なのは、知識はたんに知覚を理解するためには使われていないということだ。知識は知覚に組み込まれている。偉大なイギリス人哲学者ピーター・ストローソン卿は語っている。「知覚には概念が浸透しているのだ」
・アリの政治的、文化的な影響はリングのなかで獲得したものではない。リングを超越できたことから獲得されたのだ。彼のこぶしは基盤を提供したが、黒人過激主義を述べることで白人多数派に恐怖を植えつけたことが、20世紀アメリカ史の方向を変えるのに役立ったのだ。(中略)つまるところ、黒人は知的に不足しているというステレオタイプをたたきつぶす力をアリが示したために、世界は震撼したのであり、彼が白人のあごをくだく能力をもっていたためではない。

非才!―あなたの子どもを勝者にする成功の科学

人生のジレンマを考える「イノベーション・オブ・ライフ」

「イノベーションのジレンマ」のクリステンセン教授の最終講義。ビジネスでの豊富な事例からライフ、すなわち人生に対する戦略を考えるという意欲作。それぞれのストーリーは非常におもしろくて、それを人生論に転換する著者の持論も勉強になりました。

ただ、書かれている結論は割りと普通ではあり、かつ人生というのはすべての人にとって違うものなので最終的には自分で判断する他ない。ストーリーはあくまでストーリーと割りきって頭の片隅においておくくらいがちょうどいいなと改めて思いました。

<抜粋>
・戦略は一度限りの分析会議で決定されるようなものではない。たとえば上層部の会議で、その時点で得られる最良のデータや分析をもとに決定されるのではない。むしろそれは持続的で、多様で、無秩序なプロセスなのだ。このプロセスを適切に進めることは、本当に難しい。意図的戦略と新たな創発的機会は、資源をめぐって互いと争うからだ。一方では、成功している戦略があれば、それに意図的に集中して、全員の取り組みを正しい方向に向けなくてはならない。だが反面この集中のせいで、次の大きな潮流になるかもしれないものを、妨げになるとして、却下してしまうおそれがある。
・企業が戦略を立てる方法を見ていてわかるのは、始めのうちは有効な戦略を見つけるのは難しいが、だからと言って成功できないわけではないということだ。むしろ企業が成功できるかどうかは、有効な手法を見つけるまで、試行錯誤を続けられるかにかかっている。
・人生のなかの家族という領域に資源を投資したほうが、長い目で見ればはるかに大きな見返りが得られることを、いつも肝に銘じなくてはならない。仕事をすればたしかに充実感は得られる。だが家族や親しい友人と育む親密な関係が与えてくれる、ゆるぎない幸せに比べれば、何とも色あせて見えるのだ。
・皮肉にもホンダが成功したのは、当初の台所事情があまりにも厳しく、利益モデルが見つかるまでの間、気長に成長を待つほかなかったからだ。もしアメリカ事業により多くの資源を配分する余裕があったなら、たとえ儲かる見こみはなくても、さらに多額の資金をつぎこんで大型バイク戦略を追求していたかもしれない。これは投資という観点から言えば、「悪い金」にあたる。だが実際のホンダには、スーパーカブに注力する以外、ほとんど打つ手がなかった。生き延びるには、小型バイクのもたらす利益がどうしても必要だった。これが、ホンダが最終的にアメリカで大成功を遂げた、一番の理由だ。ホンダはやむを得ない事情から、理論に忠実な方法で投資をするしかなかったのだ。
・リズリーとハートの研究では、子どもたちが学校にあがってからも追跡調査をした。子どもたちに語りかけられた言葉の数は、彼らが生後30ヶ月に聞いた言葉の数とも、成長してからの語彙と読解力の試験の成績とも、強い相関関係があった。
・意外に聞こえるかもしれないが、人間関係に幸せを求めることは、自分を幸せにしてくれそうな人を探すだけではないと、わたしは深く信じている。その逆も同じくらい大切なのだ。つまり幸せを求めることは、幸せにしてあげたいと思える人、自分を犠牲にしてでも幸せにしてあげる価値があると思える人を探すことである。わたしたちを深い愛情に駆り立てるものが、お互いを理解し合い、お互いの用事を片付けようとする努力だとすれば、その献身を不動のものにできるかどうかは、わたしの経験から言えば、伴侶の成功を助け、伴侶を幸せにするために、自分をどれだけ犠牲にできるかにかかっている。
・相手のために一方的に何かを犠牲にすれば、相手との関係を疎ましく感じるようになると思うかもしれない。だがわたしの経験から言うと、その逆だ。相手のために価値あるものを犠牲にすることでこそ、相手への献身が一層深まるのだ。
・企業が生き残るには、企業戦略を支えるものごとを、従業員に優先させなくてはならない。そうでなければ、従業員は企業の基盤をゆるがすような決定を下してしまうことがある。
・優先事項は、子どもが何を最も優先させるかを決定づける。実際、これはわたしたちが子どもに授けられる能力のなかで、最も重要なものかもしれない。
・従業員が選択した方法が、問題解決に役立っているとき(完璧である必要はなく、十分な成果をあげればよい)、文化が醸成される。文化は社内の規則や指針という形をとり、従業員はこれをもとに選択を下すようになる。(中略)このことの何がよいかと言えば、組織が自己管理型になることだ。従業員に規則を守らせるために、管理職が逐一監視する必要はなくなる。全員がなすべきことを直感的に進めていく。
・家族に思いやりが含まれる問題に初めてぶつかったとき、その解決策を選ぶように手助けし、それから思いやりを通じて成功できるよう手を貸してやろう。また子どもが思いやりの選択肢を選ばなかった場合は、そのことをたしなめ、なぜ選ぶべきだったかを説明する。
・わたしたちが人生で重要な道徳的判断を迫られるときには、どんなに忙しいときであろうと、またどんな結果が待っていようと、必ず赤いネオンサインが点滅して、注意を即してくれると思っている人が多い(中略)問題は、人生がそんなふうにはできていないことだ。
・「ぼくがほしかったのは……成功だ」と彼はBBCに語っている。彼の動機は金持ちになることではなく、いつまでも成功者と見られたいという願望だった。リーソンは最初の損失がこのイメージをゆるがしたときから、シンガポールの刑務所の独房に直結する道を歩み始めた。
・ほとんどの人が「この一度だけ」なら、自分で決めたルールを破っても許されると、自分に言い聞かせたことがあるだろう。心のなかで、その小さな選択を正当化する。こういった選択は、最初に下したときには、人生を変えてしまうような決定には思われない。限界費用はほぼ必ず低いと決まっている。しかしその小さな決定も積み重なると、ずっと大きな事態に発展し、その結果として、自分が絶対になりたくなかった人間になってしまうことがある。わたしたちは無意識のうちに限界費用だけを考え、自分の行動がもたらす本当のコストが見えなくなってしまうのだ。
・あなたも本書の助言を最大限に活かすには、人生に目的をもたなくてはいけない。

純粋な起業家とは何かを知る「起業家」

サイバーエージェント社長藤田さんの新作。僕がちょうどウノウで会社をやっていた時期とほぼ重なる時期ですごくリアルタイム感があっておもしろかったです。全体的に苦境から成功への物語にも関わらず暗いトーン。藤田さんが愕然としたり、孤独感を告白したり、嫉妬に駆られたりしている姿が正直に告白されています。

僕は起業家である自分を一つの自分というように捉えていますが、藤田さんは起業家であることがすべてというのがよく分かって印象的でした。起業家だけであろうとすると、やはり数字が重要であるし、他社と比べたり、孤独感も感じるだろうと思います。

僕も起業家としては感じます。が、そうでない自分の部分も大きいので、そこまで強く孤独感に苛まれたり、嫉妬したりしないんだろうなと思いました。

そういう意味で、藤田さん=起業家なので、「起業家」というタイトルはまさにぴったりだなと思いました。純粋な起業家というのはどういうひとなのかを知りたい方にオススメです。

<抜粋>
・しかし、赤字企業の経営者で、株価を低迷させ、社会的な評価も落としていたこの時期、将来を語ろうにも、誰一人として私の話に耳を傾けてくれないというのが現実だったのです。 何を言ってもそれは泣き言にすぎませんでした。 将来への道を探し続ける時、私はいつでも一人きりでした。
・メディア事業をやると言っても、自分のキャリア上、メディア事業の実績がない。実績がないのに自分でやらず人任せ、人任せだから自信を持って周囲を説得することもできない。「何かがおかしい」と思いながら手を打てない。 なにもかもが中途半端でした。
・未知の分野で経験者がいないにもかかわらず、その頃多くの人が信じていた、 「既存の業種での経験が、未熟なネット業界で活きる」 という考えは、先行きが見えず、不安な世界ではもっともらしく聞こえました。 しかし、現実はむしろ逆でした。
・孫社長や三木谷社長は、大先輩だし焼き餅を焼く気にもなりません。でも堀江さんは違う。同世代だし実績も同じようなものなのに。 しかし、嫉妬してみたところでなんの足しにもなりません。 私は起業してから初めて、同世代のライバル経営者に引き離され、置いていかれるような感覚を味わいました。
・会話の中で、その女性社員がプライベートのブログはアメーバではなく、他社のブログを使っていたことが判明しました。 この事実が分かった瞬間に私は愕然としました。 いえ、腹が立ったのです。 アメーバのサービスを担当している人間が、アメーバを使っていなくて、ユーザーにとって良いものを作れるはずがありません。
・その頃の私は、なるべく社内でイライラした姿を見せないようにしていたつもりなのですが、そのストレスからか、夜は浴びるように酒を飲み、眠りにつく直前まで自宅で葉巻を吸い続ける毎日でした。 どんなに遅く帰宅してもそこから酒を葉巻をやり始め、頭が朦朧としてくるのを待ちました。仕事のことを考えると怒りや焦りで頭が冴えてしまい、まさに気絶するように頭のスイッチが切れないと眠れなかったのです。
・黒字化した時、私の胸に去来した想いはただ安堵感だけでした。 何か達成感のようなものが湧き上がるのだろうか、とも思っていましたが、特別な感情はなく、その時にはもう次の目標のことが頭の中の大半を占めていました。

お金のことだけではない「お金が教えてくれること」

家入さんが金持ちになって激しく使って、それでお金が教えてくれたことのまとめ。僕もお金って「選択肢の違い」なのかなと思います。時間とか快適さとかが買える。でも僕は身体が弱いのでそれだけでもとてもうれしい。無理しなくて済むから。

ただこの本で改めて一番思ったのは、家入さんがとにかく常にいろいろ考えて、チャレンジしているんだなぁということです。普通自分のスタイルを見つけたらずっとそのやり方を続けたくなるものだと思います。僕もそれじゃいけないと思って、世界一周とか意識的にまったく違うことをしてるつもりですが、なかなか家入さんほど変わるのは難しい。

しかもそれで、LivertyのBASEみたいに結果が出始めてるからすごい。僕も周りに刺激を与えられるようにがんばろうと思いました。とりあえず今作ってるアプリを出すとこから。

<抜粋>
・時間がないと、何かに追われるばかりで立ち止まって考えることができない。思考停止して、よくないループに入ってしまう。どこかで断ち切らないと、ずっと思考停止のまま、何かに追われるだけの人生になってしまう。じゃあ、どこかで断ち切るっていっても、それを考える時間もなくて、もう本当に負のループ。
・お金の「ある・ない」の違いって、人生における取り得る選択肢の違いかもしれない、と改めて思う。「何かをやりたい」とか「何かが欲しい」と考えた時に、その取り得る選択肢が違うだけ。 例えば、お金があることで「時間を買える」 移動する時に「タクシー」という選択肢ができる。
・飲み代がとにかくすごかった。その時、毎月の飲み代が2000万円。今から考えるとすごいよね。その時はもう単純に、毎日毎日経営者の友人をたくさん集めて、女の子を呼んで、高いお酒をガンガン頼んで、音楽をバンバンかけて、毎日がパーティーだった。
・だけど、僕はフォロワーや世間的な評価を、何もせずに手に入れたわけではない。いろいろ僕が前のめりで活動してきた結果、応援してくれる人たちを見つけてきたし、そうやって評価につなげてきた。これは僕が自分の力で勝ち得た、大切な財産だ。
・まだ構想中だけど、Livertyでは学校を作りたい。従来の高校とか大学とかで学べなかったような、発想のところから一緒に考える授業。ウェブデザインの技術的なことやビジネスだけを教えるのじゃなくて、発想法やモノづくりの考え方から教える。
・勝者になると天狗になって、変なプライドができそうなものだけど、会社のことでいくら自信が持てても、さっきも言ったようにコンプレックスがあるせいで、僕は僕自身のことにずっと自信がないままだ。そういう意味では、おかげで勘違いせずに、いいバランスを持ててるのかもしれない。
・カフェを始めてお金があった当時、飲みに行ってポンポンお金を使うと、周りが僕のことを「金持ち」として見てくれるのが気持ちよかった。お金のなかった小さい頃の僕が、満たされるような気がした。友人を呼んで支払いは全部僕が出す。知らない人の分まで払った。もう、ただ「金持ち」の優越感に浸りたいためにやっていた。

元物理学者が社会学の限界に挑む「偶然の科学」

著者ダンカン・ワッツは物理学者から社会学者に転身したという変わり種のコロンビア大学教授。物理学が一つの体系を築いているのに対して社会学はそうなっていないという話から始まり、様々な事例で、それはなぜで著者はどのように考え、解決しようとしているのかを書いています。

文章そのものは難しくないのですが、元物理学者ならではの厳密な論理により組み立てられていて哲学書を読んでいるようです。通常この手の本は、新たにこんなことが分かった、証明された、という論調なのに加えて、何が分かっていないかまで踏み込んであり、論理に奥行きがあるのが素晴らしいです。

個人的にものすごい多くの気づきがあって、まだぜんぜん消化しきれてないのですが、ひとつだけ。

ロールズは、自分が社会経済上のどの階層に属するかを前もって知らないとき、どのような社会で生きていくのを選ぶかと問うた。非常に裕福な人々にはいれる見こみはきわめて少ないので、合理的な人間ならわずかな人々が非常に裕福で多くの人々が非常に貧しい社会よりも、平等主義の社会、つまり最も貧しい者でもなるべく豊かになれる社会を選ぶはずだとロールズは推論した。

ノージックはロールズの主張を大いに問題視したが、その大きな理由は、ロールズが個人の成果の少なくとも一部をその人物の努力ではなく社会に帰していることだった。もし個人が自分の才能や努力の産物を所持しつづけられないのであれば、自由意志に反して他人のために働かされるのと同じであり、自分自身を完全には「所有」できないとノージックは論を進めた。だから課税も、そのほかの富の再配分の試みも、道徳にかなった奴隷制に等しく、それゆえいかなる恩恵を他人に与えようとも認められない。

確かにロールズが言うように生まれ、才能、機会にせよ不平等が本質的に偶然によるのならば、社会はリバタリアン的なものではなく平等主義的であるべきなのかもしれません。

が、ここには人類の進歩を推し進めるために努力し、結果を出した人間への評価が考えられていません。もし成功しても名声はともかくとして、平等社会の名のもとに、富も平準化されてしまうのだとしたら、人類の進歩へ貢献したひとへのリスペクトが足りていないと思います。

しかも、国家という仕組みがある以上、能力のあるひとがより税金が安く能力を発揮しやすい国への移住するのは防げません。だから結局完全なる平等社会は実現できず、より世の中はリバタリアリズムな社会になっていくはずです。

もちろん最低限の生活の保障は得られるべきだと思うけれども、それ以上の税金での搾取はやはりリバタリアンからすると受け入れ難い。ましてや国家予算における不正を防ぐ手立てがない現状では。

われわれの個人としての行動が、社会的関係のネットワークに逃れようもなく埋めこまれているとするサンデルの主張は、公正と正義に関する議論だけでなく、道徳と美徳に関する議論にも影響を及ぼす。実際、サンデルは対立する主張を道徳面から評価せずに何が公正かを決めることはできないと論じている。そしてそのためには、社会制度の道徳的な目的を明らかにしなければならない。

ただ、よく分かったのは、サンデルが一世を風靡して、なぜ受け入れられたのかというと、能力や努力だけではどうにもならないことがある、という事実を世の中の多くのひとが感じているからだということです。

しかし、サンデルの哲学では結局のところどこまでを保障するかは道徳による社会的な合意によることになりますが、道徳というのは確かなようで、実はすごく移ろい易い。だから、結局のところシステムの抜け穴を見つけて甘い汁を吸う不正な輩が出てくることになります。

現状では世界は全体で見れば貧しいし、止む負えない部分もあります。ただ世の中が豊かになりグローバルになればなるほど、国家が税金に頼る部分も少なくなり、リバタリアン国家が台頭してくるのではないか、というのが僕の今の考えです。

本書ではその他、成功の不確実性の証明やそれに対する対抗手段など素晴らしい考察もあり、非常におもしろいです。内容は先も書いたようにかなり重厚なのですが、今後の世界を生き抜く上で非常に示唆に富んでいるのですべての方におすすめしたいと思います。

参考)「それをお金で買いますか――市場主義の限界」マイケル・サンデル

<抜粋>
・こうした物語は冷静な説明の形をとっているため、われわれはそれに予測の力があるかのように扱う。このようにして、われわれは自分自身を欺き、不可能なはずの予測ができるかのように信じこむ。 したがって、常識に基づく推論はただひとつの決定的な限界ではなく、複数の限界が組み合わさったものに悩まされている。そしてそれらはすべて補完関係にあり、さらにはお互いを覆い隠している。その結果、常識に基づく推論は世界に意味づけをするのは得意だが、世界を理解するのは必ずしも得意ではない。
・(続き)しかし、われわれは常識がまさに神話のような働きをするとは思っていない。常識に基づく解釈は、人々が置かれた状況に対して都合のいい説明を与えることで、日々の営みをつづけていくための自信を与え、自分が知っていると思っていることは果たしてほんとうに真実なのか、それともただの思いこみなのかと逐一悩むことから解放してくれる。 だがその代償として、われわれは物事を理解していると自分では思いながらも、実際はもっともらしい物語でごまかしているだけだ。そしてこの錯覚のせいでわれわれは、医学や工学や科学の問題を扱うように社会の問題も扱おうとは考えず、結果として、常識が実は世界の理解を妨げてしまっている。
・人々がなんらかの形で金銭的な報酬に反応することにはほぼ異論の余地がないものの、望ましい結果を引き出すために実際にそれをどう用いるべきなのかはわかっていない。数十年にわたる研究のすえ、金銭的インセンティブは仕事ぶりにはほとんど関係ないと結論した経営学者もいる。 しかしながら、この教訓を何度指摘しようとも、経営者や経済学者や政治家はインセンティブを利用すれば人間の行動を左右できるかのような顔をしつづけている。
・われわれは芸術作品をその特質に基いて評価しているように思えるが、実は反対のことをしている。つまり、まずどの絵が最高かを決めたうえで、その特質から評価基準を導き出している。こうすれば、すでに知っている結果を一見すると合理的かつ客観的な形で正当化するのに、この評価基準を引き合いに出せる。しかし、これがもたらすのは循環論法である。われわれは<モナ・リザ>が世界で最も有名であるのはXとかYとかZとかの特質を備えているからだと言い張る。だがほんとうのところは、<モナ・リザ>が有名なのはそれがほかの何よりも<モナ・リザ>的だからだと言っているにすぎない。
・常識は、「ハリー・ポッター」シリーズは3億5000万人以上が買ったくらいなのだから、特別にちがいないと教えている。たとえ、出版を見送った半ダースばかりの児童書の出版社が、当時はそう思わなかったにせよ。そしてどんなモデルも、あらゆる形で単純化した仮定をせざるをえないので、常識を疑うかモデルを疑うかの選択を迫られたとき、われわれはいつも後者を選ぶ傾向がある。
どの曲が最も人気を集めたか、つまりヒット曲になったのかは世界によって違っていた。言い換えれば、社会的影響を人間の意思決定に持ちこむと、不均衡性だけでなく予測不可能性も増していた。この予測不可能性は、サイコロの表面を仔細に眺めてもどの目が出るかを予測する役には立たないのと同じで、曲の情報をもっと増やしても解消されなかった。予測不可能性は市場そのもののダイナミクスにもとから備わっていたのだ。
・「ハリー・ポッター」シリーズや<モナ・リザ>が独自の特徴を備えているのとまったく同じで、フェイスブックも独自の特徴を備えており、それらはみな独自の結果をともなっている。とはいえ、こうした特徴が何か有意な形でその結果の原因になったとは言えない。
・シミュレーションで大きな連鎖が起こったときはいつも、だれかそれを起こす人物がいなければならなかったのは当然の事実だ。そういう人物はなんら特別でないと思っていても、やはり少数者の法則にまさしくあてはまるように思える。「仕事の大半をこなすわずかな割合の人々」という考え方である。しかしながら、われわれがシミュレーションから知ったのは、こうした個人に特別なことなどほんとうはまったくないということだった。われわれがそのように設定したからである。
われわれの結論を言うと、エネルギーや人脈によって本をベストセラーにしたり製品をヒットさせたりできるほどの影響力の強い人物は、十中八九タイミングと状況の偶然によって生まれる。いわば「偶然の重要人物」なのである。
・その世界のキム・カーダシアンにあたる人物たちはたしかに平均より影響力があったが、非常に高くつき、買い得ではなかった。情報を広めるうえで最も費用対効果が高かったのは、影響力が平均かそれより小さい、われわれが一般のインフルエンサーと呼んだ個人の場合が多かったのである。
・イラク戦争がヴェトナム戦争やアフガニスタン紛争とそのまま比較できるとはだれも思わないし、だから一方の教訓を他方にあてはめようとするのは用心しなければならない。同様に、<モナ・リザ>の成功を研究すれば現代の芸術家が成功するかしないかも判断できるとはだれも思わない。にもかかわらず、われわれは歴史から教訓を学べるとたしかに思っているし、実際よりも多くを学んだかのように思いこみがちだ。
われわれは結果の原因をひとりの特別な人間に求める誘惑に駆られるが、この誘惑はわれわれがそのような世界の仕組みを好むからであって、実際にそのような仕組みになっているわけではないことに留意しなければならない。
・歴史の説明は、起こったことを公平かつ客観的に述べている「だけ」だとよく言われるからだ。しかし、バーリンとダントがともに論じるとおり、起こったことをありのままに述べるのは不可能である。これはおそらくもっと大切なのだが、起こったことをありのままに述べても、歴史の説明が目的とするのは過去の出来事を再現するというより、なぜそれが重要なのかを明らかにすることなのだから、その目的にかなわない。そして何が重要で、なぜ重要なのかを知るには、結果として何が起こったかをたしかめるしかない。
・物語と理論の混同は、常識によって世界を理解しようとするときの問題の核心を突いている。すでに起こったことを理解しようとしているだけであるかのようにわれわれは言う。だがその舌の根も乾かぬうちに、自分が学んだと思っている「教訓」を未来に実行するつもりの計画や政策に応用する。物語を作ることから理論を組み立てることへの切り替えは、非常にたやすく直観的にできるので、われわれはほとんどの場合、切り替えていることを自覚さえしない。だがこの切り替えは、ふたつが根本からちがうもので、目的も異なれば証拠の基準も異なることを見落としている。だから、物語としての出来に基いて選ばれた説明が、未来の傾向や趨勢を予測する役には立たなくても、驚くにはあたらない。
・過去に目を向けるとき、われわれは起こったことしか見ない、つまり起こったかもしれないことが起こらなかったことには目が行き届かない。そのため常識に基づく説明は、実際は単に出来事が連続しているだけなのに、因果関係があるかのように誤解する。これと同じで、未来を考えるときも、われわれは未来が出来事の連なる一本の糸をなしていて、またそれが明らかになっていないだけであるかのようについ想像しがちである。現実には、そのような糸など存在しない。むしろ未来は可能性のある糸の束のようなもので、それについてたぐり寄せられる確率があり、われわれはいろいろな糸の確率を見積もることくらいしかできない。しかし、未来のどこかの時点でこうした確率のすべてが一本の糸に収斂するのを知っているので、重要になってくる一本の糸におのずと注目したがる。
・(注:常識からすれば立てられそうな予測が立てられない理由)第一に、常識はたったひとつの未来だけが起こると教えるので、それについての明確な予測を立てたくなっても無理はない。しかしながら、われわれの社会生活と経済生活の大部分を構成する複雑なシステムでは、ある種の出来事が起こる確率をなるべく正しく見積もることくらいしか望めない。 第二に、われわれはいつでも予測を立てられるが、常識は興味を引かない予測や重要でない予測の多くを無視し、重要な結果に注目するよう求める。だが現実には、どの事件が未来に重要になるかを予測するのは原理的にも不可能である。
複雑なシステムについての予測は、収穫逓減の法則に大きく左右される。最初の情報は大いに役立つが、いかなる改善の見込みもすぐさま使い果たされてしまう。 もちろん、予測の精確さをわずかに改善することがおざなりにできない状況もある。たとえば、オンライン広告や商いが盛んな証券取引では、日々何万何億という予測が立てられており、巨額の金がかかっている。こうした状況では、きわめてとらえがたいパターンを利用する精緻な方法に労力と時間をつぎこむ価値はある。しかし、映画製作や本の出版や新しいテクノロジーの開発といったほかの分野のほとんどでは、年に数十か多くても数百の予測しか立てられず、その予測もたいていは意思決定の過程全体の一部分にすぎないので、わりあい単純な方法を使うだけで、限界近くまで正確な予測ができるだろう。
・(注:MDプレイヤーvs iPodについて)唯一の重要なちがいは、ソニーの選択がたまたま誤っていたことであり、アップルの選択がたまたま正しかったことだった。 これが戦略のパラドックスである。戦略上の失敗のおもな原因は劣悪な戦略にあるのではなく、優秀な戦略がたまたま誤ることにあるとレイナーは論じる。(中略)優秀な戦略は完全な成功をもたらしうるが、完全な失敗ももたらしうる。 このように、優秀な戦略が成功するか失敗するかは、すべて最初の展望がたまたま正しいかどうかにかかっている。そしてそれを前もって知るのは困難というより、不可能である。
・レイナーによれば、ほとんどの企業がかかえる問題は、取締役会や経営トップなどの経営陣が、既存の戦略の管理と最適化ーーレイナーが運営管理と呼ぶものーーに時間を使いすぎ、戦略的不確実性をじゅうぶんに考えていないことだという。経営陣はむしろ経営的不確実性の管理にすべての時間をつぎこみ、運営計画は部署の長に任せるべきだとレイナーは論じ、こう述べている。 「組織の取締役会とCEOは短期業績ばかりを気にするのではなく、事業部署のために戦略上の選択肢を作り出すことに専念すべきである」
・結局のところ、計画法としての戦略的柔軟性がかかえるおもな問題は、それが解決しようとしている問題となんら変わらない。すなわち、ある産業を形作った動向は、あとから考えると決まって自明に見えるということである。
・(注:ハフィントン・ポストの話で)これを解決するのがマレット戦略である。記事を読む人がごく少ない後ろのページでは、1000もの(あるいは100万もの)花が咲き乱れるままにする。そのうえで、題材を慎重に選んで後ろのページから高価な広告スペースのある前のページヘと昇格させ、そこからは厳格な編集管理のもとに置くというわけだ。
・真の問題は、広告主が知りたがるのは、広告が売上の伸びの原因になっているのかどうかという点にある。だが、広告主が測定するのはほぼ決まって、両社の相関関係でしかない。 もちろん、理屈のうえでは、相関関係と因果関係がちがうことはだれしも「知っている」が、実際には両者は混同されやすく、現にしょっちゅう混同されている。
・最も重要なのは、ブライト・スポットとブートストラップどちらにおいても、計画者側が考え方を改めなければならないことである。第一に計画者は、どんな問題(中略)であれ、現場の人間が恐らくその解決策の一部を有していて、それを共有する気があることを認識しなければならない。そして第二に、あらゆる問題の解決策を自力で探す必要はないことを認識したら、分野にとらわれずに既存の解決策を探すことに資源を割りあて、その解決策をもっと広く実行することができる。
・すべてに共通しているのは(中略)計画者が直感と経験のみに基づいて計画を練りあげられるといううぬぼれを捨てなければならないことだ。言い換えれば、計画が失敗するのは計画者が常識を無視したときではなく、みずからの常識に頼って自分と異なる人々の行動を推論したときである。(中略。注:これはどうすることもできないが)常識にあまり頼らず、測定可能なものにもっと頼らなければならないと覚えておくことならできる。
一度きりしか計画を試せない場合、ハロー効果を避ける最善の方法は、行動の評価と改善をその行動の最中に全力でおこなうことである。これまでに論じたシナリオ分析や戦略的柔軟性などの計画技法は、組織がずさんな想定をあぶり出し、明白な誤りを避ける助けになるし、予測市場や意見調査は集団の知恵を利用して、結果がわかる前に計画の質を評価できる。また前章で論じたように、クラウドソーシングや現場実験やブートストラップは、何が役に立って、何が役に立たないかを組織が学び、ただちに修正する助けになる。
・これらの方法はどれも、計画の立て方や実行の仕方を改善することで、成功の可能性を高めるのが目的になっている。だが成功を保証することはできないし、保証するはずもない。したがってどういう場合でも、すぐれた計画が失敗して劣った計画が成功するときもあるのだと、つまりそれはただの偶然によって決まるのだということを心に留めておく必要があるし、だから既知の結果だけでなくそれ自体のすぐれた点からも計画を評価する必要がある。
保険会社のAIGでボーナスを受け取ったある人物もこう述べている。 「自分はそれだけのお金を稼いだし、AIGで起こった残念なこととはいっさい関係がありませんでした」(中略)われわれの知る限り、どちらの銀行員もまったく同じゲームをしている可能性がある。 つぎの思考実験を少し考えていただきたい。毎年あなたはコイン投げをする。表が出れば「よい」年になり、裏が出れば「悪い」年になる。(中略)AIGの社員は自分がコイン投げをしているとは思っていないだろうし、このたとえもまるで理解できないだろう。自分の成功は運ではなく実力と経験と努力のおかげであり、自分の避けてきた誤りを同僚が犯したと考えている。
・人生の多くの部分は、社会学者のロバート・マートンのいう「マタイ効果」に支配されている。この名は、マタイによる福音書の「持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでもとりあげられる」という一節にちなんでいる。マタイは明らかに富のことを言っていたのだが(中略)マートンは同じルールがもっと広い意味での成功にもあてはまると論じた。個人がキャリアの早いうちに成功をおさめると、一定の構造的優位を得られるので、本来の能力にかかわりなく、その後も成功する見こみがずっと大きくなるということだ。
・社会学者でハーヴァード・ビジネス・スクールの教授であるラケシュ・クラーナも、著者の『カリスマ幻想』で、一般に企業の実績はCEOの行動よりも、個々のリーダーにはどうすることもできない業界全般や経済全体の好不調のような外部の要因によって決まってくると論じている。4章で論じたハブやインフルエンサーとちょうど同じように、成功についての従来の説明が精神的指導者の力を持ち出すのは、そういう断定を支持する証拠があるからではなく、この種の人物がいなければ、複雑で大規模な組織体がどのように機能しているのかを直感的に理解できないからだとクラーナは結論している。
・ロールズは、自分が社会経済上のどの階層に属するかを前もって知らないとき、どのような社会で生きていくのを選ぶかと問うた。非常に裕福な人々にはいれる見こみはきわめて少ないので、合理的な人間ならわずかな人々が非常に裕福で多くの人々が非常に貧しい社会よりも、平等主義の社会、つまり最も貧しい者でもなるべく豊かになれる社会を選ぶはずだとロールズは推論した。
・ノージックはロールズの主張を大いに問題視したが、その大きな理由は、ロールズが個人の成果の少なくとも一部をその人物の努力ではなく社会に帰していることだった。もし個人が自分の才能や努力の産物を所持しつづけられないのであれば、自由意志に反して他人のために働かされるのと同じであり、自分自身を完全には「所有」できないとノージックは論を進めた。だから課税も、そのほかの富の再配分の試みも、道徳にかなった奴隷制に等しく、それゆえいかなる恩恵を他人に与えようとも認められない。
・自然状態では、ノージックは正しいのかもしれない。だがロールズの主張の肝心な点は、われわれはそのような世界に生きていないということだ。(中略)生まれにせよ、才能にせよ、機会にせよ、不平等が起こる仕組みは本質が偶然の産物であるのだから、公平な社会とはこうした偶然の不利な効果が最小化される社会だとロールズは主張した。
・肝心なのは、銀行がリバタリアンならば成功の重みも失敗の重みもすべて引き受けるべきであり、さもなければロールズ主義者として自分の面倒を見てくれるシステムに税を払うべきだという点である。みずからの都合しだいで哲学を切り替えるべきではない。
・われわれの個人としての行動が、社会的関係のネットワークに逃れようもなく埋めこまれているとするサンデルの主張は、公正と正義に関する議論だけでなく、道徳と美徳に関する議論にも影響を及ぼす。実際、サンデルは対立する主張を道徳面から評価せずに何が公正かを決めることはできないと論じている。そしてそのためには、社会制度の道徳的な目的を明らかにしなければならない。
公正の判断基準となる価値観は所与のものではなく社会の産物にほかならないというサンデルの主張は、1960年代に社会学者がはじめて唱えた、われわれが生きる社会の「現実」は当の社会によって「構築」されたものであり、なんらかの外部の世界からもたらされたのではないとする思想を映し出している。したがって、サンデルの主張は、政治哲学の根本にある問いは社会学の問いでもあるという重要な示唆を与えている。
・「おそらく」とマートンは嘆いている。「社会学は自分たちのアインシュタインを迎える準備がまだできていないのだろう。いまだに自分たちのケプラーを見いだしていないのだからーーニュートン、ラプラス、ギブズ、マックスウェル、ブランクは言うまでもなく」 したがって、社会学者は人間の行動の大理論や普遍法則を探求するのではなく、「中範囲の理論」を発展することに集中すべきだとマートンは説いた。

800年間の金融の歴史から学ぶ「国家は破綻する」

一般的には国家がデフォルトを起こすことなど非常に稀にように思えますが、実際はかなり多く起こっているということが豊富なデータから指し示されています。

さらに、国外債務より国内債務の方がはるかにデフォルトされやすいとか、国家がデフォルトするかどうかは、その国家の「意思」によって決まるとして、債権者の権利が非常に乏しいことが描かれています(例えば、ロシアが破綻したとき国家の財産であるルーブル美術館の美術品を放出せよとは誰も言わなかったし、実際不可能であった)。

日本も破綻するかしないか議論されていますが、本書を読む限りだと破綻する可能性はあると言わざるを得ません。起きないに越したことはないですが、その際に何が起こるのかを知っておくことは生き方の知恵だなと思います。

<抜粋>
・本書では、「めったに起きない」としてとかく忘れがちな現象にスポットライトを当てるべく、注意を払った。実際にはそうした現象は一般に考えられているよりはるかにひんぱんに起きているし、お互いに似通ってもいる。ところがアナリスト、政策担当者、さらには経済学者までもが、新たに起きた聞きをごく狭い視界で捉えるという好ましからぬ傾向を示す。すなわち、限られた国、限られた時期の狭い範囲から抽出した標準的なデータセットに基づいて、判断を下そうとする。債務やデフォルトを扱った学術文献や政策研究の大半が、1980年以降に収集されたデータに基づいて結論を出しているのは、こうしたデータなら入手が容易だという理由によるところが大きい。
「今回はちがう」シンドロームの本質は、ごく単純である。この症状は、金融危機はいつかどこかで誰かに起きるもので、いまここで自分の身に降りかかるものではない、という強固な思い込みに根ざしている。われわれは前よりうまくやれる、われわれは賢くなった、われわれは過去の誤りから学んだ。それに、昔のルールはもう当てはまらない、という具合である。
・貸し手は主権国家の返済能力だけでなく返済の意思にも依存しているのであり、この事実がすでに、主権国家の破産が企業の破産とはまったくちがうことを示している。企業や個人が破産した場合、債権者には明確に規定された権利があり、債務者の資産の多くを取り上げ、将来の所得に相応の先取特権を設置することが認められている。だが国家の破産の場合には、たとえ書類上はそうできることになっていても、実際に債権者がそれを執行する力は相当に制限される。
なぜ政府は、インフレで問題が解決できるときに、わざわざ国内債務の返済を拒否するのだろうか。言うまでもなく一つの答えは、インフレがとくに銀行システムと金融部門に歪みを生じさせるから、というものである。インフレという選択肢があっても、支払い拒絶の方がましであり、少なくともコストは小さいと政府が判断することもある。
・2007年に五大投資銀行の幹部が手にしたボーナスは、総額360億ドルを上回った。金融業界の大物たちは、この業界の高い収益率を金融イノベーションと正真正銘の高付加価値商品の賜物だとみなし、自分たちの会社がとっている潜在的リスクをひどく過小評価する傾向があった。
・こうした中、国際通貨基金(IMF)は2007年4月に「世界経済見通し」(年2回発表)の中で、グローバル経済を脅かすリスクはきわめて小さくなり、当面は何も懸念すべき材料はないとノベル。世界の金融のお目付役である国際機関が何も心配はいらないと請け合ったのだから、「今回はちがう」ことのこれほど確かな表明はなかった。

「MAKERS」で21世紀型のコミュニティを知る

『フリー』『ロングテール』のクリス・アンダーソンが、3Dプリンタを中心として誰でも製造業=メイカーになれる「メイカーズ」時代の到来について紹介する衝撃的な著作。

僕は前々からこの分野にすごく興味があって、2007年からCerevoでインターネット×ハードウェアのようなこともやろうとしてきたりもしました。

しかし、本書で一番衝撃を受けたのは、そのコミュニティでした。結局のところ3Dプリンタが身近になったから、メイカーズ・ムーブメントが来ているわけではなくて、出力するデジタルデータやソフトウェアを共有するようなコミュニティがあるからこそ、ムーブメントになってきているのだと思いました。

最近では、Etsyのようなウェブサービスでも、コミュニティをうまく形成し、エコシステムを作っているサービスが増えてきています。個人的には、こちらの流れに非常に注目しています。

<抜粋>
・メイカーボットはもっともシンプルな3Dプリンタのひとつだ。モーターは四個だけ。X軸、Y軸、Z軸を動かすモーターに加えて四個目のモーターはABS樹脂を熱で溶かし、作業用トレーまで運ぶためのものだ。メイカーボットの外枠は、レーザーカッターで切った合板を合わせたもので、プラスチック製の歯車の一部は別のメイカーボットのプリンターで作られている。内部の電子機器には、アルドゥイーノ基板が使われている。
・メイカーボットの哲学は奥が深い。レップラップの3Dプリンタ(スマートで華奢なデザイン)、アルドゥイーノのマイコン基板、CADファイルを指示に転換して3Dプリンタの三個のモーターを制御する一連のソフトウェアなど、歴代のオープンソースのプロジェクトの上にこれが築かれているからだ。ここでいう「オープンソース」とは、なんでもオープンにすることだ。電子部品、ソフトウェア、商品デザイン、製品仕様やマニュアル、それからロゴまでも。メイカーボットのほぼすべてが、コミュニティによって開発されたか、その中のだれかが自主的に作ったものだ。それは知的財産権を放棄することで、コミュニティの指示と善意による強力な保護が得られる。輝かしい実例だ。
・その違いーーひとりが発信するブログ形式のニュースや情報ではなく、コミュニティが作るサイトであることーーは、天と地ほどの大きさだった。
・確かに、ラリーファイターはバギーカーとそれほど変わらない。しかし、ローカルモーターズの電気自動車は、これまでとまったく違うものになる。そして世界的な自動車メーカーは、コミュニティによる開発モデルの力に気付くだけでなく、それを羨むことになるだろう。
・スペースXの基本的なロケット技術はNASAとそう変わらないが、生産工程のおかげで打ち上げコストは比べものにならないほど低い。請負業者、下請け、孫請けが絡んだ、航空宇宙業界の複雑な(しかも政治的な)ネットワークのかわりに、スペースXはデジタル工作ツールを使ってほとんどなんでも内製する。テクノロジーが製造業の複雑さとお役所的な構造を簡略化し、コストを10分の1にまで削減しながら、信頼性はあげている。NASAのモデルを改善するために宇宙工学の仕組みからやり直す必要はない。ほとんどのイノベーションは工場で生まれるからだ。
・いまもアメリカで作られているものは? 国内で販売される大型製品(たとえば自動車)や、価格に比べて人件費の割合が小さい高付加価値製品(たとえば飛行機)、そして価格競争にさらされれにくい特殊品(たとえば医療機器)などだ。
・スパークファンは、コミュニティを核とする典型的な企業だ。ウェブサイトの最初のページには製品ではなくブログが載り、人気のチュートリアルや社員の動画が掲載されている。掲示板では大勢のファンがお互いに助け合っている。
・チェンとストリックラーは、キックスターターがもの作りの資金調達源として注目されることに、いまも少し違和感がある。もともとは、大手レコード会社やハリウッドがなかなか売り出してくれない音楽や映画に加えて、アート、舞台芸術、コミック本、ファッションなどのプロジェクトのためのプラットフォームとして、キックスターターを立ち上げたのだ。
・ある日、喫茶店のオーナーのマルシア・ドーシーが、コンピューター好きの息子がアルバイトを探していると言ってきた。そこで、その息子にミラノ事務所に来てもらうことにした。(中略)「ああ、ちょっと終わるまで待ってもらえるかな」と言って仕事に戻った。 30分後、まっケルビーは男の子のことを完全に忘れていたことに気づいた。顔を上げると、驚いたことに、ドーシーはまださっきとまったく同じ場所に、両手をまっすぐにぶら下げて立っていた。

ゲームの可能性と限界を探る「幸せな未来は「ゲーム」が創る」

著者は、現在、膨大なひとがゲームをしているが、それは現実世界がゲームに比べて没頭しにくく、ゲーム的に言えばクソゲーだからだと言います。確かに現実は誰にとっても共通の明確な目標設定などないし、ルールもなければ、何かをしたところで必ずしも成功のフィードバックがあるわけではありません。だから、もっとゲームの仕組みを使えば現実をよりよくできる=幸せな未来を創れる、というわけです。

確かにものすごい説得力があって、一部はまさにそうだろうと思います。僕もかつてゲームを創っていた人間として、ゲーム的な要素を取り入れたインターネット・サービスを創って行きたいと思っています。

ただ、ひとの作ったゲームのルールには限界があります。ゲームによって世の中がよくなることは確かだと思うけれども、本質的には誰もが共通の目標があるわけでもないので、ひとりひとりが幸せになるためには、自らのゲームを設計しなければならないと思います。

それには多くの事例を知るのは重要であり、そして本書の事例はすごく役に立つと思うので、強くオススメします。

<抜粋>
現実世界は、仮想世界が提供するような周到にデザインされた楽しさや、スリルのある挑戦、社会との強い絆を容易に提供することはできません。現実は効果的にやる気を引き出したりはしませんし、私たちが持つ能力を最大限に引き出して何かに取り組ませることもありません。現実は私たちを幸せにするためにデザインされていません。 そのため、ゲーマーコミュニティにはある認識が広がってきています。 つまり、ゲームに比べて、現実は不完全だという認識です。
・この大脱出を引き戻すような何か劇的な変化が起きないかぎり、かなりの人口の割合が何よりもゲームに打ち込むようになります。最高の思い出も、成功の経験もすべてゲームの世界で起こるという社会への変容は急速に進んでいくでしょう。
ゲームを特徴づけているのは、ゴールとルールとフィードバックシステム、それに自発的参加なのです。これ以外のあらゆる努力は、これら四つのコアと鳴る要素を補強し、強化しているのです。
・(哲学者のバーナード・スーツ)ゲームをプレイするとは、取り組む必要のない障壁を、自発的に越えようとする取り組みである
・チクセントミハイは、ゲームが私たちの生活に楽しい活動をもたらすもっとも効率的で安定的な源とするなら、なぜ現実生活はこのようにゲームと似ていない面が多いのかと疑問に思いました。学校やオフィス、工場などでの日常の生活環境がフローを提供できないのは深刻な倫理問題であり、人類が緊急に対処スべき問題のひとつであると彼は論じています。(中略)その解決策はチクセントミハイには明白なようです。つまり、現実の仕事の仕組みをゲームのように変えていくことで、より多くの幸福を生み出すのです。ゲームは各自が自由に選び、能力を極限に活用できるようなハードな仕事の作り方を私たちに教えてくれますし、ゲームで得た教訓は現実世界に応用することができます。
・(アンドリュー・カリー)学者たちは長いあいだ、人類は定住した土地で農耕生活の仕方を学び、寺院を建てて複雑な社会構造を支えていくために時間や組織や資源を用いるようになったと考えていた。だが、(おそらく)これはまったく逆のようだ。まず大規模な集団的努力で石柱を建てることで、複雑な社会発達のための基盤を整備したのだ。
ゲームに比べると、現実は没入しにくい。ゲームは私たちに、自分のしていることにもっと深く参加しようという意欲を起こさせる。
・現実から逃避するためにプレイするゲームに対して、ARGは現実の生活からもっと多くのものを得るためにプレイするゲームだということです。
・(注:フォースクウエアで)真の報酬は、発見や冒険のような、プレイヤーが感じるポジティブな感情であり、もっと頻繁にライブ演奏を聴きに行くとか、もっと興味をそそる食べ物を食べるというような、プレイヤーが得る新しい経験です。さらに、自分の好きな人たちともっと頻繁に会うことでプレイヤーが強化する社会的つながりです。「フォースクウエア」はこうした報酬に取って代わるのではなく、こうした報酬にプレイヤーの関心を引きつけるのです。
・仮定の話としては、参加者に適切な動機を与えれば、ウィキベディア並みの規模のプロジェクトを毎日100件完了させられることになります。もっとも、17億人のインターネットユーザー全員に、暇な時間のほとんどをクラウドソースプロジェクトに自主的に投入しようと思わせることができれば、ですが。
・まだ地図に載っていない除細動器を見つけられれば、そして写真をとってその場所を報告すれば、ファーストエイド・コーが命を救う手助けができるわけです。
・アメリカの普通の若者が21歳になるまでに読書に使う時間は大体2000〜3000時間、コンピュータゲームやビデオゲームに使う時間は1万時間以上です。
・(注:トマセロ)彼の研究は、複雑なゲームを他者と一緒にプレイし、他者がゲームのルールを覚える手助けをする能力が、人間を人間たらしめているものの本質ーー彼が「志向性の共有」と呼ぶものーーであることを示しています。
・「スポア」のプレイヤーたちは、自分の作成したコンテンツを生態系コンテンツの巨大データベース、スポアペディアに提供しています。あなたが「スポア」をオンラインでプレイするとき、あなたのコンピュータはスポアペディアから新しい魅力的なコンテンツを探しだして、それをあなたの「スポア」の生態系にダウンロードします。

ソーシャルネットワークとは何なのかを知る「ウェブはグループで進化する」

FacebookやTwitterなどのソーシャルメディアを主にマーケティングとして、どのように使うかについて、様々な研究結果を元に、かなり深い考察を加えています。

個人的には、ウェブサービスを作る側という逆の視点から、非常に興味深く読ませていただきました。

文章は非常に読みやすく、おもしろいので、インターネット・ビジネスに興味のある方になら誰にでもオススメできると思います。

<抜粋>
・(エッツィー)このページにアクセスすると、まずフェイスブックのアカウントと連動させることを求められる。連動させるとフェイスブックの友人が表示されるので、そこからプレゼントを贈る相手を選ぶ。するとその相手がどんなものに「いいね!」ボタンを押しているのかを分析して、エッツィー上の商品を並べ替えてくれるのである。あっという間に、友人に気に入ってもらえそうなプレゼントを選ぶのが楽になった。
・「インフルエンサー」の発想を離れ、仲の良い友人たちが形成する小規模なグループに注目し、マーケティング活動を行う時代が始まろうとしている。この変化こそ企業のマーケティング担当者が注目しなければならないものであり、次の10年の中心的テーマとなるだろう。
・多くの場合、近況アップデートには社会的なジェスチャーの意味が含まれ、それに対して「いいね!」ボタンを押したりコメントを投稿したりするのは、内容が本当に気に入ったからというよりも、相手との関係を築くための社会的シグナルを送りたいからなのである。近況アップデートを基点として始まる会話のほうが、近況の内容そのものよりも重要になる場合も多い。従ってマーケティングキャンペーンでは、コンテンツをシェアしてもらうこと以上に、そこから始まる会話を支援することにも注目しなければならない。
・共有されやすいコンテンツは、内容が肯定的なものや有益な情報を含むもの、驚きを与えるものや面白いもの、もしくは目立つ形で取り上げられているものである。しかしこうした要素よりももっと重要なのが、どれほど感情を刺激する内容であるか、という点なのだ。
研究によれば、人々がソーシャルネットワーキングサービスを使う第1の目的は、すでに強い絆で結ばれている人々とさらに強く結びつくためであり、弱い絆の人々との関係を構築するというのは二次的な目的である。フェイスブック上でユーザーが週に何人くらいの人々とコミュニケーション(カッコ内略)をしているのか調べてみたところ、平均してたった4人という結果が出た。そこで期間を1週間ではなく1ヶ月間に延ばしてみたのだが、それでも平均して6人という結果に終わった。
・人は平均で4から6のグループに属しており、それぞれのメンバーは10人に満たないことが多い(メンバー数の平均は4人である)。同じグループに属するメンバー同士はお互いに顔見知りだが、他のグループに属する人々とは面識がない。
・マーケティングキャンペーンを計画する際には、あなたのメッセージが友人グループの中でシェアされるように、さらにグループ外の友人との間でシェアされるように注意しなければならない。しかし情報が伝わることができる範囲は、起点となった人物から2人の仲介者を介して到達できる人物までであることを理解しておこう。それを理解していれば、最初にできるだけ多くのグループにメッセージを渡しておく必要があると分かるはずだ。
・一般的にソーシャルネットワークには、次のような特徴がある。
 ・最も親しい人々のグループには、5人くらいの人物が存在する
 ・次に親しい人々のグループには、15人くらいの人物が存在する
 ・定期的に会う機会のある人々は50人くらいであり、彼らの近況もほぼわかっている
 ・安定的な関係を築くことができるのは150人くらいが限度である
 ・何となく知っていて名前もわかる、というような「弱い絆」でつながっている人物は500人くらいである
・人は自分が属するグループ(家族や友人グループ、職場、スポーツチームなど)の期待や考え方、行動に添うために、しばしば自分自身の行動を変化させる。そしてそれは無意識のうちに起きることが多い。
私たちはパターンを探し、見いだされたパターンが過去に蓄積されたパターンと一致するかを確認する。そして一致するパターンが見つかると、脳はそれを深く追求するようになり、先入観がさらに強化されてしまうのだ。もし一致するパターンがなければ、それが新しいパターンとして脳に記録される。
・(続き)脳は予想するようにつくられている。予想を立てる能力は、問題解決の基礎になるものだ。記憶は脳の新皮質に蓄積され、次に何が起こるかを予測するために使われる。そして脳は実際に起きたことを観察して、予測との違いを把握し、記録する。何らかの問題を解決しようとするとき、脳は答えを計算して求めているのではなく、単に記憶の中から答えを引き出しているに過ぎない。人の感情が安定せず、常に変化しているのは、脳に刻まれた本能がそうさせているからではなく、感情は無意識からのシグナルだからだ。脳が行う予想の大部分は、私たちの意識の外側で行われている。
私たちは意識できる情報のほうを重視しているが、実は無意識脳には意識脳の20万倍にも達する処理能力がある。(中略)無意識脳は過去の経験や、失敗から学ぼうとし、膨大な過去の記憶に基づいて結論を下す。そして意識脳は、無意識脳が下した結論というインプットを得た上で、直近の短期記憶に基づいて働くのである。
・(続き)社会から受ける影響の大部分は、無意識脳によって処理される。私たちは他人の行動を観察し、そこからかすかな合図を読みとって、何が適切な行動なのかを判断する。しかしこうした判断によって自らの行動を変えたのだと認識することはないだろう。
・自動車を購入する際に人々がどのような判断を行うのか調査したところ、意識脳が使われた場合には全体の25パーセントしか最も良い自動車を選べなかったのに対し、無意識脳が使われた場合には、その割合が60パーセントへと上昇した。
・「いま行なっている行動は誤りだ」などという説得を行なってはならない。行動を変えたくなるモチベーションを提供すれば、意識の変化はあとからついてくる。(中略)ユーザーが投稿に「いいね!」やコメントをつけたり、アンケートに答えたりするのにかかる時間はごくわずかだ。そしてその行動は彼らの友人にも見られるため、過去の行動に合わせたいという欲求が働き、新たな行動を将来も繰り返す確率が高まる。

爆発的ヒットの意外な源を知る「ザ・ディマンド」

ビジネスが飛躍する際には顧客からの強いディマンド(需要)を引き出す必要があると主張し、その実例をいくつも取り上げています。実例は非常に興味深く、ディマンドを掴んだ際の考え方や手法には非常に勉強になるものがあります。

ただ、ではそれをどうやったら再現できるのか、というのはよく分かりません。そもそもその事例自体が単なる後付けかもしれないわけで。

この原動力となった製品がノキア1100だ。先進国の人々は、この携帯電話に対する巨大な需要を知って驚愕するだろう。この10年に登場した最も印象的なハイテク製品を挙げてみよう。任天堂のゲーム機Wiiは、発売五年で4500万台を売り上げた。やはり五年で、モトローラのRAZR(レーザー)は5000万台、ゲーム機のプレイステーション2は1億2500万台、iPodは1億7400万台だった。ノキア1100は、最初の五年で2億5000万台、その大半は世界でも最も貧しいといわれる国々での売上だった。ノキア1100は世界一売れた家電製品となった。

(ノキア1100には)欧米人には思いもつかないようなオプションを提供している。たとえば、何人ものユーザーの連絡先リストを保存することができる。これは、村人たちが共有する携帯電話には必須の機能だ。また、ユーザーは個々の通話に対して料金の上限を設定することができる。これも共有する場合には必要な機能だ。電力供給が不安定な場所で役に立つ懐中電灯、ラジオ、目覚まし時計なども内蔵されている。さらには、画面表示言語数は80を超え、読み書きができない人のためにアイコン表示も選択することができる。

本書は2011年に書かれたようですが、これだけ成功していると書かれたノキアはその後、まったくディマンドを読み違え大赤字になっています。

ディマンドは驚くほど繊細で壊れやすい。ディマンド・クリエーターたちはこの点を心得ている。たったひとつの重要な変数が欠落しただけで、あるいは決定的な細部にたったひとつの欠陥があっただけで、何千時間にもおよぶ努力と想像力と忍耐がムダになってしまう。だから、偉大なディマンド・クリエーターは常に試行錯誤を繰り返し、製品と組織作りにおいて考えられる限りの弱点を正そうとしている。 彼らは直感的に知っているーーディマンドの世界では真に不可避なものはないと。

これは事実なのだけれども、ではどうしたらいいかという回答にはまったくなっていません。

ただ、本書はこういったディマンドを掴むための試行錯誤を常識をとらわれずにやりつづけるべきだ、と思い出すためと、その事例のストーリーから新たな発想を得るために有効だと思います。ストーリーはどれも非常にエキサイティングでおもしろいです。

<抜粋>
・こんにち携帯電話の出現でこうした状況は変わりつつある。いまや北のウタルブラデシュ州から南のタミルナドゥ州にいたるインドの40パーセント以上の農民が、携帯電話を使った農業情報サービスを利用している。特定の地方市場における、ある作物の最高値と最安値、その日の入荷量など、必要に応じた市況情報を音声や文字データで受け取れる。また、水田の雑草の防除策、バナナの栽培方法といったノウハウも提供してくれる。 この種の情報はアメリカの農民なら当たり前のことだろうが、発展途上の国々での影響は計り知れない。
・この原動力となった製品がノキア1100だ。先進国の人々は、この携帯電話に対する巨大な需要を知って驚愕するだろう。この10年に登場した最も印象的なハイテク製品を挙げてみよう。任天堂のゲーム機Wiiは、発売五年で4500万台を売り上げた。やはり五年で、モトローラのRAZR(レーザー)は5000万台、ゲーム機のプレイステーション2は1億2500万台、iPodは1億7400万台だった。ノキア1100は、最初の五年で2億5000万台、その大半は世界でも最も貧しいといわれる国々での売上だった。ノキア1100は世界一売れた家電製品となった。
・(ノキア1100には)欧米人には思いもつかないようなオプションを提供している。たとえば、何人ものユーザーの連絡先リストを保存することができる。これは、村人たちが共有する携帯電話には必須の機能だ。また、ユーザーは個々の通話に対して料金の上限を設定することができる。これも共有する場合には必要な機能だ。電力供給が不安定な場所で役に立つ懐中電灯、ラジオ、目覚まし時計なども内蔵されている。さらには、画面表示言語数は80を超え、読み書きができない人のためにアイコン表示も選択することができる。
普通のMP3を持っている人が「役に立つよ」とか「いいよ」と言うのに対して、iPodを持っている人は10人中10人が「気に入ってる!」と言うのはこのためだ。(中略)ようするに、マグネティックとは、「優れた機能性」×「優れた感情的訴求力」である。
・ディマンドは驚くほど繊細で壊れやすい。ディマンド・クリエーターたちはこの点を心得ている。たったひとつの重要な変数が欠落しただけで、あるいは決定的な細部にたったひとつの欠陥があっただけで、何千時間にもおよぶ努力と想像力と忍耐がムダになってしまう。だから、偉大なディマンド・クリエーターは常に試行錯誤を繰り返し、製品と組織作りにおいて考えられる限りの弱点を正そうとしている。 彼らは直感的に知っているーーディマンドの世界では真に不可避なものはないと。
・ケアモアの背後にある経済論理は型破りだ。医師たちは従来なら意思が思いつかないような仕事や責任を引き受け、スタッフたちも普通の医療関係者よりずっと長い時間、患者やその家族とすごす。だが、ケアモアが費やす経費は、やがてその何倍もの節約となって戻ってくる。その結果、加入者の医療費総額は業界平均の18%も低い。費用曲線を逆転させることによって、ケアモアは持続可能な民間医療機関市場へと続く経済モデルを構築した。
(アマゾンのシニア・バイス・プレジデント曰く)最も注目すべき点は、キンドル所有者の書店購入回数が印刷された書籍を郵送で受け取っていたときの2.7倍に上がったことだ。
・ジップカーの人気の鍵が「密度」だったこと、キンドルに不可欠だった違いは「書籍への瞬間的なアクセス」だったことを思い出してほしい。これがディマンドの蛇口をひねるトリガーだった。同様に、ネットフリックスのディマンドを一気に加熱させたトリガーは「配達速度」だった。
・リード・ヘイスティングスとネットフリックスのチームが2001年に翌日配送に思い当たったころには、すでに三年がかかりで偉大なディマンドが飛躍するトリガー探しに大きな労力を注いでいた。
優れた教師の資質に「人生の満足度」が関係するなどと誰が思っただろう? ここが重要な点だ。ディマンド・クリエーターは憶測や直感や「常識」には頼らない。ひたすら証拠を探し、追求する。その結果、ディマンドなど無関係な、思いもよらない場所へ導かれたとしてもだ。
・(オーケストラにて)では、なにが違いを生んだのか? リストの第一位は「駐車場」だった。最低限の手間で自宅とコンサート・ホールを往復するという単純なことが、唯一最も強力な「再訪の原動力」だった。トライアリストの重要なトリガーはこれだった。
・(ユーロスターの)年間総利用者数は、1995年の300万人から2000年の710万人に増えた。(中略)2010年には950万人に達した。
・「リスクの高いプロジェクトの成果を予想するとき、エグゼクティブたちは誰もがじつに簡単に、心理学で言う『計画錯誤』の犠牲者となる。これに捕まると、彼らは収益、損失、可能性を理性的に評価するのではなく、妄想的楽観主義に基づいた意思決定を行うことになる」

中央銀行は本当に必要なのかを考える「ロン・ポールの連邦準備銀行を廃止せよ」

前にご紹介したアメリカの下院議員であり、生粋のリバタリアンのロン・ポール「他人のカネで生きているアメリカ人に告ぐ」の連邦準備銀行の廃止に絞っている著作。

著者が言うように、確かに中央銀行が金利を操作して景気をコントロールするその根拠は非常に脆弱です。社会主義の経済コントロールがうまくいかないのと同様に、中央銀行が自由市場をコントロールするため、金利をうまく操作できるわけがないというのはすごく的を得ています。

また、その施策が自由市場に間違ったシグナルを与えて、逆に景気の波を大きくしているというのもすごく納得感があります。

おもしろかったのは、

本当は、ゴールドマン・サックスやAIGが破綻したところで、一般国民にはたいして悪影響は及ばないのである。リーマン・ブラザーズが破綻処理されたのと同じにすべきだった。もちろん痛みは伴う。だがそれは短期的な痛みだ。

と言っているところ。実際リーマン・ブラザーズが破綻してもほとんど個人レベルでは差を感じなかったように、金融機関が破綻しても実はほとんどのひとはあまり困らないのだと思います。

逆に政府が救済することで、本書にあるような「リスクをとれるだけ取って、儲けているうちはお金をポケットに入れ、失敗したら救済してもらう」という戦略が金融機関にとって有効になってしまいます。

金融は社会にとってすごく重要な機能だと僕も理解してますが、だからといって幹部が何十億も報酬をもらい、普通の社員であっても何千万ももらっているというのは生み出している社会価値からして妥当なのでしょうか。この戦略が有効だからこそ可能になっているのでしょう。

だから、破綻するなら破綻させた方がいいと思います。

もちろん決済銀行が潰れたらお金を預けていたひとは困るでしょうけども、もしそういうことがあればより堅実な銀行を選ぶことになるだろうし、そうであれば銀行はより堅実になろうとします。

これを人為的に自由市場を操作して回避することで、金融機関のモラルハザードも起きるし、それによって不景気の底も深くなる。まさに悪循環になっています。

一方で、著者の言う中央銀行の廃止が本当に可能なのかはよく分かりませんでした。確かに、各国の中央銀行が権力を持ち過ぎているのは確かだと思うのですが、それに代わるものが金本位制だと言い切るにはもう少し何かが必要だと思いました。

もちろん中央銀行は権力を持ち過ぎであると思いますが、であればそれをうまいこと規制する方法もある気がします。では何なのだというとすぐに出てこないですが。

とはいえ、こういったドラスティックな意見はすごくおもしろいし、「お金とは何なのか」「経済とは何なのか」ということについても深く考えさせられました。

オススメです。

<抜粋>
なぜ中央銀行は存在しているのか? その答えは連銀に関する経済書には載っていない。大学の抗議を聴いても、連銀のウェブサイトや連銀が発行する冊子を読んでも同じことである。
・連銀は「何も無いところからお金を生み出す」特異な権力を持っているのである。連銀は、一度に膨大なお金を生み出すこともできるし、通貨量を絞り新しいお金を作らないようにすることもできる。生み出されたお金はさまざまな形態でさまざまなルートを通り、金融システムに流されるのである。例えば公開市場操作、銀行の預金準備率の変更、金利の操作を通じて、連銀は「お金を創造」している。
金本位制の下では、銀行は一般の企業と同じように自らのリスクを背負って商売をしなくてはならない。銀行はある程度まで自分の信用を拡大して、リスクの高い融資案件に貸出をすることはできた。だが、その投資先の経営破綻の際に、その損失を社会全体に押しつけることはできなかった。銀行は金融なるものの重圧に従って、貸出や契約を行わなければならなかった。 自らリスクを引き受けなければならないのであれば、意思決定はどうしても慎重になる。それが貸出に節度を与え、堅実なビジネス文化を生むのである。
・「利益は自分たちの懐に入れ、損失は社会(世の中)に押しつける」。これこそが大手銀行の望んでいることだ。銀行は好景気のときにはローンを山ほど貸し付けて利益を出す。だが景気が冷え込むと、銀行は自分が抱えてしまう損失を第三者に押しつける。銀行が臨むように通貨量を膨張させておいて、生まれた損失を補填してもらうのである。こんなことが許されるのは銀行業界だけである。こんな都合のいい商売ができるならだれでもやりたいと思うだろう。普通の企業は自由市場でビジネスをしており、自由市場ではそのような狡猾な行為はとうてい許されない。
・現在の連銀議長バーナンキだけに言えることではないが、今までさんざん連銀はその権力を乱用してきたのだ。議会は今もほとんど理解していないが、現在の連銀は驚くべき権力を有している。だれにも監督、監査、統制されていないのである。その上、連銀は連邦準備法によってしっかりと保護されている。そのために連銀議長は、連邦公開市場委員会や海外の中央銀行との協定についての議会での質問に回答する義務がない。連銀が何兆ドルというお金を金融市場に注入しても、そこでどこのだれが利益を上げたのかを連銀は報告する義務がないのである。
・ワシントンの政財界の連中が読むべき本をひとつだけ挙げるとすれば、それはロスバードの『アメリカの大恐慌』である。ロスバードはこの本で、1920年代後半のバブルが連銀によって作られ、バブル崩壊後にフーバーが経済介入したため大恐慌を長引かせたと論証した。
中央銀行ができたために総力戦が戦われるようになったのは偶然の一致ではない。お金を刷りたいだけ刷れる印刷機を持たないで戦争をすると、政府は自国の限られた税収の範囲内で戦争をしなければならない。そのため戦争を起こさないよう、外交的な努力をしなければならなくなる。戦争が始まってしまっても、できるだけ早く収拾させようという誘因となる。 19世紀の終わりのヨーロッパ諸国では戦費の財政的な歯止めがなくなった。それは各国に中央銀行が設立され、政府は必要なだけお金を刷れるようになったからだ。
お金の製造機が政治家にいつでも資金を用意してくれるから、政府は危機に対して場当たり的な対応しかしなくなったのだ。このような散財を続けるとアメリカ人はもっと高額の税金を納めなくてはならないはずだ。だがアメリカ人は高い税金を許さない。増税を偽るために政府は通貨を膨張させるのだ。そして政府の支出を世の中全体に払わせているのである。
・連銀こそが大恐慌の原因であったという意見に、すべてのオーストリア学派の経済学者は賛同している。
・市場が決めた金利よりも連銀が金利をさらに低く引き下げた場合、何が起きるだろうか。人為的な低金利は、投資を持続可能なペースを超えて拡大させる。低金利というのは本来、消費者が充分な貯蓄をしているという合図なのである。だから低金利になれば、それを当てにして事業への投資が始まる。しかし連銀が人為的に金利を引き下げた場合、そこに充分な富はない。だから新しい事業を成功させ投資を回収するに見合う分の、新しい富は最初から無いのである。連銀が金利を引き下げたからといって、新たな資本は生まれないのである。単に借り手がリスクを判断する市場の合図を歪めているだけなのだ。
市場が決める金利こそは、経済が円滑に回るために必要不可欠な情報なのである。中央銀行が決めた金利は統制そのものであり、中央計画経済の一形態である。中央銀行、政治家、官僚たちに、どれくらいが適切な金利であるのかなど分かりようがない。そのことを無視して、自分たちの権益拡大のために人々を惑わしているだけだ。
・本当は、ゴールドマン・サックスやAIGが破綻したところで、一般国民にはたいして悪影響は及ばないのである。リーマン・ブラザーズが破綻処理されたのと同じにすべきだった。もちろん痛みは伴う。だがそれは短期的な痛みだ。
・憲法は明確に政府による紙幣の発行を禁止している。「金と銀だけが法定通貨である」としている。(中略)憲法第一条十節は「どの州も金や銀以外での国債の支払いを認めてはいけない」、このように単純明快だ。政府紙幣は憲法違反なのである。
・憲法は中央銀行については言及していない。では、この問題をどのように考えたらいいのだろうか。それは憲法修正十条をみれば答えは明らかだ。「憲法で連邦政府に与えられていない権力」を、連邦政府はもたない。
・自分の頭で考えてみてほしい。お金の価値をめいっぱい高く見積もる(弾力的に運用する)という発想は、お金が必要ならもう少し印刷すればいいと言っているのと同じである。
19世紀のアメリカの銀行業が酷かったという言い伝えは大半が作り話である。何世紀にもわたる銀行の問題はむしろ政府によって作られたものだ。繰り返し起きた政府の支払い停止、戦争によるインフレ、金と銀の交換比率を政府が固定した複本位制、国債の大量発行などである。これらは政府の問題であって、自由市場の問題ではない。むしろ自由市場での銀行業はうまく機能していたのである。ミネアポリス連銀から発表された研究がこのことを証明している。
・実に興味深いことだが、連銀を廃止しても、私たちが現在知っている金融制度が終わるわけではない。
・一般の家庭と同じで、経済的に困難なときは何でもすべて好きなことをやるわけにはいかないと、議員は気づくことになる。議会は選択を迫られる。歳入が充分でなければ、予算を削減しなくてはならなくなる。現実社会と同じように、この家計の法則が議会の野心を制御するようになる。

今だからこそ大前氏の政治思想を確認する「訣別」

大前氏の政治上の主張をまとめた作品。2011年末出版。

毎回大前氏の著作を読んで思うのは、すごく筋の通ったまともな主張だと思うのだけど、なかなか受け入れらないもどかしさ。ほんと政治は難しいのだなぁと実感させられます。橋下氏が大前氏と比較的近い政治思想のようなので密かに期待してます。

もちろんすべての意見に賛同するわけではないのですが、実現していく過程で間違っていたら直していけばよいので。少しでも前に進んで欲しいと思います。

以下は特に印象的なところ

21世紀に入ってからはロシアのプーチン政権による所得税のフラット化が絶大な効果を上げている。12%、20%、30%の累進性だった所得税を2001年にオール13%のフラットタックスにした途端、所得税収が25%以上増えて、以後もしばらくは税収の大幅増が続いた。所得の87%が手元に残ることになり、所得を隠す者がいなくなって巨大な地下経済が表に出てきたのである。

日本では地下経済がどのくらいあるのか分からないのでなんとも言えませんが、もし税収増が期待できるのであれば、ぜひ実現して欲しい。国としての競争力も大幅にあがるだろうし。

(ロシア)ある日突然、ジェフリー・サックスのリコメンデーション(推薦)で国営企業が株式会社になった。株式は従業員にも配られたが、生まれてからずっと「資本主義は悪いことだ」「株式は悪だ」と教え込まれてきたから、急に資本家にされても顔を見合わせて株の扱いに戸惑うばかり。そんな人たちに「その株式、買ってあげましょう」と声をかけてきたのが、後に株式会社の会長になる男だった。

なぜ現代でいきなり大富豪が生まれうるのか不思議だったのですが、これには納得がいきました。

<抜粋>
政権と首相のたらい回しをやめさせるにはどうするべきか。 私は「一回の選挙から選ぶことのできる首相は二人まで」というルールを作るべきだと考える。一国の首相になるということは非常に重いことだ。健康問題など、何らかの理由で交代せざるを得ない場合もあるから、一回だけは首相交代を認めるが、二回目以降は認めない。二回目の内閣が倒れたら解散総選挙を行って、新しい政権に移行する。
・日本では大臣や実力派の政治家には「◯◯番」と呼ばれる、ぶら下がりの記者がつく、日本の新聞やテレビの政治部記者というのは政策を国民目線で評価するような能力がないから、とにかく担当の政治家にぶら下がって情報を拾おうとする。 政治家とぶら下がりの記者、両社の間にはぶら下がった政治家が出世をすれば記者も出世するという関係性が生じる。ゆえに新大臣が誕生すれば、善人っ者との違いをアピールしたい新大臣と前任者を否定して新大臣を持ち上げる記者という構造になりがちだ。
・日本人にもう一つ特徴的なのは、子どもの教育にお金をかけすぎることだ。(中略)百歩譲って「投資ではなく、子どもの将来のため」だとしても、今の日本の教育を受けさせれば受けさせるほど、これからの時代にも、世界的にも通用しない人材に育つだけだ。 むしろ子どもにかける教育費の半分でもいいから、自分や配偶者に投資すべきだと私は考える。そうすることで世帯としての「稼ぐ力」が上がれば、結果的によりよい教育を子どもに授けることができるようになるからだ。
・自分の稼ぐ力をアップする。そのために計画的に行動している日本人というのは非常に少ない。日本ぐらい自分に投資することに無関心な国はないが、自分の配偶者に投資するという発想はさらに乏しい。
・国土交通省が発表した2008年度の国内線利用実績によると、全国98空港で需要予測に対して実績値が100%を上回ったのは(中略)8港しかない。実績が比較可能な空港の九割が需要予測を下回り、三割以上の空港が予測値の半分にも達してなかった。
・デンマークなどでは、嫡出子だろうが非嫡出子だろうが、病院で生まれ落ちた瞬間にデンマーク国籍とID(識別番号)が与えられる。生まれた瞬間に親とは関係なく個人が国家と契約を結び、個人としての権利義務が発生し、一国民として尊重されるのである。出生届の父親の名前を記入する必要はない。それくらいやらなければ子どもは増えないのである。
・(ロシア)ある日突然、ジェフリー・サックスのリコメンデーション(推薦)で国営企業が株式会社になった。株式は従業員にも配られたが、生まれてからずっと「資本主義は悪いことだ」「株式は悪だ」と教え込まれてきたから、急に資本家にされても顔を見合わせて株の扱いに戸惑うばかり。そんな人たちに「その株式、買ってあげましょう」と声をかけてきたのが、後に株式会社の会長になる男だった。
・(中国)共産党一党独裁という政治体制については教義的にもまったく妥協していないし、地方政治の人事権も中央は手放していない。ただし、経済運営に関しては、1998年に首相に就任した朱鎔基の改革で地方に権限が大幅に移譲された。朱鎔基は「8%以上の経済成長をすること」「暴動など社会不安を起こさないこと」「腐敗しないこと」という「三つの約束」を果たす限り、経済運営に関する全権限を市長に移譲する、としたのだ。
・「答えがある」ことが前提の日本の教育では「答えがない」時代には対応できない。だから世界から後れを取っている。政治家も識者も教師もそういう現状認識ができていないから、「教育再生」などという懐古主義的なコンセプトにすがりつくのである。
・新卒の就職率が低下しているのは不況だけが理由ではない。日本にとどまっていては未来がないと、日本の企業が見切りをつけたからだ。世界、特に新興経済国に打って出ない限り、企業は生き残れない。そこで勝負すると決めたからには、新興国で通用する人材を求めるのは当然である。
究極的には大選挙区制にして、各道州から十数人の国会議員を選出する。天下国家を論じることに専念する国会議員は100人もいれば十分。国民DBの項目でも触れたように、道州から選出した国会議員で運営する下院と直接投票で民意を問う上院の二院制に移行すべきだろう。コミュニティーレベルの議員は首長以外は無報酬で、平素は仕事を持っている人々がその任にあたる。このようにすれば、行政コストも議会運営費用も大幅に下がる。
・21世紀に入ってからはロシアのプーチン政権による所得税のフラット化が絶大な効果を上げている。12%、20%、30%の累進性だった所得税を2001年にオール13%のフラットタックスにした途端、所得税収が25%以上増えて、以後もしばらくは税収の大幅増が続いた。所得の87%が手元に残ることになり、所得を隠す者がいなくなって巨大な地下経済が表に出てきたのである。
2008年に「今後きちんと納税するなら、過去の脱税は罪に問わない」という刀狩り政策を打ち出して税収を倍増させたインドネシアのような例もある。そのあたりの「納税心理」というものを日本の政治家や経済学者、税制調査会のメンバーはもっと勉強するべきだ。

これからの生き方について考えさせる「ワーク・シフト」

ロンドン・ビジネススクール教授リンダ・グラットンが、これから世界がどのように変わっていくか、それに対してどのように考え方や行動を変えていくべきなのか、を鋭く考察しています。

本書が特に素晴らしいのは、お金だけではなく自分が本当に大好きなことが何かを内省した上で選択していくべきというというところだけでなく、それに対しての不安や代償や結果も受け入れるべきだ、と主張しているところです。

あなたがバランスの取れた生活を重んじ、やりがいのある仕事を重んじ、専門技能を段階的に高めていくことを重んじるのであれば、それを可能にするための<シフト>を実践し、自分の働き方の未来に責任をもたなくてはならない。 そのためには、不安の感情に対する考え方を変える必要がある。自分が直面しているジレンマを否定するのではなく、強靭な精神をはぐくんで、ジレンマが生み出す不安の感情を受け入れなくてはならない。自分の選択に不安を感じるのは、健全なことだ。深く内省し、自分の感情にフタをしない人にとって、それはごく自然な心理状態なのだ。不安から逃れたり、不安を無視したりする必要はない。 そのジレンマのなかにこそ、あなたが光り輝くチャンスが隠れている。

結局のところ会社や社会が自分の代わりに選択してくれる世界は終わりを迎えてしまったので、それぞれが意識的にやりたいことを追求していくしかない。それはすごく厳しいことなのだけど、だからこそ自ら選び行動し、得られた人生の満足感はこれまでになかったほど高いものになる、というわけです。

それを円滑にするためのアイデアが詰まっています。素晴らしい作品なのでぜひ多くのひとに読んでいただきたいです。

<抜粋>
現在、経済発展から取り残されている貧困層は、サハラ砂漠以南のアフリカなど一部の地域に集中しているが、グローバル化が進み、世界がますます一体化すれば、先進国も含めて世界中のあらゆる地域に貧困層が出現する。グローバルな市場で求められる高度な専門技能をもたず、そうかといって、高齢化が進む都市住民向けサービスのニーズにこたえる技能と意思もない人たちが、グローバルな下層階級になる。
・どれくらいの時間をつぎ込めば、技能を自分のものにできるのか。レヴィティンの研究によれば、おおむね、10000時間を費やせるかどうかが試金石だとわかった。一日に三時間割くとしても、10年はかかる。
・はっきり言えるのは、人々の健康と幸福感を大きく左右するのが所得の金額の絶対値ではなく、ほかの人との所得の格差だという点だ。
・人々がせめて一日一時間テレビを見る時間を減らせば、メディア専門家のクレイ・シャーキーが言う「思考の余剰」が世界全体で一日90億時間以上生み出される。(中略)100万人がテレビを一時間見ても、一人ひとりの活動は分断されたままだが、インターネットでコミュニケーションを取り合いながらその時間を過ごせば集積効果が生まれる。
「自分」に関する本が読まれるようになたのは、比較的最近の現象だ。昔の人は、いまほど自己分析をしなかった。(中略)私の二人の祖母は、ビートン婦人の『家政術』はともかく、自己啓発書はもっていなかった。自分について内省することをあまりしない世代だったのである。私は自分について内省する世代の一人だ。Y世代やZ世代は、そういう傾向がいっそう強まるだろう。
・ただし、自分に合ったオーダーメードのキャリアを実践するためには、主体的に選択を重ね、その選択の結果を受け入れる覚悟が必要だ。ときには、ある選択をすれば、必然的になんらかの代償を受け入れなければならない場合もあるだろう。これまでの企業と社員の関係には、親子の関係のような安心感があった。私たちは、自分の職業生活に関する重要な決定を会社任せにしておけばよかった。それに対して、新たに生まれつつあるのは、大人と大人の関係だ。このほうが健全だし、仕事にやりがいを感じやすいが、私たちはこれまでより熟慮して、強い決意と情熱をもって自分の働き方を選択しなくてはならなくなる。そのために必要なのは、どのような人生を送りたいかを深く考え決断する能力だ。
・連続スペシャリストへの道(中略)1 まず、ある技能がほかの技能より高い価値をもつのはどういう場合なのかをよく考える。未来を予測するうえで、この点はきわめて重要なカギを握る。 2 次に、未来の世界で具体的にどういう技能が価値をもつかという予測を立てる。未来を正確に言い当てることは不可能だが、働き方の未来を形づくる五つの要因に関する知識をもとに、根拠のある推測はできるはずだ。 3 未来に価値をもちそうな技能を念頭に置きつつ、自分の好きなことを職業に選ぶ。 4 その分野で専門技能に徹底的に磨きをかける 5 ある分野に習熟した後も、移行と脱皮を繰り返してほかの分野に転進する覚悟をもち続ける。
未来の世界では、知識と創造性とイノベーションに土台を置く仕事に就く人が多くなる。そういう職種で成功できるかどうかは、仕事が好きかどうかによって決まる面が大きい。自分の仕事が嫌いだったり、あまり意義がないと感じていたりすれば、生後とで創造性を発揮できない可能性が高い。仕事を単調で退屈だと感じている人は、質の高いケアやコーチの仕事などできないだろう。日々の仕事はさしあたり無難にこなせるかもしれないが、大好きなことに取り組むときのようなエネルギーはつぎ込めないはずだ。
これまで企業は、合理性と一貫性を確保するために「管理」の要素を重んじてきた。遊びと喜びの要素が完全に排除されていたとまでは言わないが、これらはあくまでも脇役でしかなかった。しかし未来の世界では、単なる模倣にとどまらない高度な専門技能を身につけたければ、遊びと創造性がこれまで以上に重要になる。
・未来の世界で個人ブランドを築くためには、「私って、こんなにすごいんです!」と大声で叫んで歩くだけでは十分でない。(中略)業績や能力を誇大宣伝したり、虚偽宣伝をしたりする人もいるだろう。そこで、魅力的な個人ブランドを築いて大勢の人たちとの差別化を図り、その個人ブランドに信憑性をもたせることが欠かせない。職人にせよ、プログラマーや物理学者にせよ、まずは質の高い仕事をし、そのうえで自分の資質を世界に向けてアピールする必要があるのである。
・アメリカの複雑系研究者スコット・ペイジが売り上げ予測の精度を比較したところ、個人の予測より、不特定多数の人たちの予測のほうが概して正確だった。個人がきわめて高度な知識の持ち主の場合も結果は同様で、集団のメンバーが多様なほど、予測の精度が高かった。こうした傾向は、予測の対象が複雑な現象の場合にことのほか顕著だった。
・意識的に普段と違う場に身を置いたり、自分と違うタイプのグループに適応して仲間に加えてもらったりすることは、ビッグアイデア・クラウドを築くうえで重要な戦略だ。しかし、そうした「プッシュ」の戦略に加えて、「プル」の戦略も実践できたほうがいい。自分の魅力を高めて、ほかの人たちがあなたのグループに自分を適応させたり、あなたと偶然出くわすことを期待したりするよう促すことも目指すべきだ。
・活力の源となる友人関係を築き、維持するためには、時間的余裕が欠かせない。時間に追われ、他人の要求に対応することに忙殺されると、深い友情のためにつぎ込むエネルギーと意欲がすり減ってしまう。
・業績をあげた人物に高給で報いることができない組織は、代わりにどのような「報酬」を提供できるのでしょうか? 私の場合、リーダーシップを振るい、責任を与えられ、意思決定をくだす経験がとても大きな報酬になっています。そのおかげで、仕事を通じて幸せを感じられています。このような機会が得られるとわかっていれば、物質的な要素はもっと早く捨てていたのに。
話を聞くうちにわかったのは、子どもを持たない人生を意識的に選択した女性がごく少数にすぎないということだ。現在の生き方を選択した時点では、自分がどういう選択をしようとしているのかを正しく理解していないケースが多かったのだ。その選択をすることにより、どういう結果が待っていて、なにをあきらめなくてはならないのかを正確に計算できていなかったのだ。 私たちは人生における仕事の位置づけを選択するとき、こういう落とし穴に陥りやすい。選択の結果が現実になるまでに時間がかかったり、結果が予期しないものだったりするケースが多いからだ。
・どうして、お金が増えても幸福感が高まらないのか。(中略)ここで注目すべきことがある。お金と消費には限界効用逓減の法則が当てはまるが、それ以外の経験にはこの法則が当てはまらないという点である。たとえば、高度な専門技能を磨けば磨くほど、あるいは友達の輪を広げれば広げるほど、私たちが新たに得る効用が減る、などということはない。むしろ、私たちが手にする効用は増える。所得が増えるほど所得増の喜びは薄まるが、技能や友達は増えれば増えるほど新たな喜びが増す。
・「親代わりに子どもの相手をしているテレビという機会は、さまざまな品物をカネで買うことが人生そのものであるかのように描く。私たちは、子どもをポルノに触れさせないように細心の注意を払う半面で、きわめて不用意に、物質主義の魅力を生々しく教え込むメディアに子どもたちをさらしている」
・しまいには、「私はお金が好きに違いない。なぜなら、お金を稼ぐために、こんなに頑張って働いているのだから」と考えはじめる。
・コーステンバウムらに言わせれば、選択にともなう不安を避ける必要はない。そういう感情を味わう経験こそが私たちの職業生活に意味や個性、現実感を与える。選択から逃げ、不安や罪悪感と向き合うことを避け、選択につきもののジレンマについて考えることを拒めば、職業生活の豊かさのかなりの部分を手放すことになる。仕事に関する古い約束事のもとでは、誰かが代わりに選択してくれたが、未来の新しい約束事のもとでは、自分自身で選択する意思をもたなくてはならない。
・あなたがバランスの取れた生活を重んじ、やりがいのある仕事を重んじ、専門技能を段階的に高めていくことを重んじるのであれば、それを可能にするための<シフト>を実践し、自分の働き方の未来に責任をもたなくてはならない。 そのためには、不安の感情に対する考え方を変える必要がある。自分が直面しているジレンマを否定するのではなく、強靭な精神をはぐくんで、ジレンマが生み出す不安の感情を受け入れなくてはならない。自分の選択に不安を感じるのは、健全なことだ。深く内省し、自分の感情にフタをしない人にとって、それはごく自然な心理状態なのだ。不安から逃れたり、不安を無視したりする必要はない。 そのジレンマのなかにこそ、あなたが光り輝くチャンスが隠れている。
議論は哲学的な領域に入っていく。未来の世界で、私たちは自分にとって大切な価値や自己像を追求できる可能性と、そのための選択と行動をおこなう自由を手にする。そういう時代には、社会や組織からどのような制約を課されているかを認識し、その制約にどう向き合うかを決めるのが自分自身なのだと理解し、同時に、自分の選択と行動がもたらす結果からは逃れられないのだと覚悟する必要がある。

生粋のリバタリアン、ロン・ポールを知る「他人のカネで生きているアメリカ人に告ぐ」

著者のロン・ポールは、アメリカの下院議員であり、生粋のリバタリアンです。共和党として大統領選挙にも出馬していますが、主流派からはまったく支持を得られず破れています。しかし、近年その主張には徐々に注目を集めており、特に若者を中心に支持を集め始めているそうです。

僕自身、リバタリアンだと言いながら、ロン・ポールについてはよく知らなかったのですが、本書を読むとその一貫性のある主張は非常に魅力的でおもしろかったですし、非常に勉強になりました。

本書では、税金から医療制度、麻薬禁止、海外援助、経済政策と連銀、外交と戦争、徴兵まで、様々な論点について論じてありますが、多くは納得できるものでした。連銀は廃止せよ、というのはものすごく革新的なアイデアのように思えますが、この点については別に著作があるようなので、そちらを読んでみたいと思います。

個人的に、長期に渡り一貫して、リバタリアン的主張を押し通してきた政治家がいたことに衝撃を受けました。もっとこの辺りは深堀りしていきたいなと思います。

※本書は副島隆彦氏が監修しており扇動的な序文がついていますが個人的にはこの辺りは態度保留したいと思います

<抜粋>
・政府は誰かから税金でお金を集めて来なければ、誰かのために一セントも使うことは出来ない。そして政府が集めてくるお金は、人々が一生懸命に働き蓄えてきたものだ。税金とは国家による泥棒なのである。
・市場を背景にした企業家は、市民に自社製品を自由に選んで買ってもらうことで利益を得る。ところが政治を背景にした企業家は、政府から独占を与えられたり、政府が競争相手を抑制することで利益を得る。
・つまり、所得税を導入できれば、関税を下げることができ、消費者への負担が軽くなると。「所得税は、あなたにとっては減税。金持ちたちには増税」と喧伝された。所得税の対象は、金持ちの中でも大富豪級の金持ちであるから心配は要らないと、説明されたのだ。 しかし、この約束は長続きせず、二、三年のうちに所得税は大増税された。そして、自分は金持ちではないので所得税を払う必要はないと考えていた庶民も、結局、所得税を払うはめになった。
・私たちは、不法移民に無料の医療診療や、行政サービスを行い、後にアメリカ国民になれる特典を認めている。だから、ますます多くの不法移民がアメリカに密入国してくる。そうしている間に、州政府や地方自治体が医療費を払いきれなくなり、何と病院が閉鎖されるという事態まで起きている。本末転倒だ。
・高齢者向けの医療保険制度や低所得者向け医療費補助制度が、まだ存在しなかった時代を例に考えてみよう。その次代の高齢者や低所得者は、今とほとんど変わらない負担で、実は病院で治療を受けられた。しかも、現在より質の高い治療を受けていたのである。 私は医師として一度も、高齢者向けの医療保険や低所得者向け医療費補助の政府からのお金を受け取ったことはない。その代わりに、治療代を払えない患者には費用を割り引いたり、無料で治療してきた。政府による医療制度ができる前は、すべての医者が、自分たちが経済的に恵まれない人々に対して責任を持っているということをちゃんと理解していた。そして低所得者に無料の医療行為をすることは、当たり前のことであった。今ではこのことを理解している医師は残念ながら、ほとんどいない。
・国民から税金という名目で財産を強制的に没収し、海外の政府に再配分するなど、私にはとても道義的に正当化できない。そして援助金というものは、援助先の国民を貧困な目に遭わせている無責任な指導者の懐に入るのが一般的である。海外援助は、いわばアメリカ人を他国の政権のために強制労働させることであり、私はもちろん賛同できない。しかし政府による海外援助は、このことと同じ意味なのである。
・過去五十年にわたる数々の経済的支援の成功は、海外援助によるものではなく、自由市場の大いなる働きによって生まれてきた。自由市場こそが、人間の健康や幸福の源なのだ。
・(注:大麻の)この禁止令は、少しも科学的でも医学的でもなかった。単にメキシコ人への悪意、連邦麻薬局の権益拡大の意識、低俗で先導的な報道による間違った情報やプロパガンダによって生み出されたものである。連邦議会でのこの重要な問題についての公聴会は、たったの二時間であった。大麻を禁止すべき理由として証拠もなく挙げられた健康被害は、ほとんど扱われなかった。
・その報告書には「すべてのアメリカの幼稚園児以上の子供に、精神疾患の検査を義務づけるべきだ」と提案されていた。(中略)この政策を導入することで誰が利益を得るだろうか。もちろんそれは製薬会社である。このような検査を全米で行えば、何百万人という子供が、新たに向精神薬が必要だと診断されるのは間違いない。
・インフレを明らかにする上で、もっと優れた方法がある。経済学者のミーゼスは、「インフレになると政府は、常に国民に物価に注目するように仕向ける」と書き残している。物価の上昇はインフレの結果であって、インフレ自体ではない。インフレとは通貨供給量の増加のことだ。もし私たちがこのことを理解すれば、インフレをどのように解決すればよいか、即座に解るだろう。単純なことだが、連銀に通貨供給量を増やさないように要求すればよいだけである。私たちは物価ばかりに注目することで、問題の本質を見誤ってしまう。そして賃金や物価の統制のような政府のインチキなインフレ解決策に賛同するようになってしまうのである。
・連銀が人為的に市場に介入して金利を下げた場合は、構造的に投資家を間違った方法に導くことになり、持続性のない好景気を誘発する。フリードリッヒ・ハイエクが1974年にノーベル経済学賞を受賞したのは、実はこのことを学問的に明らかにしたからだ。ハイエクの研究は「中央銀行が金利を操作すると経済全体に混乱を引き起こし、結果的に不況をもたらす」というものであった。
・しかし、いくら国民が自由市場を素晴らしいと思っていても、同時に私たちは経済の根幹である通貨制度を中央銀行に決めさせている。国民は、アラン・グリーンスパンやベン・バーナンキといった連銀総裁だけが、適切な金利や通貨の供給量を知り得るのだという馬鹿げた考え方を、きっぱりと捨て去らなくてはならない。適切な金利や通貨供給量は、市場だけが決定できるのである。
・(注:ショワー)「オサマ・ビン・ラディンがイスラム社会で支持を集め、人々の連帯感を保てる理由はたった一つである。それはイスラム社会に、アメリカの外交方針に対する共通の憎しみが存在しているからである。全イスラム世界が、アメリカの外交方針を嫌っているということでは、意見が一致する。我々がアメリカの国益のために外交方針を転換すれば、イスラム社会の人々の関心は、自分たちが抱えている自国の問題に移っていくことになる」
・(注:モーリー)言い方を換えれば、帝国建設の問題は基本的に曖昧なものなのである。自分の国が偉大だから自分も偉大であるという考えを、人々に植えつけ育てなければならないのである。(中略)個人としての名声や器量を持たない人々は、喜々としてこのような馬鹿げた話に飛びつくのである。それは本人が努力をしないで、自分に対する自信を与えてくれるからである。
・海外援助を受けた国は、援助金でアメリカ製品を買うことを求められる。つまりこれは、間接的なアメリカ企業への福祉なのである。このような政策は、私には絶対に受け入れられない。
・イスラエルのハージリア国際関係研究所によれば、イラクにアメリカと闘うためにやって来た海外の戦闘員たちは、その多くがこれまで一度もテロ活動に参加したことがなかった。しかし、アメリカが、イスラム教で二番目に聖なる場所とされているイラクに軍事侵攻したため、居ても立ってもいられず急進的になったという研究を発表している。
・(続き)つまりテロリストは、アメリカに対抗する正義の味方に自分を変えたのである。必要もなく正当性もないイラク侵攻によって、一般人が自ら望んでテロリストになる状況を、アメリカ政府は与えてしまったのである。
・(注:ウェブスター)私は、この忌まわしい徴兵制度がまったく我が国の憲法の土台に乗っていないと、今日こうしてわざわざ引用や資料を使ってまで説明しなければならないことを恥じるべきだと考えます。我々の憲法は自由な政府を基本に書かれているのです。ですから徴兵制のような権限は、どうしようと個人の自由の概念と両立するものではないのです。難しい説明をしなくても、この簡単な原則を知るだけで十分であります。憲法の条項の上に、この徴兵のような主張を押しつけることは、自由な政府の中身から奴隷制を抽出するような、道理に反した、巧妙ないかさまであります。

ソーシャルファイナンスについて俯瞰する「ソーシャルファイナンス革命」

グラミン銀行のマイクロファイナンスからクラウドファンディング、P2Pファイナンスなどのソーシャルファイナンスの歴史と現状についてまとめてあり、非常に勉強になりました。

実は昔からマイクロファイナンス的なものはあったことや、なぜいまソーシャルファイナンスが勃興しているのかを、多面的に解説してあります。また、いい面だけではなく、マイクロファイナンスの厳しい取り立てによる自殺者の問題や貧困削減効果への疑念など負の側面にも触れられていて好感がもてました。

個人的にはそれでもすごく可能性があるし、解決可能な問題だと思うので、この分野における今後の発展に期待したいなと思いました。

硬いテーマながら豊富な事例もあり、読みやすいですし、ソーシャルファイナンスについて俯瞰するには最適な一冊だと思います。

<抜粋>
・私はお金を受け取る大学生たちと次のことを約束した。
 ・私の目の前で親と親しい友人数名に事情を説明すること
 ・うまくいかなかった場合には、親と友人にその事実を伝えること
 ・一週間に一度の状況説明をすること。報告メールは、仕事の状況、生活の状況などについての、200字程度の短いものでよい。もし報告メールが遅れたりしたら約束は帳消しとする。こういった報告をする代わり、利子や配当は一切いらない。
 ・少ない金額であっても毎月返すこと
 そして、お金は返ってきた。お金が返ってきたのは、私にとっては初めてのことだった。それと同時に、お金を借りた彼らと私との関係はより良いものに変わった。
・日本には「講」や「無尽」といった金融の仕組みが江戸時代から存在していた。二宮尊徳も、農村に住む人々の経済生活の向上のために、「五常講」という名のコミュニティファイナンスを行なっていた。韓国にも「契」という仕組みが同様に存在していた。マイクロファイナンスの仕組みは、別に現代のイノベーションではなくて、経済の一定の段階で生まれてくる仕組みなのだ。
・近年において、金融のイノベーションには数多くの批判が寄せられている。アメリカ連邦準備理事会の議長を務め、世界経済における賢人として尊敬を集めるポール・ボルカーは、「銀行業において、有用なイノベーションはATMの発案しかなかった」と説いている。
・借り手ミーティングのイメージは、借り手たちが集まって行われる自治会のようなものだ。この、一見すると何の変哲もない借り手ミーティングに、現代におけるマイクロファイナンスのオペレーションの鍵がある。
・(注:二宮尊徳の)五条講の開始当初(1818年)に300両だった報徳金は、彼が日光復興に着手した時(1853年)には1万両になっていたという。ここから計算すると(インフレ率を無視)、報徳金は年率12%で増加していたと考えられる。このファイナンスの仕組みにかかる諸経費は報徳金から差し引かれていたであろうこと、貸し倒れが一定程度存在したであろうことを考えると、実質金利は年率30%程度だったのではないかと思われる。
・貧困削減をミッションとして掲げるMFIが上場することに対して批判する人も多い。批判者の一人が、グラミン銀行の総裁であるムハマド・ユヌス氏だ。彼は、このIPOにショックを受けたといい、MFIは「貧しい人々を高利貸しから守るためのものであり、新しい高利貸しをつくるためではない」とコンパルタモスを批判した。
・SKSのCEOのアクラ氏は、SKSと債務者の自殺の因果関係を否定していた。(中略)しかし、その後のアソシエイテッド・プレスのレポートで、SKSは過酷な取り立ての実態を認識していたことが暴露された。ある自殺者は、ローンを免除されたければ池に入って自殺しろと言われていたという。
・一方で忘れてはならないのは、SKSらが借り手に要求していた金利水準や、延滞者に対する取り立ては既存の「町の金貸し」よりは顧客の側に立ったものであり、SKSのビジネス拡大により恩恵を受けた人々は少なくないという点だ。マイクロファイナンスが浸透する以前には、多重債務に基づいた自殺者はさらに多かったとされている。
・Financial Access Initiativeの2009年10月のレポートによると、25億人の成人が金融サービスへのアクセスを持たず、お金を借りたり預けたりすることができていないという。世界の成人のうち、半分の人が金融サービスを利用できていないことになる。
・実際にはマイクロファイナンスの貧困削減効果は思ったより平凡であると説く人々がいる。MITのアビジット・バナジーとエスター・デュフロ教授らは、マイクロファイナンスの貧困削減効果を学問的に誠実な方法で測定したが、その効果は周囲の人々が考えているほど劇的なものでもなく、またマイクロファイナンス機関ごとに異なるという。
・少なくとも、マイクロファイナンスを通じてお金を借りることができると、消費は平準化される、すなたち人々の日々の消費が安定して大きくブレなくなる効果があることがいくつかの研究で示されている。
・P2Pファイナンスの成長は著しい。2007年から2011年の間に全世界の銀行株価が10%下落している一方で、アメリカやイギリスを中心としたP2Pファイナンスの市場規模は今後も年率66%で成長し、2013年までにはその規模が50億ドルに達するといわれている。
・キバからMFIに対して行われる融資は無利子だ。というのも、キバのサービスを成立させているのは、現地の様子が詳細に分かるレポートにあり、これを作成するMFIの負担はかなり大きいからだ。
・(注:林文夫教授が推薦状を書くに渡って)私の強い推薦状により入学した学生がカスだとわかれば、私の推薦状はそれ以降一切信用されません。そういうことになれば、私の推薦状によって正当な評価を受け、本人にふさわしい大学院に留学しようとする将来の学生に重大な不利益が生じます。
・金融機関が非対称なリスクを負っていることは問題視されており、その解決のために様々な報酬設計が考えられている。ある年の運用成績が悪ければ3年前に遡って報酬を返却する仕組みや、金融機関のCEOらのボーナスが長期的な報酬に連動する仕組みなどが、これまで以上に取り入れられている。

台湾自転車メーカーの劇的成功ストーリー「銀輪の巨人」

台湾にある世界的な高級自転車メーカー「ジャイアント」の劇的な発展を追ったドキュメンタリー。初めは平凡な自転車メーカーが、大手へのOEM提携により技術力をつけ、オリジナルブランドを立ち上げていく成功物語で、非常にドラマチックでおもしろいです。

一方で、一時期は世界を席巻した日本の自転車メーカーがママチャリ文化から抜けだせず衰退していく様も描かれていて、日本の電機メーカーなんかを連想させて少し悲しくなりました。

それでも、この物語からは、今後日本の製造業がどのように発展していくべきかへの指針が示されていると思います。ぜひその辺りの業界の方に読んでいただきたい作品です。

<抜粋>
・台湾の自転車輸出額はここ10年、一貫して右肩上がりを続けている。 輸出額は2002年の5億米ドルから、2011年には16億米ドルと3倍以上になった。輸出台数のほうは2002年と2010年との間はともに400〜500万台程度で、ほとんど変わっていない。 これは、自転車1台当たりの平均輸出単価が大きく跳ね上がったためで、2002年は124米ドルだったのが、2011年には380米ドルに達している。
・ジャイアント自身の業績の伸び方はもっと激しい。 1999年に319万台を売って総売上高は118億台湾ドルだったが、2011年には577万台を販売し、総売上高は474億台湾ドル(注:約1250億円)にふくれあがっている。営業利益からみた地域別の貢献度では、ヨーロッパが27%、北米が23%、中国や日本、台湾などのアジアが40%と世界すべての土地で売れており、特にロード車やマウンテンバイクなど中・高級車の自転車業界において、ジャイアントは紛れもなく世界トップの完成車メーカーとして君臨している。
・「うちの自転車はどの国に行っても、マスマーケット(量販店など)では買えません。マスマーケットはどうしても販売オンリー、販売優先になってしまう。アフターケア、アフターサービスをやってくださらない。しかし、自転車は乗ったら必ず修理が必要な乗り物であり、自転車産業にはアフターサービスがなくてはならない。だから、専門店以外ではジャイアントは買えないし、ジャイアントの自転車にはアフターサービスが必ずついてくる、という大前提を一度も崩しておりません」
・(注:ブリジストンサイクル社長が、1996年に語った)「現地メーカー品の中心価格が600元(1元=13円)なのに対し、当社の中国向け製品は800元程度で高い。東南アジアには中国製品が浸透しており、市場開拓は不可能に近い」 現地メーカーの作っている製品との価格差が10倍あるならともかく、800元に対して200元の差しかないのならば、品質が良いものを作って差別化していくことは可能ではないだろうか。その気概もなければ、長期的に中国という巨大人口を持っている潜勢的なマーケットを開拓していくという戦略もまた感じられないコメントである。